第八百二十四話 シーラ(十二)
窓から差し込んでくる陽の光が強くなってきていた。
泰霊殿の一室に入ってから、二時間あまりが経過した。二時間ほど、シーラの話を聞いていたことになる。
長い話だった。長く、重い話だった。シーラの人生が百八十度変わってしまったといっていいような内容であり、気軽に感想を述べることなどできなかった。
室内が沈黙に包まれるのは、当然の結果だ。
だれかが沈黙を破るまで、しばらくの時間が必要だった。覚悟が必要だった。シーラの心に踏み込むことになりかねない。まず口を開いたのは、ファリアだった。
「つまり、処刑されたシーラ姫は、レナさんだったということなのね?」
「そういうことだな」
ファリアの問いにシーラが静かにうなずいた。シーラにとって、レナ=タウラルという女性がどういう人物なのか、彼女が物語る中でよく伝わってきていた。彼女が王子として育てられる中、唯一無二といっていい関係を築き上げることができたのが、レナという女性だったのだ。その彼女が死んだという。彼女のために。
「レナは俺の代わりに殺された。シーラ・レーウェ=アバードとしてな」
シーラの表情には苦痛があった。彼女の話によれば、シーラ・レーウェ=アバードが処刑されたことを知ったのは、セツナたちの会話を聞いたからのようだった。ここに忍び込み、セツナたちの会話を盗み聞くまでは、レナは戦死したものだと思っていたらしい。
エンドウィッジ平原で起きた王宮軍とシーラ軍の戦いの詳細は不明だ。少なくとも、アバードが公表している事情のことはわからない。両軍ともに五百名以上の戦死者を出すほどの激戦を繰り広げたといい、レナ扮するシーラは、敗走中に捕まったという。
戦場では死ねなかった、ということだ。
「アバードの王宮は、レナさんがシーラじゃないってことをわかっていたんだよな?」
「そりゃそうだろ。いくらなんでも王宮の人間が俺とレナを見間違うなんてことはありえねえよ。いくら髪を白く染めたって、立ち居振る舞いを真似たって、人間そのものが変わるわけじゃねえ」
「そうだよな……」
「そうまでしなきゃなんなかったのかな……」
「王宮は、俺を排除したかったんだ。俺と俺の派閥が邪魔だったのさ」
シーラが自嘲するようにいった。皮肉に口を歪め、ただ嘲笑う。そうでもしなければやっていららないのかもしれない。そうやって、自分を嘲りでもしなければ、自我を保つことすら困難な精神状態にあるのかもしれない。
彼女は、自分のすべてを否定されたといってもいいような境遇にあるのだ。シーラの心情は、順風満帆といってもいい状況にあるセツナには、想像もつかない。
「セイルが王位を継ぐのは決まりきったことだ。俺が王位継承権を捨てたときからの既定路線だ。だれも文句はいえないはずだった。アバードは、それですべてがうまくいくはずだったんだ。それなのに……」
シーラは天井を仰ぎ見た。涙が零れそうだったからなのかもしれない。セツナには彼女の姿が、いつもより小さく見えた。寂しげに震えているように思えてならなかった。なんとかしてあげたいと思うのだが、いまの自分にできることなど、限られている。
「それなのに、俺が戦功を上げ、名声を高め、人望を集めたために混乱を招いちまった。シーラ派なんていう派閥が生まれて、女王待望論が沸騰し始めた。冗談じゃねえ。俺は王位なんざ興味もねえってのに、世間はそれを許さなかった」
シーラ・レーウェ=アバードがアバード国内で人気があるということは、セツナも知ってはいた。獣姫は、国民から凄まじい支持を得ており、彼女の一挙手一投足は常に注目の的だという話も聞いていた。王女自ら率先して戦場に飛び込み、多大な戦果を上げてきたのだ。国民から人気が出るのも当然のように思えたし、その国民の支持率を知れば、貴族や軍人が放っておかないのも想像ができることだ。彼女を頂点とした派閥が形成されるのは仕方のないことであり、セイル王子派と対立するのも、ある意味では当たり前のことだった。そして、その当たり前が深刻化した結果、王宮を牛耳るセイル王子派によるシーラ派の排除へと繋がったのだろう。
派閥を根絶するもっとも簡単な方法は、その派閥の拠り所となる人物を消すことだ。反レオンガンド派がその首魁であったラインス=アンスリウスの死とともに鈍化し、壊死していったことからもよくわかる。
シーラ派の場合、それがシーラだったというだけのことだ。それだけのことで、アバード王宮は彼女を排除しなければならなくなった。
