第八百二十八話 龍府のシーラ(前)
「本当によろしいのでしょうか?」
ウェリス=クイードが不安げなまなざしを向けてきたのは、シーラたちが天輪宮泰霊殿の一室に通されたあとのことだ。スコット=フェネックの旅館から運び込んだ荷物を解き、それぞれ思い思いの場所に配置したり、収納したりしている最中であり、シーラが男性用の衣服を自分専用の衣装棚に収めるために手を取ったときだった。
庶民的な衣服のほとんどは、タウラル要塞を出るとき、ラーンハイルから手渡されたものだ。レナが選んだものだといい、彼女の趣味がよく現れていた。女性用の衣服ではなかったのは、レナの無意識によるものだろう。
アバードの獣姫ことシーラ・レーウェ=アバードは、男装の王女として知られている。物心ついたときには男として育てられ、自分のことを男だと信じて疑わないまま十四年間を過ごしてきたことの後遺症ともいっていいのだが、そんなシーラの正体を隠すには、女性物の衣服を身につけるのが一番だということは、レナだって理解していたはずだ。それでも男性用の衣服を選んでしまうところに、彼女の本心があるのではないか。
そんなことを想いながら、シーラは、レナがラーンハイルに託した衣服に袖を通し、龍府までやってきたのだ。スコット=フェネックの旅館で給仕のようなことをやり始めてからは、女性用の衣服を身につける時間が増えた。スコット=フェネックにしてみれば、男装の給仕では扱いにくいことこの上なかったに違いない。そして、可愛らしい給仕服を身につけたシーラは、獣姫の面影などどこにもないといっていいほどであり、彼女自身、驚いたものだった。その給仕服が手元にあるのは、スコット=フェネックから餞別として渡されたからにすぎない。今後、着る機会など訪れないだろうが。
「なにがだよ?」
「シーラ様だけならばともかく、領伯様の御厚意にわたくしどもまで甘えてしまうのは、どうなのかと想いまして……」
「いいんだよ、なにも気にすんな。セツナ伯がいいっていってんだ」
「ですが……」
なおも食い下がるウェリスに、シーラは歯を見せて笑った。彼女の不安を取り除く方法など、ほかに思いつきもしない。
「だからさ、おまえらはなにも気にする必要はないっていってんだろ。俺に任せておけよ」
「シーラ様……」
「今日までおまえらに頼りっぱなしだったからな。たまには、俺に頼ってくれよ」
シーラは、ウェリスたち侍女の顔を見回して、告げた。普通のひとに過ぎないウェリスと、四人の戦士たちではその表情も心構えも違う。同じなのは、シーラへの忠誠心であり、侍女としての矜持だ。皆、シーラの侍女であることに誇りと自負を持ち、シーラが王女ではなくなったあとも、その立場を変えようともしなかった。もちろん、道中はシーラを名で呼ぶようなことこそなかったし、従者という態度を見せることもなかったのだが。
そんな彼女たちがいてくれたおかげで、シーラは龍府まで無事に辿り着くことができたのは、疑いようのない事実だ。そして、彼女たちがいてくれたからこそ、シーラは天輪宮に潜入し、セツナと直接話し合うことを決断できたのだ。もしシーラひとりで龍府で潜伏することになっていたら、セツナに会うか会わないかで悩み、悶々とした日々を過ごしたことだろう。
彼女たちのためを想えば、悩む必要などはなかった、ということだ。
「姫様はいつも格好いいねえ」
「さすがはわたしたちの姫様です」
「どこまでもついていきますよ」
「でも、わたくしどもにも頼ってくださいまし」
侍女たちが、口々にいった。クロナ=スウェン、ミーシャ=カーレル、アンナ=ミード、リザ=ミード。そして、ウェリス=クイードを含めた五人だけが、シーラの侍女としてここにいる。
クルセルク戦争が始まったときには五十人はいた侍女たちも、終戦時には半分近くにまで減っていたことは触れた。その半数のうちのほとんどが、シーラ・レーウェ=アバードに扮したレナ=タウラルとともに、王宮軍を迎え撃つシーラ派に合流した。何人が生き残り、何人が死んだのだろう。皆、死んでしまったかもしれない。例え戦死していなくとも、レナとともに王宮軍に捕らわれ、処刑されたかもしれない。考えるだけで胸が痛んだ。
シーラの侍女団は、獣姫を象徴する戦闘集団であり、ハートオブビーストとともに獣姫の活躍を彩る華だった。シーラの活躍譚には、常に侍女団の存在があり、侍女団なくしてはシーラの戦いは語れないほどのものだった。その侍女団は、もはや侍女団ともいえないようなものに成り果てた。
