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第七十七話 宴の後

 ベレルの王都ルーンベレルを現れた皇魔おうまの群れは、《白き盾》の活躍によって見事撃滅された。王都にもたらされた被害は微々たるもので、マイラムの住民が傷を負うようなことさえなかった。

 騎士団の迅速な避難誘導のおかげだろう。彼らがいなければ、《白き盾》の面々が思い切って戦うことなんてできなかったに違いない。

 星明かりの下、数多の骸がその哀れな姿を曝している。流れ落ちた血は地面に溜まり、小さな池のようになっていた。鉄の臭いが漂う赤黒い池。絢爛たる王都には間違いなく不似合いな光景だったが、化け物との戦闘が起きた以上仕方がない。

 王都市民にも騎士団員にも死傷者が出なかったのだ。

 これ以上はないくらいの結果だった。

 ただ、道路や家屋に刻まれた破壊の爪痕の多くは、ベスベルによるものだけではなかった。

 マナ=エリクシアの召喚武装スターダストが、凄まじいまでの猛威を振るったがために起きた人災ともいえる。しかし、だれも彼女のことを責められないだろう。スターダストによる爆砕は、皇魔を一掃するのにどれほど役に立ったか。

 この戦いでもっとも多くのベスベルを倒したのはマナであり、彼女の活躍なくして迅速な事態の収束はなかった。彼女のおかげで、短時間のうちに殲滅することができたのだ。

 気品と優雅さを片時も忘れない彼女のどこにそれほどの力があるのか。一見しただけでは想像もできない。武装召喚師なのだ。血の滲む努力の果て、彼女の肉体は、クオンなどと比べるべくもないほどに鍛え上げられているのだろうし、知識も豊富に違いなかった。

 戦いの経験も倒した敵の数も比較にならない。

 そもそも、クオンがみずからの手で倒した敵など、指で数えるほどしかいない。

《盾》では敵を倒せない。

 クオンは、召喚武装を送還するマナの美しい横顔を見遣りながら、そんなことを考えていた。つぶやくように告げる。

「尊敬しているよ」

「いきなりどうされたのですか?」

 マナが、不思議そうな顔でこちらを振り返ってきた。黄金色の長い髪か、月明かりを反射してあざやかに煌めく。

 クオンは、眩しげに目を細めると、柔らかに微笑した。胸の内に溢れる想いを言葉にする。

「そうだね……ぼくには足りないものがたくさんあって、それをみんなが補ってくれている。だから、ぼくは前に進めるんだと想うよ」

 言葉として吐き出さなければ、心を圧迫し、自身から正常な精神を奪い去っていくのではないか――そんな恐怖さえ抱く。それはきっと杞憂なのだが、そう思い込んでしまう弱さが、彼にはあった。

 正常な理性や感性を失ったとき、自分はどうなってしまうのか。考えるだけで恐ろしかった。無敵の《盾》は相手を攻撃するような武器ではないものの、凶器にはなりうる。

 あらゆる攻撃を無力化するのだ。

 敵の心は、やがて折れるに違いない。

 そして、人間が相手ならば、心を折るだけで良い。

 その気になれば国家を相手に戦を仕掛けることもできるだろう。仲間がいる限り、勝利も難しくはない。

 しかし、それは狂気だ。

 正気の沙汰ではない。

 理性はそれを拒絶し、完全に否定する。

 クオンは、それでいいと考えている。いや、そうでなければならないと想っていた。狂気に身を任せるほど堕ちてはいない。

 だから、感謝する。正常な感性を保っていられるのは、周りにいてくれるひとたちのおかげなのだ。彼を支えてくれる仲間たちのおかげなのだ。

「クオン様……?」

「ぼくは盾を召喚するしか能のない男だ。取り立てて頭が回るわけでもなければ、器量があるわけでもない。戦闘で役に立ったことなんてないし、采配を振るうだなんてとんでもない」

 幾度かの戦闘で、戦いの流れというものは見えるようになった。しかし、それだけではどうしようもないのも事実だ。

 マナ、ウォルド、イリスの三名は、クオンが別段指示を下さなくとも的確な判断によって、戦闘を有利に進めていく。むしろ、彼が口を出す必要がなかった。

 その他の部下たちに関しても、ウォルドが指揮を取り、采配を振るうのだから、クオンは、戦場の真ん中に突っ立っているだけでよかった。《盾》を掲げることだけが、彼にしかできないことだ。それだけが存在意義といってもいいのかもしれない。

