第八十話 ガンディアに吹く風(前)
「ガンディアは念願だったバルサー要塞の奪還に成功し、ログナー軍の撃退にも成功した。セツナの活躍もあってガンディア軍に被害という被害もなかった。完勝というより他はなく、ガンディアとしては万々歳の結果に終わったわけだ。逆に言えば、ログナーにとっては南侵の要だったガンディア攻略は夢のまた夢となり、ガンディアからの侵攻という悪夢に曝されることになったわけだが……突撃隊長はどう見る?」
それはあまりにも唐突な問いだった。なんの前触れもなければ、予想など出来るはずもない。突然の猛攻といっていい。耳朶に飛び込んできた野太い男の声は、鼓膜に浸透するよりも蹂躙するといったほうが正しく、彼は、おもむろに天を仰いだのだった。晴れ渡る青空が眩しい。朝日は遠く、それでも一日の始まりを告げるには十分すぎるほどの光を放っている。
思考停止にこそ陥ってはいないが、耳に突き刺さった言葉の数々を理解でき無い程度には脳が働くのを拒絶していた。寝起きの頭が、小難しい言葉の羅列を雑音としか認識していないのかもしれない。
強引に揺り起こされてから三十分も経っていないのだ。意識は不鮮明で、なぜ起こされたのかもわかっていなかった。しかも、ろくに何も知らされないまま着替えさせられ、ここまで連れて来られたのだ。
判然としない意識で把握できたのは、バルサー要塞の南門に連れて来られたということだった。分厚く堅固な城壁の圧迫感は、寝ぼけ眼の彼にも感じられるくらいには凶悪なものだった。城門は早朝にも関わらず開かれており、まるで貴賓の到来を待ちわびているかのようだった。事実そうなのかもしれない。
彼は、バルサー要塞の攻めにくそうな外観をひとしきり眺めると、先ほど問いかけてきた男へと視線を戻した。
バルサー要塞。言わずと知れた難攻不落の要塞であり、ガンディアの北方の守りの要。ガンディアの総力を以てログナーから奪還したことは記憶に新しい。
視界に入ってくるのは、欠伸を浮かべる巨漢の姿だ。精悍な面構えは獰猛な獣を思わせるのだが、その凶暴性の中に覗く愛嬌は、野生の獣が持ち得ないものだろう。シグルド=フォリアー。傭兵集団《蒼き風》の団長であり、彼――ルクス=ヴェインが敬愛する数少ない人間だった。
彼がたっぷりと間を取ったのは、シグルドの欠伸を待つためでもある。
「いきなりどうしたんです、団長。熱でもあるんじゃないんですか?」
「おまえなあ、ちったぁまともに答えろよ」
後頭部を掻きながら、シグルド。彼の声音もまなざしも、戦場での勇ましさからは想像もできないほどに柔らかく、父性に溢れていた。だから、なのかもしれない。ルクスは、彼に対してはついつい甘えてしまう自分を認めながらも、それを正そうともしなかった。とはいえ、言わなければならないことははっきりと伝えるのがルクス=ヴェインという青年だった。
「あのね、だんちょ。俺は頭が良い方じゃないの。知ってるでしょ。そういう小難しい話は腹黒陰険眼鏡野郎としてくださいよ。俺は剣を振り回すのが仕事ですんで」
ルクスは、背に負った剣を指して言った。グレイブストーン。これだけはどんなときでも手離せなかった。例え寝惚けていても、酔っ払っていても、意識を失いかけていたとしても、肌身離さないだろう。確信がある。それは彼の命よりも重いものだった。受け継いだものだ。遺産とでもいってもいいのかもしれない。そして、彼が今日まで生きてこられたのはすべて、この背に帯びた長剣のおかげだった。これがなければ、彼は戦場に置き捨てられる死体のひとつとなっていただろう。
頭が悪い、というのがその原因だ。戦術なんて考えられるほどの頭脳はなく、ただ目の前の敵を屠ることだけに集中する。戦線を飛び出し、戦場を蹂躙する。かの黒き矛のように、というほどではないにせよ、剣鬼と異名されるくらいには殺戮してきた。しかし、それはグレイブストーンの力に頼った戦い方に過ぎない。彼の実力も加味されているとはいえ、グレイブストーンなしでは成し得なかった荒業だった。
もし、一般に出回っているような鉄製の剣でいまと同じような戦い方をしていれば、初陣のときに命を落としていたに違いない。勇猛と無謀をはき違えた愚かな人間の末路は、物言わぬ骸と決まっている。
