第八百十二話 ある夢の終わりについて(四)
「ここの警備、少々厳重すぎやしないか? 潜りこむのに苦労したんだぜ」
シーラ・レーウェ=アバードは、あっけらかんとした口調で、そんなことをいってきた。
セツナたちは、事情を飲み込めないまま、彼女が目の前にいるという現実を受け入れ、それでもどうすればいいのかわからないまま、顔を見合わせて、再び彼女を見た。そして情報部の報告書に目線を落とし、もう一度内容を確認する。シーラ・レーウェ=アバードが処刑されたと記されていることに変化はない。見間違いでもなければ、聞き間違いでもないということだ。
「死んだんじゃ……」
「ないんですか……?」
だれとはなしに問いかけると、彼女は、困ったような顔をした。それから、少しだけ笑う。いまにも泣き出しそうなほどに哀しい微笑は、自嘲的で、なにもかもを諦めたかのような気配があった。絶望とは違うが、救いのなさという意味では、近いのかもしれない。彼女が口を開き、紡いだのは肯定の言葉だ。
「ああ、死んだよ、きっとな」
「きっと? どういうことですか?」
「俺のアバードでの人生は終わったってことさ」
彼女は、手近にあった椅子を引き寄せると、腰を下ろした。長い髪が揺れる。
「あんたたちが話していた通り、シーラ・レーウェ=アバードは処刑されたんだよ。王都バンドールでな。だから、いまここにいるこの俺は、シーラ・レーウェ=アバードじゃねえってことだ」
「でも、生きていますよね?」
レムが念を押すように尋ねたのは、彼女自身の境遇があるからだろう。自分と同じように、死んだにもかかわらず、なんらかの方法によって蘇ったという可能性も皆無ではない。そういえば、ザルワーン戦争の最終決戦である征竜野の戦いでは、死んだザルワーン兵が動き出し、襲いかかってきたという。
蘇生薬と呼ばれる人間を不死者に変える薬は、オリアン=リバイエンが外法によって作り出したものだということまで判明している。作成方法は不明であり、再現は不可能だ。しかし、現在所在が掴めていないオリアン=リバイエンならば容易に作り出すことができるだろうし、量産も可能なのかもしれない。
もっとも、蘇生薬がクルセルク戦争に投入されなかったことから、蘇生薬の作成は極めて困難であると判断されている。あるいは、皇魔には蘇生薬が効かなかっただけかもしれないが。
いずれにせよ、彼女が蘇生薬のようなもので蘇ったという可能性は、彼女の発言で否定された。
「ああ、俺は生きてるぜ。触ってみるか? 実体の有無を信じられないってんならな」
シーラが皮肉げに笑うと、唐突にレムが席を立った。セツナが声をかける間もないほどの速度でシーラに近寄り、
「では、失礼して」
豊かな胸を揉んだ。おもむろに、しかし鮮やかに、もみしだいた。
「っておい、どこ触ってんだよ!?」
シーラが顔を真赤にして抗議したが、レムは、まったく気にしていないようだった。それどころか、シーラの胸を揉んだ両手を見下ろしながら、呪詛のようにつぶやくのだ。
「大きい……柔らかい……羨ましい……憎たらしい……」
彼女の成長は十年以上前に止まったままだ。胸が大きくないのは仕方のないことだったし、彼女もそれを理解してはいるのだろうが。
「レム……あんたねえ……」
マリアがあきれると、その隣のエミルがテーブルに身を乗り出した。
「わ、わかります、その気持ち……!」
「いや、エミルはいまのままで十分だよ」
「でもでも、ルウファさん、胸の大きいひとばかり見てるじゃないですか」
「それは目の保養であって……」
「それじゃあわたしの胸じゃ、だめだってことじゃないですか!」
「や、そうじゃなくて」
「……なんかもう、なにもかも台無しだな」
痴話喧嘩を始めたふたりを見やりながら、シーラは憮然とした。
「すまない」
