第八百九話 ある夢の終わりについて(一)
その古都が龍府と呼ばれるようになったのは、ザルワーンの建国神話に由来するものだ。
ザルワーンは龍によって彩られた数多の伝説や神話を持つ国だった。そんな国の中心であった都市に龍が関係しないわけがない。建国神話は五竜氏族の誕生とも密接に関わっているといわれているが、要するに遥か昔に天から降臨した五首の龍が作り上げたのがこの都であり、五首の龍がみずからの代理人として使わせたのが五竜氏族であり、五竜氏族によるザルワーン支配の正当性を主張するものだった。
そんな伝説に彩られた都市だけあって、龍の名を冠する建物は多い。そして、龍を象った造形物も数多く存在し、セツナにとっても妙な馴染み深さを覚える都市だった。ナグラシアやゼオルの町並みにはさほど感じなかったのだが、この龍府には東洋的な空気感のようなものが漂っていた。なにがどうということではない。都市全体に漂う空気感が、そう思わせるのだ。
奇妙なことに、懐かしささえ感じられる。
(変な感じだ)
龍府には特別思い入れがない、とは言い切れない。
ミリュウと面と向かって話し合った場所だ。想い出がないわけがなかった。しかし、それにしても、この懐かしさは奇妙としかいいようがなく、かといって別段不愉快なわけでもない。とにかく不思議な感じがした。
五月三日。
セツナたちが龍府に到着してから二日が経過し、龍府は日常を取り戻していた。昨夜までお祭り騒ぎだったのだ。
セツナは、昨日の真夜中まで、そのお祭り騒ぎの中心にいた。
龍府の司政官やザルワーン方面軍が立案したセツナの龍府領伯就任式典が、龍府全体を使って行われたのだ。軍人も文官も住民も観光目的で訪れたガンディア国民、他国人も巻き込んだ盛大な宴は、それこそ、龍府の歴史に残るほどのものといっても過言ではなかった。
『これほどの宴、記憶にないわね』
ミリュウがあきれるようにいったのは、ザルワーンの人々の弾け方が、五竜氏族が支配していた時代には考えられないものだったからだ。
実際、ガンディアの支配下に入ったからこそ、自由に振る舞えるというのはあるようだった。ザルワーン人の軍人たちも、五竜氏族という支配者がいなくなったおかげで、このようなお祭り騒ぎを起こすことができると囁いていたものだ。
まるで長い間溜まりに溜まっていた鬱憤を晴らすかのような騒動は、夜明けまで続いた。
夜が明ければ、夢が覚めたかのように現実が動き出す。古都中にばら撒かれた様々なゴミを拾い集めるためだけに都市警備隊のみならずザルワーン方面軍が動員されたのには笑うしかなかったが、そうでもしなければ、古都の景観を維持するのは難しいのだろう。
ちなみにザルワーン方面軍の大軍団長ユーラ=リバイエンは、その名からもわかる通り、ミリュウと血縁関係にある人物であり、面識もあったようだった。約十年ぶりの再会にユーラは嬉しげだったが、ミリュウのほうは、彼と言葉を交わしたくもないといった様子であり、セツナは彼女のためにユーラの話し相手をしなければならなかった。
ユーラ自身、悪い人間ではない。
単純に、ミリュウがザルワーン人を嫌っているだけのことだ。
彼女の憎悪は根深い。国とひとを憎みきってしまっている。それはまるで呪いのように、彼女の心に絡みつき、離れない。こればかりは、セツナでもどうすることもできない。セツナが彼女に対してザルワーン人への憎しみを捨てろといったところで、なんの意味もないのだ。
『嫌われても仕方がないんです』
ユーラは、取り付く島もないといったミリュウの態度について、理解を示していた。
『わたくしどもは、彼女が魔龍窟に落とされたことで命拾いしたのですから。卑しいものです』
ミリュウではなく、彼が魔龍窟に落とされていた可能性もあるということだ。その場合、セツナがミリュウと出会うことはなかったし、ミリュウの代わりにユーラと出遭っていた、ということもありえなさそうだ。
ユーラに、魔龍窟の地獄を生き抜く力があるようには見えなかった。
もっとも、そんなことをいえば、箱入り娘も同然だったミリュウがその地獄を生き抜けたのは、奇跡といってもいいのだろうが。
『しかし、ミリュウはセツナ様には心を許されているようですね。勝手なお願いですが、どうか、彼女のことを頼みます』
『ああ。任せろ』
セツナが力強くうなずくと、ユーラは優しい笑みを浮かべたものだった。
