第八百十一話 ある夢の終わりについて(三)
「……なんともいいようがないな」
セツナがため息とともにつぶやいたのは、ガンディア軍情報部が作成した報告書に目を通してからだった。
ファリアは伝え聞いただけの情報を文書化したのがこの報告書であり、この報告書の文言はアバード政府の発表に基づくものだということだった。情報部は、当然、アバード国内にも諜報員を送り込んでいるのだが、シーラが王都への受け入れを拒絶されたという情報以来、連絡が取れなくなったのだという。アバードによる徹底的な情報封鎖の一貫だというのが、情報部ミース=サイレンの話だった。
ミース=サイレンといえば、御前試合への出場を果たした人物だ。一回戦でグラード=クライドに負けたようだが、それなりの剣の腕前を持っているのは確かなようだ。彼女は、セツナへの報告は緊張するから、という理由でレムに報告書を手渡し、必要な情報もレムに伝えている。
「あの姫様がね……」
ミリュウも同様の文書に目を通しながらつぶやいた。食事も喉を通らないといった様子だ。
セツナたちはいま、紫龍殿の食堂にいる。ファリア、ミリュウ、レムだけでなく、ルウファ、エミル、マリア、それにニーウェの姿もあった。厨房にいるゲイン=リジュールを除けば、勢揃いといったところだろう。
広いテーブルの上には、本来ならば食欲をそそるような色とりどりの料理が並んでいる。朝から豪勢な料理だと思わないではなかったが、ゲインのことだ。起きたばかりの体にきつい料理は作っていないのだろうが。
残念ながら、セツナはいま、なにも食べる気になれなかった。せっかく《獅子の尾》専属の調理人が昨夜のうちから仕込んでくれていたというのに、だ。
それもこれも、今朝飛び込んできた情報が衝撃的に過ぎたのだ。
アバード王女シーラの反乱と処刑。
これがまったく見知らぬ国の見知らぬ王女の話ならば、気にすることもなかったのだろうが、シーラは、つい最近まで戦場をともにしていた人物だ。その人柄にも触れていたし、なにより、セツナに好意を抱いてくれていたのだ。その彼女が死んだ。しかも、国に反旗を翻し、内乱を起こそうとした末にだ。
衝撃を受けないほうがどうかしている。
「姫様、王位に拘っている様子はなかったと思うのだけれど」
「むしろ、いまの立場を楽しんでおられるようでございましたのに」
ファリアとレムも、料理に手を付けていなかった。ぼんやりと、虚空に視線をさまよわせている。そんな中、ゲインの手料理に舌鼓を打つ女性がひとりだけ、いる。
マリア=スコールだ。
「戦争が終わって、気持ちが変わったのかもしれないよ。姫様の評価は高かったし、姫様の活躍もあってアバードが領土を拡大したのは間違いないんだ。気が変わったておかしかないさ」
「そうだな……」
マリアの考えも理解できないわけではない。むしろ、そう考えるのが正しいのだろう。シーラは確かにファリアのいうように王位継承に拘っているようには見えなかったし、レムのいうように、現状を楽しんでいるように見えたのだが、それもまた、一方的な見方に過ぎないのだ。シーラの本心を聞いたわけでも、彼女の頭のなかを覗いたわけでもない。シーラの本心は、シーラにしかわからないのだ。
「あんたたちも食べなよ、美味しいよ」
「こんな状況でよく食べられますね……」
「こんな状況っていうけどね、他国のことさ。あたしたちにゃあ関係ないよ」
「それもそうですけど」
「そうだな。先生のいうとおりだ。いうとおりだよ」
セツナは自分に言い聞かせながら、手元においていた銀の箸を手に取った。エミルが不思議そうな目で、セツナの箸を見ている。セツナが食事のさい、銀の箸を使うのは見慣れた光景だったはずだが、それでも不思議なのだろう。
銀の箸は、自分用に作らせたものであり、常に持ち歩いている。予備を含めて複数本作らせたのだが、そのうちのひとつをミリュウが使っている。セツナの記憶を垣間見た彼女にとっても馴染み深いものであり、彼女が箸の使い方を我がものとするまでに時間はかからなかった。もっとも、《獅子の尾》の他の隊士に普及することはないようだが。
「シーラ姫がどうなろうと、俺たちには関係がない」
むしろ、セツナたちがシーラのことで騒げば、ガンディアとアバードの関係がこじれる可能性さえある。セツナがただの一般人なら、いくら騒いでも問題になりようもないのだが、そうではない。セツナは、ガンディアを代表する領伯のひとりであり、ガンディアの英雄とまでいわれることがあるほどだ。安易に他国の内情に首を突っ込むような発言をするわけにはいかない。もちろん、食堂での会話にそこまで気を使う必要もないが。
どこからともなく不服の声が聞こえてくる。
「まあ、そりゃそうだけどよ、ちょっと冷たかないか?」
「仕方がないだろ。俺だって、できることならなんだってしてやりたい。やりたかったけど」
「へえ、なんだってしてくれんのか」
「俺にできることなら、な……」
セツナは、そういってから、はたと気づいた。テーブルを囲む自分以外の仲間たちの表情が、驚きのあまりの間の抜けたものになっていた。それこそ、他人には見せられないような表情で、セツナの背後を見ている。
セツナは、おそるおそる背後を振り返った。そこに立っていたのは、ひとりの女性だ。腰まで届くような真っ白な髪に強気な目は碧玉のような虹彩が浮かんでいる。セツナと同じくらいの背丈で、庶民的な衣服では隠し切れない気品が漂っていた。そして、手には複雑な装飾が施された斧槍が握られている。