セツナは、彼女の心情を察して、すぐさま謝罪した。レムを一瞥する。レムが即座にエミルとルウファの仲裁に入る。ただ謝っているだけのルウファはともかく、憤慨していたエミルも、レムの仲裁には従わざるをえなかった。レムの行動には、基本的にはセツナの意思が及んでいる。《獅子の尾》の隊長命令も同然なのだ。隊に属している以上、従うべきだった。もっとも、隊に属していないとしても、領伯の言葉に従わないわけにはいかないのだが。
ここ龍府は、セツナの領地なのだ。
この場においてはセツナこそが最高権力者といってもよかった。
「いや、セツナ様が悪いわけじゃねえ」
「様って」
「様だろ。いまの俺はただのシーラだぜ。王女でもなんでもなくなっちまったんだよ。俺は」
それでも口調そのものを変えない辺り、シーラのシーラたるところは変わっていないのだろう。そして、それが不愉快に感じないのは、彼女の人徳のなすところだ。単純に、好意の問題かもしれないし、それも否定しないのだが。
セツナは、シーラのさっぱりしたところが嫌いではない。
「王女ではなくなった……か」
「ああそうさ。王女シーラは王都で処刑されたからな」
「いったいどういうことなの? シーラ姫は処刑されたのに、なんでシーラ姫がここにいるのよ?」
ミリュウが混乱気味にいったのは、あまり寝ていなくて頭が回らないこともあるだろうが、シーラが説明してくれないこともある。シーラの話だけでは、なにがなんだかよくわからない。彼女が生きていて、実体を持っているということはわかるのだが。
「聞くか? 話せば長くなるぞ」
「その話は、シーラ様がここにいる理由に繋がるんですよね?」
ファリアが尋ねると、シーラがうなずいた。
「ああ。けど、様はもういらねえ。俺はただのシーラさ」
「では、拘束いたしませんと」
エミルとルウファの仲裁を終えたレムが、シーラににじり寄る。レムの行動は、ある意味では正しかった。しかし、ある意味では間違っている。拘束するべきは、シーラが一般人であると明言したいまではない。彼女が突如として姿を表した瞬間であるはずだ。でなければ、シーラがセツナたちに襲いかかる機会を与えることになる。そして、その機会はあった。つまるところ、レムは護衛の役割を果たせなかったということになるが、一方で彼女が主であるセツナの意思を汲み取り、シーラを捕縛しなかったということも考えられる。いや、その可能性のほうが遥かに高いだろう。その上、シーラならばどのような暴挙にでたとしても、セツナを守り抜けると判断したかもしれなかった。
「そりゃそうだけど、その手はなんだよ」
「まずは胸を調べさせていただきます」
「あのなあ」
シーラはレムの執念に呆れたようだった。レムの言動も空気をぶち壊してしまっているのだが、いまさらどうでもよくなったのかもしれない。
「レム」
「はい?」
「拘束するかどうかは話を聞いてからだ」
「残念です」
「残念がるなよ。で、話はここでするか? 食事の場でするような話じゃないんだが」
「いや、場所を移そう」
セツナは、食堂を見回しながらいった。もちろん、拘束するつもりは端からない。が、そうでもいわないとレムがいうことを聞いてくれなさそうだった。妙な執念が彼女を燃やしている。
「ここは人目につくかもしれない」
龍府がセツナの領地となり、天輪宮もセツナの所有物となり、その上紫龍殿の食堂は現在、《獅子の尾》以外立ち入り禁止となっている。しかし、それでもどこに目があり、どこに耳があるのかわかったものではない。
シーラが処刑されたと公表されている以上、彼女の存在は、当面、秘密にしておく必要があるはずだ。
「どこから話せばいいのかやら……」
シーラは、視線を虚空に彷徨わせていた。
場所は、紫龍殿の食堂から泰霊殿の一室に移動している。泰霊殿は、天輪宮の中枢といってもいい建物であり、ザルワーン時代、許可がなければ国主以外の立ち入りが禁じられていた建物としても知られている。五竜氏族リバイエン家の令嬢であるミリュウでさえ、泰霊殿に上がり込んだ記憶がないほどだ。天輪宮自体、簡単に入れない建物だというのだが、中でも泰霊殿の警備は羽虫一匹入れないほど厳重だったという。
権威的な建物なのだ。