《盾》さえあれば自分は不要なのではないか――武装召喚師ならばだれしもが抱く疑問なのだというが、しかし、血を吐くような想いで訓練した結果として力を得た武装召喚師と、ひょんなことから力を手にしたクオンとでは本質的にまったく異なる問題だといわざるを得ない。

 とはいえ、そんなことで悩んでいても仕方がないのもわかっていた。答えの出ない問題なのだ。誰かにいわれて納得できるような話ではない。独りで勝手に納得しておくしかない。これまでのように。

「みんながいるから、ぼくはぼくでいられる。《白き盾》のクオンでいられる。だから本当に感謝しているし、みんなのことを尊敬しているんだよ」

 本心を言葉にするのは恥ずかしいことではない。そうしなければ想いなど伝わるはずがないのだから、彼は本音を語る。

 無論、仲間に打ち明けていないことだってある。

 例えば、アズマリア=アルテマックスとの関係。彼女の召喚武装により異世界から召喚されたという事実も、未だ彼らに告げていなかった。

 いずれ伝えなければならない。でなければ、本当の意味で信頼し合うことなどできないだろう。

 ふと気づくと、マナの翡翠のような瞳が、クオンを見つめていた。さながら慈母のような寛大な優しさを帯びたまなざしは、クオンの心に染み入るようだった。

「クオン様にそういっていただけるだけで、十分ですわ。それだけで救われます。ただ……」

 彼女は、その白く細い手をみずからの胸元に当てた。今夜の会食のために誂えられた純白のドレスは、本来ならば花嫁衣装のように美しかったのだろうが、いまは皇魔のどす黒い血によって汚されている。

 しかし、それがマナの容姿を微塵も損なっていないのは、彼女の美貌が戦場によく映えるからかもしれない。もっともその評価は、武装召喚師にとっては本望であっても、マナ=エリクシア個人にとってしてみればどうなのだろう。武装召喚師を目指したのが彼女本人の意志である以上、特に不名誉なことではないのかもしれないが。

「御自分のことをあまり卑下なさらないよう、御願い申し上げますわ。此迄の戦いも、此度の戦いも、クオン様無しでは、見事な勝利を飾ることなどできなかったでしょう。被害は最小限に抑えられ、死傷者も出ていません。それもこれもクオン様あったればこそ」

 マナの言葉は力強く、浮ついたところがなかった。ただ褒め称えているのではないということが、声音の端々から伝わってくるのだ。

 彼女もまた、本当の気持ちを言葉にしている。

 それがわかるから、クオンは、心に痛みを覚えるのだ。

(――ぼくがここにいたから、皇魔が現れたんだけどね)

 アズマリア=アルテマックスの目的は理解できないとはいえ、彼女が皇魔を放ったのはクオンを試すために違いなかった。彼女は試練という言葉をよく使う。なんのための試練なのかは明かされず、明かされたとしても理解できないのかもしれないが。

 そして、《門》が消え、かの魔人の気配さえ感じられない以上、探しだして真意を問い質すなど不可能だった。

 クオンがいなければ、ルーンベレルにあのような災厄は訪れなかったのは間違いない。グラハムの暴挙さえ起きなかった。彼は王家に忠実な騎士で在り続け、騎士団員たちとの間に不和は生じず、敬意を持ち続けたことだろう。

