第七百八十七話 仮面舞踏会(四)
「えらく持ち上げるもんだねえ。なにか悪いものでも食べた?」
マリアが、少しばかり気恥ずかしそうに体を小さくした。軍医という仕事柄、容姿を褒められることが少ないのだろう。衣装を選ぶときも、ミリュウの褒め言葉ひとつひとつに過剰なほど反応し、顔を赤らめたものだ。その反応があまりに可愛らしかったので、ミリュウはマリアがますます好きになった。命の恩人をからかうのもどうかと思うのだが。
「食べてはないけど、酔ったかな」
実際のところ、料理はほとんど口に入れていなかった。果実酒ばかりを飲んでいる。とくにレマニフラの葡萄酒が美味しくて、セツナを待っている間、ファリアと飲み比べをしたほどだ。
「飲み過ぎも体にいいもんじゃないよ」
「わかってるわ」
「あんたの体質が特別でもさ、気を使いな」
マリアが気遣うように、そして、囁くようにいった。特別な体質とは、レヴィアの血筋のことだ。ファリア=バルディッシュから聞いた話を、ミリュウはマリアにだけ話していた。クルセルクの野営地で黒い戦士に受けたのは致命傷であり、普通ならば死んでいてもおかしくはなかったのだ。そのことを疑問に思ったマリアへの回答として、レヴィアの血、リヴァイアの呪いについて話している。
不老不死になる可能性を持つ長命の呪い。マリアはその呪いのおかげで、ミリュウが死なずに済んだのだといった。常人とは異なる体質は、自己治癒力を高めているらしいのだ。マリアにもそれ以上詳しくはわからないということだったが、それで合点のいったことがいくつもあった。
魔龍窟で、何度か死にかけたことがある。戦闘経験もない箱入り娘があの地獄を生き抜くのは簡単なことではなかったのだ。十年の間に力と技術を身につけたが、身につけるまでは当然、素人であり、死にそうな目に遭うのは必然だった。だが、死なずに生き延びたのは、この体質のおかげなのかもしれない。
だとすれば、オリアスが、なんの訓練もしていないミリュウを魔龍窟に投げ入れたことにも、説明がつく。オリアスは、ミリュウが地獄を生き延びることを知っていたのだ。体質が、彼女を守りぬくということを理解していたのだ。だからこそ、地獄に落とし、力をつけさせた。憎悪を育ませ、自分を殺させようとした。
血の継承のために。
呪いの継承のために。
そんなことを考えたくなってしまうほど、星が遠い。
「あんたが体調を崩したら、隊長殿が悲しむよ」
「まさか、先生も酔ってるんじゃないでしょうね?」
「酔ってるかもね。雰囲気にさ」
マリアが会場のほうを見やった。いつの間にか、レムがテラスに出てきていた。セツナの側にいなくていいのか、と問おうとして、やめた。彼女なりに気遣ってくれているのだ。ここはなにもいわずに受け取るべきだろう。
「それは、あるかもしれませんねえ」
「あんたが?」
「はい。なんといいますか、王宮晩餐会は独特の雰囲気があって、気圧されるといいますか」
「へえ……あんたでもそういうところがあるんだ」
ミリュウは、レムの発言に素直に驚いた。レム=マーロウといえば、何事にも動じない人物だという印象がある。実際のところはどうか知らないが、少なくとも、彼女が使用人を演じ始めてから、ミリュウが見ている前で取り乱したことはない。そしてそれは、彼女がセツナの元に戻ってきてから特に顕著だ。
「わたくしも、元は人間でございますから」
「いまでも人間にしか見えないけどね」
《獅子の尾》隊士のみならずレムの体調管理も任されているマリアがいうほどだ。ミリュウからすれば、レムは人間以外のなにものでもない。
「だから変なのです」
「変?」
「もはや人間ではないというのに、人間と同じ姿形だから違和感を禁じえません。姿形が人間とまったく別のものに変わってしまえれば、どれほど気楽なのか。そう考えることがあります」
「本当に人間じゃないの?」
「二度も死んで、蘇ったものが人間といえるのでしょうか?」
「そんなことをいったら、あたしも化け物の類よね」
「あはは、そりゃそうだ」
「先生、酷い」
「あー、ごめんごめん。ま、なんだ、人間の定義なんて話し合ったって埒が明かないもんさ。レムはレム、ミリュウはミリュウ。それでいいじゃないか」
「いいけど、なんか納得がいかない言い方だわ」
