第七十八話 王都への道を
「ここがどこだかわかるか、ニーウェ=ディアブラス君」
ランカインの問いかけはいつになく唐突で、セツナは一瞬、彼がなにをいっているのかさえ理解できなかった。幌馬車の暗闇の中、ランカインの表情はわからない。いつものように皮肉げに笑っているのかもしれない。
ラクサスは静かに眠っているが、リューグはというと、御者のオリスンにちょっかいを出しているらしい。もっとも、しっかり寝ることもできなかったオリスンを補佐するためでもあったが。リューグのくだらない冗談と、オリスンの困ったような愛想笑いが時折聞こえてくるのだった。
頭の中でランカインの質問を整理し、憮然とする。
「……どこをどう進んできたのかわからなきゃ判断のしようもない」
脳裏に描いた地図に疑問符が乱舞していた。レコンダールやマイラムなど、ログナーの都市の位置は把握しているのだが。
「レコンダールの北東に広がるカイライの森を北に抜けたところだ。その先になにがある?」
ランカインはなにが目的なのか、セツナを試しているようだった。声音にそういった響きがある。セツナは、むっとしたものの、黙殺して、わからなかったなどと思われるのも癪に障るので、仕方なく答えることにした。
頭の中にはログナーの地図が浮かんでいる。ランカインのヒントが、地図に明確な輪郭を刻んだ。
レコンダール北東を覆うカイライの森は、昨夜、皇魔との戦闘を繰り広げた場所だ。ブフマッツという呼称で認識される化け物たち。黒き矛の見せる幻想の中で殲滅してしまったらしい。実感は沸かなかったが、ランカインの言に嘘はないだろう。
そして森を抜けた。
北へ。
森は東西に広く、どこを北に抜けるかで行き着く先が決まるため、ランカインの説明だけではいくつかの候補が上がっただけだ。
しかし、王都マイラムを目指すのならば、他の町に立ち寄るとは考え難い。とはいえマイラムに向かって直進するというのなら、ひとつの障害物に衝突するしかない。
「……リャーマ鉱山」
カイライの森と王都マイラムを結ぶ直線上に厳然と聳えるその山は、かつて魔晶石が採掘が活発だったという。山麓には鉱山町ができ、いわゆるゴールドラッシュと言ってもいいくらいの賑わいを見せたらしく、それはそれはログナーの王都にも引けを取らないほどだったと記録されていた。
しかし、魔晶石を採り尽くしてしばらく後、皇魔の群れの襲撃に遭い、鉱山町は滅びたのだという。生存者がいなかったということが、皇魔の侵略の苛烈さを物語っている。
後に派遣された軍によって皇魔は討滅され、作られたばかりだった“巣”も徹底的に排除されたものの、不要となった街が復興されることはなかった。そしてリャーマ鉱山は閉山となり、もはや立ち寄るものもいない――というのが、セツナが記憶した知識だった。それ以上のことはわからない。
「ご名答。褒めてあげよう」
ランカインが、驚いたようにいってきた。彼としては意外だったのだろう。これまでのことを踏まえれば、そう思われても仕方がない。セツナは、自分が直情傾向にあることを理解していたし、ランカインとの会話の中で別段頭を働かせた記憶もなかった。もっとも、これは頭脳の問題ではないが。
とはいえ、ランカインの言いようには反発を覚えてしまうのは、本能なのかもしれなかった。
「あんたに褒められても嬉しくもなんともない。ログナーの地理を頭に叩き込んでおけってのはラク……レックスさんからの宿題だったし」
なんの役に立つのかはわからなかった――移動には馬車を使うのだし、地理を覚えておく必要性には疑問を抱くしかなかった――が、それでも、上官からの命令なのだ。全力で取り組むしかない。そして毎晩夢に出るくらいには勉強した。ファリアやルウファに冷やかされながらも、だ。
そのおかげでログナーの地理はほぼ完璧に把握できていた。現在地と方角さえわかれば、ひとりでも大丈夫なくらいには。無論、セツナひとりでなにができるわけでもない。
いや、と彼は胸中で頭を振る。殺戮ならば――と。破壊ならば。情け容赦のない、ただの破壊と殺戮ならば自分にもできる。黒き矛を召喚すればいい。それだけで、だれもセツナを止めることなどできなくなる。