ちなみに、腹黒陰険眼鏡野郎ことジン=クレールの姿は、ルクスたちの周囲にはなかった。シグルドが彼だけを放っておくわけもなく、なんらかの事情があってここにいないのは明白だった。もっとも、だからこそ暴言を吐いた、というわけでもない。ジンがいようといなかろうと、ルクスはありのままに言葉を紡いだだろう。愛情表現というほどのものではないにせよ、気の置けない間だからこそできる芸当ではあった。
「そうはいうが、おまえも部隊を率いる身の上だ。頭を使う習慣をだなあ……」
呆れ果てたようではありながらそれでも諦めきれないといった表情を浮かべるシグルドに対して、彼は困ったような笑顔を浮かべるしかなかった。団長を困らせているのは自分だということが分かっていてもなお、彼は首を縦に振ることができなかった。ルクスは、自分にはシグルドの期待に応えるだけの器量がないことくらい理解できていたのだ。それくらいの頭はある。いや、思い知らされたというべきか。
これまで――十年ほどの傭兵生活は、彼をして自分の限界を思い知らされるに至った。きっぱりと、告げる。
「俺の頭は団長。俺は団長の手足。それでいいんです」
「よくねえよ」
シグルドが口を尖らせるのは、これで何度目だろう。そんなことを考える。まだ両手の指で数えられるくらいだとは思う。シグルドは寛大だ。所詮は荒くれ者の集団に過ぎない傭兵集団の団長としてやっていけるのかと不安になるくらい、シグルドは、部下に甘く、自分には厳しかった。もちろん、その甘さにも限度というものはある。やるべきことをやらない人間には、部下であろうとなかろうと辛辣だった。
この場合は、どうだろう。
ルクスは、本来ならばやらなければならないことを放棄しようとしている。いや、放棄しているのだ。思考停止に近い状況にみずからを追いやろうとしている。考えることはすべて人任せで、自分は剣だけを振るう。あまりに自分勝手で都合のいい考え方だ。隊長という肩書きを持つものにあるまじき思考だろう。しかし、彼はそれが最善だと決め付けていた。
「いまさら、なにを言っているんですか。いまさら頭を使ったところで、ジンさんの足元にも及びませんし、なにかが身につくわけでもない。戦術の幅が広がるわけもないですし、なにより、俺のやることに変わりはないでしょう。それだったら、考えるのは他の人に任せて、目の前の敵を倒すことに専念するほうがいい。無駄に考えて剣先を鈍らせるなんて以ての外ですからね」
不要な思考は切っ先を鈍らせかねない。雑念は肉体を縛る鎖であり、戦術を考えることに足を取られてしまっては本末転倒この上ない。無論、戦闘中に頭脳を働かせることを雑念だの不要だのと言ってのけるのは彼くらいのものかもしれない。だれであれ、戦闘中に無心ではいられまい。
無心で戦うなど、野生の猛獣にも劣る。人は皆、何かを考え、刃を振るう。それが勝利の近道を探すためであれ、生き延びる最善の方法を導くためであれ、目立った活躍をするためであれ、なんらかの思考を働かせている。
ルクスとて、そうだ。無心ではない。少なくとも、初陣のセツナを常に考えてあげるだけの思考的余裕はあったし、戦場を見渡し、自分の置かれている状況の把握は怠らない。だが、それとこれとは違うのだ。
自分一人が思う存分暴れまわるのと、部下に指示を出して戦場を掻き回すのとでは、頭の働かせ方がまるで違う。ルクスの思考は一兵卒のそれであり、複数の部下を采配するようには出来ていないのだ。
「おまえらしい結論だがなあ」
それでもまだ諦めきれないのだろう。シグルドは、残念そうにしながらも、目の奥からは輝きを失わせてはいなかった。そんな団長には、にこにこと笑顔を浮かべるに限る。それは、約十年に及ぶ付き合いから導き出された答えだ。シグルドはいずれ棍負けし、この話もなかったことにするだろう。
団員に甘い団長は、ルクスに対してはことさらに甘かった。ルクスは、それを理解していて、時にこうして利用するのだ。
不意に、冷ややかな風がルクスの首筋を撫でた。
「団長、ルクスの言にも一理あります」
風の正体は、ジン=クレールそのひとだった。風を切るというよりも、風そのもののような独特な歩法は彼以外には考えられないのだが。ジンもまた、並の傭兵ではない。一見すると武器を振るうよりも、戦術を練り采配を振るうことのほうが得意そうではあるのだが、なんのことはない。彼もまた、戦場で暴れる方が性に合う根っからの戦士だった。もっとも、昨今の戦闘では団長に変わって指揮を取ることが多くなっており、そのことが彼の数少ない不満の種になっているようだった。
