第七百八十六話 仮面舞踏会(三)
彼女に手を引かれるまま、大広間の中心に向かって歩いていく。
王宮大広間の中央部は、舞踏会場となっており、楽団の奏でる旋律に合わせて、踊りを楽しむ参加者たちの姿があった。だれもがきらびやかに着飾り、様々な仮面を身に着けている。顔面全体を覆う仮面よりも、目元だけを覆う仮面のほうが主流なのは、そのほうが会話をしやすいからかもしれない。口元まで覆ってしまうと、声がこもってしまうものだ。
宮廷楽団の団員たちも、皆、礼装に身を包み、仮面をつけている。王宮の使用人や給仕たちも一人残らず仮面を被っており、王宮警護の隊員たちも仮面で顔を隠している辺り、とにかく徹底されていることが窺える。企画提案者であるナージュ・レア=ガンディアの意向が反映されていると見るべきであり、彼女の妊娠を祝福するためには、彼女の提案に全力で応えるしかないとでもいうかのような気概を感じる。
大広間そのものが仮面をつけているかのような印象を受けるのは、いつもの晩餐会と様相が違うからだろう。会場が大広間だけではないというのも、いつもの晩餐会とは異なる趣向だった。大広間の空間は主に舞踏会場として利用されるように調整されており、食事や交流だけを楽しむなら、大広間を離れる必要があった。
が、彼女が向かっているのは、大広間の外ではなく中心、舞踏会場であり、これからセツナとふたりで踊るつもりなのだ。
「強引だな」
セツナは、ファリアの細く長い腕を見つめながらいった。セツナは、少し前まで、貴族の令嬢らしき女性やガンディア軍の女性将校に囲まれ、踊りの相手になることを迫られていたのだ。そこへ救いの手を差し伸べたのがファリアだった。もっとも、救いの手とは言い切れない。セツナが女性たちの誘いに戸惑っていたのは、舞踏会というのがどうしようもなく苦手だったからだ。
レムがついてこないのは、ファリアに気遣ってのことだろうし、セツナの取り合いをしていた女性たちに話をしているからかもしれない。どちらにせよ、いまのレムは、従者として完璧に近い仕事をしてくれている。
「こうでもしないと、セツナ様を独占できませんので」
「俺を独占?」
「はい」
ファリアの即答ぶりに、セツナは目が点になった。先を進む彼女の表情を見ることができないのは、こういうとき、苦痛だった。彼女がなにを考えてうなずいたのかが、気になった。
「めずらしいな」
「なにが、でございますか?」
「ファリアがそんなことをいうのがさ」
セツナが素直に感想を述べると、ファリアが足を止めた。こちらを振り返る。青い蝶の翅を模した仮面に縁取られた緑柱玉のような目が、セツナを見据える。綺麗な眼だった。見ているだけで吸い込まれそうになる。そして、吸い込まれてしまうのも悪くはないと思える。
「……セツナはとっくに忘れているかもしれないけれど、わたしだって女よ? 君のことで頭を悩ませたりもするし、君のことで嫉妬もするわ」
ファリアの言葉は、告白といってもいいのかもしれないほど、衝撃的で、強烈で、鮮烈だった。彼女がたまに嫉妬しているのは、知っていた。ミリュウやレムがセツナに対して積極的に振る舞うとき、ファリアは稀に怒りの表情を見せたからだ。それを嫉妬と呼ばず、なんと呼ぶのか。彼女が嫉妬するということは、セツナのことを特別に想ってくれているからだと勝手に想っていたのだが、どうやら勘違いではない。
それが、とにかく嬉しい。
「……忘れてなんかないよ」
「そうかしら」
ファリアの手がセツナの手を取り、空を流れるように動く。覚えのある動きだ。彼女に習った踊り方。単純なものだが、初心者のセツナには難しくて、何度も手解きを受けるはめになった。一年も前のことではないというのに、何年も昔のことのように感じる。この一年足らずの期間が、あまりに濃密過ぎるのだ。
彼女と出逢ったのは、昨年の六月のことだ。それから十ヶ月。普通では考えられないような山と谷を越えてきた。絆が深まっているのだとすれば、当然のことだ。
「ファリアは魅力的な女性だって、ずっと想ってる」
それは、セツナの偽らざる気持ちだったが、彼女はくすりと笑った。
「だれにでもいってそうな言葉ね」
「俺がそんな男に見える?」
「まさか」
またしても彼女は笑う。なにやら上機嫌だが、紅潮した頬は、酔っていることを示しているのかもしれない。そういえば、晩餐会が始まってからというもの、ファリアはミリュウとふたりで飲み比べでもしているのではないかというほど果実酒を口に運んでいた。酔わずにはいられなかったのだろうか。
