第七百九十三話 仮面舞踏会(十)
王宮大広間で催された仮面舞踏会は、なんの問題も起こらず、午後十時を以って盛況の内に幕を閉じた。
閉会の際には、主賓であり、仮面舞踏会の提案者であるナージュ・レア=ガンディアが、仮面を外して挨拶を行ったため、多くの参加者が彼女に習って仮面を外した。全身で仮装したものは、気恥ずかしさからか仮面を外さなかったりもしたが、ほとんどの参加者が素顔を晒し、本来の姿で王宮晩餐会の閉幕に立ち会ったのだった。
そんな中で、アルベイル=ケルナーことテリウス・ザン=ケイルーンは、仮面を外さなかった。外したところで正体が明らかになるとは到底思えなかったものの、彼は用心に用心を重ねた。肌を晒した以上、北方人であることは明らかだ。その上、素顔を見せれば、国を特定される可能性も皆無ではない。
(わかったところで、どうなるものでもないが)
たとえ、彼の正体が明らかになったところで、ガンディアがベノアガルドに対してなんらかの行動を起こすとは考えにくかった。そもそも、テリウス自身、ガンディアにとって不利益となるような行動を取っているわけでもない。ただセツナ・ラーズ=エンジュールの実態を知ろうとしただけのことだ。その過程でジゼルコート・ラーズ=ケルンノールと知り合えたのは僥倖ではあったが、それがガンディアの怒りに触れるとは思えない。また、レム=マーロウと一触即発の事態になったことも、ガンディアが行動を起こす理由にはならないだろう。
要するに、なんの問題もないのだ。
(セツナの実態を知られることが不利益に繋がる、というのなら話は別か)
御前試合の真実を吹聴されるのは、確かにガンディアにとって不利益で、不愉快極まることだろうが、彼は、そんな馬鹿げたことをするつもりはない。彼の使命は真実の確認であり、それがどのようなものであれ、流布し、ガンディアを貶めることではなかった。ガンディアの有り様などどうでもいいことだ。虚飾にまみれ、虚偽と欺瞞が横行していようと、関係がない。
いずれすべて救うのだ。
それまで、虚構に満ちた栄光を謳歌していればいい。
(さて……)
彼は、ジゼルコートにどう説明するべきか考えなければならなかった。ジゼルコートは、テリウスの気ままな行動を不愉快に思っていることだろう。彼は、優良な領伯であり、ガンディアの影の支配者だが、だからといってテリウスの我儘を受け入れる道理はない。
晩餐会の閉幕とともに、大広間に集った参加者たちは、それぞれに退出を始めている。彼も大広間を出なければならないが、それにはジゼルコートを探さなければならない。ジゼルコートへの釈明は、一秒でも早いほうがいいだろう、いま、彼との関係をこじらせたくはない。
ふと、レム=マーロウが視界に止まる。彼女は、セツナ・ラーズ=エンジュールを中心とする集団の中にいた。集団の半数が《獅子の尾》の隊士であるらしいが、それだけではない。ガンディア軍の将兵が数名ほどが、セツナを中心とする輪に加わり、談笑に興じていた。
セツナは、確かに人望があるようだ。
(英雄であることに間違いはない、か)
たとえ、その英雄性がガンディア政府の主導で作られたものだとしても、彼が押しも押されぬ英雄であり、ガンディアという国の兵や民に希望を与えている人物であるという事実を否定することはできない。それもまた、重要な事実として、国に持って帰る必要があった。
王都のみならず、ガンディアには、彼を賞賛する歌が満ちている。ザルワーンやログナーでは竜殺しセツナの歌が流行っていたし、ガンディア本土では黒き矛の凱歌や獅子の尾戦歌といった歌や詩が好まれていた。
彼が、ガンディアの英雄であり、彼を慕うものが数多にいるのは疑いようのない現実なのだ。
それを理解した上で、テリウスは、セツナの実力を知った。
そんなセツナをじっと見つめるレム=マーロウの表情が気に食わなかった。理由はわからない。わからないことが、言い知れぬ不快感に繋がった。
不快感に苛まれながら歩いている内にジゼルコートに呼び止められ、彼は、ジゼルコートに促されるまま、大広間を離れた。そして、彼の屋敷に赴き、事情の説明を行った。隠し立てするようなことはない。元より、目的はすべて話している。
そして、彼の目的は、ジゼルコートの望みと合致してもいた。
ベノアガルドは世界の救済を標榜し、ジゼルコートはガンディアを救いたがっている。
だからこそ、彼はジゼルコートを友人と認め、彼の側を離れなかった。ジゼルコートがくだらぬ野心に取り憑かれた人間ならば、さっさと見限っていたかもしれない。
少なくとも、ジゼルコートの願いは、騎士団の崇高な理念を穢すものではないように感じられた。このことも本国に報告しなければならない。
ガンディアを救済する際には、ジゼルコートを利用することができるだろう。
仮面舞踏会が閉幕した。
ガンディアの各地から集った何十人、何百人の参加者が思い思いの格好をし、色とりどりの仮面をつけた舞踏会。自身の本質を仮面の奥に隠した上で交わされる言葉には、嘘や偽り、方便が入り混じっている。が、そのすべてが虚構というわけではない。真実も多分に含まれている。いや、むしろ、仮面を被っているときだからこそ、本心を明らかにしやすいということもあるだろう。普段いえないような言葉も、仮面舞踏会という席上ならば発することも許された。仮面の貴族や軍人たちが発する下世話な言葉も、憶測や噂の域を出ない会話の数々も、すべて、仮面によって本質を解き放たれた結果だったのかもしれない。
