第八百十八話 シーラ(六)
「国家反逆罪の適用だと?」
「はい。王宮が我々を目障りな存在と認識している証拠でしょう」
ラーンハイルによれば、王宮は、タウラル要塞に集い、シーラ派を掲げるものたちに国家反逆罪を適用するといいはじめたというのだ。それつまり、王宮の警告に従い、タウラル要塞を出ないものたちは王家への反逆者として処分する、ということにほかならない。
「はっ……冗談じゃねえ」
シーラは、自分の置かれている立場が日に日に悪化していることに気づき、愕然とした。それもこれも、アバード国内における自分の人気が最大の要因だというのだから、笑えもしない。シーラに人気がなければ、このような状況にはならなかったということだ。そもそも、シーラに人望さえなければ、女王待望論など沸き起こるはずもなく、セイル派の連中も歯牙にもかけなかっただろう。
シーラ自身求めてもいなかったものが、彼女の首を絞めている。
「シーラ派など、さっさと解散しろ。解散してくれ」
シーラはいい、ラーンハイルもそのように手配したが、王宮の警告に従い、タウラル要塞を出るものはひとりもいなかった。双角将軍を始めとする軍人たちはおろか、貴族たちの中からもタウラルを出るものはいなかったのだ。むしろ、王宮のやり口を非難し、結束を高める始末だという。
「なんでだよ……! なんで、だれも俺を見放してくれないんだ」
シーラは、ラーンハイルの報告を聞いて、絶叫したものだった。シーラを見放してくれれば、それだけで解決するような問題ではないのか。だれひとりシーラを求めず、望まなければ、彼女は王都に帰り、王宮に戻ることができるのではないのか。元の生活に戻ることができるのではないのか。
「皆、姫様が好きなのです。姫様の窮状を見捨てて、自分たちだけが元の生活に戻ることなど、彼ら自身が許せないというのです」
「そういうのは、いつもなら嬉しいんだけどよ……この状況では喜べねえよ。なんで俺なんかのために反逆者になるんだよ……」
警告を発した以上、王宮はその通りに行動するだろう。タウラル要塞に集った将軍以下五千名の軍人、何百人の貴族たちが皆、アバード王家への反逆者という烙印が押されるのだ。それはつまり、アバードでの人生の終わりを示しているといっても過言ではない。彼らは、みずからの人生を台無しにするつもりなのだ。
「彼らの意見にも一理あります」
「なにが……」
「たとえ、彼らがこの地を去ったとしえ、姫様の境遇に変化はない、ということです」
「これ以上、悪化することもねえだろ」
「それも、わかりませんよ」
ラーンハイルの目は、いつものように穏やかで、口調も温和そのものだったが、だからこそ現実を認識させられるのかもしれない。
「姫様の人気が、人望が、アバードを二分するほどのものだとわかった以上、王宮も黙って見過ごしてはくれないでしょう。タウラルから兵力が失われれば、その追求はより激しく、苛烈なものになるかもしれません」
「……なんでなんだよ。なんで」
なぜ、自分がこんな目に合わなければならないのか。
シーラはここのところ、そればかり考えていた。なにが間違いで、なにが失敗だったのか。クルセルクで多大な戦果を上げたことか。アバードの領土を増やしたことか。連合軍に参加したことか。ガンディア王の結婚式に参加したことか。獣姫の二つ名で呼ばれるほどの活躍をしてきたことか。戦いの中に自分を見出したことか。王女になりきれなかったことか。王子なりきれなかったことか。両親の望みを叶えられなかったことか。女として生まれてしまったことか。
生まれてしまったことか。
シーラの絶望は、自己を否定するところにまで及んでいる。
四月九日。
シーラを取り巻く事態は、悪化するばかりだった。
シーラは、王宮が送りつけてきたという書簡に目を通して、目の前が暗転するのを認めた。なにもかもが暗黒の闇に落ちていくような感覚の中で、書簡が手から滑り落ちる。
(終わりだ。なにもかも、終わったんだ)
彼女は、絶望の中にいた。望みは絶たれた。王都に帰り、王宮に戻り、ただ平穏を味わいたいという小さな願いは、シーラの人気という彼女自身にはどうすることもできないものによって断たれてしまった。
「出頭命令……?」
書簡を拾ったのだろう。レナが、愕然とつぶやく声が聞こえた。
「どういうことです? 王都への帰還命令の間違いではないのですか?」