残すところ五人だけが、彼女の侍女として振る舞い、彼女を支えてくれている。
シーラは、せめて彼女たちを護りたいと想った。そのためならば泥水だって啜ろう。セツナが求めるならば、なんだってしよう。彼の要求に従っている限り、少なくとも、この龍府においてシーラたちの身は安全だろう。
天輪宮という壮麗な建築物は、余人の立ち入ることのできないいわば結界のようなものだ。中でも彼女たちが起居することになった泰霊殿には、天輪宮の持ち主である領伯の許しがなければガンディアの関係者ですら入ることができない、結界の中の結界といってもいい空間だった。
ここにいる限りは安心できる。
シーラたちはタウラル要塞を出てから今日まで常に緊張の中にいた。アバード領内にいる間はもちろんのこと、ガンディア領に入ってからもずっと、緊張感が途切れることはなかった。緊張を解けば、不意に自分たちの正体を明かしてしまうかもしれない。正体が明らかになれば、シーラたちの立場が危うくなるどころか、ラーンハイルやレナ、セレネたちの覚悟が無駄になる。侍女たちの犠牲が水泡に帰すのだ。シーラたちは、自分の正体を隠し続けるために、常に一定以上の緊張感を抱いていなければならなかった。
緊張感を維持し続けるということは、精神的苦痛以外のなにものでもない。
最初はよかった。アバード国内を脱出するくらいまでは、緊張感を維持することにもなんの問題もないものだと思っていた。しかし、国境を突破し、マルウェールに辿り着いた辺りから、苦痛になり始めていた。シーラだけではない。ウェリスやクロナたち侍女団も、緊張の維持に疲労を覚え始めたのだ。
龍府に辿り着き、スコット=フェネックの旅館に入ったことで、多少の安らぎを得た。しかし、スコットにさえ正体を打ち明けることはできなかったのだ。シーラたちは、スコットに対してラーンハイルの親族と偽らなければならなかった。スコットは信頼のできる人物だ。だが、彼が不意に他人に漏らさないとは限らない。
緊張は、持続した。
いずれ破綻するのは目に見えていた。
だからシーラは行動に移り、セツナと対面した。無礼千万は百も承知だった。セツナはガンディアの誇る英雄であり、龍府の領伯だ。その領伯の屋敷に潜入しただけでなく、武器を携えて、領伯に接近したのだ。捕縛されても文句のいえる状況ではなかった。だが、そうでもしなければ、セツナに会う機会を得ることなどできなかっただろう。
状況が落ち着くまで、とラーンハイルはいい、シーラも同意したのだが、状況がそれを許さなかった。ここまで精神的に追いつめられるとは、シーラ自身、予想だにしなかったことだ。
破綻する前に心から落ち着ける場所を得なければならない。安全を得るにはどうすればいいのか。
ラーンハイルは、スコット=フェネックを通して、ガンディア政府に接触を図るべきだといっていたが、そんなまどろっこしいことをしている余裕は、シーラたちにはなかった。実力行使に出るしかなかったのだ。
シーラは、セツナたちの会話を盗み聞きしたことで、レナの死を知った。レナが死んだということは、それ以外の多くの人間も死んだということだ。セレネも死んだかもしれないし、侍女団の多くも死んだだろう。戦死か処刑かはわからないが、どちらにせよ、シーラを生かすためだけに彼女たちは死んだのだ。その死を無駄にしてはならない。シーラは決意とともに行動した。
セツナは、あっさりとシーラたちの受け入れを決めた。シーラが呆然とするほどあっさりと、だ。セツナは迷いもしなければ、シーラになにかを要求することもなかった。迅速な決定に感謝するしかなかった。そして、あれよあれよという間に状況は動いた。シーラたちは仮初の宿から、安息の地に移動することに成功したのだ。
もっとも、シーラへの要求は、いま考えている最中なのかもしれない。が、彼がなにを求めるにせよ、シーラは応じるつもりでいた。
それがどのようなものであれ、シーラたちを匿うことに対する代価ならば、支払う義務がある。
緊張感から解放された侍女たちの様子を見ている限り、自分の判断に間違いはなかったと確信したシーラは、荷物の整理や室内の整備を彼女たちに任せて部屋を出た。
セツナを探さなければならない。