第七百七十九話 ある邂逅について
王宮区画東庭園。
王宮区画城壁内周を沿うように存在する王家の森の一部を切り開いて作られた小さな庭園は、普段、貴族たちの憩いの場として利用される場所として知られている。
ガンディアには貴族が多い。
貴族のうち、ほとんどがなんらかの役職を以って、ガンディアに貢献しているらしい。政治に携わるもの、軍事に携わるもの、様々だが、無役の貴族はいないといっていい。貴族とは国と民があって初めて成り立つものである、という考えが、ガンディアには古くからある。率先して戦うのは貴族の役目であり、政治を行うのもまた、貴族の役割であるという。
もちろん、真面目な貴族もいれば、家格にふんぞり返るようなものもいるだろうが、レムがこれまで遭遇したガンディア貴族のほとんどが真面目で誠実だった。セツナの立場が立場だ。不誠実な貴族が、彼に接近しようとは思わないかもしれない。
ふと、そんなことを考えたのは、普段、貴族たちが屯している東庭園に人気がまったくなかったからだ。御前試合の開催中ということが、貴族たちが出歩くのを抑制し、憩いの場を閑散としたものにしているのは間違いなかった。
森の中の小さな庭園。庭園というだけあって、花壇や噴水があり、美しい装飾が施された長椅子や魔晶灯によって彩られていた。空に輝く夕日さえも、庭園を彩るためのものとして利用されている。そんな空間に、外套と頭巾の男は不釣り合いというほかない。
「用事……でございますか?」
レムは、小首を傾げた。わざとらしい態度ではないにせよ、おかしな反応なのは重々承知だ。会場から抜け出す人間がいたとしても、すぐさま同じ場所に辿り着くものがいるわけがない。
「用がなければひとを監視し、追跡するようなことはないはずだ」
「監視などと。ただの使用人にそのようなだいそれたことができるとでも?」
「使用人?」
こちらの言葉を反芻して、彼は苦笑したようだった。
「格好や言葉で偽れるほど単純な存在ではなさそうだが」
「いえ、至極単純な存在でございます」
レムは、衣服の袖を取り、恭しく自己紹介をして見せた。
「わたくしは、レム=マーロウ。セツナ・ラーズ=エンジュール様の使用人でございます」
「……聞いたことがある。レム・ワウ=マーロウ。ジベルの死神部隊に所属していたはずだが」
「レム=マーロウでございます」
レムが訂正すると、相手は鼻白んだようだが、彼女は気にせずに続けた。
「情報が古うございますね。ガンディア近辺の方ではないと、お見受けいたします」
「クルセルク戦争後の情報がもう古いのか」
「世界は常に変化しております。わたくしは、ジベルではなく、ガンディアの、エンジュール伯のものとなりましてございます」
「ジベルはまだセツナ伯の首を狙っているのか」
彼はあきれたようにいったが、レムは笑みを湛えたまま、なにもいわなかった。
「まあいい。君の正体が知れて良かった。どうやって監視していたのかも、おおよそ、理解できた」
「理解できた?」
「“死神”とやらを使ったんだろう。わたしの目には見えないが……どこかに潜ませているな」
彼は、頭巾の下で視線を巡らせているのかもしれない。目深に被った頭巾は、視線を隠すには最適だった。視線が隠れれば、つぎの行動が読みにくくなるし、感情を察することも難しくなる。
「“死神”をご存知なのですね」
「知らないはずはないだろう。ジベルの暗躍機関であったころの死神部隊ならまだしも、クルセルク戦争で大々的に戦ったんだ。力を見せびらかせて、な」
「力の誇示は、必要だったのでございます。連合軍での発言力を得るために」
反クルセルク連合軍は大小多数の国からなる連合組織だ。発言力を高めるためには、軍事力を顕示する以外にはなかった。ガンディアは兵数と《獅子の尾》によって多大な発言力を得、戦争を主導した。アバードも兵力によって発言力を得た。ジベルも同じだ。兵力と死神部隊が、ジベルの発言力の源泉となった。
