第七百九十話 仮面舞踏会(七)
心地よい疲労感が、全身を覆っている。こぼれ落ちる汗を拭っていると、何度かの失敗が繰り返し脳裏に浮かんで、消えた。
「付け焼き刃じゃ、難しいものだなあ」
ルウファは、椅子の背もたれに体を預けながらいった。隣に座ったエミルが、飲み物を差し出してくれる。受け取り、口に含む。冷水だった。火照った体にはちょうどいい。
その火照った体を覆うのは白を基調とした礼服だ。普段から白の外套を纏うことが多い彼にはなんの面白みもない衣装だったが、晩餐会の内容を考えれば、ほかに思いつかないのが正直なところだった。セツナとふたり、同じような格好だったこともあってミリュウには笑われたが、決して似合っていないわけではないだろう。
その証拠に、エミルが礼服を着込んだ彼に見惚れることが多々あった。
仮面は、羽つきのものを選んだ。天使の翼を象徴するかのような仮面であり、彼がその仮面を選んだのはシルフィードフェザーを意識したからに他ならない。
「でも、楽しかったですよ」
エミルも、華麗な衣装を纏い、仮面をつけている。華奢な肢体を覆うのは、巨大な華のような翡翠色の衣装であり、体の細さを補ってあまりあるといっても過言ではなかった。彼女によく似合っているし、何度となく見惚れた。見惚れあって、笑いあった。
彼女の仮面は、衣装と似た緑色の仮面で、花をあしらったものだ。戦場に咲く一輪の花たる彼女に相応しい、などといえば、ミリュウは腹を抱えて笑っただろうか。
「俺も、君と踊れて良かったよ。こういう機会、そうあるものじゃないしね」
「そうですね……本当に嬉しかったです」
「喜んでもらえたならなによりさ」
拙いながらも踊っている間は、ふたりだけの世界に浸ることができたのだ。それだけで満足だった。もちろん、完全にふたりきりになることは、彼らにとっては難しいことではない。《獅子の尾》副長という立場も、王宮召喚師という立場も、彼らの障害にはならない。その点、セツナとルウファは違う。個人でいられる時間は、セツナに比べてずっと多かった。
それに、セツナほど注目を浴びることはない。
いや、セツナが脚光を浴びているからこそ、影に隠れているルウファたちは伸び伸びとしていられるのかもしれない。セツナという光が眩しすぎるのだ。それは、ルウファたちの活躍も影に隠れてしまいがちだということになるのだが、主君たるレオンガンドさえちゃんと評価してくれれば、彼としてはなんの文句もなかった。
そのセツナが、ついさっきまで踊っていたのには、彼も驚いたものだ。
「それにしても、あのふたりが踊るとは思わなかったけど」
「セツナ様とファリアさんですか?」
「うん」
セツナが踊っていたこともそうだが、ファリアがセツナを相手に踊るということにも驚きを禁じ得なかった。そういうことをするのは、ミリュウの役目だとばかり思っていたからだ。ファリアは、消極的な女性だという印象がある。ミリュウが野放図なまでに積極的だからかもしれないが、ファリアがセツナに対してなんらかの行動を取った記憶がなかった。覚えていないだけなのか、ルウファの知らないところで行動を起こしているのか。
両方かもしれない。
「お似合いでしたね」
エミルがうっとりといった。彼女は、《獅子の尾》に入ってからというもの、ファリアと触れ合ううちに彼女を尊敬するようになっていた。彼女にとって一番の尊敬対象はマリアだが、そのつぎにファリアが入ってくるらしい。隊の雑務を難なくこなし、戦闘もお手の物である彼女を尊敬しないわけにはいかないというのだ。
その点、ミリュウは尊敬には値しないのかもしれない。彼女は、一般隊士である。戦闘で活躍すればいいだけのミリュウにとっての日常業務は、セツナにべったりとくっつくことであり、それは、勤勉なエミルには受け入れがたいものでもあるのだろう。もちろん、ミリュウを嫌っているわけではないのだが。
「ミリュウさんの前ではいわないことだね」
「わかってますよ」
「ま、ミリュウさんだって、あのふたりがお似合いだってことはわかってるだろうけど」
「ミリュウさんはミリュウさんで素敵ですし、セツナ様と踊ってもお似合いだったかもしれませんよ?」
「そうだろうねえ」