が、それでは意味がないことも彼はわかっている。目的を忘れてはならない。王の密命を果たすためにここにいるということを忘れてはならない。
諜報員の無事を確認すること。もし囚われているのなら、救いだし、ガンディアに連れ帰るということ。
その任務を全うしなければ、なんのためにここまで来たのかわからなくなる。居場所もなくなるかもしれない。
ようやく掴みかけた自分の居場所。
ガンディアの武装召喚師。
「さて。なぜリャーマ鉱山に向かっているのかわかるかね?」
「さあな……」
適当に答えを濁しながらも、心の中で吐き捨てる。
(あんたの狂った思考なんてわかってたまるかよ)
ランカインへの嫌悪だけは拭いきれない。彼が例えレオンガンド王に真に忠誠を誓っているのだとしても、決して。
カラン大火が、この世界に来て最初に目撃した惨状だからかもしれない。小さな街を飲み込んだ猛火は地獄のような光景を描き出し、彼の目に焼き付いていた。紅蓮の炎の中で狂ったように笑うランカインの姿も、忘れ得ぬ記憶となった。
一度ならず二度までも、彼のおかげで窮地から脱せたものの、そんなことでランカインへの感情が変わるはずもなかった。屈折しているわけではないだろう。冷静に判断する。
真っ直ぐなだけだ。
素直に嫌っているだけだ。憎しみもあるだろう。あの大火の犠牲者に知り合いはいない。しかし、焼け出されてきた町の人達と知り合ってしまった。縁を持ってしまった。エリナと、仲良くなってしまった。
情が結ばれた。
ほんのささやかな感情の灯火は、彼の心の奥底で、ひっそりと揺らめく程度だった。実際、カランを離れてからというもの、エリナたちのことを思い出している余裕さえなかったのだ。
あのとき、ワーラムの街角で彼と予期せぬ再会さえ果たさなければ、燃え上がるようなこともなかったかもしれない。ランカインという狂人は、記憶の中の一景色と成り果てたのかもしれない。怒りも哀しみも、緩やかに風化していったのかもしれない。
しかし、彼は現れた。しかもただ現れたのではない。任務の同行者として現れたのだ。
セツナの心の深淵に揺れる灯火が、身を焼き、魂を焦がすほどの業火となって燃え上がったのは致し方なかった。理性だけではどうしようもない。
ランカインへの感情はもはや、手に負えない化け物のようなものに成り果てていた。
それをどうにかしなければならないのはわかっている。任務に支障が出るし、なにより、これから先も顔を合わせることもあるだろう。顔を突き合わせる度に憎悪を募らせていては、セツナの心が狂ってしまう。
「で、そのリャーマ鉱山になんの用事なんだ? 迂回したほうがよくないか?」
鉱山を登ろうとでもいうのだろうか。確かにリャーマ鉱山は、カイライの森からマイラムまでの直線上にあり、山を越えることで王都までの距離は劇的に短縮できるかもしれない。しかし、リャーマ鉱山は峻険だという話であり、馬車で踏破するなど夢のまた夢だろう。
険しい山道を行くよりも、山を大きく迂回してでも平地を行くほうが安全に違いない。多少時間はかかるだろうが、この場合は安全を第一に考えたほうがいい。
ただでさえ戦闘続きなのだ。
セツナの肉体も精神もぼろぼろになっていた。応急手当てをし、包帯を巻き付けているものの気休め程度にしかならないのだ。全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げており、馬車の車輪が刻むわずかな振動さえも、いまのセツナにとっては苦痛だった。
それでも文句ひとつ口にしないのは、愚痴を垂れたところでそれが解決するわけではないことを知っているからだ。黒き矛の召喚による肉体的な疲労には馴れた、というのもあるかもしれない。黒き矛は敵のみならず、召喚者たるセツナにも容赦がなかった。
もっとも、精神面の疲労にどこまで耐えられるものなのかわかったものではないが。
「マイラムに着いたとして、どうやって中に入るつもりだ? 警備はレコンダールの比ではない。ましてやクーデターの直後だ。厳戒も厳戒だろうな」
「そんなこと、俺が知るかよ」