夢の様な祭りが終わると、古都に相応しい静寂が訪れた。静寂こそが古都の日常であり、本来あるべき姿なのだ。
セツナたちはいま、天輪宮に滞在している。
天輪宮とは、龍府の中心であり、ザルワーンの心臓といってもいい場所だった。ガンディアにおける獅子王宮といっても過言ではないが、獅子王宮よりも遥かに歴史が古く、絢爛豪華な建造物群だ。泰霊殿、玄龍殿、飛龍殿、双龍殿、紫龍殿と呼ばれる五つの建物からなる宮殿といってもいい。
その大層な宮殿は、領伯であるセツナのものとなった。領地なのだ。ガンディアが接収した建物や施設のほとんどが領伯の持ち物となり、管理対象となった。セツナは天輪宮の持ち主となり、その管理と維持も任されることになったのだ。
当然のことだが、セツナに維持や管理を気にしている暇はない。ガンディアから派遣されている司政官に任せるだけのことであり、領伯としての仕事は、昨日のうちにほとんど終わったといってよかった。領伯に就任したことをお披露目した以上、あとの仕事はほとんどすべて、司政官に委ねるつもりでいた。エンジュールがそうであったようにだ。
エンジュールは、現在もゴードン=フェネックに任せきりだ。彼は信頼できたし、人柄も良かった。なによりエンジュールの司政官という立場を気に入ってくれているらしいのだ。彼なら、エンジュールをいい方向に発展させてくれるだろうという安心感がある。
龍府の司政官は、ダンエッジ=ビューネルという人物だ。ユーラ=リバイエンと同じく、かつてザルワーンの国主として辣腕を振るったミレルバス=ライバーンの五人の腹心のひとりであり、ザルワーン戦争を終結に導いたひとりだった。そして、ビューネルという家名からわかるように、ランカイン=ビューネルと血縁関係にある。
『ランカインのことは、聞き及んでいます』
自己紹介の後、彼からそのことについて触れてきた。ランカイン=ビューネルが引き起こしたカラン大火は、ガンディアを揺るがした大事件だけあって、広く知れ渡っている。そして、その事件を終結させたのが当時無名だったセツナだということも、いまとなってはよく知られていた。ランカインはその後王都に移送され、処刑されたということになっている。
カイン=ヴィーヴルの正体を知っているのは、ガンディアでもごくわずかの人間だけだ。知れれば、大問題に発展するだろう。ランカインの事件は、ガンディア人がザルワーン憎しの感情を高めるきっかけとなっている。そんな事件を引き起こした人間を別人と偽って使っていたのだ。問題にならないはずがなかった。
もっとも、いまのレオンガンドにとっては些細な問題として処理されるかもしれない。レオンガンドを取り巻く状況は、当時から大きく変わっている。
『ランカインはわたくしの従兄でございました。ガンディアの皆様には申し訳なく想っております』
ダンエッジは、ランカインの従兄弟とは思えないほどに爽やかで誠実そうな青年だった。セツナは彼に好感を抱いたし、彼とユーラが段取りしてくれた式典にも満足した。話のわかる人物が司政官になってくれたことで気が楽になったのは間違いない。
『龍府のことについては、なんなりと申し付けください』
ダンエッジがそういってくれて、心強かった。ゴードンには悪いが、彼よりも頼りがいがあるように見えるのは、仕方のないことだった。
ゴードンにはゴードンの良いところがあり、ダンエッジにはダンエッジの良いところがある。ただそれだけのことだ。
朝焼けが、龍府の町並みを赤々と照らし始めている。
セツナは、天輪宮紫龍殿の二階から、早朝の龍府を見渡していた。昨日、夜中まで行われた祭りを最後まで楽しんだ後、二時間ほど眠った。たった二時間だが、眠気はいつの間にか消え去っていた。興奮が睡眠欲に勝ったらしい。新たな領地として、龍府を得たのだ。その龍府の美しい光景を目にしている。眠気が吹き飛んで当然だった。
欄干から身を乗り出すと、レムの手がセツナの腰に触れた。落下を心配したのだろう。レムもまた、同じだけしか眠っていない。が、彼女に関していえば心配は不要だった。レムは睡眠の必要さえなかった。彼女が眠るのは、人間らしく振る舞うためでしかない。
「ふぁ~あ……」
