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第八百一話 獅子の尾が揺れるように(三)

「メリル、おはよう。今日もすこぶる調子がいい」

 起床したての彼女を違和感が襲ったのは、四月に入ってからの事だったという。いつもならば眠りこけているはずの時間帯に目を覚ましたナーレスは、メリルや使用人の仕事を奪うかのように家事に精を出し、朝食の支度にまで手を付ける始末であるといい、メリルたちが慌てなければならない一幕が、ここのところ毎日のようにあるといういう。

「妙に体が軽いんだ。まるで羽でも生えたようだよ」

 メリルたちの疑問に対して、ナーレスはそのように答えたという。

 それからというもの、ナーレスはまるで翼でも得たかのように精力的に活動するようになったらしく、その働きぶりはメリルが驚くほどのものだったようだ。もちろん、それまでナーレスが働かなかったわけではない。彼はガンディアの軍師であり、膨張を続ける軍の情報を管理するだけでなく、国内の状況や他国の情勢まで常に把握しており、八面六臂の活躍といってもいいほどに働いている。クルセルク戦争では始まりから終わりまで、彼の立案した戦術・戦略に従って行動した結果勝利することができたのだが、それもこれも彼が日々の情報収集や情報の精査を怠っていないことの現れだろう。

 しかし、メリルがいうには、四月に入ってからのナーレスは、明らかにいままでと違うということだった。なにが違うのか、具体的にはわからない。だが、違うのは明白であり、メリルたちラグナホルン家の人間は日々、戸惑いの中を過ごしているという。

 中でも困惑するのは、思い立ったようにメリルを連れ、王都の散策を始めることらしい。

「つまり、その散策の最中にここに立ち寄ったってことか」

「で、ちょうどいいところで領地の話をしていたから、首を突っ込んできたってわけね」

「はい、そういうことになります……」

 ミリュウの視線に、メリルがいたたまれないといった顔をしているのだが、ナーレスはどこ吹く風だ。涼しい顔で、机の上に広げられた書類を手に取っている。

「妻を連れて散歩するのも悪くないものですよ」

「いや、まあ、メリルちゃんを大事にしろとはいったけどさ」

「ミリュウお姉さま……!」

 ミリュウの一言に感涙するメリルを横目に見て、それからナーレスに視線を戻す。《獅子の尾》隊舎の広間は、彼の登場以来、緊張感に包まれていた。ファリアもルウファもエミルも、わけがわからないといった表情を浮かべたまま、どう対処するべきか困っているようだった。それはセツナも同じなのだが。

《獅子の尾》隊舎は、暗殺未遂事件以来、都市警備隊の重点的警備対象となっており、正門には都市警備隊の隊員がついていた。来る日も来る日も《獅子の尾》の隊舎の門番を務めている警備隊員には頭の下がる思いだが、それが彼らの仕事であり、特別感謝する必要もないことなのかもしれない。

 ともかく、都市警備隊の警備は厳重であり、《獅子の尾》の隊士以外が隊舎に入るには、隊が独自に発行する許可証を提示するか、身分を示すしかなかった。そして、身分を提示したからといって、許可が降りるわけでもない。一般兵が《獅子の尾》隊舎に入れるはずもないのだ。一定以上の身分でなければ、《獅子の尾》の門を潜ることはできなかった。

 そういう意味では、ナーレスが《獅子の尾》の門を突破することは容易だ。存在そのものが身分証明といってもいい。彼ほどの有名人を都市警備隊の隊員が知らないはずはない。ナーレスは都市警備隊とも関係が深いのだ。

「で、メリルさんの故郷だからおすすめ、というのは本心なんですか?」

「ええ、もちろん。最愛の妻の故郷がどこの馬の骨ともしれぬ人間の支配地となるよりは、セツナ様の領地となるほうが嬉しいと考えるのは、ひととして当たり前の感情ですよ」

「それ、問題発言じゃないですか?」

「なにがです? わたしは、ただのナーレスですよ」

「はあ?」

「軍師ナーレスならば、このような形で《獅子の尾》隊舎に訪れないということです」

 彼はにこりと笑った。

「ですから、おすすめなどといえるのですがね」

「なるほど……軍師としてではなく、個人的な意見ということですか」

 ファリアは、納得しながらも少しあきれたようだった。が、個人的な意見ならば、理解できないことでもない、という表情を彼女はしている。

「まあ、軍師ナーレスに聞いたとしても、龍府かクルセールを勧めたでしょうが」

「内地ではなく外地、ということでございますね」

「そういうことです。よくわかっていらっしゃる。さすがはセツナ様の従者、といったところですね」

「お褒めに預かり光栄でございます」

 レムが恭しくお辞儀をした。

 ナーレスの彼女を見る目も優しいものであり、軍議でよく見る冷徹なまなざしとは比べ物にならないほど柔らかかった。それが、いまは軍師ナーレスではないという彼の発言の証明になるのかもしれない。軍師ならば、この場を凍てつかせる程度の発言くらい平気でしそうだった。そういう冷ややかさを持つのが、軍師ナーレス=ラグナホルンという男であるはずであり、いま、セツナが見ているのは、軍師と同じ姿をした別人のようにしか思えない。