ルウファの脳裏には、ファリアとセツナが舞い踊るさまが描き出されている。愛情のこもった眼差しを交錯させ合うさまは、見ているこちらが恥ずかしくなるくらいだった。そのファリアがミリュウに代わっても、違和感はなかった。驚くべきことではない。貴族出身であるミリュウが踊れないはずはないし、彼女のセツナに対する想いがファリアに負けているはずもない。セツナのミリュウへの愛情も、ファリアに次ぐほどにはあるはずだ。
「あれはレムさん……ですよね?」
エミルの囁きに促されて、視線を向ける。彼女の視線の先には、確かにレム=マーロウの姿があった。長身の男性とともに舞踏の輪に加わっている。慎重さが大人と子供ほどあり、不格好極まりない。
「ああ。どういうことだ?」
「さあ?」
別にセツナ以外の男と一緒にいてはいけないという掟があるわけではないのだが。
ルウファは釈然としないものを感じずにはいられなかった。
「あそこで踊っておられるのは、レム様ですね」
「そのようだな。だが相手はセツナではないようだ」
レオンガンドは、ナージュとともに王宮大広間で歓談していた。周囲にはガンディアの有力貴族が勢揃いしている。太后グレイシア・レイア=ガンディアがいれば、ケルンノール領伯ジゼルコートもいる。彼の四人の友もいるし、オーギュスト=サンシアンやエリウス=ログナー、イスラ・レーウェ=ベレルといった人物も、それぞれに豪華な衣装を纏い、仮面をつけていた。
仮面をつけているのは、レオンガンドとナージュも同じだ。参加者なのだから当然のことだ。レオンガンドは獅子の国の王に相応しい獅子の仮面を被っており、銀糸の刺繍も鮮やかな白の礼服を着込んでいた。ナージュも、獅子の仮面だったが、こちらは女性用のものであるらしい。黒髪と褐色の肌を際立たせる白い衣装は、花のようにあざやかだ。
「セツナ様は先程までファリア様と踊られていましたもの。さすがに疲れておられますわ」
「そうだろうな。十曲ほど、踊り続けていたか」
「それほど熱中していた、ということでしょうね」
「微笑ましい限りだ」
セツナとファリアの関係は、見ていて歯がゆく思うこともある。セツナは、もはやガンディアに並ぶものがないといっていいほどの権力者であり、押しも押されぬ英雄だ。だれもが彼を褒めそやし、その功績を否定するものはひとりとしていない。いたとすれば、それはただの僻みであり、醜い嫉妬でしかない。
最近では、セツナを讃える歌が日に日に増えているという。黒き矛の凱歌、獅子の尾戦歌、竜殺しセツナ……様々な歌や詩によって彼は賞賛され、支持を集めている。
レオンガンドとしては、そろそろ結婚し、家庭を持つことも視野に入れて欲しかった。
相手がいないのならば、政略結婚という手もあるにはある。アバードの姫君は貰い手がいないというし、ガンディアの膨張に戦々恐々としているアバードにとっては、セツナとシーラの政略結婚ほど打って付けのものはあるまい。シーラがガンディアの英雄たるセツナの妻となれば、ガンディアがアバードを攻撃する可能性は限りなく皆無になる。アバードは、それを見越して、彼女を婚儀の席に差し向けたのではないか、と疑っているのだが、どうだろうか。
しかし、一方で、結婚相手はセツナに選ばせてあげたいとも思うのだ。セツナはガンディア躍進の最大の功労者だ。その功労者の人生のなにもかもを支配するというのは、あまりに可哀想だ、という考えが、レオンガンドの中にあった。
だからこそ、セツナとファリアの関係が発展することを願い、やきもきしながら見守っているのだが。
もちろん、必ずしもファリアでなければならない、ということはない。ミリュウでもいいし、たとえばレムを妻に迎えたとしてもそれはそれで構わない。それに、妻をひとりに絞る必要もない。英雄の血は、できるだけ多く残せるほうがいいのだ。
「わたくしも踊れるものならば、陛下と踊りたかったのですが」
残念そうな口調でありながら、彼女が自分のお腹を撫でる手つきは、優しく、慈しみに満ちたものだ。少し膨らんだお腹には、新しい生命が宿っている。レオンガンドとナージュの子が、そこにいるのだ。生命の神秘を感じずにはいられないし、喜びもひとしおだった。
まさか、こんなに早く子に恵まれるとは思ってもいなかった。
「なに、つぎの機会があるさ。そのときは存分に踊ろう」
「はい」
「そうだな。二十曲は踊り続けようか?」
レオンガンドが嘯くと、ナージュが口に手を当てて笑った。