背後からあくびが聞こえた。振り返ると、寝間着のミリュウが通りかかったところだった。《獅子の尾》の女性陣は、天輪宮の北側の建造物である飛龍殿に個室が用意されており、朝食を摂るためには紫龍殿まで移動してこなければならなかった。食事は、いつものように《獅子の尾》専属の調理人ゲイン=リジュールが作っているらしい。休暇中なのだからここの料理人に任せておけばいいといったのだが、ただでさえ外征中は食べてもらえないのだから、こういう機会を逃すことなどできない、といってゲインは聞かなかった。
セツナは、ゲインのそういう職人気質なところがたまらなく好きなのだが、この天輪宮の料理人の仕事を奪うのはどうかと想ったりもした。
「あれ、セツナ、もう起きてたの? ちゃんと眠れた? もしかして、寝てないんじゃないの? 疲れもたまってたみたいだし、無理してたんじゃないの?」
こちらを発見するなり、彼女はセツナに接近しつつ、まくし立ててきた。相変わらず過度に心配してくる彼女には微笑み返すしかない。
「あんまり眠れなかったけど、なんの問題もないよ」
「やっぱり眠れてないんじゃない」
「そんなこといったら、ミリュウもだろ」
セツナが口を尖らせながらいった。そうなのだ。ミリュウが寝室に向かったのは、日も変わった午前二時過ぎのことであり、東の空が朝焼けに染まっている時間帯だということを考えると、寝たとしても、二、三時間程度だろう。ミリュウの表情にも疲労が現れていた。
彼女は、セツナの隣に立つと、欄干にもたれかかった。朝日を背に浴びながら、紫龍殿の複雑な構造でも懐かしんでいる――という風でもない。
「……寝付けなくてさ」
ミリュウの静かな声に、セツナは返す言葉も見つけられなかった。
彼女が寝付けないのは、ここが龍府だからだろう。
十年、地獄を生き抜いてきた。その地獄は、龍府の地下の闇にある。魔龍窟。龍府にいるということは、その地獄の上にいるということだ。彼女が安心して眠れないのは道理であり、解消する方法などあるのかさえわからない。
セツナはなんとかしてやりたいと思っている。龍府が領地になった以上、セツナは度々、この地を訪れることになる。セツナの側にいることを望む彼女がガンディオンやエンジュールでおとなしく帰りを待つ、などとは考えにくい。
彼女は、龍府に来るたびに苦しむのだ。絶望的な過去を直視しなければならなくなる。目を背けることができれば楽なのだろうが、あいにく、彼女は自分を誤魔化すことを知らない。
「では、御主人様が添い寝して差し上げるのはいかがでしょうか?」
レムが、にっこりと微笑んできた。質の悪い笑顔だと、セツナは思っている。もちろん、彼女の容貌が悪いとか、そういう話ではない。レムは美少女といっていい顔立ちをしていて、その彼女が微笑むということは、天使が微笑んでいるといっても言い過ぎではないほどだった。彼女の経歴を知らないものからすれば、ただ惹き込まれるだけだろう。いや、彼女が死神部隊の死神壱号だということを知っていたとしても、その微笑みの前には無力化されてしまうかもしれない。
だからこそ質が悪いのだが。
「なにいってんだおまえ」
「おふたりで睡眠不足を解消するには最高の案だと思いますが……」
「レム!」
欄干から離れたミリュウが、勢いよくレムに迫った。セツナは、ミリュウがレムを怒鳴るものだとばかり考えたのだが。
「はい?」
「素敵な提案ね! 朝ごはん食べたらさっそく寝ましょう! もちろん、ふたりきりで!」
「あのなあ……」
セツナの手を取り、あまつさえ両目をきらめかせる彼女の勢いには、セツナも言葉を失わざるを得なかった。もちろん、ここでセツナが乗り気な反応を示せば、彼女は途端に思考停止に陥るというところまで想像がついている。彼女は、言動は積極的で挑発的なところがあるくせに、他者からの愛情表現には極端に弱かった。
と、紫龍殿の通路からファリアが顔を覗かせてきた。彼女もあまり眠れなかったらしいのが、その表情からもはっきりとわかる。
「朝っぱらからなに馬鹿なこといってんのよ」
「ふふ……王宮晩餐会ではいい思いしたんだから、つぎはあたしの番よ!」
「別に勝手にすればいいけど、それどころじゃないわよ」
ファリアの表情も口調もいつになく深刻だった。だから、セツナだけでなく、ミリュウまでも彼女の肯定的な返答を言及しなかったのだ。
「いまさっき、情報部から伝え聞いたんだけど……」
彼女が言い澱んだのは、それを言葉にするのが恐ろしかったからだ。
「シーラ様が処刑されたそうよ」