「龍府にせよ、クルセールにせよ、方面軍の本部が置かれるほどの重要拠点です。龍府はアバードとの国境に近く、クルセールはシャルルムに近い」

「でもアバードって……」

「お忘れですか? アバードはいま、大変な状況にあります」

「ああ……」

 ナーレスの一言に、セツナは目を細めた。アバードの状況についてあまり話題にしなかったのは、話題にしたくなかったからだ。他国のことだ。外野からあることないこというべきではないと思っているのがひとつと、もうひとつは、恩人の安否が気にかかって仕方がないからでもある。言葉にすれば、心配は増大するものだ。

 アバードは、ザルワーンの北に隣接する国である。獣姫ことシーラ・レーウェ=アバード率いるアバード軍は、ガンディアを盟主とする連合軍に参加し、クルセルクとの大戦争を戦い抜き、勝利に大いに貢献したことは記憶に新しい。

 そのシーラ姫が、なぜかアバードで窮地に立たされ、それがきっかけとなって、アバードがふたつに割れてしまうほどの騒動になっているというのだ。シーラ派と王宮派にわかれ、一触即発の状態が続いているという。なぜそうなったのか、詳細な部分についてはわかっていない。アバードが国境を閉ざしてしまったからだ。情報の漏洩を嫌ったということになる。

「親ガンディア派といってもいいシーラ姫が立場を失えば、アバードはガンディアに対する態度を硬化させるかもしれません。もちろん、シーラ姫の有無が、アバードとガンディアの関係を悪化させるとは限りませんが、シーラ姫を排斥しようとしているものたちからすれば、彼女が先頭に立って推進していたガンディアとの協調路線を否定したくなるのは、想像に硬くありません」

「つまり、俺が龍府に入ることで、アバードに睨みを利かせる、と」

「そうですね。ただし、それはクルセールでもいえることです。クルセルクの北に位置するシャルルムは、昨今、国土拡大に精力的です。付け入る隙を見せれば、クルセールに兵を差し向けてくるでしょう。が、クルセールがセツナ様の領地となれば、シャルルムも矛を収めざるを得ません」

「黒き矛のセツナを敵に回してまでクルセールに攻め込む価値はない、か」

「黒き矛の怒りを買えばどうなるものか。想像しただけで震え上がりそうですね」

 妙に楽しそうに語るナーレスが、ナーレスらしくなくて不思議な感覚があった。いや、彼が広間を訪れてからずっとそうなのだが、まったく慣れる気がしなかった。

「とはいえ、クルセルク方面にシャルルムの毒牙が及んでいないところを見る限り、いまのところ、シャルルムにガンディアと事を構えるつもりはなさそうですが」

 シャルルムは、クルセルク戦争の最中も静観の構えを見せていた。シャルルムにその気があれば、クルセルク領土の一部でも掠め取ることくらいはできたかもしれなかったのにも関わらずだ。うまくすれば、ノックスかリジウル辺りをまるごと手に入れることもできただろうし、ガンディアがシャルルムの立場ならば、見逃さない好機だったはずだ。少なくとも、軍師ナーレスならばそれくらいのことは平然とやってのけるだろう。

「だから龍府がおすすめ、となるわけね」

「はい。セツナ様最愛のミリュウさんの故郷でもあるわけですし」

 ナーレスがしれっとした顔で告げると、ミリュウが愕然とした。

「……!?」

「なに? どうしたの? ミリュウ?」

「最愛……」

「なるほど、そこに撃破されたわけね。わかりやすいわ」

 微動だにしなくなったミリュウを横目に見て、ファリアが嘆息した。強気に攻めるくせに、攻められると弱いのがミリュウ=リバイエンという女性だ。いつもの光景といってもいいほど見慣れた状況でもある。

「ミリュウはともかくとして、そこまでいわれると龍府しかない、か」

「まあ、一ガンディア人の勝手なおすすめですので、気にしないでください。ミオン・リオンも悪くはないですし」

「いやそこははっきりと龍府にするべきだ、といってくれたほうがすっきりするんですけど」

 セツナがいうと、彼は朗らかに笑うのだ。

「ここはセツナ様が決めるべきですよ」

「だったら最初から個人的な意見をいわないでほしかったもんだね。うちの隊長殿、他人の意見にすぐに流されるんだからさ」

「ええ、ですから、意見を申したわけですが」

「……さすがは一般人のナーレスさんだね」

 涼しい顔のナーレスに、さすがのマリアもお手上げといった様子だった。

 セツナは、取り付く島もないといったナーレスの様子に肩を竦めながら、龍府の詳細が記された文書を手に取った。

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