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第八百二十二話 シーラ(十)

 センティアには一晩留まった。もう少し逗留し、レナたちの戦いの結果を知りたかったが、そんな悠長なことをいっていられる時間は、シーラたちには用意されていなかった。

 センティアを出ると、シーラたちはまっすぐ南下して、マルウェールを目指した。

 これが最大の難関だった。マルウェールはガンディアの領土内にある都市だ。ガンヒア領ザルワーン地方マルウェール。そのマルウェールに辿り着くには、アバードとガンディアの国境を越えなければならなかった。センティアからマルウェールまでは整備された街道が続いており、街道沿いに皇魔の巣があるということもない。街道さえ進むことができれば、なんの危険もない道のりだった。だが、街道を進むということは、国境付近の防衛拠点を通過するということであり、アバード軍による検問を受けることになるということにほかならない。

 シーラたちは民間人を装っている。庶民的な旅装に身を包み、武器や防具は荷駄に隠していた。特にシーラはその特徴的な白髪がまったく見えなくなるように苦心したものだ。また、シーラと侍女たちだけの旅では怪しまれるため、ラーンハイルから人数を借りだしており、彼らが旅を先導した。

 旅。そう、旅だ。アバードの内乱が激化することを恐れたタウラルの住人が、知人を頼ってザルワーンに逃れる旅路なのだ。街道を外れ、山野を踏破するという手は、使いにくい。

 国境防衛部隊の検問は、とてつもなく厳しいものだった。王宮によって国外への移動が制限されていたからだ。しかし、タウラルの兵士たちの機転と侍女たちの活躍によって突破することができた。結局、どれだけ鍛え上げられていても兵士も人間であり、男だということらしい。

 ガンディアの国境警備部隊に対しては、タウラル領伯印の通行手形が効果を発揮し、難なく通行を許可された。

 シーラたちがガンディア領内に入ったのは、四月二十五日のことだった。翌二十六日、マルウェールに入り、宿でくつろぐことができている。アバード領内にいるときの緊張感が嘘のような解放感ではあったが、緊張を忘れてはならなかった。正体を隠し通さなければならないのは、ガンディア国内でも同じことだ。どこから情報が伝わり、アバードに知れ渡るのかわかったものではない。油断をしてはいけないのだ。

 それでも、アバード国内にいるときよりは窮屈感を覚えずに済んだのは、ガンディアにアバード人の目がないからかもしれなかった。アバード人は、良くも悪くも、シーラに興味を持っている。シーラに対して好奇の目を隠そうとしない。タウラル地方は領伯の影響もあってシーラに対して好意や善意の目しかなく、センティアでもシーラに対して良い話しか聞かなかったものだが、精神的に疲れきっている状況下で数多の視線を感じ続けるというのは、耐え難いものがあった。

 王族として生まれ、王女でありながら王子として育てられる中、無数の視線を浴びてきている。それこそ好奇の目が多かった。だれもが、シーラが女でありながら男として育てられていることを知っていたから、そういう目にもなるだろう。好奇。興味と親愛と敬意と同情と軽侮と愚弄と――さまざまな感情が入り混じった目に晒され続けてきた。物心付く前からだ。気がついた時には、慣れていた。慣れていたはずだった。どのような視線にも耐え抜くことができるのが、生まれながらの王族というものだろう。

 しかし、王都を追われて以来、シーラは他人の視線に対して敏感になっている自分に気づいた。彼女の中のなにかが音を立てて崩れ始めている。王女としての自分。王家としての自分が大きく揺らぎ始めているのだ。揺らぎ、震え、罅割れ、剥がれ落ちていく。この世に誕生してから二十二年の間に築き上げてきたものが、ゆっくりと、しかし、確実に失われていく。

 足場がなくなったような感覚。

 立っていられないのだ。

 助けを求めようにも、頼れる相手がいなかった。ウェリスや侍女たちでは、だめだ。ラーンハイルやレナとも違う。彼女たちや彼らに頼るのは、シーラのすることではない。彼女たちを失望させるだけのことだ。皆、シーラには常に獣姫でいて欲しいのだ。女性らしさを求めるウェリスですら、弱音を吐くことを許容してくれはしなかった。