ウェリスがレナに詰め寄ったようだが、シーラには彼女たちの表情を見ているだけの余裕はなかった。全身から力が抜け、血の気が引いている。立っていることもままならないような状態で、足がふらついていた。崩れ落ちる。床に尻もちをついたのだが、痛みは感じなかった。それ以上の衝撃が、すべての感覚を麻痺させているかのようだった。
「姫様!?」
「だいじょうぶですか!?」
レナとウェリスが、シーラの両側を支えるが、彼女はなにも反応しなかった。反応できなかったというべきだろう。
王宮からの書簡には、レナのつぶやいた通り、シーラへの出頭命令が記されていた。帰還命令ではなく、出頭命令だ。タウラル要塞に籠もるだけで飽きたらず、反政府勢力を集め、反政府運動を扇動しているという噂がまことしやかに流れており、その釈明のために王宮に出頭せよ、というのが書簡の大意である。もちろん、そんな噂が流れているという情報もなければ、シーラが反政府勢力を集めているわけもない。
タウラルに集まった人々に反逆罪が適用されるという話も、いまのところ、実行に移された様子もない。要するに王宮の先の行動は、タウラルのシーラ派を解散させるための脅しでしかなかったのだ。
が、今回はそうではないだろう。
シーラは、絶望の中で認めた。出頭命令は、本物だ。公文書であり、王宮が正式に発行したものだという証明として、王印が押されていた。つまり、シーラの実の父親であるリセルグ王が認めた、ということだ。
「なるほど。王宮は、姫様に反乱の罪を着せ、公に処分することに思い至ったようですね」
「父上、なにを冷静に分析しているのですか」
「いつだって冷静に。それがわたくしの教えですよ、レナ」
「わかっております。わかっておりますが……」
「姫様の胸中を察すれば、感情的になりたくなるのもわからなくはありません。しかし、こういうときにこそ冷静さを見失ってはならないのです。冷静になれば、光明も見えてきましょう」
「光明……?」
シーラは、ゆっくりと顔を上げた。ラーンハイルが書簡を手にしたまま、レナと向き合っている様が見えた。よく似た親子だ。見た目だけでなく、性格も心根もよく似ている。シーラのために尽くしてくれるところまでそっくりだ。王都を離れてからこれまで、ふたりの存在にどれほど心が救われたのか、考えようもないほどだった。ふたりがいてくれたから、ふたりが常にシーラを支えてくれたから、彼女は今日まで自分を見失わずに済んだといってもよかった。
シーラは、タウラル親子に心の底から感謝していた。それでも、その意見のすべてを受け入れられるわけではない。
「光明なんてあるわけないだろ」
「姫様……」
レナが、憐憫の目でこちらを見ていた。いまにも泣き出しそうな表情は、鏡写しのように思えてならない。シーラも、きっとそんな顔をしているのだ。ゆっくりと立ち上がる。ウェリスが支えようとしてくれたが、断った。自分の足で立たなければならない。でなければ、決断などできない。
(決断……?)
胸中で頭を振る。これは逃避だ。現実に目を背ける行為にほかならない。しかし、彼女にはほかの道が見えなかった。
シーラは、疲れきっていた。
「出頭すれば、楽になれるかな」
「姫様、なにを仰られるのですか」
「もしかしたら、俺の話を聞いてくれるかもしれない」
「可能性としては皆無とはいいませんが、ありえないでしょう」
「わからないだろ、本当に、釈明の場を設けてくれただけかもしれないじゃないか」
シーラは、藁にもすがる思いで、いった。釈明する場さえ、機会さえあれば、自分が潔白であると胸を張っていえるだろう。シーラはこれまで、なんの罪も犯していない。それは彼女の記憶が都合よく捻じ曲げているわけでもなんでもない。小さな罪もだ。
タウラルに籠もっていることが罪だというのなら、仕方がないが。
「王都に行かせてくれ」
「姫様……」
「王都に」
シーラは、無意識に部屋の出入り口に向かっていた。着替えもしなければ、旅支度もしていない。着の身着のまま、王都に向かうつもりでいた。
「なりません」
シーラの進路に立ちはだかったのは、ウェリスだった。彼女は、両腕を広げて、壁にでもなったつもりのようだった。華奢な壁だ。シーラの膂力なら、意識せずに打ち壊せそうなほどにか弱い。だが、シーラは足を止めざるを得なかった。ウェリスには、敵わない。
「どうしておまえが止めるんだよ……おまえなら、真っ先に王命に従えっていうんじゃねえのかよ……」
「いつもなら、そうです。ですが、姫様の御命がかかっているのなら、話は別です」