となれば、領伯の屋敷としては申し分ないということもあり、セツナは、龍府滞在中、泰霊殿で寝泊まりするようにいわれていた。
泰霊殿の外観も内装もザルワーン時代から大きく変わってはいない。もちろん、ザルワーンの支配を象徴するような装飾は取り除かれ、代わりにガンディアの支配を明らかにするような装飾が配置されている。国旗や紋章などがそうだ。各所に設置された魔晶灯も、ザルワーンの龍ではなく、ガンディアの獅子に置き換わっている。龍の都が獅子に乗っ取られているのだ。
『これじゃあせっかくの龍府もかたなしね』
ミリュウが嗤ったものだ。
『いい気味だわ』
彼女にしてみれば、龍府というザルワーンの象徴とでもいうべき都など、ガンディアの色に蹂躙されたとしても、なんら惜しくないのかもしれない。むしろ、龍府が根本から変わってしまうほうが、彼女にとってはいいことなのだ。
そう認識したセツナは、魔龍窟の存在を抹消するべきだと考え始めていた。龍府がセツナの領地となった以上、都市をどう作り変えようとも、だれも文句はいえないだろう。古都の景観が破壊されたとしてもだ。もちろん、地下にある魔龍窟を消し去ったところで、龍府の景観が崩れることはないし、だれに迷惑がかかることもないのだが。
それに、セツナとしても、龍府の美しい町並みを破壊するような真似はしたくないし、景観を台無しにするような人間を龍府の住民として認めるつもりもなかった。古都の景観を護る。それがセツナの領伯としての宣言であり、龍府の住民に拍手と歓声でもって受け入れられた発言でもあった。ガンディア従来の政策を継続するというだけのことなのだが、セツナは若く、なにをするかわからないといったところがある。龍府住民が不安を抱くのも無理は無いし、そういう不安を払拭するためにも言動で示さなければならないのが、領伯という立場だった。
とはいえ、泰霊殿の内装の変化は許容範囲だろう。外観は変わっていないのだ。龍の意匠が素晴らしい、絢爛豪華な宮殿のままだ。龍の彫像を獅子の彫像に変えるような真似にも出ていなかった。変わったのは、内装のごく一部だけだ。
そんな泰霊殿は現在、領伯と従者、特別に許可を得た人間以外の立ち入りが禁じられている。これは、セツナがシーラの存在を秘匿しておくためにとった暫定的な処置であったが、不審に思われるわけにもいかないため、龍府の領伯となった以上、龍府の伝統を重んじなければならないと言い訳し、司政官や役人たちに周知徹底させた。幸い、ガンディアの元からの方針が、その地方の風習や伝統を重んじるというものであったため、特に怪しまれることはなかった。食堂からの移動の際は、シーラにはその特徴的な白髪を隠してもらうことになったが、それだけでどこのだれなのかわからなくなった。庶民的な服装ではあったのだ。シーラを一目見たことがあるものでも、すぐにはわからないだろう。もっとも、ハートオブビーストを握っているだけで正体がばれるかもしれないため、移動中はセツナが手にしていた。黒き矛を見たことがないものは、ハートオブビーストを黒き矛と誤認してくれたかもしれないし、観賞用の武器でも手に入れたとでも思ったかもしれない。いずれにせよ、ハートオブビーストと獣姫を隠蔽することには成功したようだった。
セツナの個室は、広い。国主の間ではなく、別の部屋を彼個人の部屋として利用しているのだが、それにしても広いの一言に尽きた。八人と一匹が室内に入っても、狭苦しく感じるどころか、空間の広がりを認識出来るだけの広さがあった。《獅子の尾》隊舎の広間程度はあるだろうか。
床には赤い絨毯が敷かれ、獅子を模した魔晶灯が室内の各所に設置されている。大きなテーブルと椅子、長椅子の類があり、仕事用の机や書棚、調度品が室内を飾っている。それだけの物が置かれていても、まったく狭く感じなかった。泰霊殿二階の三分の一を占めているのだ。広いのは当然だろう。
その広い空間でひとり孤独を抱えているのが、シーラだった。
