第八百二十話 シーラ(八)
四月十八日。
暗雲立ち込めるタウラル要塞から、双角将軍ガラン=シドール率いる大軍勢が出発、一路ヴァルターを目指した。
総勢五千五百に及ぶ大軍勢は、双角将軍を頂点としてひとつに纏まっており、ひとりの肉体のようにガラン=シドールの意のままに機能した。ガラン=シドールが一声命じれば、軍勢は自在に展開し、自在に収縮する。ガラン=シドールが将軍として有能なのは、その類まれな軍勢の掌握力にある。彼は軍隊をまるで手足のように動かし、変幻自在の戦法を取ることができるのだ。しかし、そのためには軍隊の掌握に時間をかける必要がある。タウラル要塞での日々は、彼にシーラ派将兵の掌握の時間を十二分に与える結果となったのだ。
「行ってしまった……」
シーラは、ガラン率いる大軍勢の背中を見やりながら、呆然とつぶやいた。ガランたちがタウラル要塞から出たのは、ヴァルターに集まっていたアバード正規軍がタウラル地方に向かって進軍を開始したという情報が、タウラル要塞に飛び込んできたからだ。すぐさま軍議が開かれると、ガラン=シドールをはじめ、ラングリード・ザン=シドニアや戦団長たちは徹底抗戦を唱え、キーン=ウィンドウだけが不戦を訴えた。つまり、彼だけはシーラの意図に賛同したということになる。が、ガランたちの意思が揺らぐようなことはなかった。
シーラは、沈黙していた。
当初、ガランらはタウラル要塞に籠城し、アバード軍を迎え撃つつもりでいたのだが、ラーンハイル・ラーズ=タウラルが援軍も期待できない籠城戦の無意味さを説くと、一転して、ヴァルターまで打って出るということに決まった。方針が決まると、あとは早かった。部署が決められると、シーラが総大将になってしまっていた。シーラがラーンハイルを一瞥すると、彼はなにもいわずにうなずいていた。
シーラはラーンハイルの意図を信じて、軍議に口を挟まなかったのだ。
総大将であるシーラは、親衛隊とともにタウラル要塞に残ることになり、残り五千五百名が、ガラン=シドール指揮の元、決戦の地に向かうことになった。それが二日前のことだ。それから二日間、気が気でなかった。ガラン率いる軍勢が、王宮軍とぶつかれば、ただではすまないだろう。シーラの名はアバード最大の反逆者として歴史に残るかもしれない。いや、それはいい。いまさらだ。問題は、そのために多大な血が流れるということであり、問題がなにひとつ解決しないということだ。
こんなことのために、彼女はタウラルに残ったわけではない。
「これで後戻りはできません。いえ、姫様には後戻りする機会など、与えられていなかった。前に進むしかなかった」
「前に進む……」
「前に進むためには、ときには犠牲を払う必要があります」
「これが必要な代価だっていうのかよ。それに前進ってなんだよ。なにも変わってねえよ」
「いえ、変わるのです」
「そうだ。変わるのだ。これから、この俺が運命を変えてやる」
強い口調でいってきたのは、聞き慣れた声だった。だが、いつもの柔らかく、いまにも消えてしまいそうなほどのたおやかさを持つ声音ではない。無理に低い声を出している、そんな声音。それに口調も彼女らしくなかった。
「レナ?」
振り向くと、そこには軍馬に跨った彼女がいた。
「レナじゃねえよ。見りゃわかるだろ。てめえの目は節穴かあ? 俺はシーラだ。シーラ・レーウェ=アバードだ」
馬上、彼女は強い口調で、そんなことをいってきた。まるで理解できなかった。理解できなかったが、彼女がシーラの鎧兜を身に着けていることはわかったし、髪を白く染めていることも把握できた。目深に被った兜から溢れる長髪が、シーラと同じく真っ白だったのだ。
「なにをいってるんだ……?」
「これが答えにございます、姫様」
「ラーンハイル……おまえ……」
シーラは、愕然とラーンハイルに目を向けた。ラーンハイルは、穏やかな表情のまま、レナを仰いでいる。
「レナに、姫様の代わりを務めさせます。レナは長年、姫様のお側に仕え、姫様の言動を間近で見てまいりました。姫様を再現するには、レナ以上の適役はいないでしょう。それにレナには類まれな演技力がある」
「父上、親馬鹿にもほどがありますわ」
「ですが、事実です。あなたは詩学に長じ、演技力においても他に並ぶものがいないほどの才能の持ち主なのです。胸を張りなさい」
「はい、父上……」
「なんだよ、いったい、なんなんだよ。わかんねえよ!」
シーラはふたりの会話に込められた想いに、胸が張り裂けそうになった。叫んだが、叫んだ言葉に意味はない。わからないはずがなかった。なにもかも理解したからこそ、声を上げたのだ。ラーンハイルは、レナをシーラ本人としてガランたちに合流させようというのだ。合流させた暁に待つのは戦闘であり、戦闘となれば、彼女に待つ運命はわかりきっている。
「姫様が生き延びるには、他に方法がございませぬ」
馬上のレナがシーラを見つめる目は、美しく研ぎ澄まされている。死を覚悟したものの目だ。かける言葉も見当たらなかった。彼女の決意は硬く、揺るがないものだ。シーラがなにをいったところで、その想いを変えることはできない。
「王宮が欲しているのは、姫様が死んだという事実。シーラ派の軍勢とともに姫様が死んだとあれば、王宮にとっては万々歳でしょう。たとえ、姫様が偽物であったとしても、本物が国内から消えて失せれば、偽物を本物として処分するに違いありません」
「俺を生かすためだけに死ぬっていうのか?」
「はい。わたくしは、姫様のために、姫様となって死にましょう。姫様は生きるのです。わたくしの分も、生きていってくださいませ」