ウェリスが、決然たる表情でシーラを見据えていた。強い意志、覚悟がそこにはあった。
「わたくし、ウェリス=クイードは、姫様を立派な女性に育て上げなければならないのです。それこそ、陛下に与えられた使命なのですから。陛下からの使命は、なによりも優先するべきこと」
「なにをいまさら……俺は立派な女性にはなれなかった、それだけのことだろ」
男として育てられたのだ。この八年で女性らしい挙措動作を身につけられただけでも御の字ではないか、と思わないではない。
いまさら女性らしく生きるには、男らしく生きていた時間が長すぎた。もちろん、これからその時間は逆転していく可能性もある。が、そのためにも生きなければならない。王女として生きるには、王都に戻り、王宮に釈明し、無実を認められなければならないのだ。
なによりも王都への帰還を優先しなければならない。
「いいえ。姫様には、立派な女性になっていただきます。アバードが世界に誇れるような、気品と優雅さを併せ持つ最高の女性に、なっていただかなければならないのです」
「それは……王都に戻ってからでいいだろ」
「駄目です。いま王都に戻れば、王子殿下派の貴族たちの思い通りにされるだけです。彼らがなにを考えているのかくらい、わたくしにもわかります。彼らは姫様を亡きものにしようとするでしょう」
「ウェリス……」
シーラは、ウェリスの熱意に当てられ、言葉を失った。彼女のいうことのほうが正しいように思えるのは、シーラ自身、そう考えていたからでもある。王都に戻れば、釈明の機会が設けられるだろうというのは希望的観測以外のなにものでもない。いままで王宮が取ってきた行動を考えればわかることだ。
釈明のために出頭を命じるのならば、シーラたちが最初に王都に帰還したときに命じたはずだ。つまり、最初は、ただ王都から排除することだけしか考えていなかったということだ。タウラルに人々が集まり、世間がシーラへの同情を強めたことで、看過できなくなったのだろう。王宮は、シーラを排除する方法を考え続けた。
その結果が、王都への出頭命令だと考えれば、辻褄が合う。
「姫様、どうか、考えなおしてくださいませ。わたくしとともに最高の女性を目指すためにも、ここは、王宮の出頭命令には従わないでください」
「ウェリス様のいう通りです。姫様が王都に出向く必要などありません。釈明が必要だというのなら、向こうからタウラルに訪れるべきです。姫様にもタウラルにも、やましいことなどなにひとつ存在しないのですから」
レナもまた、力強くいってきた。タウラル領伯の娘であるという誇りと気高さが、その言葉に現れている。
「レナ……」
「それに、姫様がいくら王都に向かいたいと仰られましても、馬がなければどうにもならないでしょう?」
レナが微笑して、ラーンハイルを一瞥した。
「タウラルに王都行きの馬はございません。ねえ、父上?」
「レナの言う通りにございます。我がタウラルの王都行きの馬は、数日前から出払っておりまして、帰還の目処も立っておりません」
「ラーンハイル……おまえまで……」
もちろん、ただの方便だということくらい、シーラにもわかっている。ラーンハイルの兵が王都とタウラルを常に行き来していることも知っている。王都の情報を得るには、王都に近づくのが一番だ。もっともタウラル伯の私兵だということがわかると王都への進入もままらないため、進入する際は偽装しているようだが。いずれにせよ、王都行きの馬がないというのは紛れも無い嘘であり、シーラを引き止めるためだけの言葉にすぎない。
しかし、だからこそ、シーラは考えを改めざるをえないのだ。
「わかったよ……俺の負けだ」
シーラが告げると、ウェリスとレナの表情が途端に明るくなった。
「俺は王都には向かわない」
「そうですよ、それでいいんです。姫様には生きていて貰わないと。いつかだれもが羨むような女性になっていただくのですから」
「そのときは、是非、わたくしに詩を書かせてくださいませ」
「ええ、是非……」
なにやら分かり合っているふたりを横目に、シーラは頭を掻いて、ラーンハイルを見上げた。
「これでいいのかな?」
「いいのです。これで。我々は、いままで散々姫様に頼ってきたのです。今度は、我々が姫様に頼られる番です。我々にできることなどたかが知れていますが、それでも、姫様の人生を終わらせるようなことは、決していたしませんよ」
ラーンハイル・ラーズ=タウラルの言葉ほど心強いものはなかった。