「シーラ姫!?」
「よっ」
白昼に幽霊を見た以上の衝撃に、彼は、頭の中が真っ白になるのを認めた。
アバード王都バンドール。
シーラ・レーウェ=アバードの処刑以来、王都は静寂に包まれている。獣姫と呼ばれた勇猛な姫君のアバードでの人気は、圧倒的といってもよかった。王族みずから戦場に立つというのはめずらしいことではない。しかし、若く見目麗しい王女が前線に出て、だれよりも戦果を上げるというのは、どこにでも見られる事象ではないだろう。シーラの人気は、その容姿と立場、実力と実績からなるものであり、ただ王女が前線にでていることだけが原因ではなかった。人柄もあるだろうし、ある種の同情を禁じ得ないのも、彼女の人気に一役買っているのかもしれない。
「王都での人気も凄まじいものがあったようだな。静かだ」
ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートが、窓の外を見やりながら、嘆息するようにつぶやいた。やや長めの赤茶けた髪を後ろで束ねているのが、屈強な体には似つかわしくない。そもそも、彼には騎士団の制服さえ似合っていなかった。白を基調とした制服は、彼の赤銅色の肌を際だたせるだけの装置にしかならない。そういう意味でも、彼は北方人らしくなかった。かといって、諜報活動にはまったく向かないのが、ベイン・ベルバイル・ザン=ラナコートという男なのだが。
「喪に服している、とでも?」
シド・ザン=ルーファウスが、ベインを一瞥した。そのまなざしには一方ならぬ信頼が宿っている。色素が抜けきったような白髪が特徴的な彼には、白の制服は似合いすぎているとさえいえた。シドこそ騎士の中の騎士、などといえば、猛烈に非難されるだろうが、個人的な想いまで踏み躙ってくるような輩は、少なくとも十三騎士の中にはいない。
「だろうよ」
「王宮は、シーラ姫の喪に服するのを禁じているのではなかったか?」
「だから、人気があるって話だろ。王都の住民にとっちゃ、王宮の命令よりも、姫君の死を悼むほうが大事なんだろうさ。俺様は好きだがね、そういう反骨心っていうの」
ベインの言にシドがぴくりと反応するのを見て、ロウファ・ザン=セイヴァスは、目を細めた。ベインにそのような感情があるとは思えないからだが、それだけではない。シドがなにを考えたのか、それが知りたかったからだ。
つい、口を挟む。
「反骨心……か。王宮に反発するほど大事な姫君なら、王都など捨てて、タウラル要塞にでも向かうべきだったのさ」
「そうすりゃ、獣姫が勝ったかもな」
ベインがにやりとした。獰猛な笑みだ。まるで猛獣が人間の皮を纏っているかのような錯覚さえ覚える。そして、それがあながち間違っていないということも知っている。ベインとはそういう人間だったし、だからこそ十三騎士には相応しくないのだ。しかし、選ばれた以上は仕方がないし、同僚として接するよりほかなかった。
個人的な感情だけでベインを排斥するものんだお、それこそ、十三騎士に相応しくない。
「だが、王都市民にそのような行動を取るものは少なかった。明確な現状を捨て、不透明な未来に命を託せるものなど、そういるものではないのだ」
「そうだな。あんたくらいのもんだ」
ベインが皮肉に表情を歪めた。シドは、ベインを見据えたまま、静かに肯定する。
「……その結果がこのざまだ」
「だが、あんたにとっては、これでよかったんだ。俺にとっても、そこの青臭いガキにとってもな」
ベインがこちらを一瞥して、小さく笑った。猛獣が敵を目の前にした表情のように見えた。ロウファはベインを睨み返したが、彼は笑っただけだ。
「青臭いは余計だ」
「ガキはいいのかよ」
「そこは認める」
「はっ……張り合いがねえな」
「ふっ……わたしの勝ちだな」
「なにがだよ」
憮然とするベインを尻目に、ロウファは小さく勝ち誇った。ベインに勝てるとどうしようもなく気分がよかった。単純にいえば、ベインが気に食わないからだ。ひとを嫌うには嫌うなりの理由があるものだが、ロウファの場合、後からきたベインがシドの信頼を勝ち取ったのが、最大の理由だた。
「まったく、君らはいつまでたっても仲が良いな」
「どこがだ」
「皮肉だよ」
シドが笑いもせずにいった。ベインがこちらを見て肩を竦めてみせる。シド・ザン=ルーファウスほど魅力的で不可解な人物もいないかもしれない。ロウファもベインも彼に魅せられているからこそ、こうやって行動をともにしているんドアが、どこに魅せられたのかは、自分たちでさえ定かではない。
「さて、王妃様はどう動くか」
シドが、椅子から立ち上がった。
十三騎士のうち、シド、ベイン、ロウファの三人がそれぞれの部下とともにアバードを訪れているのは、アバード王妃セリス・レア=アバードの要請を聞き入れたからだ。ベノアガルドの騎士団は、他国の要請さえあれば、どんな状態であっても騎士団を派遣し、事態の解決に力を提供するのだ。
それが救済の道だ。
「姫君を炙り出すったって、そう簡単にはいかねえんじゃねえのか?」
「簡単なことではないが、禍根を断たなければ、アバードの将来は不透明なままだ」
シドの言葉に、ロウファたちはうなずいた。
シーラ・レーウェ=アバードは生きている。
その事実を知っているのは、王宮でもごく一部の人間だけであり、ロウファたちが知っているのは、王妃が情報を流してくれているからだ。
シーラの排除は、王妃セリスの望みであり、それこそがアバードの将来を安定させる唯一の方法だということだった。