「馬鹿げたことだ」
「はい、実に馬鹿馬鹿しく存じ上げます」
にこやかに同意すると、彼は多少、唖然としたようだった。
「君は、ジベルを嫌っているのか」
「はい。愛すべき祖国だとは思っておりますが」
「愛憎は紙一重とはよくいったものだ」
やれやれと頭を振った。頭巾は揺れたが、素顔を覗くことはできなかった。
「ところで、あなたさまはどちらさまなのでしょう? 目的などは伺えないもでしょうか?」
「なぜ、明かさなければならない。君が名乗ったのは、君の勝手だ。わたしまで名乗る必要はない。いっておくが、わたしは王宮への侵入者などではないよ」
「それは存じております。侵入者ならば、王宮警護が黙っていないでしょう」
「……確かに、厳重過ぎる警備だな。一々説明するのが手間だったよ」
彼は、心底疲れ果てたようにいった。実際、頭巾に外套というあまりにあやしすぎる出で立ちでは、自分から身分の照会をしてくれといっているようなものだし、身分照会しなかったとすれば無能極まりないといえるだろう。それでもその格好を通したのは、素顔が見せたくはないということなのだろうが。
(頭巾を取らせない時点で無能でございますね)
いくら身分が保証されているとはいっても、だ。
陛下と妃殿下、太后殿下の御前で、頭巾を被ったままというのは、どう考えても不敬であり、それを良しとした王宮警護の人間は責任を取るべき事案だろう。しかし、そうせざるを得なかったという可能性もある。たとえば、彼の身分を保証する人物が、ガンディアにおける権力者ならば、どうだろう。
たとえば、レムが王宮区画で自由に歩き回れるのは、彼女の主がセツナだからだ。セツナという存在には、王宮警護はまったく手が出せなかった。領伯であり、王立親衛隊長だ。セツナの保証は、王宮警護の保証よりも確かなものとして認識される。
レムの脳裏に、セツナと同等の保証人候補が何人か浮かんだ。
「では、どうして御主人様を監視されておられたのかだけでも、伺えますでしょうか?」
「監視? 勘違いされても困るからいっておくが、わたしは領伯様を監視していたわけではないよ。わたしはただ、セツナ=カミヤなる人物が実在するのか知りたかっただけさ」
「そうでございましたか。それでは実在が確認できたのでございますね」
「ああ。よくわかったよ。セツナ=カミヤは虚構の存在ではなく、実在する作られた英雄なのだとね」
彼の言葉は、レムへの挑発でもあったのだろうが。
「まったく、わかっておられませんね」
「それが“死神”か」
男の眼前で、火花が散った。
レムは、彼の影に潜めていた“死神”を顕在化させ、男に攻撃を仕掛けさせたのだ。細く長い闇の手が男に襲いかかったが、男が右腕で“死神”の手を打ち払った。その瞬間、火花が散っている。男の手は、一見、常人と変わらないもののように見えたが、“死神”の手と激突して何事もないだけでなく、火花が散ったということは、常人のそれとは異なるものだということにほかならない。彼が金属の籠手を身に着けているのならば話は別だが、そうではなかった。生身の体なのだ。
つまり、普通ではない。
「だが、客人に無礼を働くのは、いかがなものかな?」
“死神”との間合いを図りながら、男は悠然と言い放ってきた。レムは、“死神”の動きを制御しながら、男を睨みつけた。“死神”――闇の衣を纏う異形の骸骨は、レムの影といってもいい存在であり、死神壱号が使役した“死神”ワウとは異なる形状をし、異なる能力を持っている。再蘇生による影響だろう。“死神”の使役に仮面を必要としない点でも、大きく変わっていた。
「御主人様をわけもなく否定されて黙っていられるほど、わたくし、できておりません」