「なんでだよ。なんでそこまでして、俺を……」
「姫様ですから」
「わかんねえよ……」
「納得していただかなくても結構です。ですが、どうか、わたくしどもの覚悟を無駄にしないでいただきたいのです」
「勝手なことと存じ上げますが、姫様におかれましては、どうか、末永く生き延びてください。生きて、幸せを掴んでください」
ラーンハイルとレナの顔を交互に見て、シーラは言葉に詰まった。なんといえばいいのかわからなかった。シーラはこれまでも自分のために死んでいったものがいることは知っている。戦場で、彼女の部隊を護るために大勢の兵が死んでいるし、シーラの侍女団は、彼女の盾となり壁となるのが役目だった。シーラは生まれながらの王族であり、王下万民は王族のために存在するものだと教えられて、育てられた。下々のものが王族のために命を投げ打つのは当然のことであり、そこになんらかの感情を差し挟む必要はない。王族がこの国を支えている。国を運営している。王族を失うのは、臣民にとって痛手以外のなにものでもないのだから。
だが、今回は違う。
タウラル親子にとって、シーラを失うことはなんの痛手にもならない。シーラを庇うことは、なんの得にもならない。むしろ、損失しかないのだ。今回の騒動で、ラーンハイルが領伯の座を解任されたとしても不思議ではないし、実際、そのような動きがあるのは事実らしい。領伯の去就に関しては国王の判断を仰がなければならないために王宮の行動が遅れているだけであり、リセルグ王が印を押せば、その瞬間、ラーンハイルは長年務め上げてきた領伯の立場を失うのだ。
「幸せ……」
(おまえはどうなんだよ)
シーラは、レナに問いかけたかった。彼女は、幸せでいられたのだろうか。レナは、シーラの側にいた十数年、とても幸せだったという。その幸せの時間はとっくに失われてしまった。八年も前のことだ。シーラは王子の仮面を脱ぎ捨て、王女となった。その瞬間から、シーラとレナの関係は崩れた。レナはタウラルに戻り、シーラは王都に在り続けた。レナは詩学に没頭し、学校を作るほどになったが、その期間、特別幸せではなかった、ともいった。
「わたくしは、姫様と再び巡り合え。こうして姫様の代わりに死ねることを幸せに想います」
「幸福の形はひとぞれぞれにございます。わたくしも、我が娘が姫様を窮状から救う一助となるのなら、これほどの幸福はございませぬ。姫様には、ずっとご恩返しがしたいと想っておりましたので」
「恩返しだって? それは、俺がするべきことじゃないのか」
「なにを仰る」
ラーンハイルは、シーラの発言を一笑に付した。
「わたくしがタウラルの領伯としてふんぞり返っていられるのは、なにもかも姫様のおかげなのです。姫様とレナの繋がりが、わたくしの権勢を強固なものにし、安定を与えてくださいました。わたくしが中央の政治から遠ざかりながら日々を過ごすことができているのも、あのころの恩恵にほかなりませぬ。なにもかも姫様のおかげなのです」
ラーンハイルの告白には、シーラも黙らざるをえなかった。彼ほどの人物がそうまでいうのだ。口を挟むのは失礼であり、彼の思いを踏みにじる行為だ。そういう行動ほど、シーラの嫌いなものはなかった。想いは受け取るしかない。受け取り、受け入れ、抱きしめるのだ。そして、震える心を抑えこむことで、なにもかもすべてを許容する。
そうやって生きてきた。
「いつか、姫様にご恩返しすることだけを考えておりました。それが姫様の御命を救うことならば、これほど名誉なことはございません」
ラーンハイルの言葉にレナがうなずき、肯定する。
シーラは、ふたりの決意と覚悟を受け入れた。受け入れざるを得なかったのだ。いまさら拒絶はできない。否定はできない。踏みにじることなど、出来るわけがない。彼も彼女も、みずから進んで、命を差し出そうというのだ。
シーラのために。
「それでは、姫様。ごきげんよう」
「レナ、ありがとう」
生きろ、などといえるはずがなかった。彼女は死ななければならない。死んで、役目が果たせるのだ。シーラ・レーウェ=アバードとして死んで初めて、彼女は、己の使命をまっとうすることができる。
ガランの軍勢を追いかけたのは、レナひとりではない。レナをシーラ・レーウェ=アバードとして誤認させるには、彼女一人では物足りないのだ。侍女団の二十二人とセレネ=シドールがレナに付き従った。セレネや侍女たちには、レナの代わりに言葉を交わすという役割もあった。シーラとレナでは声色が違いすぎる。いくら口調を真似たところで、声色までは似せられないものだ。
もっとも、それだけのことをしてもガラン=シドールやキーン=ウィンドウらを騙すことはできない。いや、そもそも、シーラ派の将兵には一目でわかってしまうかもしれない。つまるところ、変装は味方に対しては無意味といっていいのだ。しかし、レナは変装する必要があった。
王宮側がシーラ・レーウェ=アバードが死んだということを事実とするためには、ありのままのレナでは駄目なのだ。なにかしらシーラであると誤認できる情報が必要だ。それは背格好であったり、武器や防具であり、陣容であろう。背格好は近い。鎧兜はシーラの愛用しているものだ。武器は、さすがにハートオブビーストではないが、形状の酷似した召喚武装がセレネによって呼び出され、レナに渡されている。
シーラ・レーウェ=アバードの偽物としては、完璧といってもよかった。
そして、彼女は本物のシーラとなる。
本物のシーラとして、死ぬのだ。