 自分はわざわいを振り撒いているだけではないのか、と考えるしかない。

 断じて、救い主などではない。

 救いをもたらすどころか、災禍を招いているのだ。

 そんなものが救い主などであるはずがなかった。

 グラハムの記憶を疑うわけではない。彼は、天使を見たのだろう。お告げを聞いたのだろう。だからこそ、私的に騎士団を運用するという大それた真似をしたのだ。

 だが、勘違いだ。

 自分を救い主だというのは、大いなる間違いだ。

 確かに、この大陸を蝕む病を取り除き、人々の心に安寧をもたらしたいと考えているし、そのために活動してもいる。

 大陸から皇魔の“巣”を根絶するということ。

 五百年もの昔からこの大陸を苛み、人々の心に恐怖と不安を植え付けてきたそれらを消し去ることができれば、どれだけの安心が得られるだろう。

 だが、このままではそれもどうなるものか。

 行く先々で、アズマリアの放つ皇魔と戦う羽目にでもなれば、皇魔を消し去る前に《白き盾》が疲弊してしまう。大陸中の皇魔という皇魔がアズマリアの戦力になりうるのだ。

 クオンを含め三人の武装召喚師がいるとはいえ、無敵の盾があるとはいえ、心は、そうはいくまい。

 いつ果てるとも知れぬ戦いは、心に影を落とす。

 影に魅入られたとき、敗北が始まる。

 敗北は敗北を呼び、やがて滅びを連れて来るだろう。

 それだけは――。

 マナが、こちらの想いを知ってか知らずか、言葉を続けてきた。

「クオン様あっての《白き盾》ですわ。どうか、そのようなお考えはお止めくださりませ。わたくしをふくめた皆が哀しみます」

 彼女の柔らかくも断固たる言葉は、クオンの心に深々と突き刺さるのだ。自分の視野の狭さを実感せざるを得ない。彼女たちの感情さえ考えていない。いや、考えてはいても、完全には受け止めきれていないのだ。

 胸を開かなくては。

 心を。

「そうですよ! クオン様の力がなければ、怪我のひとつやふたつ、三つや四つ!」

「わたしはそんな無様な戦い方をした覚えはないが……貴様ならそうだろうな」

 力説するウォルドに冷ややかな一瞥を投げたのは、イリスだ。彼女が纏う漆黒のドレスは、返り血ひとつ浴びていない。戦場を飛び回り、数多の皇魔を切り伏せながらも、血飛沫を浴びないというのはイリスの巧みな技術によるものだろう。

「イリス……!」

 口を挟まれたことに憤ったのだろう――ウォルドが、イリスを睨んだ。が、返り血さえ浴びていない彼女の姿には、さすがの彼も口を閉ざすしかなかったようだ。口惜しげに肩を落としたウォルドをスウィール老人が慰める様は、まぎれもなくいつもの光景だった。

「クオン」

 イリスの灰色の瞳が、こちらを見詰めていた。まっすぐに。素直に。

「あなたは自分を過小評価し過ぎている。もっと自分を信じてください。わたしがあなたを信じるように」

 イリスの真摯なまなざしからは、かつての彼女の面影など見当たらない。暗殺者としての顔など、どこかに置き忘れてきたように。

 事実は違う。戦闘となれば彼女は暗殺者の仮面を纏い、暗殺技能の限りを尽くして敵という敵を殺戮する。いや、それはもはや暗殺者などではないだろう。

 戦場に踊る殺戮者。

「そこはわたしたちが、よ。イリスちゃん」

「ちゃ、ちゃん……?」

 マナの柔和な声音に、イリスはきょとんとしたらしかった。そんな呼び方で呼ばれたことがなかったというのもあるだろうが、マナの声の柔らかさはいつも以上であり、聞き慣れているものでも驚きを覚えたかもしれない。

 マナは穏やかな笑みを浮かべて、彼女を見ている。イリスはそんなマナの視線に、気恥ずかしげに顔を俯けたのだった。イリスにとってマナは対処しづらい相手なのかもしれなかった。むしろウォルドの方が気が合うのかもしれない。

 マナが時折見せる母性的な表情は、クオンも嫌いではない。

「そーだそーだ! おまえなんかちゃん付けで十分だ!」

 してやったりとでも言いたげな得意顔のウォルドには、クオンといえど苦笑するしかないのだが。

 案の定、イリスが凍てつくような視線をウォルドに浴びせる。

「貴様……」

「まあまあ、ふたりとも。こんなときに喧嘩なんてしないのよ」

「いつもそこの馬鹿とやりあっているあなたがいえたことか……?」

 イリスがあきれたように疑問の声を上げたのは、当然の反応といえた。クオンだってそう思ったのだ。もっとも、クオンならそんなことを口にはしないのだが。

「馬鹿っていうほうが馬鹿なんだよ!」

「子供か」

 間髪を挟まず、イリス。ため息さえ浮かべる彼女に対して、ウォルドは、なにかいいたげな様子だったが、即座に諦めたらしい。しばし虚空に視線をさ迷わせ、こほん、とわざとらしく咳をした。

「……失敬。どうかしていたようだ」

 クオンは、顔を崩して笑った。彼らのような愉快な仲間がいる限り、クオンの心が影に魅入られることはないだろう。クオンがクオンで有り続けられる限り、不敗にして無敵の傭兵集団に隙はない。騙し討ちさえ無力化する。《盾》さえ顕現すれば、少なくとも負けることはない。負けさえしなければ、何とでもなるものだ。

