第八十一話 ガンディアに吹く風(後)
「ガンディアがログナーへの侵攻を画策しているのは間違いないです。此処に届く人員、物資の量を考えれば当然。そして、ガンディアが領土拡大する上で北進するのは戦略上間違いではない。南の東西にはルシオンとミオンの同盟二国がありますからね。さらにいえば、アザークやベレルよりも攻め込みやすい状況にある。アザークとは休戦協定を結んだばかりですし、ベレルには《白き盾》という最大の障害があります。《白き盾》とぶつかるのは我々としても勘弁願いたいもの。それはガンディア軍の総意でもありましょう。結果、軍を進めるならばログナーしかない。ザルワーンの後ろ盾が怖いところですが、それでも《白き盾》に比べればましというもの。それに、要塞を奪還したことでこちらの意気は上がっていると見てもいいでしょう。とはいえ、要塞奪還の余勢を駆って攻め込むには、少しばかり遅きを失しているように思いますが」
ジンの舌は滑らかそのものだ。あれだけの言葉を紡ぎながら、舌を噛むようなことはおろか、言いよどむことさえなかった。国家の情勢や戦略、戦術について語るときの彼は、水を得た魚のように生き生きとしていて、ルクスは、そういうジンが好きだった。ただ、話の内容はほとんど理解していない。耳に飛び込んでくる声は実に聞き取り易いのだが、なぜか、ルクスの頭の中には長く留まらず、何処かへ行ってしまうのだ。頭の出来が悪いからだろう。結論はいつだって明快だ。
「確かにな……。勢いに乗って攻め込むのなら、ログナーの連中を追撃すればよかった。少なくとも、首級は増えただろう。そうすりゃあ、たとえログナーと総力戦になろうともガンディアの優位は揺るがねえ。だが、陛下はそれをしなかった。なぜだ?」
シグルドの疑問は、ルクスの考えていたことでもあった。あれだけの圧倒的な勝利を得たのだ。普通ならば、敗軍の背を追い、その傷口を深く、大きくしようとするはずなのだが。レオンガンド王は、追撃命令を下さず、ログナーの殿への攻撃命令さえ発しなかった。
ルクスが出した結論はこうだ。大勝し、要塞の奪還という目的を果たした以上、ガンディアの兵に無駄な血を流させる必要はないと判断したのではないか。ガンディアの戦がこれで終わるはずがないのだ。今後のことも考えれば、兵士たちを温存するのは間違った考え方でもあるまい。
しかし、ジンの考えはもっと以前の段階にあったらしい。
「恐らく、当初の予定ではあそこまであっさり勝てるとは思ってもいなかったのでしょう。ある程度の被害を覚悟していたはずです。ログナーへの侵攻も考えてはいなかったかもしれない。ところが、予期せぬ大勝を得てしまった。陛下は考えたでしょうね。このまま攻め込むべきか、止めるべきか」
「セツナ……か」
シグルドが難しそうな表情をしたのは、あの少年の姿を脳裏に思い浮かべたからか。
少年の名はセツナ=カミヤ。《白き盾》のクオン=カミヤと同じ家名ではあるが、家族ではないらしい。が、その実力はクオン=カミヤに匹敵するといっても過言ではないのかもしれない。ガンディア軍が完勝できた最大の要因。レオンガンド王みずから切り札と称した彼は、事実、ジョーカーそのものであるといえた。体格からして普通の少年であったはずの彼は、凶悪な武装召喚師だったのだ。
一見すると、どこにでも居そうな――などというのは失礼だろうが――普通の少年だった。少なくとも、ルクスが抱いた第一印象はそうだった。武装召喚師と言われても信じられなかった。
武装召喚師とは、普通という枠を自力でねじ曲げ、あるいは破壊しているような連中のことなのだ。セツナの肉体は、そんな連中と同類にはとても見えないくらい貧相だった。
ファリア=ベルファリアのほうが余程戦士の体つきをしていたし、頼もしく見えた。いま考えれば失礼極まりないのだが。
(勘違い……か?)