「そして、王宮は、そういった世間が許せなかったのさ。だから俺を排除しようとしたんだろう。王都への立入禁止がその始まり。強引に王都にはいろうとすれば、それを理由に俺を処断するつもりだったんだ」
「けど、シーラ様はタウラルに向かわれた」
「王宮にとっては誤算だったろうよ。まさかタウラルに向かい、そこで一大勢力を作り上げるとは思いもしなかったに違いねえ。が、王宮はその誤算を喜んだ。俺が中心となって勢力が形成されれば、それを反政府勢力と認定して、公然と征伐することができる」
「内乱を恐れながらも、シーラ様は討ちたい……」
「俺さえいなくなれば、シーラ派は存続できなくなるからな。たとえ双角将軍が生き残ったとしても、俺という後ろ盾がなけりゃあなにもできねえ」
国家反逆罪の適用、王都への出頭命令、ヴァルターへの戦力集結――アバード王宮は、タウラルに篭もるシーラにさまざまな揺さぶりをかけた。王宮としては、シーラさえいなくなればよかったからだ。それだけで、なにもかもが解決する。シーラ派の行動は鈍化し、いずれ消えてなくなるだろう。アバードは、セイル派のものとなる。
「俺は死ぬべきだったんだよ。クルセルク戦争で華々しく散るべきだった」
シーラが、深くため息をつくようにいった。
「そうすりゃ、アバードに混乱を生むこともなかった。セイル派も、死んだ俺を英雄と祭り上げることになんの躊躇もなかったろうさ」
確かに、彼女の言うことにも一理あるのかもしれない。クルセルク戦争の最終盤で死んでいれば、彼女はアバードに多大な国益をもたらした英雄として、祭り上げられていたことは疑いようがない。アバードに混乱が起きる前でさえ、英雄に等しい扱いを受けていたのが彼女だ。死後、クルセルク戦争の功績によってアバードにクルセルク本土の半分をもたらせば、だれもが彼女のことを英雄と讃えただろう。
いや、アバードに内乱さえ起きなければ、シーラ派とセイル派の対立さえ起きなければ、シーラは英雄だったはずだ。アバードの国土を大いに広げた英雄として讃えられたはずだった。
「でも結局、俺の名は、アバード始まって以来の大悪人になっちまった。笑えるよな」
シーラは、泣き笑いのような顔になっていた。笑えるはずがない。はずがないのだが、笑うしかないという気持ちも、わからなくはなかった。これまでの人生のすべてをみずから否定して、それでも生きなければならない。苦痛以外のなにものでもない状況にありながら、泣き言を言うことも許されないのだ。
セツナは、彼女の強さに心を打たれたし、その強さの中に潜む弱さにも気づいた。だから、手を差し伸べようと思うのだが、どうすればいいのかはわからない。いまの自分に一体何ができるのか。
彼は口を開いた。
「でも、タウラル領伯も、レナさんも、シーラが生き延びることを望んだんだろう?」
「ああ……」
「だったら、生き抜かないとな」
「ああ……そうだな。そうだよな」
シーラがセツナを見た。湖面のように澄んだ目。その瞳がわずかに揺れている。決意が浮かんだ。
「そのために、ここに来たんだ」
彼女は椅子から立ち上がると、セツナの目の前まで歩み寄ってきた。そして、セツナに向かって跪き、頭を垂れる。シーラの突拍子もない行動に、セツナだけでなく室内にいる皆が驚いた。
「セツナ様、わたくしのこれまでの行動、いまここで謝罪いたします。突然、セツナ様の御屋敷に忍び込んだ挙句、礼を失する言動の数々、セツナ様におかれましてはさぞや不愉快に思われたことでしょう。ですが、こうでもしなければセツナ様と直接話し合う機会を得ることなど、できなかったのです。それだけは、どうかわかっていただきたいのです」
「シーラ……」
セツナは、言葉に詰まった。彼女の行動があまりにも突拍子もなく、想像できないものだったからだ。もちろん、謝罪して当然のことを彼女はしでかしたのも事実だ。領伯の住居に侵入するなど、即刻捕縛されても文句ひとついえるものではない。しかし、彼女のいうように、そうでもしなければセツナと直接言葉を交わすことなどできなかったのも事実だろう。
皆、息を潜めて成り行きを見守っている。いや、圧倒されているのかもしれない。
跪き、頭を垂れ、許しを請うシーラの姿には、惨めさや情けなさといった負の色は微塵もなかった。むしろ、王女としての誇りや自負が、気高く、尊いものとして彼女を輝かせ、周囲を圧倒している。
王族は、生まれながらにして王族なのだ。
「そのうえで、無礼を承知で、お願い申し上げます。どうかわたくしたちの力になってください。わたくしの声に耳を傾けてください」
シーラの凛とした声音は、セツナの耳朶に染み入るようだった。