第八百十六話 シーラ(四)
結局、王宮でなにが起こったのかはわからないまま、シーラはタウラル要塞に匿われることになった。
わかったこともある。わからなかったのは事の真相であり、状況そのものは輪郭を帯び、シーラに現実を突きつけてきていた。
(現実………か)
王宮内の派閥争いの激化が、シーラの王都への帰還を阻んだのだ。そして、派閥争いの悪化を招いたのは、国を想い、クルセルク戦争を戦い抜いたシーラの活躍だというのだから、皮肉にしても出来過ぎている。シーラはただひたすらにアバードの将来を想い、行動しただけのことだ。国王である父親の命令に従い、ガンディア国王レオンガンド・レイ=ガンディアとレマニフラの姫君ナージュ・ジール=レマニフラの婚儀に参加したのも、ガンディアが中心となって発足した連合軍への参加を決めたのも、クルセルクという強大な敵と戦ったのも、すべて、祖国のことを思えばこそだ。
アバードへの愛国心だけが、彼女を突き動かした。
だが、シーラのそういった行動が国民的人気を高め、シーラ女王待望論なるものに火を点けてしまったというのだ。熱に浮かされた人々には、シーラが王位継承権を放棄したという事実すら、たいした障害にはならないらしい。
(馬鹿馬鹿しい)
といって笑い捨てることができれば、どれほど気楽なのか。
まったくもって笑っていられる状況ではなかった。憂慮している場合でもない。かといって、なんらかの行動を起こせるわけもない。ただ、事態の終息を待つよりほかはないのだが、待っているうちに状況が悪化する可能性も低くはなかった。王宮からシーラ派貴族が完全に排除され、セイル派による支配が完全なものとなれば、もしかすると、彼女の王都帰還も認められるかもしれない。
(それは楽観的にすぎるな……)
シーラは、寝台の上で寝返りと打った。
不意にレナのことを考える。レナ=タウラル。同い年ということもあって、シーラの遊び相手に選ばれた彼女は、子供の頃からずっとシーラの側にいた。シーラが王子から王女となったとき、ようやくレナは自分の人生の歩むことになったのだ。それまではずっと側にいた。まるで半身のように、互いに分かり合っていた。心が通じ合う間柄だったのだ。
妙な甘酸っぱさを感じるのは、そういう想い出もあるからだ。
王宮の話が終わって、シーラがレナに礼をいうと、レナは当然のことだといった。自分がシーラのために尽くすのは、生まれた時から決まっていたことなのだ、とまでいいきった。レナの透明なまなざしは、子供の頃からなにひとつ変わっていなかった。
「この生命は、姫様のものと思召ください」
「いくらなんでも言い過ぎじゃねえか?」
「いえ。言い過ぎなどではございませぬ。わたくしのいまがあるのは、すべて、姫様のおかげにございます」
レナは、シーラの手を取ると、両手で包み込んだ。目を閉じ、まるでシーラの体温を感じ取るかのような姿は、女神のように美しく、神々しいとまでいってよかった。補正がかかっている。シーラは、レナに救われたといっても過言ではない状況下にあるのだ。レナのやることなすこと、輝いて見えた。
「俺、なにかしたかな?」
「姫様のお側にいることができたあの日々が、わたくしのいまを作り上げたのです」
「……楽しかったなあ」
「……はい。楽しゅうございました」
「あのころの俺は王子でさ、おまえは俺にとっては護るべき姫みたいなものだった」
物心ついたとき、シーラは自分のことを男だと思い込んでいた。そう思い込むように育てられたからだったし、周囲の人間も、シーラを男として接した。レナは可憐な少女であり、だから、護るのはシーラの役割だった。彼女を護るために強くなるべきだと想った。
「あの日々が続けば、どれほど良かったことか……」
「幸せではあっただろうな」
シーラは、レナの想いを否定しなかった。偽りの王子から解き放たれた直後のシーラは、苦しみの連続だった。自分というものを根本から否定されたのだ。混乱が起き、未来さえも見失ってしまった。一時は生きる希望さえも持てなくなったものだが、父の愛と弟の無垢な目を見ているうちに新たな人生と向き合うことができるようになった。