自問に答えなどない。とはいえ、彼が戦慣れしていない素人なのは、戦場での一挙手一投足を見ていれば一目瞭然だった。故に違和感を抱く。
「あんな子供がねえ」
あんな素人が、膠着するはずだった戦局を一瞬にして塗り替えてしまった。まさに一瞬。紅蓮の猛火でログナーの先陣を焼き払ったのだ。ログナー側にして見れば、突然の嵐に見舞われたようなものだ。想定もしていなかった事態に違いない。それはガンディア軍も同じだったのだが、恐怖よりも勝機が、全軍の背を押した。
結果、ガンディアは大勝し、念願だった要塞の奪還に成功した。それもこれも、セツナという少年の規格外の働きがあったからだという結論には、だれも口を挟めまい。
彼は、もっと賞賛されてしかるべきだろう、ガンディア軍の損害を最小に抑えることができたのは、あのひとりの少年が、身も心も血塗れになりながら矛を振るい続けたからにほかならないのだ。
などと、ルクスが珍しく真面目に考えていると、
「初陣で十二人殺したガキはどこのどいつだっけ?」
シグルドが、経過報告でも尋ねるような口振りでジンにいった。
「そのガキは当時十二歳で、初陣ということで緊張していたはずです」
ジンはジンで、持ちうる情報の中から正確な答えを導き出すという至極模範的な反応を示した。
「十三人! たった十三人じゃないですか!」
ルクスは、しれっとした顔のふたりを見比べながら叫ぶようにいった。初陣で十三人の敵兵を血祭りに上げたのは事実だが、その戦いにおけるシグルドの戦果に比べれば、まったく以て他愛のないものだった。児戯といっていい。
当時無名の傭兵に過ぎなかったシグルド=フォリアーが、数多いる傭兵の中でも頭ひとつ飛び抜けているという印象を世間に与えたきっかけの戦いだった。
グアドラの猛将ウェダ=アリーディアを討ち取り、敵軍を総崩れさせたことで第一の功と評された。おかげでルクスの戦果は目立たず、仲間内でひっそりと賞賛されただけだった。
ルクスとしては、むしろそのほうがありがたかったのだが。
ヴェインという呪われた家名が広まり、《蒼き風》に災厄をもたらすような真似はしたくなかったのだ。それはきっと破滅を招くに違いないと思い込んでいた。
もっとも、《蒼き風》の活動拠点が南に移るに従って、彼はその考え方を改めていった。ヴェインの名を忌み嫌うヴァシュタリアの勢力圏から遠ざかるたびに、彼の家名はその意味を変えていったのだ。
ふと、白々しいとでも言いたげなふたりの視線に気付く。
「な、なんでそんな目で俺を見てるんですか!」
ルクスが信じられないという風に叫ぶと、シグルドたちはあきれたように顔を見合わせた。ふたり申し合わせたように言ってくる。
「たった十三人、という言葉が、おまえの異常性を示しているということに気づけ!」
「普通の十二歳の少年は十三人どころか一人も殺せませんよ。ましてや初陣なら緊張してまともに戦えるのかどうかも怪しい」
ふたりの言い分には首を傾げざるを得ない。ルクスの初陣における戦果は、確かに常人であれば信じられないような結果だ。しかし、彼は常人でありながら、常人とは一線を画す秘密があった。
「俺のあれは召喚武装のおかげですよ。グレイブストーン。これのおかげだってこと、忘れないでください」
ルクスは、背に帯びた長剣を示した。墓石の名を持つ血塗られた魔剣は、常人であった彼を殺戮兵器へと変貌させた。剣に秘められた力が、彼を生かした。
召喚武装は、人間を人外へと容易く変容させてしまう。持ち主の意志など関係なしに。
「でも、今じゃ木剣片手に百人抜きもちょろいもんだろ? 人間業じゃねえ」
「やーい、化け物化け物」
「ジンさん、あんた頭大丈夫ですか?」
「あんたいうな」
ジンが至極冷静に突っ込んできたところで、一連の愉快な流れは終了した。いつものように。
シグルドが、話を軌道修正する。
「で、そのセツナはどこだ? せっかく手に入れた戦力をみすみす遊ばせておくのはもったいないだろうに」
「聞いたところによると、彼は、リノンクレア王子妃御一行の帰国に同行していったらしいですよ」
ジンは、多少あきれ気味に告げた。どういう理由であきれたのか、ルクスにはわからなかった。
リノンクレア王子妃といえば、レオンガンド王の妹であり、かつては獅子姫と謳われるほどに勇猛で、有名だった。ガンディアの同盟国ルシオンの王子ハルベルク・レウス=ルシオンとの結婚後もその勇ましさは健在であり、先の戦いでも、白聖騎士隊長としてみずから部隊を率い、戦列に加わっていた。