「知る知らないじゃない。君は君なりに頭を使って考えることだな。確かに我らは主君の命に従うだけの狗に過ぎない。しかし常に状況を把握し、思考していなければ、ただの駄犬に成り果てる。我らは駄犬に非ず。牙を持ち、爪を秘す走狗なり」
闇の中で、ランカインの口の端が歪んだ気がした。嗤っている。セツナを、ではないだろう。この状況を楽しんでいる。彼はそういう男だった。それがセツナにはたまらなく不愉快なのだが、彼にはどうすることもできない。
「あんたはなんで持って回った言い方しかできないんだよ」
「くくく……これが性分だからとしかいいようがないな」
何処か愉快げに告げてきたランカインに対して、セツナは肩を竦めて嘆息を浮かべた。精一杯の皮肉も通用しないのだ。なにをいったところで動じないのだろう。口論においてはセツナに勝ち目などなさそうだった。
「……あんたの言いたいことはわかった。ただ命令に従うだけの兵器にはなるなってことだろ」
命令に従うのは当然としても、その命令を遂行するに当たっては自分で考え、行動するということ。どうすれば最良の結果が得られるのかを考え、そのために必要なことに取り組むということ。よく考えれば当たり前のことだったが、初の任務に緊張し、集中するあまり視野の狭くなっていたセツナには、目から鱗の落ちるような話ではあった。もっとも、視野が狭くなっていたのは、精神的な疲労があまりにも大きいというのもある。疲れきった頭では冷静な判断など望むべくもない。
「君は物分かりが良いな。嫌いじゃない」
「俺はあんたが嫌いだ」
「結構。それでいい。しかし、君の俺への憎悪をぶつけられる連中が可哀想ではある」
こちらの敵意を意にも介さず、それどころか喜んでいるかのように喉を鳴らすランカインにはセツナとて冷ややかな目を向けるしかない。どうせ怒気は受け流されるのだ。ならば冷めた視線を注ぐべきだろう。
もっとも、凍てつくようなまなざしを送ったところで、彼が何らかの反応を示したわけでもなかったが。
セツナは、独り徒労感を覚えながら、ランカインに尋ねた。
「……鉱山から先どうするんだ? まさか山を越えるなんて言わねえよな?」
「まさか」
彼は、セツナの言を一笑に付した。
「坑道を行くのさ。馬車にはこの辺りで待機していてもらうが、リューグが付いていれば安心だろう」
「安心できるのかよ」
セツナは、ランカインに問いかけながら、御者側から聞こえてくる声に眉根を寄せた。取るに足らない世間話でもしているのか、オリスンが適当に相槌を打っているのが耳に触れる。静寂の中、外の喧騒は普通以上に響いていた。くだらない冗談ばかりを飛ばす彼の相手をしなければならないオリスンのことが少々気の毒になった。
リューグ。元は野盗集団の一員であり、頭目ダグネが降参したことでラクサスの支配下に入り、ダグネたちが裏切ったあともラクサスに従っていた。それを本当に信用してもいいのだろうか。
ランカインの嗅覚はともかく、ラクサスの判断に否やはない。そもそもセツナは、ラクサスに意見が許されるような立場にはいないのだ。唯々諾々と従うより他はなく、例えラクサスの考えに疑問が生じたとしても、それに口を挟むことなど憚られた。
「信頼しろとは言わんさ。ただ、彼は君や俺と同じだからな。裏切ることはあるまい」
「俺はあんたとは違う」
セツナは、ランカインの言葉を間髪を入れずに否定した。彼の言いたいことは理解できる。しかし、自分が彼と同じであるなどとは認めたくはなかった。理性では納得できることも、感情は拒絶するのだ。ランカインのような真似をしたことなどなかったはずだ。彼のようにただ無為にひとを殺したことなど。
「……そうだな。君は狗の皮を被った鬼だ」
ランカインは、こちらの意見を否定するどころか、むしろ肯定するかのように言ってきた。その言葉に込められた呪詛のような音が、セツナの鼓膜の奥で反響する。鬼。鬼。鬼。鬼。脅えたようなまなざしがこちらを見ている。いくつもの眼。兵士たちの視線。恐怖と不安に震える瞳は、しかし、セツナから背けることもできないようだった。
あの日、晴れ渡った空の下、幾多の敵兵を殺戮したセツナを待ち受けていたのがそれだった。化け物にでも遭遇したかのような態度だった。だれもが彼の存在を歓迎していなかった。軍命通り、敵を殺戮しただけなのに。