セツナたち《獅子の尾》の面々は、椅子に座った彼女を取り囲むように、思い思いの場所に腰を下ろしている。シーラの対面にセツナがいて、セツナの左隣にミリュウ、右隣にファリアが座っている。レムはシーラの背後を取っており、彼女の行動を監視しているとでもいうかのようだ。マリアは窓際の長椅子に腰掛け、彼女の太ももの上ではニーウェがくつろいでいる。エミルとルウファもその長椅子にいた。
午前八時。
食堂から移動して、十分も経っていない。当然のことだが、皆、食事は済ませていた。シーラが生きていたことで食欲が復活したのには、セツナは我ながら現金なものだと思わないではなかったが。シーラも、ゲインの料理をお腹いっぱい食べた。久々に腹を満たせたという彼女の発言は、ここのところまともに食事にありつけなかったとも取れた。よく見ると、やつれているように見えたのは、彼女が食事にがっついていることが印象に残ったからかもしれない。
「最初から、話してくれ」
セツナがいうと、シーラは少し困ったような顔をした。
「その最初がさ、どこかなーって」
「問題が起きた辺りからだな」
「問題、ねえ……そうなると、クルセルク戦争が終わって、連合軍が解散されてから話そうか。本当に長くなるけど、いいんだな?」
「ああ」
セツナは、シーラの目を見つめながらうなずいた。彼女は、こちらを見返しながら、照れくさそうにした。なぜかはわからない。
「……なんていうか、優しいよな、セツナってさ」
「なんだよ、急に」
セツナは、唐突にそんなことを言い出したシーラの思考が読めず、憮然とした。横からミリュウが口を挟んでくる。
「そうよ、セツナが女に甘いのは今に始まったことじゃないわよ」
「本当よね。セツナってば女性には甘々なんだから」
「殺されかけても、すぐに許しておられますし」
「それも、二度ね」
ファリアが、呆れ返りながらレムの言葉を補足した。
これにはセツナには反論の余地もなかった。
一度目はエレニア=ディフォンのことで、二度目というのはレムのことに違いない。エレニアはともかく、レムはセツナに直接手を下したわけではないが、彼女が原因で殺されかけたのは事実だ。もっとも、あのときのレムの行動がクレイグ・ゼム=ミドナスに操られていたからだということは、《獅子の尾》の隊士には話してある。でなければ、ともに行動することなどできまい。
シーラが笑みを見せた。
「女には甘い……か」
「そうよ、激甘よ」
ミリュウが憤慨しているのは、セツナに対してだ。顔に突き刺さる視線が痛く、セツナはミリュウの表情を盗み見ることさえ諦めざるを得なかった。ファリアもだ。ふたりしてセツナを責めている。いや、責めているわけではないのだろうが、結果的にそうなっているのだ。一方、レムの視線は平和なものだ。
彼女は、微笑ましい光景でも見ているかのように、こちらを眺めていた。
(それもどうなんだ)
と思わないではなかったが。
「俺も女として認識されてるってことか」
「そういうことよ。だからって、変に意識しないでね。セツナはあたしのだから」
「心配すんな。意識なんてしてねえから」
シーラはそう言い返したものの、ミリュウは彼女の言葉を信用していないようだった。ミリュウのシーラを見る目は、ある種の敵を見るまなざしそのものだ。つまるところ、恋敵というべきなのだろうか。
ミリュウはセツナに近づく人間を、まず、敵として認識するところがある。男でもだ。しかし、男ならばその敵意すぐさま隠すのだが、女に対しては隠そうともしなかった。女がセツナに対してわずかでも媚態を見せると、敵意は瞬時に強烈な刃となるのだが、問題を起こせばセツナ自体に迷惑がかかると知っていることもあって、彼女が事件を起こしたようなことはなかった。
女にぶつけられなかった鬱憤は、大抵、女がいなくなったあとにセツナに甘える事で解消される、らしい。
そんなミリュウだ。シーラに対しても敵対心を全開にしているものの、問題になるような行動を取る心配はなさそうだ。シーラがかつてのレムのように敵対的な言動をしなければ、の話だが。
「それじゃあ、話そうか」
シーラは、室内が落ち着いてから、口を開いた。