そこまで考えて、ルクスは、ついさっきジンが言っていたことを理解した。レオンガンドが、大勝の余勢を駈ってログナーに侵攻しなかった理由について、だ。
あれほどの大勝は予定外であり、バルサー要塞を奪還できれば良しとする戦いだったというジンの発言は間違いないのではないか。ルシオン、ミオンとい同盟国からの援軍が要塞奪還後に帰国したことがそれを裏付けている。
最初からログナーに侵攻するつもりであれば、同盟二国の戦力を今しばらく借りていたに違いない。兵力は、多ければ多いほど良い。
子供でもわかる計算だ。
「おいおい、いくら道中の安全を確保しなければならないとはいえ、やりすぎじゃないか?」
確かに、解せない。
同盟国からの援軍を期待できない以上、先の戦闘で勝利を決定づけたセツナに頼らずしてだれに頼るというのか。まさか傭兵連中ではあるまい。
《蒼き風》ほど頼もしい傭兵集団もいないだろうが、セツナひとり――黒き矛ひとつの活躍には遠く及ばないのだ。ログナーを倒すつもりならば、彼を積極的に活用するべきであろう。
ルクスにさえわかるようなことだ。道理、とでもいうべきか。
「リノンクレア王子妃はレオンガンド陛下の妹君。過保護になるのも致し方ないとは思いますが、かといって、ガンディア最大の戦力ともいえる彼を同行させる意図はわかりませんね」
「ログナーの警戒を解くため……とか」
「確かに、黒き矛の彼がバルサー要塞にいないということが判明すれば、ログナーもこちらへの警戒を緩めるかもしれませんが……彼が居ないことによるガンディア側の損失の方が大きすぎます」
ジンの言うことはもっともだった。ルクスたち傭兵にして見れば、手柄を独り占めにするかもしれない彼の存在は厄介ではあったが、同時に、容易く勝利を得られるという点では有り難くもあった。
活躍による褒賞金の上乗せこそ期待できなくなるだろうが、労せずして契約金を貰えるのならこれほど楽なことはない。
ルクスたち傭兵は、体が資本だ。金を稼ぎ続けるためには、戦場に立ち続けなければならない。いかに大きな怪我をせず生き残るかが重要であり、戦場での活躍など二の次なのだ。敵軍の目を引くような活躍こそ、命を縮ませる。
つまり、セツナが黒き矛を以て蛮勇を振るってくれれは、それだけルクスたちの傭兵としての寿命が伸びるのだ。
もっとも、傭兵である以上、いつか敵対する可能性もあるにはあったが。それはあまり想像したくない。
今ならば、まだ、ルクスにも勝機はある。
彼は確かに悪鬼のようではあったが、こちらは剣鬼である。彼が直線的な攻めを見せる限りは、いくらでも対処できるだろう。が、彼が成長すればどうなるものか。
今でこそ矛に使われているという有り様だが、黒き矛を理解し、その力を思うままに使うようになったとき、セツナは誰の手にもつけられない化け物と成り果てるのではないか。
胸の内で頭を振る。将来のことなんとだれにもわからない、案外、彼は黒き矛を制御しきって見せるかもしれない。人の心を抱いたまま、あの破壊の権化のような異世界の存在を支配しうるのかもしれない。すべては可能性に過ぎないのだ。
「このまま戦いでも始めてみろ。先の戦いで勇猛果敢に突撃し、無傷の勝利を手にした精鋭の皆様方を失うことになるぞ」
シグルドの歯に衣着せぬ物言いは、時としてルクスすらもひやひやさせた。周囲にルクスたち以外の姿はない。だからといって油断してはならないのだ。言葉ひとつで無駄な恨みや妬みを買うなど、馬鹿げている。
「団長、皮肉がすぎるよ」
「はっ、俺はなにか間違ったことをいったか?」
「いってないから注意するんだよ。それに自尊心だけが取り柄の方々には端から期待してなかったでしょ?」
ガンディアの精兵は、精鋭というにはあまりに惰弱で、ルクスたちが揃って頭を抱えたくなるほどだった。今まで、よく持ったものだと考えざるを得ない。バルサー要塞を奪われたとはいえ、それすら半年前のことだ。先王が病に倒れて凡そ二十年。同盟国のおかげで守りを北方に集中できたというのもあるのだろうが、それにしてもよく国としての体裁を維持し続けることができたものだ。
あれだけの弱兵がどう戦えば、二十年もの間、領土を護り続けることができるのだろう。
攻めは弱く、護りは強い、とでも言うのだろうか。