「ジベルの死神がガンディアの英雄に惹かれ、主従の契りを結ぶというのは面白い話ではあるし、英雄譚としても悪くはないな」
「申し分ございませんでしょう」
“死神”の手に具現した大鎌が、男の立っていた場所を薙いだ。空を切ったのだ。男は、大きく跳躍し、魔晶灯の柱の上に足を乗せていた。外套がはためき、頭巾が揺れる。夕日の逆光線が、彼の顔を影で包み込んでいる。死神の眼力を持ってしても判別不可能だった。
「アルベイル=ケルナー様!」
不意に響いた叫び声に、レムは“死神”を影に潜ませた。アルベイル=ケルナーと呼ばれた男も、魔晶灯から降りている。人間離れした行動を見せる訳にはいかない、ということなのだろうが、レムには見せつけてしまっている。レムが、このことを黙っているとでも思ったのかもしれないし、レムから漏れる分には構わないとでも考えているのかもしれない。
どちらにせよ、レムは、アルベイル=ケルナーの目的が見当もつかなかった。
足音がして、庭園にひとりの女が現れる。どこか厳粛な空気を纏う女は、王宮警護の制服を着込んでいた。赤茶けた髪と碧の瞳が、王宮で有名なだれかを連想させる。
彼女は、アルベイル=ケルナーを発見すると、彼に詰め寄りながら大声をあげていた。
「こんなところにおられたのですか!」
「なにかようかな?」
「ジゼルコート様が探しておいでです! 晩餐会についてのお話があるとかで」
「晩餐会……わかった。領伯様はどちらに?」
「練武の間で待っているとのことです」
「では、すぐに伺うとしよう」
アルベイル=ケルナーは、王宮警護の女に一礼すると、レムの横を通過していった。
「そういうわけだ。君の躾は、セツナ伯に任せることにするよ」
通り過ぎる瞬間、そんな言葉を言い残している。
胸がざわめいたのは、セツナになら躾られても構わないと思ったからではない。それもないとは言い切れないが、もっと別の感情が、彼女の中に生まれていた。警戒心だ。アルベイル=ケルナーなる男は、レムの中で要注意人物から危険人物に格上げされた。“死神”の攻撃を素手で受けきったこともそうだが、超人的な跳躍力で攻撃を回避したのも、脅威に値する。もちろん、レムは全力で攻撃したわけではない。客人が怪しいからといって全力で殺しにかかるなど、使用人失格もいいところだ。それこそ、セツナに調教されなくてはならなくなる。
(それはそれで素敵かもしれないけれど)
「レム=マーロウだな」
王宮警護の女が、こちらに背を向けたまま、話しかけてきた。レムが少し驚いたのは、アルベイルに対するものと、声音がまるで変わっていたからだ。
「はい。さすがは王宮警護の方ですね。わたくしのようなもののこともご存知のようで」
「卑下することはないだろう。君は、ジベルの死神部隊の一員として名を馳せた猛者だ。君の名を知らぬものは、この王宮にはいない」
「そうでございましょうね」
死神部隊の一員、死神壱号ことレム・ワウ=マーロウの名が、ガンディアの王宮で知られているのには、ちゃんとした理由がある。ひとつは、彼女がガンディア王宮でもっとも注目を集めるセツナ・ラーズ=エンジュールの支配下に置かれているからであり、ひとつは、彼女が、セツナ・ラーズ=エンジュールの暗殺を試みたり、影の国に連れ去ったりしたからだ。
そして、自分を害し、亡きものにしようとした人物を側に置くセツナの奇妙さは、途方も無い度量の広さとして解釈されている。
レムは、王宮警護の女との会話を早々に打ち切りたかった。アルベイル=ケルナーを監視下に置いて置かなければ、心のざわつきを抑えられそうにない。
「安心したまえ。あの男には王宮警護と都市警備隊が全力を上げて監視している」
「おかしな話でございますね。アルベイル=ケルナー様は、ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール様のお客人なのでございましょう? なぜ、監視を?」
