第八百三話 正義についての話をしよう・序(二)
「前回も話した通り、ケイルーン卿はガンディアに赴いている。セツナ・ラーズ=エンジュールの調査のためにだ」
開口一番、オズフェルト・ザン=ウォードがそう説明せざるを得なかったのは、覚えていない人間がいたからだろう。神卓の間の外にいても、神卓の間で起きた言い争いの内容を理解しているのは、さすが副団長といったところかもしれない。
灰色の髪と緋色の瞳を持つ彼は、ベノアガルドでも有力貴族として知られるウォード家の出身である。もっとも、彼が騎士団の副団長に抜擢されたのは、出自によるものではない。騎士団は、フェイルリングが騎士団長となって以来、実力主義に移行している。有力貴族でなくとも部隊長や幹部に抜擢されることが可能になっただけでなく、下層民ですら騎士になることを許された。
騎士とは、家柄ではなく、志によってなるものである――フェイルリングの掲げた言葉は、ベノアガルド全土で広く支持されている。
つまり、オズフェルトの副団長抜擢は実力によるものだということだ。当時、副団長の座を争っていた連中は、争ってすらいなかったオズフェルトが抜擢されたことに憤慨し、団長に直訴したようだが、結果は覆らなかった。フェイルリングの判断が正しかったのは、後に証明されている。副団長の座を争っていた連中は、革命の際、騎士団を離反、王家側に回っている。
「黒き矛のセツナを調べてどうなるんです? 敵ならば倒すだけじゃないですか」
「セツナ・ラーズ=エンジュールが敵と決まったわけではない。我々は、セツナ・ラーズ=エンジュールの実態を知る必要がある、ただそれだけだ」
「実態もなにもないでしょうに」
ベインがあきれたようにいったが、フェイルリングは、彼の口の悪さを気にしている様子はない。むしろ、ベインのことを頼もしげなまなざしで見ている。
「風聞はこういうわね。黒き矛のセツナは一騎当千、数多の敵を矛の一閃で切り刻む。黒き矛のセツナは一騎当万、数多の皇魔を矛の一閃で討ち滅ぼす」
「ザルワーンではドラゴンを討ち倒し、クルセルクでは一万の皇魔を倒す……か」
「気になる?」
ルヴェリスが横目に隣の席の男を見ると、彼は、妙に嬉しそうに笑った。ドレイク・ザン=エーテリア。騎士団の最高戦力と呼ばれる男は、小国家群最強と目される人物の噂や風聞に目を輝かせるのだから、どこか子供っぽいところがあるのかもしれない。
「彼の者の実態を知れば、ガンディアへの救済方法も変わってくるということだ」
「ま、方針が変わっていないっていうのなら、なんでもいいんですが」
「ならば口を挟まぬことさ」
「うるせえ」
「では、諸君の報告を聞こうか。クローナ卿」
フェイルリングが話題を変えたのは、ベインとロウファが口論に突入するところだったからかもしれない。騎士団長である彼がベインとロウファを叱責しないのは、彼もまた、十三騎士の一員に過ぎず、同僚であるという想いがあるから、らしい。また、騎士団幹部には喧々諤々の議論を行ってもらいたい、という意図もあるのだ。フェイルリングが一々叱責していれば、幹部ですら萎縮してしまいかねない。ただでさえ、異様なほどの緊張感が漂うのが神卓の間なのだ。
「はっ」
話を振られたフィエンネル・ザン=クローナが、体に染み付いたくせで立ち上がると、緊張した面持ちでフェイルリングに目を向けた。アルマドールの元闘士という肩書を持つ彼は、テリウス・ザン=ケイルーンともども、騎士団幹部ではめずらしい下層民出身ということになる。彼が一際緊張しているのは、そのせいもあるだろう。彼が騎士団幹部に抜擢されたのは、数年も前の話なのだが、そう簡単に慣れるものでもないのかもしれない。
そして、彼の担当地域は、アルマドールだった。元々ベノアガルドの下層民であった彼は、貧窮を打破するため、アルマドールの闘技場の闘士となったという。闘士としての生活も大変だったらしいが、貧民として生き続けるよりはましだという彼の言葉は、シヴュラの胸に強く刻まれている。騎士となった彼が貧民救済政策を推進しているのも、当然なのかもしれなかった。