 と。

「クオン様、あちらを」

「ん」

 スウィールに促されて前方に顔を向けると、グラハム・ザン=ノーディスを筆頭に騎士団幹部たちがこちらに向かって歩いてくるのが見えた。足取りはしっかりとしているものの、急いでいるようにも見えた。グラハムが急ぐ理由はわからないではない。クオンたちを待たせてはならないとでも考えているのかもしれず、急がないとどこかに行ってしまうとでも思ったのかもしれない。

 クオンは、そんな彼のことが嫌いではない。純粋さ故の暴走によって一時窮地に陥ったものの、その程度では憎んだり嫌ったりもできなかった。仲間もろとも焼かれるような目に遭っても、その程度――と、彼は考えてしまう。いや、仲間を傷つけられたら怒りもするだろうが、本質的に嫌悪を抱いたりは出来ない。そういう性分だった。

 だから、セツナも憎めない。

 彼が自分に敵意を抱いていることは知っている。その感情のねじれが、憎しみに近いところにまで落ち込んでいることもわかっている。それでも、彼を救いたいと考えてしまうのは、彼の心に闇を見たからにほかならない。

 影。

 敗北を呼び、滅びを連れてくる暗い影が、セツナの瞳の奥で揺れていた。

 救いたいと想った。

 彼を光の淵へと導いてあげたいと想った。

 それがクオンという人間のすべてになったのは、もう何年も昔の話だ。

 しかし、彼の心にわずかでも触れることができたのだろうか。確信は持てない。ただ彼に嫌われただけかもしれない。もちろん、好かれたいから行動を起こしたわけではなかった。いつだってそうだ。相手が自分をどう思おうと構わないのだ。困っている人を見たら放っておけない、ただそれだけのことだ。

 そして、半年前の運命の日。

 クオンは、この世へと召喚された。セツナを闇から救うことも能わず、この見知らぬ世界で生きていかなくてはならなくなった。無論、元の世界に還る手段や方法を探そうとはした。

 しかし、目的が見つかってしまった。

 懐かしきあの地へと還るよりも優先すべき夢を見出してしまった。

 この大陸に巣食う魔を祓い、人々の心に安寧と平穏をもたらす――。

 クオンは、歯噛みをすると、頭を振った。脳裏が炎と燃え上がる。猛然たる業火の中に浮かび上がるのは、地獄のような光景。小さな村が化け物共によって蹂躙された直後。村人はひとり残さず殺し尽くされ、彼と懇意にしていたひとたちもまた、無残な亡骸と成り果てていた。

 誰一人守れなかった。

 そのとき、彼は決意したのだ。

 このような悲劇を二度と繰り返すまい、と。

 そのためには皇魔の“巣”という“巣”をこの地上から一掃しなければならない。

 そう、定めた。

 だから、彼はここにいる。

 クオンは、目の前まで近づいてきた男が、唐突に跪くような姿勢を取ったことに他方の驚きを禁じ得なかった。いや、予想してしかるべき事柄だったのだろう。しかし、彼は自分の考えに没頭していたのだ。現実に舞い戻った途端繰り広げられた出来事に頭がついていかないのは、ある意味当然だったのかもしれない。

 彼の眼前に跪いたのは、グラハム・ザン=ノーディスひとりだけだ。ほかの騎士団幹部たちは、どうしていいものか判断に困っているといった風情で立ち尽くしていた。グラハムは、彼らにも同じ対応を強制する素振りも見せない。その態度は、彼個人の意思であり、騎士団の総意ではないということなのかもしれないが、騎士団を支配する長がそういう態度を取った以上、騎士団の意思と受け取られても仕方がないだろう。

 もっとも、クオンにはわかっている。

 グラハムと騎士団幹部、団員たちの間の温度差は、目に見えるくらいはっきりとしていた。彼の暴走を止められなかった幹部たちは自責の念に駆られているのかもしれず、勝手な思い込みによって共々に抹殺されかけた団員たちは、彼への忠誠心を失いかけていたとしても不思議ではないし、だれも責められないだろう。

 その団員たちは、戦闘の後始末に駆り出され、町中を走り回っていた。周囲に転がった皇魔の死骸を処理するだけでも大変な重労働に違いなかった。スターダストの爆砕によって生じた瓦礫の撤去もしなければならない。無論、騎士団の仕事ではないだろう。しかし、この夜の間にある程度の整理をしようとすれば、騎士団員たちが頑張る他なかった。

