第七百八十二話 エイン=ラジャール
「少々、派手に動きすぎですよ」
エイン=ラジャールは、隣の男の一連の行動に、呆れる思いがした。
彼は、夕日が降り注ぐ森の中を、ゆっくりとした歩調で進んでいる。通称、王家の森と呼ばれる場所だ。王宮区画の内周一帯のことであり、この鬱蒼とした森は、侵入者が紛れ込むには十分すぎるほどの遮蔽物として機能した。
もっとも、王家の森に入るには、王宮区画の周縁部を取り囲む城壁を突破しなければならず、城壁を乗り越えることが不可能である以上、四方の門を通過するしかない。そして、四方の門の警備は厳重極まるものだ。簡単に侵入できるものではないし、侵入を試みた人間は、尽く捕らえられ、牢にぶち込まれている。
王宮警護は、まともに機能していた。管轄がサンシアン家に移り、アヴリル=サンシアンが応急警護の頂点に立ってからというもの、その警備の厳戒さたるや、以前の王宮警護とは一体何だったのかというほどだった。
アヴリル=サンシアンとは、会議の場で何度か顔を合わせたことがあるが、武人という言葉がよく似合う女性だった。オーギュスト=サンシアンの妹というだけあって顔は似ているが、性格は大きく異なるようだった。性格まで同じだと、区別がつかないかかもしれない。
「でも、ああでもしないと、疑う奴が出てくるだろうし……ねえ」
ドルカ=フォームが声を潜めたのは、聞かれると拙い話だからに他ならない。彼がニナ=セントールを連れていないのは、彼女にも秘密にしておかなければならない話題だからでもある。王宮の建物を離れ、森に身を潜めているのもそれが理由だった。王家の森は、王宮警護の監視下にあり、隊員が警備しているのだが、特定の場所には警備がついていなかった。
それを知っているのは、エインのような王宮中枢に関わることのできるごく一部の人間だけだ。
「なんでも、リューグ殿の控室に怒鳴りこんだとか」
エインがため息混じりにつぶやくと、エインが胸をそらして笑った。
「はっはっはっ」
「笑い話じゃないですよ。ドルカ=フォームは危険人物だということで王宮警護に目をつけられていますよ」
もっとも、彼がリューグと接触したのは、エインの望みを叶えるためにほかならなかった。
「ま、俺が目をつけられるのは時間の問題だったさ」
「はい?」
「貴族のご婦人方は皆様、お美しくていらっしゃる」
ドルカは、にやりとこちらを見た。ドルカ=フォームは、男が見ても羨むほどの美丈夫だ。彼に声をかけられれば、貴族のご婦人方とやらも舞い上がってしまうのではないか。実際、ログナー時代、彼はその容姿を利用して、ログナーの貴族に取り入ることに成功しかけたという。もっとも、ニナ=セントールとの出会いが、彼を踏み止まらせたというのだが。もし、ドルカがそのとき、貴族に取り入り、ログナーの上層部にでも入っていれば、いまのような関係は築きあげようがなかっただろう。
「ニナさんに嫌われても知りませんよ」
「その点はご心配なく。俺が女性に声をかけるのは、そうしなければならないからさ」
「どういうことなのかさっぱりわかりませんよ」
「ま、ニナちゃんが一番なのには変わりがないってこと」
「二番とか三番とかいわないでくださいよ」
「いわないよ。俺には、ニナちゃんさえいれば十分だからね」
ドルカは、平然と言い切った。彼のそういうところは、尊敬に値するのかもしれない。女性と見ればだれかれ構わず声をかけるくせに、本質としては、ひとりの女性しか見ていない。それがいいことなのか悪いことなのかはわからないが、少なくとも芯があるということであり、ぶれていないということだ。
「……はあ。ときどき、ドルカさんのことがわからなくなります」
「俺も、エインくんのことがよくわからん」
「でしょうね」
「セツナ様が優勝することがそんなに大事かね」
「セツナ様はガンディアの英雄。御前試合に出場なされる以上、優勝を掻っ攫ってもらわないと」
「そのために参謀局が暗躍するとは」
「一応いっておきますけど、これは参謀局ではなく、俺の独断ですから」
エインは、足を止めて、ドルカを振り返った。ドルカのほうが上背がある。仰ぎ見なければならないが、大した問題ではなかった。彼は、こちらの見つめ返してきた。相変わらず綺麗な目だ。ニナ=セントールが惚れるのも無理はない。
独断とはいうものの、ナーレス=ラグナホルンが、エインの独断行動を見越していないはずがなかった。エインは、彼の手のひらの上で踊っていることを自覚した上で、殊更上手く踊りぬくために死力を尽くしたのだ。
万事、上手くいった。
セツナの対戦相手のうち、セツナが実力で勝てる相手は放置した。勝てない相手にだけ、接触した。バレット=ワイズムーンと、リューグ=ローディンだ。ラクサスは、こちらからなにもいう必要はない。彼のことだ。事情は把握しているに違いなかった。ミシェルにしても同じことだ。王立親衛隊長のふたりは、王宮のことはよくわかっている。だれが優勝するべきなのか、理解しているはずだった。
