第八百二十七話 流れ
運命というものは、そのとき、その瞬間になってみなければ、どのように作用しているものなのかなどわかりようのないものに違いない。
ふと、そんなことを思ってしまったのは、運命的なものを感じたからにほかならない。
「その話、本当なのか?」
セツナは、執務室に呼びつけた相手のもたらした情報のあまりの都合の良さに驚愕し、口に含んだお茶を吹き出しそうになった。
レマニフラからガンディア王家に定期的に送られる南方産のお茶は、セツナの味覚に程よく合っている。ナージュ王妃からセツナの快気祝いにと贈られた品々のうちのひとつでもあり、王妃みずからが取り寄せたという代物だった。セツナは、ナージュの気遣いに感謝しながら、毎日のようにそのお茶を飲んでいた。
「はい。つい先程、到着予定時刻を報せる先触れがわたくしどもの元に辿り着いたので、間違いありません」
「軍師様も休暇らしいというのは聞いていたが、まさかここに来る予定だったとはな」
セツナはティーカップを机の上にも置くと、自分自身に少しばかり呆れる思いがした。もう少し情報収集に精を出していれば、部下からの報告を聞くまでもなく想像できていたようなことだからだ。
ガンディアの軍師であるナーレス=ラグナホルンが、最愛の妻と公言してはばからないメリル=ラグナホルンを連れ立っての旅行の真っ只中であり、その目的地のひとつがこの龍府で、明日にも到着予定だというのだ。
セツナが彼に会って話をしておきたいと思っていた矢先のことだった。偶然にしても出来過ぎで、だからこそセツナはお茶を吹き出しかけ、報告に訪れたミース=サイレンを困惑させたのだ。
ミース=サイレンは、ガンディア軍情報部に所属する士官だ。セツナ暗殺未遂事件ではエレニア=ディフォンの尋問を担当し、エレニアがエンジュールに移った後は、しばらく彼女の日常を監視する任務についていたという。情報部という部署にありながら御前試合に出場した人物でもあり、その身のこなしは“剣鬼”が一目置くほどだったというのだから、かなりの使い手なのは疑いようがない。
彼女が龍府にいるのは、レオンガンドの計らいによるものだった。龍府の領伯となり負担が増大するであろうセツナには、ガンディアの内部事情に詳しい人間が必要だと判断したらしく、情報部の中で特にセツナに対して好意的な彼女に白羽の矢が立てられたということのようだ。
ミースは、セツナの前では常に緊張した面持ちをしていた。最初に会ったときなどは、緊張と興奮と感動のあまり卒倒したミースをセツナが介抱しなければならなかったものだ。そのことを話すと、彼女はひたすらに恐縮するに違いなく、またしても卒倒する可能性があるため、セツナの胸に秘めておくことにしていた。
「龍府はメリル様の故郷でもありますので、それが関係しているのかもしれません。ここのところナーレス様は、メリル様を連れ出して歩き回ることに執着している、ということらしいですし」
ミースの困ったような表情は、ガンディオンにいる間、ナーレス夫妻に仕事場をかき回された経験でもあるからに違いなかった。《獅子の尾》の隊舎にひょっこりと現れたことでも分かる通り、ここのところのナーレスは、人が変わったように神出鬼没で傍若無人、迷惑至極な人物として知れ渡っていた。彼は、妻のメリルと連れ立って王都中を歩き回り、市街や群臣街はおろか、王宮内部もずべて網羅するほどに歩き倒したといい、レオンガンドも苦笑するしかないらしかった。
とはいえ、ナーレスに苦言を申し付けるものがいないのは、彼の輝かしい功績によるものではなく、単純になんの被害もないからだ。彼はただ、妻とふたりで歩き回っているだけなのだ。それを迷惑と感じるものがいたとしても、苦情にまでは発展し得ない。ナーレスの人徳もあるのかもしれない。
神算鬼謀の軍師が童子のようになってしまった、と嘆く声もあるにはあるが。
エイン=ラジャールやアレグリア=シーンなどは、ナーレスのそういった変化をむしろ歓迎している風だった。精神的な若返りは、ナーレスの発想そのものを瑞々しいものに変化させ、これまで彼が思いつきもしなかった戦術や策が次々と生まれ、エインたち参謀局の人々に衝撃を与えているというのだ。
「クルセルク戦争は長引いたものな。奥方と一緒にいたいという気持ちも、わからなくはない」
「セツナ様も、そういうことがあるのですか?」
「俺の場合、皆とずっと一緒にいるからさ。そういうことはないかな」