ナージュは、そういう空間を作り上げたのだ。
レオンガンドは、王宮警護管理官アヴリル=サンシアンからの報告を聞き終えて、静かに嘆息した。もちろん、大広間ではない。彼は、晩餐会の閉幕とともに王宮の戦略会議室に移動し、そこで夜更けまで会議を行うつもりだった。
王都凱旋から今日に至るまで政務に集中できなかったという事実がある。ナージュの妊娠が発覚したことが、レオンガンドを興奮させ、浮かれさせた。魔王を下し、北の脅威が去ったという高揚感の中での発覚だった事が大きいのだろうが、たとえ戦勝直後でなかったとしても、彼は浮かれに浮かれただろうし、ナージュの妊娠を祝う行事に熱中したことだろう。
それほどまでに嬉しいことだった。
ガンディア国内で、彼ほど後継者の誕生を待ち望んでいたものはいないかもしれない。レオンガンドは、後継者がいない中で国土の拡大を続けることには、常に不安を抱いていたのだ。ナージュとの結婚を急いだのもそれだ。まさかこんなに早く成果が出るとは思っていなかったが、決して悪いことではない。むしろ喜ばしいことだったし、幸運以外のなにものでもなかった。ナージュも幸せそうだったし、彼女の父親であるレマニフラの王イシュゲルも喜んでいるらしく、レマニフラからは毎日のように懐妊を祝う品々が届いていた。もちろん、レオンガンドの母グレイシアも喜んでいて、日々、ナージュのお腹の中の子供に話しかけているようだった。
後継者の誕生は、なにもガンディア王家だけが喜ぶことではない。後継者が誕生するということは、ガンディア王家が盤石になるということであり、ガンディアの現状を支持する国民にとって、これほど喜ばしいものはないだろう。ガンディア国内全土がナージュの懐妊を祝福する空気に包まれていた。そして、国中で祝賀行事が開催され、反響を呼んだ。ログナー方面でも、ザルワーン方面でも、ミオン方面でも、つい最近ガンディア領土となったクルセルク方面でも、だ。属国のベレルでもナージュの懐妊を祝福したという。
懐妊を祝福する一連の行事は、御前試合で最高潮を迎え、今宵の晩餐会で終わった。
終わった瞬間、レオンガンドは冷静さを取り戻していた。冷静になると、頭は冴え渡り、視界は広がった。
「ナージュの思いつきも馬鹿にはならんな」
レオンガンドは、仮面を被ったままのアヴリルを見つめながら、つぶやくようにいった。
「仮面舞踏会は本質を隠すものだと思っていたが、逆に、本質を明らかにするものだとは」
もちろん、ナージュがそこまで考えていたわけではあるまい。彼女は、自分が身重故に踊れないため、皆が踊っているさまを見て、楽しみたかったのだ。しかし、ただの舞踏会では面白みがない。そこで趣向をこらした結果が、仮面舞踏会だった。
「……色々と貴族たちの思惑が見れて面白いものです」
「面白いか」
「わたくしにしてみれば」
アヴリル=サンシアンは悪びれもせずにいった。そういうところは、兄であるオーギュストにそっくりであり、この場にオーギュストがいれば、彼の表情をうかがったものだが。
この場には、またレオンガンドとアヴリルのふたりしかいない。側近たちは貴族の相手を務めなければならなかったし、ナーレスは彼の妻を家まで送り届ける義務があった。将軍たちにもそれぞれ事情があって、会議への参加が遅れている。
「王宮警護の監視対象が増えたのだ。王宮警護の人員も増やす必要があるのではないか?」
監視対象となるのは、無論、ガンディア王家への忠誠心の疑わしいものたちである。貴族だけではない。軍人の中にも、監視する必要があるかもしれない人間が、何人かいた。
「その点に関しては、ご心配なく。既に手配しております故」
「ほう。さすがはアヴリル=サンシアン」
「今後、クルセルクの貴族も受け入れることになります故、王宮警護の増員は既定路線といったところです」
クルセルク旧領の一部がガンディアの領土となって、まだ一月も立っていない。クルセルクで権勢を誇っていた貴族たちが、ガンディアに帰属するべきか、それとも新天地を目指してクルセルクを去るべきかと頭を悩ませている頃合いだろう。もちろん、多くの貴族はガンディアに恭順し、帰属の意図を示しているのだが、一部、権勢を誇ったものたちには、受け入れがたいのだ。ガンディアに帰属するということは、ガンディアの一貴族に成り果てるということだ。クルセルク時代の権力を手放すということにほかならない。クルセルク全土が連合軍に平定され、分割統治されることが決定した以上、ほかに道はないのだが。
長年培ってきた権力を手放すということを受け入れるまでに時間がかかるのは、当然のことだ。
「そういうことか。だが、そのための人数を監視に割くのだ。さらに増員する必要は?」
「それはおいおい。いまは、監視対象の絞り込みと、人員の割当を行っているところです」
「ふむ……まあよい」
レオンガンドがうなずいたときだった。会議室の扉が開き、ひとりの紳士が入ってきた。予期せぬ客人の到来に、レオンガンドは、冷ややかな目をした。
「陛下。当然、その監視対象には、わたくしも入っておるのでしょうな?」
「ジゼルコート伯か」
レオンガンドが目を細めたのは、会議室の出入り口を警備している衛兵が、レオンガンドになんの連絡も寄越さなかったからだ。