「セツナにそんな甲斐性があるようには思えないわ」
「それはそれで酷いかな」
「そうね。本当にそうよ」
ファリアの声を聞いていると、彼女に踊りを教わっているときのことを思い出して、体が自然に動いた。御前試合の疲労も関係ないほどに軽やかに床を踏み、空を切るように体が動く。周囲の視線が気にならなくなった。ファリアだけしか見えなくなる。
「君は酷い男よ。だれもかれも魅了して、その魅了しただれもかれもを受け入れて、なにもかも全部を守ろうというんだもの」
「欲張りなんだよ、俺」
「知ってるわ」
彼女が苦笑した。どこか哀しそうに。どこか、寂しそうに。胸が締め付けられる。
「知ってるし、それがセツナなんだっていうことも、わかってる。そこが魅力なんだって、ね。でも、ときどき、君のことがわからなくなる。君がなんのために命をかけているのか。君が、どうしてそこまでして命を削っているのか、わからなくて、不安になる」
「ファリア……」
「こんな場でごめんね。君の優勝のこと、もっとちゃんと祝いたいのに。王妃殿下の御懐妊も喜ぶべきことなのに。そんな気分になれなくて」
「いいよ。無理しなくて」
「ありがとう。セツナは優しいよね。だれに対しても」
「そうかな」
セツナは自信なく聞き返したが、それが実感だった。他人に対して優しく接しているつもりはない。普通に応対しているつもりだった。どんなときも、だ。労りの言葉をかけることも、慰めの言葉をかけることもあるが、それが優しさだとは思わなかった。いつだって、彼にとっては当然のことをしているだけにすぎない。
「そうよ。だから、みんな君についていく。君のためなら命を張ることも厭わなくなる。君が優しくて、君がだれよりも命を曝しているから。君が一番傷つき、君が一番血を流しているから」
ファリアが華麗に回転し、セツナの腕の中に収まる。ファリアの舞踏は、玄人といってもいいほどのものであり、セツナは彼女に合わせるだけでよかった。それだけで、周りから見ても絵になるに違いない。
「だから、不安を覚えることもある」
「不安……」
「君を失いたくないのよ」
ファリアの声が、いいようもなく優しくて、セツナは抱きしめたい衝動に駆られた。ここが王宮大広間でさえなければ、抱き締めてしまったかもしれない。そんなこと、したこともないのに、だ。
「俺も、さ」
「ん?」
「ファリアを失いたくなんてないよ」
囁くようにいうと、彼女は、仮面の奥で瞳を滲ませた。そして、セツナの手を取り、舞踏を再開する。
「嘘でも嬉しいわ」
「嘘じゃないさ」
「わかってる。全部、わかってる。君、嘘なんてつけないものね」
ファリアが、踊りながら、セツナの胸に顔を埋めた。それが舞踏の一貫であるかのように振る舞う様が、ファリアらしくもあり、セツナは見惚れるよりほかなかった。
「はあ……こうも言い寄られちゃ、変に自信つけちゃうねえ」
マリア=スコールが疲れ果てたように椅子に座ったのは、彼女が休みなく踊りの相手を務めてきたからだ。彼女は引く手数多であり、その中から数人の男と踊ってきたらしい。疲れるのも無理はないし、疲れないほうがおかしい。彼女はただでさえ戦闘要員ではないのだ。ミリュウたちよりも体力の面では大きく劣る。
「自信、つけていいのよ」
「そうかい?」
「先生は美人で、そこに可愛いところもあるからさ。男が放っておかないのは必然ってわけ」
ミリュウは、彼女が選びに選んだ衣装を着こなすマリアの姿に、満足していた。マリアは軍医という仕事上、白衣を普段着のように身に着けていることもあって、せっかくの美人を活かしきれていないところがあった。もちろん、美人女性軍医というだけで惹かれる人間も少なくはないだろうが、着飾ればもっとひとを惹きつけることができるということを示したかったのだ。そして、ミリュウの思惑通りにことが運んだ。
彼女たちは、大広間のテラスの小さな机を囲んでいる。机の上には、ミリュウが給仕にいって運ばせた料理と果実酒の類が置かれていた。
頭上には、漠たる夜闇が広がり、輝く無数の星々が、黒い布の上にばらまかれた宝石のようだ。一番巨大な宝石は月で、膨大な輝きが空から降り注いできていた。風は穏やかで、温かいとさえいっていい。春。冬の夜のように着こんでいなくても平気なのは、夜空が好きなミリュウには嬉しい事この上ない。夜空は夜空でも、曇り空は好きではないが。
星を見ていると、穏やかな気分になれた。
なにか理由があるのかもしれないし、ないのかもしれない。