「偽名だよ」
「はい?」
「アルベイル=ケルナーという名前が、偽りだといっているのだ。我々を欺くために作られた名だ。確かにケルナー姓はケルンノールに多い。実際、ジゼルコート伯の屋敷で働いているケルナー姓の使用人はいる。しかし、アルベイル=ケルナーという人物は、存在しないのだ。少なくとも、都市警備隊、王宮警護の把握している範囲ではな。そして、都市警備隊と王宮警護が把握できない人間が、ガンディア国内にいていいわけがないのだ」
「ジゼルコート様が嘘をついていると?」
「どうかな。領伯様御自身が騙されているとしても不思議ではない。その可能性は低いが……。いずれにせよ、偽名を使わざるを得ない事情があるということだ。監視下に置くのは当然だろう?」
「そうでございますね。ところで、あなた様はどなた様なのでございましょう?」
「そういえば、自己紹介が遅れた。わたしはアヴリル=サンシアンだ。元ジベルの人間とはいえ、名くらい聞いたことはあるだろう」
「ああ、サンシアン家の方でございましたか。失礼いたしましてございます」
それで、合点がいった。まず、彼女が王宮警護の制服を着ているのは、サンシアン家が王宮警護を管轄しているからであり、アヴリル=サンシアンが管轄官であるからにほかならない。つぎに、だれかに似ているというのは、オーギュスト=サンシアンだ。オーギュストは、アヴリルの実兄であり、彼女を男にしたのがオーギュストといってもいいくらい似ていた。もちろん、アヴリルの体型は女性らしいものであり、オーギュストとは似ても似つかないのだが。
「いや、礼を失したのはこちらのほうだ。もっと早く名乗るべきだったな」
「サンシアン家といえば、家格においてはガンディア王家よりも上位でございます。わたくしのようなものに対して、気遣いは無用と存じますわ」
「家格など、過去の栄光だよ」
彼女は吐き捨てるようにいった。
「サンシアン家は、ガンディア王家の手に縋り付かなければ生き延びることさえ困難な状況にあったのだ。そのような家が、家格を誇ってどうなる。世間の失笑を買うだけだ。過去などどうでもよいのだ。我々は、過去ではなく現在を生きている。未来を目指してな。君も、そうだろう?」
「……そうかもしれませんね」
レムは、アヴリルの青い瞳を見つめながら、静かにうなずいた。過去との決別が、彼女をここに存在することを許している。ジベルで築き上げたすべてを放り投げたからこそ、レムは、彼の使用人として、彼の側にいつづけることができるのだ。過去に縛られていれば、過去に拘っているのならば、彼女はここになどいないだろう。
ジベルに留まり、亡霊のように生き続けたかもしれない。
「さて、辛気臭い話はここまでにしよう。問題は、未来の話だ」
「はい。確か、晩餐会がどうとか仰られましたね?」
「ああ。王宮恒例の晩餐会が、今夜開かれる予定になっている。主賓は王妃殿下と、御前試合の優勝者ということだ」
「わたくしの御主人様、ですね」
「そういうことになる」
アヴリルが厳かにうなずいた。彼女の眉間に常に皺が寄っているのは、話が話だからなのか、立場によるものなのか、彼女の人柄によるものなのか、レムには判断できなかった。知り合ったばかりでもある。彼女の人となりは、まだはっきりとしない。厳粛な人物であることはわかったのだが。
「しかし、晩餐会ならば、あのお客人も素顔を見せるしかなさそうでございますね」
「……今夜の晩餐会は、趣向を凝らしていてな。主催者も客も仮面をつけることが義務付けられている。仮面舞踏会だよ」
「なるほど」
「仮面舞踏会を提案したのは王妃殿下だが、発案者は太后殿下のようだ。太后殿下に吹き込んだものがいるかもしれんな」
それがジゼルコートなのかもしれない、とまではいわなかったが、彼女は言外にその可能性を含ませていた。