「皆様がそう仰られるのなら、それで構いませんが……」
レムが困ったようにつぶやくのを黙殺して、彼女は再び空を仰いだ。暗い空。雲が月を隠そうとしている。影が、大地を覆い始めていた。だが、テラスが闇に覆われることはない。魔晶灯があり、大広間からの光もある。恐れることはない。
「それにしても、偉いじゃないか」
不意に、マリアガクチを開いた。
「偉い? あたしのこと?」
「そうだよ」
見ると、彼女が微笑んでいた。優しい笑みだ。患者に向けられるものとはまったく違う類の優しさ。マリアの包容力は、破壊的といっていいほど強烈で、ミリュウは目頭が熱くなるのを感じた。
「隊長殿をファリアに譲ってあげるなんて、あんたらしくないんじゃないかと思ってさ」
「そうでございますね。確かに、いつものミリュウ様なら、ファリア様を押しのけてでも、御主人様を独占しようとするものと思っておりましたが」
「あんたも先生も、あたしをなんだと思ってるのよ」
わかってはいたことだが、ミリュウは口先を尖らせて抗議した。
「セツナ信者二号。一号はもちろんラジャール室長殿だよ」
「否定はしないけどさ」
「対御主人様制圧装置」
「なんなのよ、それは」
「ですから、御主人様を制圧するには、ミリュウ様を使うのが一番かと」
「あたしで制圧できるならいいんだけどさ」
「できませんか」
「できないわよ」
即否定すると、レムはなぜか残念がっていた。セツナを制圧して欲しいような場面にでも出くわしたことがあるのだろうか。ミリュウにはわからない。もちろん、ミリュウがセツナを制圧したいときならいくらでもある。いまでさえ、独占し、一日中甘えていたいと思うのだ。だが、それを堪えなければならないこともわかっている。
「たまにはさ、ファリアにも甘えさせてあげたいじゃない」
大広間の中心では、ファリアとセツナが踊っている。大勢の参加者が舞踏に興じる中、たったふたりの世界を作り上げてしまっている。だれもその世界に立ち入ることはできない。羨ましいと思う反面、安堵してもいる。セツナがファリアを受け入れたことに、だ。
最近、セツナとファリアの仲が気になって仕方がなかったのだ。セツナの周囲には魅力的な女性だ多い。自分はともかくとして、マリアにレム、それに参謀局のアレグリア=シーンがセツナに色目を使っているという噂もある。
このまま放っておけば、ファリアとセツナの仲が悪くなるのではないか。ふたりがなんとも思っていなくとも、周囲がそういうふうに感じ取ってしまえば、ふたりの関係そのものも悪化しかねない。
それは、嫌だ。
「あんたのそういうところ、好きよ」
「ありがと、先生」
「ミリュウ様は、ファリア様も好きなのでございますね?」
「うん……そうだね。大好きだよ。本当に」
ファリア・ベルファリア=アスラリア。彼女とは不思議な関係だった。セツナを巡る恋の敵なのだが、憎めるわけがない相手。自分より年下のくせに、ときには姉のように振る舞い、ときには母のように叱りつける。言動のひとつひとつに愛情があるから、怒られても嫌な気分にならない。敵わないひとなのだろう。それは今後も変わらない気がする。
「でも、あたしの中でセツナのほうが特別なんだ。本当に、特別で、どうしようもないくらいに好きで、好きで、たまらなくて。そんな特別なひとが特別に想っているのが、ファリアだから」
黒き矛を通して見たセツナの記憶。イルス・ヴァレに来てからのセツナの記憶を埋め尽くすのは、ファリアだった。セツナにとって、彼女がいかに大切で重要な存在なのか、一瞬で理解できるほどの熱量がそこにはあった。彼女は妬み、羨ましくも想ったし、同時に、彼女自身もまた、ファリアを強く想うようになってしまった。
逆流による記憶の混濁が、ミリュウ=リバイエンを変えてしまったのは間違いない。そしてそれは、決して悪いものではなかった。変わったことで、彼女はここにいられるのだ。あのとき、ミリュウという人間に変化が訪れなければ、彼女はここにいなかっただろう。
ただ父を憎み、国を恨み、世界を呪い、さまよい続けていたかもしれない。
「たまには、ふたりの時間も作ってあげないと、ね」
ふたりきりではないのが、少しばかり可哀想だったが、ミリュウやレムが視界に入らないだけ、お互いのことに集中できるはずだ。