《白き盾》の人員を駆り出すにしても、拠点とする宿まで使いを出さなくてはならない。使いに出すならばイリスが適当だろう。彼女の体力は有り余っているはずだ。

 そんなことを考えながら、クオンは、グラハムの顔を見ていた。こちらを仰ぎ見る貴公子の顔は、どこか恍惚としていた。瞳は潤み、歓喜を隠していない。溢れ出る感情を隠すつもりもないのだろう。彼にしてみれば、天使の御告に言ひ現された救い主なのだから、そういう表情になるのも至極当然だった。

 クオンは、そういう彼の心の機微がわかるから、なにもいわない。ただ静かに視線を注ぎ、彼の言葉を待った。

「クオン様、我らがルーンベレルを護ってくださり、ありがとうございました」

 彼の声は震えていた。感に堪えないといった様子だった。幹部たちとの温度差を考えると滑稽に思えなくもなかったが、グラハムの考え方そのものを否定するつもりはない。「光を見た」という彼の言葉には賛同者がいた。クオンの仲間たちだ。スウィールもウォルドもマナも、彼に同調した。

 光。

 それはいったいなんなのだろう。

 自分にはなにがあるというのだろう。

 救い主。

 そんなものになれるとでもいうのだろうか。

「ベレル王国王立騎士団長グラハム・ザン=ノーディス殿。これはなにもあなたのためにやったことではありません。わたしたち《白き盾》とベレル王国との契約に基づくものであり、それ以上でもそれ以下でもありません」

 もっとも、ベレルとの契約がなかろうとも、クオンは《盾》を召喚し、仲間たちに応戦を命じただろう。皇魔という災禍からひとびとを護るために行動するのは、《白き盾》の理念として正しかった。見返りがなくても皇魔を排除するのが彼らだった。

 対価を求めての行動ではないのだ。

 傭兵稼業で稼いだ費用の大半を皇魔殲滅に当てていると言っても過言ではない。ここまで行くと気でも狂っているのではないか、と思われても仕方がないのだが、クオンは至って正気だったし、彼に付き従う連中も疑問の声を上げるくらいには冷静だった。しかし、だれも彼の歩みを止めようとはしなかった。理念を否定しようとはしなかった。

 それほどまでに、皇魔という存在の恐怖は大きく、深く染み付いていた。

 それを排除するという彼の大願を後押しこそすれ、嘲笑うものなどいないのだ。

「はい。それはわかっております。しかし、感謝の言葉もないのです。わたしは、クオン様を殺そうとした。勝手な思い違いによって、殺してしまうところでした……! あなた様こそ救い主であらせられたのに……!」

「その話はもうよしましょう。済んだことです。幸い、我々に被害はなく、騎士団の方々も無事の様子。わたしから言うことはなにもありません」

「クオン様、それは……」

 見ると、スウィールが眉を顰めていた。《白き盾》副団長にして交渉役である彼としては、今回の件に関して思うことがあるに違いない。グラハムの責任を追求し、ベレルに対して賠償請求を行うつもりがあったとしても不思議ではないし、むしろ当然だった。

 しかし、クオンは謝罪も賠償も求めようとはしなかった。組織の長としてあるまじき考え方かもしれないが、それが彼の出した結論だった。無論、放置するわけにはいかないだろう。スウィールの意見を目で制し(後で謝らなくてはならないだろうが)、グラハムに視線を戻す。

 こちらを仰ぎ見る彼のまなざしは、奇妙なほど透き通っていた。彼が見ているのはクオンではなく、光なのかもしれない。光だけを見つめている。そこにクオンという人格は不要で、光という神秘さえ存在していれば満足なのかもしれない。ふと、そんなことを思って、クオンは胸中で苦笑した。それが事実であったとして、なにが問題だというのだろう。彼は彼の信仰に忠実なだけだ。

「グラハム殿、それでもあなたは御自分の為されたことの責任を負わなければならない。わたしたちから責任は問いません。しかし、あなたは身勝手な思い込みで、国王と契約を結んだ傭兵を殺し、さらには大切な部下の命をも炎の中に消してしまうところだった。王命に背き、私情で騎士団を動かした。本来ならば許されざる大罪。だからこそ、あなたは責を負わねばならない。王の法に裁かれ、その罪を贖わなければならない」

 もちろん、そんなことはいわなくともわかっているのだろうし、彼はそのつもりだったのかもしれない。

 しかし、クオンは、言葉にせずにはいられなかった。

 あんなものではクオンたちが死ぬことはない。だが、騎士団員たちはどうか。捨て駒にされた彼らは、クオンが気を利かせなければ炎に巻かれて死んでいたのではないのか。死者は出なかったとしても重軽傷者で大変なことになっていたかもしれない。そう考えると、やりきれない気持ちになった。彼らは命令に従うより他はないのだ。背くことなどできるはずもない。