世代が変わったんだよ――数日前、シグルドの言っていた言葉が正解なのかもしれない。
「まあな。おまえに弟子入りした連中になら、多少は期待してやってもいいが、な」
「弟子入りなんて大袈裟な。訓練に付き合ってやっただけだし」
彼らが志願してきたから、仕方なく相手をしてやったまでだ。師弟の関係でもなんでもない。ただ木剣片手に練習を繰り返しているだけで、特別な訓練など施そうとも思っていなかった。
もし、師弟の間柄ならば、もっと苛烈な訓練を強いただろう。それこそ、次の戦には出られないくらいに。
「そこがおまえの偉いところだな。あんな連中の訓練に付き合ったところで、なんの得にもならんのに……」
心の底から感心したようなシグルドの言い様に、ルクスはなぜか照れ臭くなった。そこまで感心されるようなことではない。
「損得だけじゃあ人生つまんないっす」
損か得かと言われれば、損の多い人生だと言わざるを得ないだろう。生まれながらにして呪われ、父に連れられてさすらうように居場所を点々としてきた。ようやく見つけた居場所が傭兵という因果な商売であり、これもまた得の多い稼業ではなかろう。
「損は少なく、得は多く――それが傭兵の流儀だが、確かにそれだけじゃあつまらんわな」
「団長が女に熱を入れるのと変わんないと思うな」
「ふん、だれが女に熱を入れたって?」
「あれ? 違うの?」
「俺は女に惚れない主義なんでね」
「えーっ!?」
ルクスは大袈裟に驚いたものの、本当に吃驚したわけではない。シグルドが女好きではないことくらい、知り合ってから三年も経たぬうちにわかったことだ。
団長は、本気で女を愛したことがないのではないか――《蒼き風》の団員たちの間で囁かれる噂は、必ずしも間違ってはいないのではないか。
女を連れ歩いているときのシグルドは、確かに楽しそうにしているのだが、その眼はいつも、笑っていなかった。
「じゃあ、女のために湯水のようにお金を使うのはなんで?」
「人の世なんてのは一夜の夢さ。ならよ、楽しまないと損だろ?」
「はは、団長らしいや。結局は損得の問題なんだ」
屈託なく笑うシグルドにルクスも自然と笑みをこぼした。シグルドという男は、一見すると厳しく見え、実際そういうところも多いにあるのだが、破顔すると、引き込まれるような愛嬌に満ちた表情になった。それはシグルド最大の美点というべきものであり、その点に関しては団員一同異論は出ないだろう。《蒼き風》に所属している傭兵の半数以上は、シグルドのそういった愛嬌に惚れて参加しているといっても過言ではなかった。
ルクスも、団長がシグルドであるからこそ、傭兵稼業に身をやつしている。もっとも、ほかに仕事があったわけではないが、何かしら生きていく術は見つかっただろう。入団当初は十二歳とあまりに幼く、選択肢は、今よりも多くあったはずだ。それを探そうともしなかっただけで。
ふと、ジンの居る辺りから不穏な空気を感じて、ルクスは息を潜めた。笑みを消し、そっとそちらを見る。禍々しく、邪悪な気配は、いつだって副団長から発せられるのだ。彼に自覚などはあるまい。そして、それを誰が責められようか。そうさせる原因を作ったものが悪いのだから。
「人生を楽しむのは結構ですが、金庫から金を持ち出すのだけは二度としないでくださいね?」
ジンは笑っていた。にこやかに、清々しいほどの笑顔。満面の笑みといっていい。常に仏頂面をしている副長が、である。知性的で、理性の塊のような男の鉄面皮が崩れた瞬間、そこに生まれるのはなんとも言いようのない恐怖の化身であり、おぞましいものだった。寒気さえ覚える。
人は怒りも度を越すと笑い出してしまうという、あれかもしれない。
「あ、ああ……わかった、わかったから、その笑顔はやめてくれ……」
シグルドが泣きそうになりながらジンに謝るのもまた、いつもの光景だった。
まるで蒼い風が吹いているような――そんな景色。
眺めているだけでつい笑ってしまう。そこに混ざれば、さらに満足感が得られる。素敵な世界。彼の心の拠り所。
居場所がどこであれ、二人がいる限りはいつもの光景が展開せざるを得ないのかもしれない。宮中であれ、陣中であれ、戦場であったとしても、そればっかりは変わりようがないのかもしれない。
だからこそ、ルクスはここにいるのだ。
シグルドとジンの居る場所に。
そこに蒼い風が吹く限りは、永遠に。