第七百九十一話 仮面舞踏会(八)
「中々上手じゃないか」
舞踏は、アルベイル=ケルナーの主導だった。彼に導かれるまま、足を運び、移動し、回転する。どれもこれも曲調に合わせたものであり、そつがなく、間違いもなかった。彼は舞踏というものを知っている。少なくとも、一般人などではないことが明らかだった。挙措動作に品があるのもうなずけるというものだ。
「ジベルの死神は、貴族の方々とも戯れる必要がございましたので」
「習得する必要があったということか」
「社交の場に必要な最低限の技能は持っておりますわ。そういうケルナー様も、お上手でございますね」
「習得する必要に迫られたのでね。必死になって覚えたのさ」
仮面の奥の目は、当然のように笑っていない。レムが彼に警戒を覚えるのは、その目のせいかもしれなかった。超然とした目は、常人の持ち得るものではない。
「では、元々上流階級の出身ではない、と」
「そういうことになる」
「わたくしと同じでございますか」
「ジベルの死神が下層民だとは初耳だ」
彼の言葉は、彼自身が下層民出身だと明言しているようなものだ。しかし、信じがたい言葉では在る。彼の挙措動作は礼節に適ったものなのだ。それは、王宮に忍びこむために学んだ技術ではなく、身に沁みついている種類のものであり、上流階級の出身といわれても疑いようがないほど洗練されている。
「だれにもいっていませんので」
「ほう。わたしだけに教えてくれるのか」
「勘違いなさらないでくださいませ。わたくしの御主人様も、ご存知のことでございますわ」
「主ならば、知っていて当然のことだ」
彼が、やはり声だけで笑った。射抜くような視線が突き刺さるが、彼女は動揺ひとつ覚えなかった。セツナに同じような視線を向けられたら悲しむかもしれないが。それはつまるところ、アルベイルにどう思われようと関係ないからかもしれない。
彼の誘いに乗ったのは、彼の目的を探るためであり、彼が主であるセツナを侮辱したからでもある。怒りは収まり、冷静に対処できてはいるものの、彼が再びセツナを冒涜するような発言をした場合、感情の激発を抑えられるかどうかは保証できなかった。
「ええ。御主人様は、わたくしのことはなんでも御存知でございますわ」
「たとえば?」
「わたくしが、御主人様を決して裏切らないということも、知っておいでですわ」
だからこそ、レムの勝手な行動を容認してくれているに違いない。御前試合後、勝手に出歩いたことも、強く問い詰めたりはしてこなかった。セツナがレムだけに構っていられなかったということもあるだろうが、レムを信用してくれているからだと彼女は勝手に思っていた。
「ふむ……忠誠心は揺るがないということか。君は良い従者らしい」
「お褒めに預かり光栄ですわ」
とはいったものの、レムは社交辞令として受け取った。アルベイル=ケルナーは、それが気に入らなかったのかもしれない。仮面の奥の切れ長の目を細めた。
「本心だよ。君のように、主のためならば命を投げ出せる従者がこの世にどれほどいるのか」
「いますでしょう。掃いて捨てるほど」
「どうだかな。そこまではいないと思うよ。だれもが土壇場では自分の命を惜しむ。自分の命がかわいい。それが人間の本質だ」
「死神にはわかりかねますが」
レムは苦笑したが、彼の意見を否定したわけではなく、彼のいうことももっともだと思った。確かに、土壇場になれば、だれだって自分の命を優先するものかもしれない。が、徹底的に教育を受けた従者は違うだろう。命を投げ出すことも躊躇はしないはずだ。
「なるほど。君は死神だったな」
「お忘れになっては困りますよ」
「そうだった。ふふ……わたしとしたことが、つい、浮かれてしまったようだ」
「お浮かれついでに教えて下さいますか?」