セツナは、ナーレスのように結婚してはいないし、そういう相手がいるわけでもない。しかし、ナーレスにとってのメリルのような――といってしまっていいのかわからないが――大切なひとはいる、そして、そういうひとたちほど、セツナの側にいて、戦場をともにするのだ。
「それがいいことなのか悪いことなのかはわからないけど」
「悪いことではないと思いますが」
「そうかな。そうだといいな」
セツナは、ミースの気遣いに感謝しながら、微笑んだ。彼女がなぜか目をそらしたのが気になったが、いまはほかに気にするべきことがある。
ナーレスとどう話をするか、それが問題だ。
「というわけで、今日からここが我が家だ」
「おおー」
「まあ、ある意味間違ってはいないのですが、そこまで言い切られるのもどうかと思いますよ」
レムは、シーラが五人の侍女たちの前で胸を張る様を見やりながらぼそりとつぶやいた。龍府の中枢たる天輪宮の巨大で壮麗な門の前で仁王立ちする彼女と、そんな彼女に拍手を送る侍女たちに対し、龍府を観光しているらしいひとびとの不思議そうな目線が突き刺さるのだが、シーラは一向に構わないようだった。
目立つべきではないという話ではなかったのかと思わないではないが、白髪を帽子の中に隠しきり、庶民的な服装に見を包んだ彼女がいかに目立とうと、アバードの獣姫だと見抜かれる可能性は皆無に等しい。絶対に有り得ないとも言い切れないが、一般市民がシーラの素顔を知っているはずもなく、まずは安心していいに違いない。
五月三日正午。
レムは、主の言いつけ通り、シーラとともに彼女たちが匿われていた旅館に向かい、旅館の主であるスコット=フェネックに話をつけた。スコット=フェネックは、旅館の新しい花として人気を得つつあったシーラたちがいなくなるのを惜しんだが、シーラたちのことを考えると領伯の保護下にあるのが一番だと理解を示した。そして、兄をよろしくお願いするという別れ際の彼の言葉で、レムはようやく、スコットがゴードン=フェネックの弟だということを知ったのだった。随分歳の離れた兄弟だと思わないではなかったが、口には出さなかった。
レムがスコットと話をつけている間に、シーラたちの引越し準備は終わった。アバード・タウラルから龍府までの長旅に大量の荷物を持ってきているわけもなく、龍府での生活を初めて数日、荷物が膨大化するということもなかった。衣服と武具、それにわずかばかりの日用品を荷車に載せて、シーラたちはスコットに別れを告げた。
シーラがスコットに心からの感謝を告げると、スコットは涙さえ流した。スコットは、情にほだされやすく、涙もろい人物らしかった。ゴードンにもそういうところはある。そういう面ではよく似た兄弟だといえるのかもしれない。
スコットとゴードンが兄弟だということは、セツナに報告しなければならない事項だ。きっとセツナは腰を抜かすだろう。そう思うと、自然と笑みが溢れるのだが、ここで笑うのも不気味がられるだけだと想ったりもした。
「いいじゃねえか、減るもんじゃねえし」
シーラが歯を見せて笑ってきた。まるで太陽のような笑顔だった。そこにだけ日が差しているのではないかと感じるほどに眩しい。特にレムのように闇を生きてきたものにとっては、正視に耐え難い種類の輝きであり、相性は最悪といってもいいのかもしれない。つい、皮肉を口にする。
「先程のしおらしさが嘘のようでございますね」
「いっとくが、あのときのあれだって演技でもなんでもねえかんな」
「わかっておりますよ。それに、御主人様がその程度の演技を見抜けないとでも?」
「……うーん、見抜けなさそうなんだが」
「……否定のしようがございませぬ」
シーラが少し悩んだあとにいった言葉を、レムも否定しなかった。というより、否定できなかった。セツナもある程度の嘘や演技ならば見抜けるだろうが、シーラのように権謀術数の貴族社会を生き抜いてきた人物の演技を見抜けるほどだとは思えなかった。それは、領伯として必須の能力ではあるが、セツナがこれから養っていくべき能力であり、一朝一夕に手に入るものでもないだろう。
「おまえ、それでセツナ様の従者なのかよ」
「はい。もちろんでございます」
「はあ……先が思いやられるぜ」
「御心配なさらずとも、御主人様のことは、心の底から敬愛申し上げておりますよ」