「まあ、セツナ様に対抗意識ですか?」
「戦働きでは敵わないが、舞踏では負ける気がしないのだ」
「陛下ったら」
レオンガンドは、そういう風にナージュといつまでも話し合っていたかったが、そういうわけにもいかなかった。ナージュの相手を彼女の侍女たちに任せると、席を外した。少し離れたところに、彼の軍師が夫婦揃って舞踏会を観覧している。
ナーレス=ラグナホルンは、深い緑の礼服を着こみ、顔の上半分を覆う仮面を被っている。長身痩躯にはよく似合っていたが、痩せすぎなのではないかと心配になるのは、いつものことだ。隣には彼の伴侶であるメリル=ラグナホルンがちょこんと座っている。猫を模した仮面と白い衣装に身を包んだ少女は、レオンガンドが近づくと、礼儀作法に則って一礼すると、席を外した。こちらの意図を汲んでいるのだ。
(よく出来た妻だな)
レオンガンドは感心しながら、ナーレスに声を翔けた。
「ナーレス」
「……存じ上げております」
ナーレスはナーレスで、レオンガンドが歩み寄った意図を理解していた。ナーレスは席を立つと、談笑するふりをするように距離を詰めてきた。レオンガンドは、舞踏会場に視線を移しながら、声を潜めた。
「あれが件の男か」
「ええ。彼がアルベイル=ケルナーですよ」
レムと踊っている男のことだ。黒髪と、女性も羨むほどに白い肌が特徴的な男だ。素顔はわからない。仮面が、彼の顔を隠していた。
「また、レムに接触したということになるな」
「はい」
王宮警護管轄官アヴリル=サンシアンからの報告によれば、アルベイル=ケルナーは、御前試合の決勝直後、王宮の東庭園でレム=マーロウと接触し、戦闘行動に入っていたということだった。元々、出自の怪しい人物だということで監視下に置いていたのだが、彼がレムと激突したことで、危険人物としてより一層の警戒が敷かれることになっていた。
彼がジゼルコートと知り合いなのは間違いないようなのだが、アルベイル=ケルナーなる人物がガンディアにいないのもまた、事実なのだ。名と身分を偽ってジゼルコートに近づき、まんまと友人の座を勝ち取ることができたのか、それとも。
「あれの目的はなんだ?」
「わかりかねます。ただ、彼が北方人らしいのは、その肌の色で明らかですが」
ナージュの褐色の肌が南方人の特徴ならば、雪のように白い肌は北方人の特徴だった。アルベイル=ケルナーは、御前試合の会場では、頭巾に外套という格好で全身を隠していたというのだが、さすがに舞踏会では隠し通すこともできなくなったのだろう。むしろ開き直ったかのように肌を晒し、北方人であることを明示している。
「北方のいずれかの国が我が国の内情を探っている、ということかな」
「あるいはヴァシュタリアの可能性もあります」
「……ヴァシュタリアか」
レオンガンドは、ナーレスの意見に眉根を寄せた。顔が険しくなるのは、それが最悪の可能性だからだ。ヴァシュタリアが中央の情勢の変化に興味を持つのは、破滅の前触れにほかならない。たとえば、ヴァシュタリアが軍勢をアルマドールに入れるだけで、三大勢力の残り二国が連動して軍事行動を起こすだろう。三大勢力が大陸の覇権を巡り、小国家群を飲み込んでいくのだ。それは、圧倒的な速度で行われるはずだ。小国家群はあっという間に泡の如く弾けて消えるだろう。
レオンガンドは、そうさせないために、小国家群をひとつに纏め上げようとしている。一枚岩になれば、いかに三大勢力といえど、手出ししにくくなるものだ。
「いまは、そうではないことを祈るのみだな」
「はい」
「それと、あとでレムに事情を聞かねばな、なにかを掴んでいるかもしれない」
「それはセツナ様に任せましょう」
「ああ、それがいい」
レオンガンドは、ナーレスの提案を受け入れると、彼と挨拶をかわして、元の席に戻った。ナージュになにを話していたのかを問われたが、メリルと踊らないのかと尋ねたと答え、笑いを誘った。彼女が笑ったのは、ナーレスが踊るわけがないことを知っているからだ。
レムとアルベイルの舞踏は、身長差こそ不格好だったが、絵になるほど華麗であり、ナージュがおもわず見とれてしまうのも無理はなかった。
(レム=マーロウか)
彼女は、セツナを主と仰いでいる。
彼女から話を聞き出すには、セツナが打って付けだろう。ほかのものでは、はぐらかされるだけかもしれない。