レムが微笑を湛えて問いかけると、彼の表情から笑みが消えた。一瞬崩れかけた壁が再構築されるのがわかる。精神的な距離が開いた。肉体の距離は極めて近いというのに、心理的な距離感は、無制限に離れていくように感じる。警戒しているのだ。
「なにをかね」
「あなたさまの目的でございます」
「いったはずだよ。セツナ=カミヤの伝説をこの目で確かめたかった。そのために、わざわざガンディアまでやってきたというわけさ」
「どちらから?」
「さて、どこだろうね。見ての通り、わたしは北方人だ。北の国さ」
彼は、生まれを隠さなかった。というよりも、隠せなかったというべきだろう。降り積もった白雪のような肌の色は、北国出身としか考えられない。もちろん、北方人でなくとも、肌の白い人間はいる。が、北方人とそれ以外では、その白さの質が大きく異なるようだった。南方人の褐色の肌と、ただ日に焼けた肌の色が違うように、だ。
彼の肌の色は、北方人の特色としかいえないような白さであり、偽りようがなかったのだ。
とはいえ、北方にも幾つもの国がある。アルマドール、ベノアガルド、ザイールン。さらに北に向かえば、ヴァシュタリア共同体があるが、ヴァシュタリアは、国家ではないということになっている。
「国……ということは、ヴァシュタリアではない、と」
「そういえば、ヴァシュタリアは国ではなかったか。一応」
「ええ、一応」
「まあ、いい。小国家群のいずれかの国だということくらい、教えてやっても問題はないさ」
「その北国の方が、なぜ御主人様の実態に興味を持たれたのです?」
実態もなにも、セツナは、どうしようもないほどに英雄なのだが、実像を知らないものからすれば、彼の戦果の数々は誇張されたものとしか思えないものかもしれない。
彼がもし、二十代後半から三十代前半の武装召喚師ならば、その活躍も、ある程度は納得できるのだろう。しかし、セツナは十七歳の少年であり、前歴が謎に包まれている。バルサー要塞の戦いで突如として出現し、それ以降のガンディアの戦争で殊勲者として君臨し続けているのだ。冷静に考えれば、奇妙だし、不自然だ。武装召喚術がいかに強力なものとはいえ、彼のような英雄が生まれる可能性は限りなく低い。
リョハンの戦女神ですら、セツナほどの戦果を上げることはなかった。
アルベイルがセツナの実態を疑うのも、当然ではあったのだ。
だからといって、彼がセツナを侮辱するのは許せることではないのだが。
「セツナ=カミヤが噂通りの人物ならば、接触を図る必要があったからさ。黒き矛のセツナ。ガンディアの救国の英雄であり、竜殺し。たったひとりで一万以上の皇魔を討ち倒した魔屠り。近隣国のみならず、小国家群のあらゆる国が彼に注目している。それは、理解しているだろう?」
「はい。もちろんでございますわ」
レムは、アルベイルが発したセツナを賞賛する言葉の数々に満足した。もちろん、アルベイルがその言葉を噂程度にも信じていないことは理解している。アルベイルは、自分の目で見た物事しか信用しないのだろう。
彼は、御前試合の内容だけでセツナの実態を理解したつもりでいる。
それが、レムには腹立たしくて仕方がなかった。セツナの本質は、競技試合などでわかるはずがないのだ。
「だが、彼の実力を見て、確信したよ」
アルベイルの腕に抱かれながら、レムは彼の冷ややかな目を見据えた。心の奥底まで射抜くようなまなざしだった。その目が、レムの心の奥底になにかを見出すことができたのか、どうか。
腕の中から解放される。
舞踏は続いていた。
「この世界を救うのは、我々だ」
「救う?」
「人間も動物も皇魔も世界も、我々の手で救済するというのだ」
楽団の奏でる旋律が、舞踏曲の終わりに向かう中、アルベイルの囁きがレムの耳朶に深く刻まれていく。決意と覚悟を秘めた声音だった。
(救済……?)
