第七百八十八話 仮面舞踏会(五)
「セツナ様のお相手はどなたかしら?」
「あの青い髪を見ればわかるだろう。《獅子の尾》の隊長補佐殿だよ」
「ああ、あの高名な雷光の射手様ですわね」
周囲の話し声が聞こえ始めたのは、ふたりだけの夢のような時間を満喫して、心に余裕ができはじめたからかもしれない。王宮大広間の舞踏会場。ファリアとセツナだけが独占しているわけではないが、ファリアは、確かにセツナとふたりだけの世界を認識し、浸りきっていた。
手を取り、鼻息が触れ合うほどの距離感を保ちながら、ただ踊っているだけの時間。しかし、それだけでファリアの心は満たされた。不安も不満も消えて失せ、仕事で疲れきっていた心が、完全といっていいほど回復してしまっている。むしろ、俄然やる気が出てきた。彼の負担を減らすためにも、もっと仕事に精を出さなければならない。そんな風に想ってしまうほどだ。
(人間って、本当、単純ね)
セツナの手がファリアの腰を引き寄せ、たおやかな旋律に合わせて彼女を回す。廻る世界で、彼女が感じるのはどうしようもない幸福と、わずかばかりの罪悪感だ。彼女の背を押してくれたミリュウへの。
ミリュウだって、セツナと踊りたかったはずだ。リバイエン家の令嬢である彼女が舞踏を嗜んでいないはずはないし、ともすればファリアよりも余程上手く踊れるかもしれない。そして、ミリュウがセツナを心の底から愛しているということも、知っている。
そんな彼女が、セツナと踊る機会を手放すなど、考えられないことだった。
ミリュウには、感謝するしかなかった。この気持ちをどうやって彼女に伝えるべきか、どのようにして表現するべきか――そういったことをセツナの腕の中で考えるのは、若干の後ろめたさを生んだ。そういうことは、舞踏会が終わってから考えるべきなのかもしれない。
貴族たちの会話が耳を掠めたのは、そんな頃合いだった。
「ファリア・ベルファリア=アスラリア。セツナ伯の寵愛を受ける女性のひとりだな」
「セツナ伯の周りには素敵な女性が多いと聞くが、本当のようだ」
「最近では可愛らしい従者を侍らせているとか」
「英雄、色を好むという。悪いことではあるまい」
「だれも悪いとはいってはいないさ。むしろ、喜ばしいことだ。セツナ伯の血筋は、ガンディアの未来を明るくしてくれるに違いない」
取るに足らない社交辞令も、品格を疑うような下世話な会話も、上流階級の嗜みなのかもしれない。仮面の奥に隠された表情からは、そういった言葉をかわすものたちの真意はわからない。言葉通り、喜んでいるようであり、否定的な気配もある。
セツナ・ラーズ=エンジュールという存在を疎ましく思う貴族がいても不思議ではなかったし、また、公然とセツナを応援している貴族だって存在する。
セツナは、いわば新興の貴族だ。既得権益を奪われまいとするものもいるだろう。逆に、セツナに擦り寄ってくるものも少なくはないようだが、セツナ自身が権力や権益に興味が無いこともあって、そういったものたちと徒党を組み、派閥を形成するといった事態に発展する可能性さえ生まれなかったが。
ファリアは、そのような周囲の会話もまったく気にならなかった。目の前の少年のことばかり注目しているからだし、踊りに集中しなければならないからでもある。転倒してセツナに恥をかかせる訳にはいかないし、セツナを転倒させてもいけない。セツナが足を踏み間違えれば、そこを補うように誘導するのがファリアの役割だった。
セツナの舞踏はまだまだ稚拙で、危なっかしい。
「思い出すわね。練習していた頃」
「俺も、そういおうと思ってた」
セツナがはにかむと、ファリアがびっくりするほど少年らしくなった。セツナは普段から少年そのものなのだが、歳相応に振る舞うことが許されない立場だと自覚している限り、彼が少年らしい表情を見せることは稀だ。大人になろうと、必死にもがいている。もがき、苦しんでいる。そういう彼の表情ばかり見ているからだろう。
少年の素顔に、胸が締め付けられた。
