第八百二十一話 シーラ(九)
「さて、レナが戦場に出向った以上、姫様がいつまでもここにいるわけには参りません」
ラーンハイルが口を開いたのは、要塞の正門から天守に移ってからのことだ。正門から天守に至るまでの間にシーラの姿を見たものはいるだろうが、それらの口止めくらい、ラーンハイルには簡単なことに違いなかった。だから、堂々とシーラに扮したレナとシーラを対面させたのだ。こっそりとやるのではなく、堂々と行うところにラーンハイルの度胸というか、覚悟が伺える。
隠したところですぐにわかることでもある。
シーラとレナの顔は、似ても似つかないのだ。少し調べればだれにだって判別できるようなものに過ぎない。そして、他人を欺くことが、レナの扮装の目的ではない。
「どうするんだ? 国内から消えるとかいっていたが」
「国外に逃れられませ」
「国外なら王宮の手も伸びない……か」
「はい。それに姫様が国外に逃亡したとあれば、レナの死を本物のシーラ・レーウェ=アバードの死として処理するでしょう」
「そう上手く行くのか……?」
シーラは、危ない橋をわたっている気がしてならなかった。なにもかもがラーンハイルの思惑通りに進めばいいのだが、すべてが思い通りにいくほど簡単なことのようには思えなかった。セイル派とて無能ではない。むしろ、政治にかけては有能だからこそ、王宮を掌握できたといえるのだ。もちろん、シーラ派に実(王位継承権)が伴わないのが一番の原因なのだが、それにしたところで、シーラ派のほうが有能ならば、このような事態にはならなかっただろう。
もっとも、シーラが、シーラ派を標榜する連中を恨むことはなかった。だれも悪くない。悪いことがあるとすれば、シーラがこの世に生まれてきてしまったことだ。
シーラは、レナさえも死に追いやってしまう自分の存在をただひたすら呪った。呪いながらも、生きることを考えなければならないことが苦しかった。レナの覚悟を無為にしないためには、泥水を啜ってでも生きていくしかない。
「もちろんです。王宮としては、この状況をこれ以上長引かせたくはないのが実情でしょう。内乱が長引けば、他国に付け入る隙を与えてしまう。北の隣国ジュワインは政情が安定しておらず、アバードに侵攻するような余裕はございませんが、シルビナ、マルディア辺りはどうでしょうね」
「なるほどな……近隣国の情勢を考えると、いち早く状況を終息させたいと考えるのが妥当か」
「そのためなら、偽りの姫様さえ利用するでしょう」
ラーンハイルはそこまで考えた上で、レナを生け贄に差し出したのだ。でなければ、最愛の娘を死地に追いやるようなことはできまい。成功することが確定していなければ、無駄死となる。
シーラは、まじまじとラーンハイルの顔を見た。彼の穏やかな表情のどこにそのような凄みが生まれるのかが知りたかった。それだけの覚悟があれば、これからの人生を生き抜くことも難しくはないのではないか。
「……そして俺は国外で悠々自適な生活を……ってか」
「はい」
「はいじゃねえよ」
平然と同意してみせるラーンハイルに、シーラは憮然とするしかなかった。この状況下で笑えるほど、シーラは達観しているわけではない。しかし、ラーンハイルは眉一つ動かさずに告げてくるのだ。
「いえ、それでいいのです。姫様は、アバードの国外で悠々自適に日々をお送りくださいませ。そのためにわたくしどもは血を流す。それだけのことです」
「……できるわけねえだろ」
「してください。それがわたくしとレナの願いです」
ラーンハイルの毅然とした言葉には、反論の余地もなかった。
「国外に逃亡するといっても、姫様が頼れる国など数えるほどしかないのが実情です。ガンディアの台頭以来、小国家群に休まるときはないのですからね。国によっては、姫様を見つけ次第利用し、アバードとの交渉材料にするでしょう」
「交渉材料になんてならねえだろ。なんの利用価値もないぜ」
シーラがいうと、ラーンハイルは沈黙した。彼には、シーラにはわからない利用価値が見えているのかもしれない。シーラ・レーウェ=アバードは死ぬ。ガラン=シドール率いる反乱軍とともに、死ぬ。
彼女の代わりに死ぬ。
それで終わればいいのだが、どうやらそういうわけにもいかないらしい。
「……ともかく、わたくしとしてはガンディアをお勧めしておきます」
「なんでだ?」
「ガンディアにはわたくしの古い友人がおります。彼の元でなら、しばらくは安全に身を潜めることができるでしょう」
「そのあとは?」
「そのあとは、友人を通じでガンディア政府に掛け合い、生活の安全を保証させましょう。ガンディアは信用に値する国です」