それからの人生は、決して悪いものではなかった。
女らしく振る舞うことはできないままだったが、様々な出会いがあり、戦いの中に自分を見出すことができた。
「けどまあ、いまも幸せだよ、俺はさ」
王宮に戻ることさえできれば、その幸せな日々を取り戻すことができると信じている。父と母と弟と、再び笑顔で食事をし、語らい合うこともできるはずだ。
その夜、シーラは、眠ることもままならず、意識が途切れるまでレナと話し合った。
「姫様、よろしいですか?」
「ラーンハイルか。どうした?」
タウラル要塞の主であるラーンハイル・ラーズ=タウラルがシーラの部屋を訪れたのは、翌々日の正午のことだった。
四月三日。アバード国内は大騒ぎになっているという情報が、シーラに嫌な胸騒ぎを感じさせていた。ラーンハイルのいつもと変わらない温和な風貌は、そのような心理状況では、とてつもなく頼りになった。
「現在、タウラル領内に、姫様派と思しき貴族、軍人が集って来ているのですが、御存知でしょうか?」
「それはレナに聞いたよ。まったく物好きな連中だ。いまこの状況で俺に近づくなんてよ」
「それだけ姫様に人望があるってことですよ」
ウェリスが声を励ましていってきた。実際、彼女はシーラを激励しているのだ。昨夜からずっとこの調子だった。まるでそれが自分の役割であるかのようにだ。ウェリスとレナが同じ空間に揃うと、自分が超人なのではないかと勘違いするほど持ち上げられてしまうのが困りものだった。要するにふたりは、シーラの沈みかけていた心を掬いあげてくれたのだ。
ウェリスは、シーラの侍女団の中でも特別な立ち位置にいた。戦闘要員ではないという時点で、ほかの侍女とは毛色の違う人物だった。シーラは、自分の侍女には、多少でも戦える人間しか選ばなかった。侍女の中には傭兵上がりのものもいたし、ただ腕っ節が強いだけの庶民もいる。要するに、シーラ独自の戦闘集団が、侍女団なのだ。ウェリスは、そんな戦闘集団にあって、一輪の花のようなものだった。彼女だけはシーラが選び抜いたわけではなかった。シーラの両親が、シーラに女性らしさを植え付けるために寄越した人物だったのだ。彼女のおかげでシーラは女性らしい挙措動作を覚えることができたものの、十四年もの間、男として振舞ってきた体に馴染むことはなさそうだった。
「アバード軍獣戦団の各団長はいわずもがなですが、双角将軍ガラン=シドール閣下までも、姫様の傘下に加わると仰られておいでです。センティアのキーン=ウィンドウ様や、シドニア傭兵団の方々も、姫様の窮状を知り、駆けつけてくださりました」
(窮状……?)
シーラは、ラーンハイルの言い様に、疑問を抱くしかなかった。
確かに窮状ではあるのかもしれないが、かといって、だれも助けを求めてなどいないのだ。だれひとりとして及びではない。むしろ、迷惑でさえあった。アバード軍獣戦団(翼獣戦団、爪獣戦団、牙獣戦団の三軍団の総称)は、クルセルク戦争をともに戦い抜いたという経緯があるから、行動をともにすることに対しても迷惑を感じることはなかった。が、本来ならば、彼らでさえ、タウラルに連れて来るべきではないと思っていた。彼らだけならば王都に入ることもできただろうし、アバード軍としての責務を全うすることもできたはずだ。しかし、彼らはなぜかシーラと運命をともにする道を選び、タウラルまでついてきてしまった。そうなった以上、シーラは彼らの想いを受け止めるしかないと覚悟を決めたものの、それ以外の貴族や軍人、無関係な傭兵たちに関しては、迷惑としか思えなかった。
シーラが王都に入れなかったのは、シーラ派とセイル派の派閥争いが悪化したことが一因なのだ。そういう状況下で、アバード軍の双璧をなす双角将軍や、王都での居住権を与えられていた傭兵団がシーラの元に訪れ、他の貴族や軍人たちとともにシーラへの同情を明らかにし、王宮に対して意見するというのは、必ずしもいい兆候とはいえなかった。
王宮に悪感情を与えるのは、目に見えている。
窮状を作っているのは、このタウラルに集いつつあるシーラ派のものたちではないのか。