「少しは上手くなったかな?」
「ほんの少しね」
「手厳しい先生だ」
「当然でしょ。領伯様なら、もっと上手くなってくれなきゃ」
舞踏は、貴族社会に溶け込むためには必須の技能といってもいい。ある程度の貴族になれば、舞踏会を主催するのもめずらしくはなかった。もちろん、王宮晩餐会のような大規模な舞踏会を開く個人などいるはずもないが。
それに、セツナが貴族社会に溶けこむつもりがないことも、理解している。彼は、彼の役割を果たすことだけで精一杯だったし、主君も国も民もそれを容認している。セツナに称号や領地を与えるのは、彼を装飾し、その名に相応しい人物に仕立てあげるためだ。
無冠の英雄では、あまりに通りが悪い。ガンディアの評判にも関わる。だからセツナは領伯に任じられ、貴族の末席に加わった。いや、末席などではない。頂点から二番目、三番目といってもいいような位置だ。しかし、国が彼に貴族としての責務を問うことはなかった。領伯としての勤めは、司政官が代理していたし、諸々の事で彼の頭を悩ませるということもなかった。
セツナの本分は戦いであり、そのことは本人も周囲も認識しているのだ。
「それなら、もっと教えてくれないと」
セツナのその一言が、妙に嬉しかった。彼に頼られることが嬉しいのかもしれない。頼られるということは、必要としてくれているということであり、必要としてくれるということは、そこに居場所があるということだ。
「ミリュウとふたりで徹底的にしごいてあげましょうか?」
「徹底的に?」
「そう、徹底的に」
「……考えとくよ」
「冗談よ」
「わかってるさ」
セツナが笑ったのとほとんど同時に音楽が終わった。ふたりは同時に足を止めて、見つめ合った。互いに上気していて、息が上がっていた。かなりの長時間踊っていたのだ。息が上がるのも当然だったし、疲労を覚えたのも仕方のないことだ。だが、心地の良い疲れだった。
「何曲くらい踊っていたのかしら?」
「さあ?」
他愛のない会話を浮かべながら、セツナがファリアを先導していく。彼は、舞踏の輪の外へ向かっていた。踊り疲れたのだろう。ファリアも同じ気持だった。ふたりだけの世界を堪能できたのだ。これ以上、舞踏会の場を荒らすような真似はするべきではないだろう。
晩餐会の参加者たちが注目する中を主賓であるセツナに導かれていくというのは、これ以上ないほどの優越感に浸れる時間だった。
ファリアは、嫉妬や羨望、憧憬や好奇といった感情が乗った数多の視線を感じながら、セツナの度胸に感じ入った。ファリアは貴族でもなんでもない。ただの武装召喚師であり、親衛隊の隊長補佐でしかない。領伯が丁重にもてなすような位の相手ではないのだ。しかし、セツナは賓客を遇するように、ファリアを大広間の外へと連れていくのだ。
向かう先はわかっていた。ミリュウたちがいるテラスだ。そこにはマリアとレムもいて、セツナとファリアが来るのを待っているはずだった。ミリュウに感謝するとしたらそこでだろうか。それとも、晩餐会が終わって、ふたりきりになれたときだろうか。
そんなことを考えていると、白と黒の衣装を着込んだ少女と擦れ違った。彼女は、蒼白の礼服の男性に導かれて、舞踏会場に向かっており、擦れ違う際、セツナとファリアに会釈した。
「あれは……」
「レム?」
この晩餐会に参加している黒髪の少女など、レム=マーロウ以外にはいない。少女だけならば、貴族の令嬢や軍人の家の娘など数えるほどいるのだが、黒髪となればレム以外考えられない。そもそも、服装がレムのそれだった。
ファリアとセツナは釈然としないまま、ミリュウたちがいるはずのテラスに向かった。
「ふたりとも、素敵だったわよー」
テラスに出るなり、ファリアはミリュウに抱きつかれた。いつもの愛情表現だ。ファリアは、感謝を込めて、抱きしめ返した。
「そうかしら」
「うん。とっても」
「そうだね。妬けるくらい素敵だったよ」
マリアの言葉には、ファリアは赤面せざるを得なかった。