ラーンハイルのその意見には、シーラも同意を示さざるを得ない。ガンディアはクルセルク戦争において率先して戦い、みずからの領土に数万の皇魔を引き入れることで、連合軍の勝利へと導いた偉大な国だった。国王レオンガンド。レイ=ガンディアには王者の風格があり、軍師ナーレス=ラグナホルンを始め、有能な人材に事欠かない。もっとも、ガンディアは国土拡大に関しては野心的といっていい国であり、油断も隙もあったものではないのだが、土壇場で裏切ったジベルや政情不安なジュワインよりも余程頼りになるのは間違いない。
(それに、セツナがいる)
シーラは、その言葉は胸に秘めた。言葉に出さずとも、ラーンハイルは理解していることだろうが、言葉にしてしまえば、レナの想いを踏みにじることになりかねない。
「無事にガンディアに辿りつけたとしても、王宮が姫様の死を公表されるまでは行動に移らぬことですね。それまでは息を潜めていてくださると、安心できます」
「ああ……そうするよ」
シーラのガンディアへの逃避行には、ウェリス=クイードを始め、クルセルク戦争を生き抜いた五人の侍女が付き従うことになった。シーラの侍女たちは歴戦の勇士である。ラーンハイル配下の兵をつけるよりも断然信頼できるというシーラの言葉に、ラーンハイルは反論を寄越さなかった。
シーラたちがタウラル要塞を抜けだしたのは、その日――四月十八日の真夜中のことだ。王女やその侍女としての華美た服装ではなく、庶民的な服装に身を包んだ六名は、夜闇に紛れ、一路センティアを目指した。タウラル要塞からガンディア領に向かうには、いくつかの経路が考えられた。
タウラルから東へ向かい、ランシードを経由してガンディア領東クルセルクに出るという経路。これがもっとも安全だと思われるのだが、ザルワーンにいるというラーンハイルの友人を頼ろうと思えば、東クルセルクに出るのは大きな間違いであろう。
ラーンハイルの友人は、ザルワーンの古都・龍府で観光客用の旅館を経営しているという話だった。その旅館を頼ろうというのだ。
つまり、ザルワーンに向かう必要があり、しかも龍府となるとかなりの長旅となるのは必然だった。
センティアまではなんの問題もなく辿り着くことができた。ウィンドウ一族の影響下にあるセンティアは、都市全体がシーラ派といっても過言ではない状況であり、タウラル要塞から逃げ出してきた民間人を装ったシーラたちを暖かく迎え入れてくれたのだ。センティアの人々は、タウラルの状況を知りたがった。ウェリスや侍女たちは、あまり人前に出ることのできないシーラの代わりに人々に対応し、知りうる限りの情報を伝えた。
タウラルから軍が出撃し、王宮軍と激突するだろうという話は、センティアの人々を大いに奮い立たせた。
「王宮なんぞくそくらえだ!」
「そうだそうだ! 姫様あってのアバードじゃねえか!」
「大義は姫様にこそある!」
センティアの住人の声は、シーラの胸を締め付けるだけのものだった。王宮への罵倒や非難は、そのままシーラ自身にも突き刺さる言葉でもあるのだ。シーラは王族だ。アバード王家に生まれ、王宮の中で生まれ育った人間なのだ。王宮を否定するということは、自分のこれまでの人生そのすべてを否定することにほかならない。王宮によって追い詰められ、すべてを捨て去るべく国外への脱出を図っているいまでさえ、王宮を憎んだり恨んだりすることはできなかった。
憎むべき相手などどこにもいない。
だれもがアバードのことを想って行動している。その結果がこの内乱であり、シーラは、この無意味な内乱を収束させるためにアバードを捨てるのだ。国を捨て、王家を捨て、自分のこれまでのすべてを捨てる。
シーラ・レーウェ=アバードとして歩んできた人生のすべてをみずからの意思で否定し、封印する。
シーラは、センティアの宿に借りた部屋で、茫然とした。手を見下ろす。自分の体を流れる血液。王家の血筋。王女として生まれ、王子として育てられ、王女へと返り咲いたその奇妙な人生がこんなことで幕を閉じるとは、想いもしなかったことだ。
「生まれて来るべきじゃなかったのかもな」
そんな弱音を吐けば、
「なにをいってるんですか!」
ウェリスを筆頭に、侍女たちが猛烈に怒り、シーラを叱咤した。彼女たちの怒りは、そのままラーンハイルやレナの怒りでもあっただろう。そして、タウラル親子の決意と覚悟を思い出すのだ。セレネと侍女たちが命を賭して守ろうとしたものについても考えさせられる。
皆、シーラを生かすためだけに動いた。
シーラは、なんとしてでも生き延びなければならない。感傷に浸り、自嘲や自虐で悦に浸っている場合ではないのだ。