レムはそう言い切って、その話を終わらせた。シーラがレムに疑念を抱いているのは、わかりきっていることだったし、仕方のないことだ。シーラには、レムがここにいることさえ理解できないはずだ。シーラにとってのレム=マーロウとは、セツナを影の国に連れ去り、致命傷を負わせた死神部隊の人間であろう。その後、クルセルク滞在中、レムがずっとセツナの側に仕えていたということは知っていたが、受け入れがたいものがあったのは間違いなさそうだった。戦後、レムが名実ともにセツナの従者になっていたという事実には、衝撃を覚えたのだろうが。
レムには、関係のないことだ。
彼女は、シーラたちを先導して、天輪宮の内部に向かった。天輪宮は、龍府最大の観光名所ではあったが、内部への立ち入りは禁じられている。以前は、ガンディアから派遣された司政官らが役所として使っていたからであり、いまは領伯の屋敷になったからだ。
門兵に挨拶をして、門の中へ入る。
門兵たちは、使用人の格好をした少女ともいうべきレムの姿を一目見て、セツナの従者であると理解を示してくれた。彼らも天輪宮の新たな住人たちの顔と名前を覚えるのに苦労しているに違いない。そんな中にあって、レムほど特徴的で覚えやすい人間もいないかもしれない、などと彼女は自賛しながら奥へ進んだ。
「正面から入るなら、気楽にしてもいいわけだ」
「それはそうですが、あまり自由にされましても困ります」
「なに、目立つようなことはしねえさ」
シーラは頭の後ろで腕を組んで、のんきな声を上げた。それに控え、彼女の侍女たちは緊張感たっぷりに後をついてきている。ここはかつてザルワーンの中枢だったのだ。厳かな空気が漂っているのは間違いなく、緊張するのもわからなくはない。
「先程のこと、もうお忘れでございますか?」
「あー、あれはちょっと調子に乗っただけだよ。すまん」
「……御主人様の名を傷つけるようなことさえなさらなければ、なんでもいいのですが」
レムが告げると、シーラが足を止めた。仕方なく、レムもその場に立ち止まる。
「ひとつ聞いていいか?」
「はい。なんでございましょう?」
「なんでおまえはセツナ様の従者をやっているんだ?」
いまさらの疑問だったが、なにも知らないシーラにはどうしても聞いておかなければならないことだったのだろう。彼女はこれからこの天輪宮で生活するのだ。天輪宮には、領伯とその従者たるレムもまた、生活することになる。納得のできない相手と同じ空間で生活するほど耐え難いものはない、といえるだろう。
「答えに困る質問でございますね」
「まさか、またなにか企んでるんじゃねえだろうな」
「なにを仰るかと想えば、そんなことでございますか」
「そんなことだと?」
「はい、そんなことにございます」
天輪宮双龍殿の通路。人気はないといっていい。天輪宮そのものが領伯の持ち物になり、司政官も役人たちも別の建物に移り、行政機能もそちらに移動している。天輪宮は、完全にセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドの私邸となったのだ。だから、天輪宮の敷地内でならシーラたちも自由にしても構いはしないのだが、念のため、中央の泰霊殿で起居してもらうことになっていた。余人の立ち入りが禁止されている天輪宮の中でも、泰霊殿は殊更厳重な警備によって護られていた。余程のことでもない限り、泰霊殿にいる人間が危険にさらされることはない。シーラたちを匿うにはうってつけの場所だった。
「てめえ、自分がしでかしたこと、忘れたわけじゃねえよな」
「もちろんでございます。わたくしの行動が御主人様を傷つけ、苦しめたという事実は、いまでもわたくしの胸を締め付けております。どうすればあの過ちを取り戻せるものかと考える日々にございますのです。ですが、それとこれとは別の話。わたくしがセツナ様を主と仰ぎ、心の底から敬い、慕っているのは事実なのでございます」
レムが真剣な目で告げると、シーラは、多少なりとも納得してくれたようだった。すべてを受け入れたわけではなさそうだが。
「なんでだ? あんたはジベルの死神だったんじゃないのか?」
「ジベルの死神は廃業致しましたのでございます。いまのわたくしは、セツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュール・ディヴガルドの忠実な僕。それ以外のなにものでもないのでござます」
「……ま、俺がとやかくいっても始まらねえんだけどよ」