鬼。
セツナは、彼らの囁きを聞き逃さなかった。散々な言われようだった。しかし、セツナの戦いぶりを目の当たりにしたものからすればそう言わざるを得なかったのかもしれない。五百人に及ぶ敵兵を焼き殺し、さらには死兵と化した殿を殲滅した。尋常な戦果でないことは確かだった。それも黒き矛があったればこそなのだが、だれもがそんなことを考慮してくれるはずもない。
召喚武装による大量殺戮。
ランカインとの違いなど、殺した相手の違いでしかないのではないか。
セツナは、闇の向こうで冷ややかに嗤う男をきっと睨んだ。睨まずに入られなかったのだ。同時にそうすることでしか感情を処理できない自分の情けなさに落胆する。彼を睨んだところで何が解決する訳もない。心に安定が訪れるわけもなければ、過去が変わる訳もない。セツナは依然として鬼と呼ばれた存在であり、それを否定する要素などはなから持ち合わせてもいなかった。所詮化け物だ。それを肯定したはずなのに、またしても苦しんでいる。
(違う。そうじゃない)
セツナは、今日中で首を振る。化け物であることは認めよう。ただし、それは戦場においてのみだ。黒き矛を持たざる戦場以外では、鬼ではないのだ。ただの世間知らずのガキに過ぎない。戦場を離れれば――。
(そうか。だから)
狗の皮を被った鬼、なのだろう。
平時は従順な狗のように振る舞いながらも、戦となれば鬼の如く暴を振るう。
それがセツナ=カミヤという存在なのだ。
いままでの戦いでわかりきったことではあったのだが、こうして改めて考えてみると、自分が如何に異様な存在であるかがわかるというものだ。稀有で奇妙な存在。戦の一字も知らなかったくせに、ひと度戦場に立てばだれもが恐れ戦くような戦禍を撒き散らす。尋常ではない。
とうに分かっていたことだ。
改めて考える必要もないはずなのだ。それでも、彼は考え込まざるを得ない。そういう性分なのだ。そういう点ではランカインとは違うとはっきり言えるのだが、その差異に果たしてどのような意味があるというのか。
(意味なんてないさ)
セツナは、胸の内に沸いた疑問を即座に吐き捨てた。そんなことを考えているから、ランカインの付け入る隙が生まれるのだ。考えなくていい。無心であればいい。考えるのは、任務に関することだけでいい。それだけでいいのだ。
やがて、馬車が停止した。
「着いたか」
「どこに?」
「鉱山町の跡地だ。そこにいる監視員どもをどうにかしないことには坑道に入ることもできん」
ランカインが腰を上げたのが、小さな音と空気の揺れでわかった。荷台から降りようというのだろう。セツナは、彼の後に続くために中腰になりながら、不意に湧き上がった疑問を
「監視員? なんでそんなものがいるんだ? 鉱山は閉山されたんじゃないのか? それに町は滅びたって話だろ?」
「少しは自分の頭で考えたらどうだ。俺たちはなぜ鉱山に向かっている?」
「そりゃあんたが決めたからだろ。俺が知るかよ」
ランカインのあきれたような口ぶりにむっとしてそっぽを向こうとした。が、このままなにも答えられないようでは己の無能っぷりを自ら認めるようなものだ。それはさすがにセツナの自尊心が許さなかった。考える。記憶を辿り、ランカインの言葉を思い出す。
「……いや、坑道を行くんだったよな。まさか、坑道がマイラムに繋がっていて、そのために監視を置いているのか?」
それならば納得の行く話だ。鉱山を野盗や山賊の根城にされる可能性を考慮すれば、放置しておくこともできまい。鉱山町は潰れ、誰も寄り付かなくなったとしても監視の目を緩めることはできないだろう。また他にも、鉱山が皇魔の“巣”にならないようにという理由も考えたのだが、どうもしっくりこなかった。その理由も十二分に有りうるとは思うのだが。
「ご明察。やればできるじゃないか」
「……いちいちむかつくな、あんたは」
「その怒りを敵にぶつけたまえ」
ランカインが嗤う。いつものように狂おしく。いつものように禍々しく。
セツナは、そんな彼を一瞥すると、ことさら冷ややかに告げた。
「いちいち怒ってられるかよ。馬鹿馬鹿しい」