馬鹿馬鹿しいことだが、彼は、心の底からその言葉を発しているのだ。
「無論、君もだ。レム=マーロウ」
「御免被りますわ」
レムは、満面の笑みを浮かべた。笑みは鉄壁の防壁となる。もはや、彼の目的を探る必要はなくなっていた。壁を再構築してもなんの問題もない。いや、一瞬でも早く壁を作り上げて、彼を拒絶する必要に迫られた。
「なに?」
彼の瞳に、感情らしい感情が初めて刻まれる。
「わたくし、とっくに救われておりますので」
絶望の闇を越えて、光の淵に導かれた。
手を引いてくれたのは、当然、目の前の男ではなく、テラスの側からこちらを見ている少年だ。彼は、なにやら難しい顔をして、レムとアルベイルを見ているようだった。まるで怒っているような顔つきだ。なにが気に入らないのか、すぐにわかった。レムが見知らぬ男と踊っていることが、気に入らないのだ。
レムは、セツナの態度が嬉しくて、つい小躍りしそうになった。
楽団の奏でる音楽が止まり、舞踏そのものが終わった。つぎの曲が始まるまでには数分の猶予がある。舞踏会場から抜け出すには十分な時間だった。
「残念だよ。君とは、分かり合えると思っていたのだが」
「わたくしは、最初から分かり合えないと思っておりましたわ」
レムがにこやかに告げると、アルベイルは涼やかに微笑んだ。
「だが、君は救ってみせるさ」
「ですから」
「いずれわかる。この世には救済が必要なのだということがな」
「はあ」
レムは、アルベイルの話の通じなさに途方に暮れかけた。彼に促されるまま、大広間の外周部に向かって歩いていく。
「ありがとう。楽しい時間だった」
「それは良うございました」
「君は、つまらなかったか?」
アルベイルの問いに対して、レムは迷うことなくうなずいた。
「はい」
「まったく……君の主に一言言っておくとしよう」
「是非、きつくいってくださいませ」
「……君のことがますますわからなくなったよ」
「わたくしのことをわかってくださるのは、御主人様だけで構いませんわ」
レムはそう言い返してから、深々と一礼した。アルベイルから離れると、周囲から好奇の視線が突き刺さり、彼女とアルベイルに関するくだらない憶測を並べる貴族たちの下品さに呆れる思いがした。どこの国の貴族も、似たようなものだということがよく分かる。ジベルでもそうだった。ジベルの貴族も、彼女とクレイグの関係を噂し、憶測を話し合う輩がいたものだ。当時の彼女は、クレイグを唯一無二の存在と仰いでいたから、そういう噂に関しても、むしろ嬉しいとさえ思っていたものだが。
実際は、クレイグ・ゼム=ミドナスとレム・ワ=マーロウは、主従の関係でしかなかった。どれだけレムが迫っても、クレイグはレムに触れようともしなかったのだ。いまなら、その理由はわかる。クレイグにとってレムは操り人形であり、ただの駒に過ぎなかったのだ。
(御主人様は、どう思っているのかしらね)
レムは、大広間の壁際に佇む少年に近寄りながら、彼が、かつての主とはまったく異なる態度で自分を見ていることに気づき、笑みを浮かべた。少なくともセツナは、レムのことを駒とは見ていないのだ。死神とも見ていない。
ひとりの人間として、レム=マーロウという個人として、認識してくれている。
その事実が嬉しかったのだが、彼には、笑みだけでは伝わらなかったようだ。
ぶっきらぼうに問いかけてきた。
「楽しかったか?」
「いいえ、まったく」
レムが即答したのは、アルベイルとの関係を勘違いされては困るからにほかならない。
「あまりにしつこく誘われるものですから、仕方なく応じただけでございますわ」
「ミリュウはそうはいってなかったぞ」
セツナがこちらに背を向けた。テラスに向かって歩き始めている。レムは慌てて彼の後を追った。追いながら、尋ねる。
「怒ってます?」
「怒ってねえよ」
確かに、声音に怒気は含まれていなかったが。
態度は、不機嫌そのものだった。
「御主人様のそういうところ、可愛くて好きですよ」
レムが思い切ってセツナの腕に自分の腕を絡めると、彼は困ったような顔をしたが、振り解こうとはしなかった。主にくっつくなど、従者としてはありえない行動だが、今宵の仮面舞踏会の場だけならば問題はないはずだ。
レムだって、たまには甘えたいこともあるのだ。