「はい。シーラ様がなんと仰られようとも、御主人様が必要としてくださる限りは、わたくしは御主人様に尽くすつもりでございますので」
といったが、それは必ずしも本心ではない。
たとえセツナが必要としなくなったとしても、彼のために尽くすだろう。彼が繋ぎ合わせてくれた命。彼と繋がったことで、レムは再び人生を謳歌する機会を得た。いや、人生を謳歌する、などと考えられるのは、いまが初めてのことだ。貧困にあえいだ最初の生も、絶望の闇に囚われていた二度目の生も、人生を楽しむような精神的余裕はなかった。
それに比べて、三度目のいまは、どうだろう。
心は軽く、弾むようだ。
世界そのものの色彩が変わったように見えている。なにがどうしてこうまで変わるものなのか、と思わざるをえない。だからこそ、レムはセツナに感謝し、尽くそうと想うのだ。世界がこんなにも素晴らしいものだということを教えてくれたのが、セツナだった。セツナがもう一度生きる機会を与えてくれなければ、レムは世界に絶望したまま、闇に消えただろう。
「それが従者だものな。わかったよ。俺が悪かった。すまねえ」
シーラは、自分の非を認めると、すぐに謝ってきた。それが彼女の美徳だろう。自分の非を認め、謝罪することに対して、なんら後ろめたいものを感じていない。むしろ、そういうときに開き直ったり、謝らなかったりすることのほうが人間として正しくないと思っているようだった。そう教えられてきたのだ。
現状がどうあれ、アバード王家の育成方針そのものは、素晴らしいものだったのかもしれない。
「シーラ様は、素直な方でございますね」
レムが満面の笑みで褒めると、彼女ははっとして、顔を背けた。頬が紅潮している。
「うるせえ」
「そして恥ずかしがり屋様にございます」
「てっ、てめえ……からかうんじゃねえよ」
「御主人様とも気が合いそうでございます」
「そ、そうかな……?」
ちらりとこちらを見た瞬間を逃さず、レムは笑顔のまま、告げた。
「冗談です」
「くっ……!」
「シーラ様!?」
「こ、こいつを叩き切らせてくれ……!」
「だ、駄目ですよ、なに考えているんですか!?」
侍女たちが悲鳴を上げたのは、シーラが荷車の中から武器を取り出そうとしたからに他ならない。荷車を漁るシーラとそんな彼女の行動を止めようとする侍女たち。そんな激しい攻防を見ていると、レムは後方に気配を感じた。
「なんか賑やかだと思ったら……早かったわね」
「もっとごたつくかと思ってたわー」
振り向くと、ファリアとミリュウが、なんともいいようのない表情でこちらを見ていた。よくよく見なくとも、美女ふたりだ。シーラも含めると美女三人であり、さらに侍女たちが加わるのだから、天輪宮は楽園に変わるのかもしれない、などと思ったりもした。
「あら、おふたりさまでお出迎えでございますか?」
「まあ、そういうところよ」
「レムは知らないでしょ、シーラたちの部屋。あんたが出て行った後に決まったから」
ミリュウの説明によって合点がいった。そういうことならば、セツナの側につきっきりのミリュウまでもが出張ってきても不思議ではない。きっと、セツナに頼まれたのだ。セツナの頼みは断れないのが、ミリュウという女性だった。惚れた女の弱みというやつだ。
レムは、背後の喧騒に耳をそばだたせながら、ふたりに笑顔を向けた。ファリアが明らかに警戒したのがわかる。
「そういえば、そうでございました。わたくしはてっきり……」
「てっきり? なに?」
「新たな恋敵に警告でも発しにこられたのかと」
「はあ!?」
「なにいってんの!?」
「恋敵ってなんだよちくしょう!」
レムの一言に、ファリア、ミリュウ、シーラの三人がほとんど同時に素っ頓狂な声を上げた。
「あ、一応申し上げておきますが、御主人様はわたくしのものでございます。どなたにも渡しませんので、あしからず」
告げて、レムはファリアとミリュウの間を縫って、通路を進んだ。シーラたちの部屋は分からないにせよ、泰霊殿にあるのは間違いないのだ。
「レムー!」
「レム、待ちなさい、レム!」
「レムてめえ!」
「シーラ様、いくらなんでも御屋敷の中でハートオブビーストは……!」
「うふふふふふ」
レムは、背後から迫り来る三つの殺気に微笑みさえ浮かべながら、天輪宮の広い通路を疾駆した。セツナを取り巻く人間関係の複雑化は、レムに新たな楽しみを与えてくれるのかもしれない。