「アルマドールの政情は不安定極まるものです。特に闘士たちの反乱以降、アレウテラスは暴力が支配する都市と化しており、ひとびとは救いを求め、ヴァシュタリアにまで縋る始末。このまま放置していれば、ヴァシュタリアの介入もありうるのではないかと」
アルマドールは、ベノアガルドの東の隣国だ。ベノアガルドともども小国家群の北端に位置し、北国と呼ばれる国々のひとつだ。ベノアガルド同様、北方人で構成された国だが、国の特色はベノアガルドと大きく異っていた。ベノアガルドは騎士の国だが、アルマドールは闘士の国だ。闘都アレウテラスを筆頭に多くの都市に闘技場が存在し、人間同士による殺し合いや競技試合を見世物にしていた。そんな国だ。闘士たちが反乱を起こしたのも、必然だったのかもしれない。
「いくら救いの声が増えたところで、ヴァシュタリアがそう簡単に重い腰を上げるかしらね」
「フィンライト卿のいう通り、ヴァシュタリアは動くまい。五百年近く沈黙を守ってきたのだ。勢力の及ぶ範囲の動向にしか興味を持たないのが、ヴァシュタリアやザイオンといったものたちなのだ。だからこそ、我々が必要とされている。我々の手で、救済しなければならぬ」
フェイルリングが強い口調で告げると、神卓の間は一時の静寂に包まれた。ヴァシュタリア、ザイオン、ディール。大陸を三分する大勢力は、その気になれば小国家群を飲み込むことくらい容易い戦力を誇っている。しかし、それら三大勢力は、均衡を失うことを恐れるあまり、小国家群に手を出すということさえなかった。この五百年、ただの一度もだ。三大勢力は、眠れる巨獣として君臨し続けているだけであり、小動物の群れたる小国家群は、彼らの巨大さに圧倒され、恐怖しながらも、決して襲ってくることはないという安心感を抱いてさえいた。奇妙な関係だと言わざるをえない。
しかし、だからこそ、アルマドールの国民がヴァシュタリアに救いを求めたところで意味が無いと断言できるのだ。ヴァシュタリアもまた、三大勢力の不文律を破ろうとはしないだろう。暗黙の了解は、絶対的なものとして、三大勢力の行動を縛り付けていた。
「クローナ卿は引き続き、アルマドールの内偵を続けたまえ。場合によっては騎士団の動員も考える必要がある」
「はっ」
フィエンネルが着席すると、ルヴェリスが気だるげに手を上げた。芸術家は、夜更かしすることが多いらしい。
「つぎはわたしの番ね。ジュワインは、女王戦争終結から今日に至るまで、安定した時期が皆無と言っていいほどの惨状よ。新女王による統治が上手くいっていないのもあるけど、シャルルムが介入しているという話もあるわね。まあ、シャルルムの尻尾は掴んだから、間違いないと思うけど」
ジュワインは、ベノアガルドから少し離れた位置にある。ベノアガルドの南の国マルディアの隣国であり、アルマドールの南に位置している。女王の後継者争いが国を二分にする戦争に発展したのは有名な話であり、傭兵団《白き盾》が女王戦争の混乱を収束させたのもまた、よく知られた話だ。不敗の傭兵団《白き盾》は、女王戦争でまたしても不敗神話を積み上げたというわけだ。そして、《白き盾》がついた女王候補が勝利し、女王になる権利を得たのだが。
「シャルルムがクルセルク戦争に介入しなかった理由がそれか」
シヴュラが口を挟むと、隣のハルベルトが驚いたようにこちらを見た。十三騎士一若い騎士は、シヴュラが言葉を発するたびに表情がめまぐるしく変わる世にもめずらしい生き物として、知られている。
「どうもそうみたい。皇魔が跋扈するクルセルクよりも、新女王が苦戦しているジュワインのほうが与し易いと判断したんでしょ。シャルルムらしいわ」
「新女王って、女王戦争で敗れたほうでしたっけ」