 シーラ・レーウェ=アバードという理想が、皆の中にあるのだ。その理想を壊すようなことはできない。

 だから震える。

 心だけが震え続けている。

 救いを求めて、揺れている。

 まるで空気を求めてあえぐように。

(だれか……)

 シーラは、マルウェールでの夜、初めて涙を流した。孤独があった。絶対的な夜の闇の中で、彼女は膝を抱えて、涙だけをこぼした。泣くことはできなかった。嗚咽さえ堪えた。シーラ・レーウェ=アバードとは、そういう人間でなければならない。


 マルウェールでの滞在中、シーラたちは、アバードの情報が入ってこないものかと期待したが、なにも知ることはできなかった。そもそも、マルウェールの人々は、アバードでなにが起こっているのか、まったく知らない様子だった。

 この様子では、ガンディア政府さえ、アバードの内乱について知らない可能性がある。だが、それはシーラたちにとっては好都合だった。アバードの情勢がわからないということは、シーラたちが国外逃亡したという話も伝わっていないということなのだ。

 マルウェールを出て、西へ向かった。街道をひたすらに進み、二十九日、やっとの思いで龍府に辿り着いた。が、まだ安心はできない。ラーンハイルの知人を探しださなければならなかった。もっとも、これに関してはラーンハイルの兵が居場所を知っていたため、特に問題に発展するようなこともなかった。

 ラーンハイルの古い友人という男は、領伯の話通り、旅館の経営者だった。ラーンハイルより一回りほど年下の男性であり、常に難しい顔をしているような風貌が特徴的な人物だった。名をスコット=フェネックといい、ラーンハイルからの書簡を手渡すと、シーラたちを喜んで迎え入れてくれた。

 大きな旅館だった。そして、旅館のどこもかしこも観光客らしき人々の姿でいっぱいだった。ガンディアはいま、戦争の気配のまったくない安定期にある。龍府観光には打って付けの日々といってよかった。

「ガンディアの支配下になって以来、龍府の観光地化が促進されましてね。おかげでうちはボロ儲けです。ガンディアさまさまですな」

 スコットは、シーラたちを部屋に案内しながら、大声で笑った。気難しそうな顔つきの割に笑いの絶えない人物だった。

 ラーンハイルの兵たちとは、スコットの旅館で別れることになった。彼らは、主であるラーンハイルのことが気になるといい、またアバード国内の情勢についても調べられる限り調べ上げ、シーラに伝えると約束して、龍府を去った。

 彼らが去った最大の理由は、スコット=フェネックが信頼の置ける人物だと判断できたからだろう。スコットは、ラーンハイルの書簡に目を通したとき、涙を流していた。その書簡になにが記されていたのかはわからない。少なくとも、シーラたちの境遇が書かれていることはないだろうが、いずれにせよ、スコットは命にかけてでもシーラたちを匿うと約束した。彼の目に嘘や偽りの色はなかった。シーラは、王宮の権謀術数の中に生きていきたのだ。他人の嘘を見抜くことくらい、できないわけがなかった。

 スコットの旅館は、龍府の中心地にある。龍府最大の名所である天輪宮を覗く一等地であり、それもあって観光客が利用することが多いようだった。スコットがなぜこれほどの一等地を所有しているかというと、フェネック家がかつてはザルワーンでも有数の名家だったからだという。いまは没落した家名を復興させるため、彼の兄がひとり気炎を吐いているらしい。スコットはフェネック家の二男であり、家督を継いだ兄とは違って悠々自適な人生を送るつもりであり、そのために実家を改築、宿として一般に開放したことが、彼の旅館経営の始まりだったそうだ。

 旅館が軌道に乗り始めたのは、ガンディアがザルワーンを下し、龍府が観光都市として運営されるようになったからだ。ガンディアは、古都・龍府をザルワーン地方の軍事拠点として利用するだけではもったいないと考えたのだろう。そして、その思惑は、上手くいった。

 龍府の古くも美しい町並みは、ひとびとの心を捉えて離さなかった。

 シーラも、スコットに与えられた部屋の窓から見渡す古都の町並みに惚れ惚れとしたものだった。

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