バレットも理解しているだろうが、彼は武人だ。競技試合とはいえ、戦いとなれば手を抜かないかもしれない。話を通しておく必要があった。
そして、リューグ。彼には、ドルカを通して接触し、負けさせた。リューグは、セツナになら負けてもいいといっていたという。セツナには、恩義があるらしい。
「怖い目だな」
ドルカが、囁くようにいってきた。だれかに聞かれるとまずいとでもいうかのように。
エイン=ラジャールの評判を気にしているのかもしれない。だとすれば、笑い話もいいところなのだが。エインは自分の評判を気にしたことなど一度もなかった。参謀局に入ったときから、他人にどう思われようと構わなくなったのだ。参謀局の役割は、戦術の立案や提案であり、多くの場合、実際に戦う将兵の命を危険に晒すものである。特に兵士たちには嫌われて当然の役目だといえた。しかし、だれかがその役割を負わなければならない。
ナーレスが参謀局を立ち上げた理由のひとつが、そこにあるのかもしれない。本来、軍団単位で群を動かす場合、その軍団の戦術を担うのは軍団長や副長の役割であり、兵に無理を強いる作戦を立てれば、それだけ軍団長や副長への感情が悪くなる。
軍団には結束が求められる。軍団長の元、ひとつに纏まってもらわないと、いざというときに困るのだ。
そのため、ナーレスは参謀局を立ち上げ、作戦の良し悪しによる将兵の悪意の矛先が参謀局に向かうようにしたのではないか。
考え過ぎかもしれないが、ナーレスとは、それくらい考えすぎている人物でもある。彼を出し抜くには、さらに考えぬく必要があった。
「エインくんだけは敵に回さないように気をつけないと」
「安心してください。敵に回ったら、苦しまないように殺してさしあげますから」
エインは、にこりと微笑んだ。
「は、はは……笑えねえ」
「冗談はともかく、この国は歪な国です。急速な膨張が、なにもかもを歪めてしまっている。政治も軍事も、なにもかも。そんな風に歪んだ国がまともでいるには、中心に大きな柱が必要なんですよ。それがセツナ様だと、俺は確信しています」
「ま、そこに異論はない。セツナ様は強い。だれよりもな。柱たる資格はある」
「俺は、セツナさまのためならばどんなことだってするつもりです。そのために参謀局に入ったといってもいい。参謀局は軍師殿の作ったものですからね。軍師候補を選定する機関なんでしょう」
「軍師になるつもりかあ」
「ええ。でも、それだけじゃ足りない。俺には、信頼できる仲間が必要なんです」
「それが俺か。嬉しいねえ」
ドルカは、どこか遠くを見るようにいった。
「あと、アレグリア=シーンも協力者ですよ。彼女も俺と同じくらいにはセツナ様信者ですから」
ナーレスの後継者として軍師になるのは、どちらかひとりだ。そして、どちらでも良かった。同じ想いがあるのだ。必ずしもエインが軍師になる必要はなかった。
「そうだったの?」
「どうやら、そうらしいです」
「ま、ガンディア人がセツナ様信者になるのはわからなくはないかな」
「俺がおかしいんですよ」
「ああ。狂ってるな。この国くらい」
「ええ」
エインは、一切否定しなかった。狂っているのは間違いなかった。狂っているから、同僚の死に逝くさまを美しいと思い、セツナに殺される瞬間を待ち望んだのだ。生き延びると、熱狂に支配された。セツナへの熱情と狂気。それがエイン=ラジャールという人間を作り変えてしまったようだ。
エインが他人の目も評価も気にしないのは、セツナさえいれば十分だからだ。セツナが黒き矛を手にし、戦場で暴れてくれるだけで良かった。そのためにも、戦場以外での彼には平穏が必要だろう。平穏無事な日常こそ、戦場での活力になる。
そのためにはどうすればいいのか。
セツナが静寂を感じられるほど穏やかな生活を得られるにはどうすればいいのか。
エインが日夜考えるのは、それだ。
しかし、残念なことに、セツナの日常に静寂が訪れることは、当分ありえないだろう。立場を考えても見よ。彼は王立親衛隊長というだけでなく、エンジュールという領地を持つ領伯なのだ。王宮の式典には必ず出席しなければならないし、あらゆる行事にも顔を出さなければなるまい。日常生活のほとんどが王宮行事で埋まってしまうかもしれない。
もちろん、その点についてはレオンガンドも考慮しているはずで、セツナが出席しなくて済むように取り計らっていることも多いようだが。
このままセツナの人気が高まれば、そういってもいられなくなるだろう。
エインは、自分かアレグリアがナーレスの後継として軍師になった暁には、王宮行事の数を減らすよう進言するつもりでいた。軍師の発言力は極めて強い。ナーレスがその一声で参謀局なる組織を作り上げ、ふたりの軍団長を引き抜いてしまうほどには影響力があった。
まずは、上を目指すことだ。
エインは、ドルカとの会話の中で、決意を改めた。