彼は、ルクスの背後に現れるなり、まくし立てるようにしてシグルドにいった。
「だから彼を隊長から平隊員に降格しましょう。平隊員なら何も考えずに剣を振り回していればいいわけですしね。それがいい、そうしましょう。それで何の問題もないですよね? ルクスも万歳、わたしも万歳、団長も万々歳。素晴らしい結論です。さあ!」
聞いている側が目を丸くするほどの早口だったが、彼は、舌を噛んだりするようなことは一切なかった。言葉も詰まらず、内容も理路整然としていて、攻撃されているはずのルクスでさえ、聞いていて悪い気はしなかった。ジンの声が耳に心地よいというのもあるだろうが。
「ひでえっす!」
それでも、ルクスは猛然と抗議した。一兵卒の考え方ではあるものの、いまさら降格されるのは御免被りたいと思うのが人間であろう。彼が戦い方を改めないというのなら、むしろジンの提案を支持すべきなのだ。そして、ルクスは心のどこかで、それもいいかもしれない、と思っていた。一兵卒として存分に武を振るう、というのも面白いかもしれない。だが、それはできない。
《蒼き風》という傭兵集団の面子というものを考えれば、簡単に平隊員に戻るなど、できない話なのだ。“剣鬼”ルクス=ヴェインが突撃隊長から突然平隊員に降格されたという話が広まるのは、傭兵集団にとって得策ではないだろう。もちろん、ジンはそんなことわかったうえで、冗談として発言したのだろうが。
ジンの眼鏡がきらりと光った。
「……だれが陰険腹黒眼鏡野郎なんです?」
凍てついた声音は、むしろ地獄の業火に似ていた。底冷えするような旋律でありながら、腸が煮えくり返っているのがはっきりとわかるのは、きっとこれまでに何度となく聞いたことのある声だからに決まっている。ルクスは、ジンのそういう反応が面白くてついついからかってしまう自分を反省しながらも、レンズの向こうの冷ややかなまなざしには敗北を認めるしかなかった。つぶやく。
「根に持つひとだなあ……」
「ついさっきです。自分の発言には責任を持ってください、突撃隊長殿。あなたはそれでも一隊を率いる身。軽率な言動は控えていただけると嬉しいのですが」
極めて丁寧な口調でありながらもいつになく事務的な声音は、怖いもの知らずのルクスをして恐怖させるに至る。かつてのお仕置きが、ルクスの脳裏を過ぎったのだ。緊張が走る。しかし、なぜあの程度の軽口でここまで怒られなければならないのか、彼には理解できなかったし、するつもりもなかった。が、怖いものは怖いのだ。
(あんなの人間の所業じゃない……!)
それこそ鬼の仕業だと、彼は胸中でつぶやくとともに、ジンの眼を見た。彼の顔からは既に鬼の姿は影も形もなくなっており、いつもの副長の表情に戻りつつあった。常に沈着冷静で知性さえも感じさせる秀麗な容貌。その鉄面皮は並大抵のことでは崩れない。戦線が崩壊しようと、部下に死傷者が続出しようと、彼の怜悧な横顔に皺が刻まれることすらなかった。
故にこそ、ルクスは挑戦したくなるのだ。難攻不落の要塞に挑む戦士のような心境だった。だが、攻略することで賞賛される要塞と違って、ジンの鉄壁の護りを破ったところでだれにも褒められることはなく、決して報われることはない。それを理解した上で、彼は挑戦することをやめないのだ。その先に待つのが地獄のような未来でも、構いはしない。魂にまで刻まれた恐怖を克服するには、それを乗り越えるしかあるまい。
「怖いよ、ジンさん」
「ま、そんなことはどうでもいいとして」
「それはそれであんまりだ……」
ルクスは、肝心の副長にまるで相手にもされなかったことに愕然とした。憤慨することさえできない。がっくりと肩を落とし、視線を彷徨わせる。団長ならば何らかの反応を見せてくれるはずの言葉も、彼の鉄面皮には響かない。どれだけ離れていても、腹黒陰険眼鏡野郎という言葉は聞き逃さないというのに。その言葉には猛烈なまでの反応を示すというのに。理不尽な話だと思わざるを得ないが、そんなことをいったところでなんともならないのはわかりきっていた。
いつものことだ。
ジンはこちらの様子など気にも止めていないのだろう――シグルドに顔を向けた彼は、長々と状況の説明を始めたのだった。