ハルベルトが会話に入ってきたのは、シヴュラが先に口を挟んだせいに違いない。対抗意識というよりも、シヴュラの真似をしているのだ。彼には、そういうところがる。
「ああ、統治が上手く行かないのも納得といったところだ」
「だからって、勝ったほうが女王になっても、結果は同じだったと思うわよ。シャルルムの工作は、女王戦争の発端そのものでもあるんだから」
「ほう」
「シャルルムが介入しなければ、女王戦争そのものが起こらなかったのよ。女王戦争が起こった時点で、なにもかもシャルルムの手の内ってわけ。ま、ジュワインがシャルルムに飲まれるのも時間の問題ね」
「我々が手を差し伸べなければ、な」
「もちろん、それが大前提ですけどね」
ルヴェリスは、フェイルリングの言葉に強くうなずくと、視線を別の騎士に向けた。
「ああ、マルディアは相変わらず落ち着いたものですよ」
一言で報告を終えたのは、カーライン・ザン=ローディスだ。冷ややかな視線と同じくらい凍てついた声音が、彼の持ち味といってもよかった。しかし、そういった態度が彼の本質を示しているわけではないのは、騎士団幹部ならば周知の事実だった。
「アバードだが、こちらも情勢は予断を許さないといったところだ。王子派と王女派の対立が深刻化してきており、一触即発といった状態が続いている。どちらかが行動を起こせば、即座に爆発するだろう」
カーラインに続いて報告したのは、シド・ザン=ルーファウスだ。彼の担当はアバードであり、彼の派閥に属するふたりの騎士も、彼の調査に同行することが多かった。シドは、騎士団でも若い部類に入るのだが、その性格の苛烈さは他の追随を許さないところがあった。ベインが従う理由もよくわかるだろう。
「アバードの情勢はよくわかんねえな。連合軍勢力に参加し、勝利によってクルセルク領土の一部を手にしたんだろう? 王女様万々歳じゃねえのか?」
「その万々歳な空気が、王子派にはたまったものではない、ということだ」
「だけど、獣姫は王位継承権を手放したんでしょ? 問題なんて起きるはずがないと思うんだけどねえ」
「その通りだが、実際に問題が起きているのだ」
シドが告げると、ルヴェリスは嘆息した。
「どの国も問題だらけといったところね」
「マルディアは別ですよ」
「わかってるわよ」
しれっとした顔でつぶやくカーラインに対し、ルヴェリスが半眼を向ける。
「どこもかしこも問題だらけ。かといって救いの声を上げる国はごく少数」
「そりゃそうだ。他国に救いを求めるなんざ、情けなくてできるわけがねえ。この国だってそうだっただろ」
ベインの言葉に、神卓の間のだれもが口を閉ざした。
革命によって流された血は、なにも王家のものだけではない。王家を守るために剣を取ったものも数多くいた。貴族もいれば、当時の騎士団上層部のほとんどは、王家を守らんとしてフェイルリングたちの敵に回った。
前進に犠牲はつきものだ。だが、その犠牲に納得できるかどうかは別問題だ。
ハルベルトのように王家の腐敗を受け入れ、その滅亡を認めることができるものなど、ごく少数といっていいだろう。
「救いの声がなければ、動かぬか?」
フェイルリングが神卓の間を見回した。フェイルリングの右眼が淡い光を発する。瞳孔から光が漏れ出ているのだ。神秘的な光だった。その光を見たものは、だれであれ、神の実在を信じるかもしれない。彼を神の使いと認識するかもしれない。
「否。我々は、すべてを救わねばならぬ。我々の力はそのためのものなのだ」
フェイルリングの言葉には迷いもなく、一切の妥協も許さぬ力強さがあった。たかが言葉。されど言葉。神卓の間にいるだれひとりとして、フェイルリングの言葉に打ち震えないものはいなかったし、シヴィルもその中のひとりだった。
神卓騎士団は、フェイルリングという男への揺るぎない絶対の忠誠によって成り立っているといっても過言ではなかった。
(救済)
シヴィルもまた、その二字を胸に刻んでいる。
騎士団が掲げるのは救済の二字のみであり、後にも先にもその二字しかなかった。