 ふと、クオンは己が身を顧みた。

 自分は、彼のように振舞ってはいないだろうか。

 彼のように、部下に対して無理難題を押し付けてはいないだろうか。

 そんなことが気になった。






 嵐が止んでから、静寂が訪れてから、どれほどの時間が経過したのだろう。

 轟音とともに天を衝いた暴風の渦が、跡形もなく霧散してから。

 竜巻が舞い上げた土砂が雨のように降り注ぎ、ばらばらになった皇魔の死体がどす黒い血を撒き散らしながら落下してきてから。

 死の臭いが満ちてから。

 ファリア=ベルファリアは、茫然と、定まらぬ視線で前方を見遣っていた。数多のブリークを撃ち抜いたオーロラストームの異形を抱くようにしながら、立ち尽くしていた。鼻を衝く血の臭いなど気になるはずもなかった。

 戦闘は終わった。

 小競り合いと呼べるようなものさえ起きなかった。

 終始、こちらが圧倒していた。

 オーロラストームの性能もさることながら、ランス・オブ・デザイアに秘められた力は物凄まじく、街道沿いの草原の地形さえ変わるほどだった。

 一方的な暴力。

 まるで黒き矛による蹂躙を見ているかのような――。

「これはいったいなんなんですか……?」

 ルウファ=バルガザールの疑問は、ファリアに向けられたものだったのだろう。しかし、彼女には答えられようもなかった。ただ、巨大な槍を地面に突き立てた青年のしょうぜんとした顔を見つめるしかなかった。

 ルウファにより召喚された漆黒の槍。欲深きものランス・オブ・デザイアと名付けたのは彼自身だったが、術式を構成したのはファリアだった。

 黒き矛のセツナを演じるルウファのために紡ぎ出した呪文は、本来ならばここまでの力はなかったはずなのだ。少なくとも、ルウファやファリアに制御できる程度の武器を召喚するつもりだった。そのための術式だったはずだ。

 セツナを演じる上で、そんな力はいらなかった。天地を蹂躙し、数多の皇魔を一網打尽にするほどの力など、必要なかった。支配できない力など望みはしなかった。なのに。

「わからない……わからないわ」

 頭を振る。

 理解できなかった。脳裏に浮かべた呪文の何処にも、ランス・オブ・デザイアの性能に該当する文面は見当たらない。当然だ。彼女が望み、構築したのは、黒き矛の外見的特徴を網羅した武器を召喚するための術式なのだ。

 性能など求めてはいない。

 ましてや、黒き矛に匹敵する力など。

「……この槍は、二度と召喚しませんよ」

 ルウファの声は、小さく震えていた。畏れている。化け物染みた槍の力を、心の底から畏れている。武装召喚師にとって、制御できない召喚武装ほど恐ろしいものはないのだ。暴発すれば、自分の身に危険が及ぶ。それだけならばまだしも、仲間まで巻き込みかねないのだ。

 実際、ファリアが漆黒の槍の暴威に飲まれ、ずたずたに切り裂かれたとしても不思議ではなかった。

 オーロラストームを召喚したことが幸いした。

 遠距離からの狙撃を主とする弓であったがために、彼女はランス・オブ・デザイアの暴風圏から逃れることができた。

 これがもし近接戦闘用の武装を召喚していたとしたら――そう考えるだけで恐ろしかった。

「ええ。そのほうがいいわ。それは召喚してはいけないものよ。きみの手に余る……わたしの手にもね」

 ファリアは、ルウファが漆黒の槍を送還するのを見ていた。召喚したものを送り還すのは実に簡単だ。ただ一言、「武装送還」と口ずさむだけで良かった。

 ランス・オブ・デザイアは、召喚されたときと同様、まばゆい光を発した。爆発的な光は、闇夜を一瞬だけ朱に染める。漆黒の影が、光の中に溶けて消えていく。

 元の世界へ――在るべき場所に還るのだ。

 光が失せると、夜の闇が、何事もなかったかのように君臨する。

 圧倒的な静寂の中で、多数の馬の足音が聞こえた。リノンクレアたちだろう。応援にきたのか、それともただ様子を見に来たのか。

 どちらにせよ、もう終わったことだ。

 ファリアは、嘆息を浮かべると、馬の足音がする方向に向き直ろうとした。動悸がする。わずかに動揺を覚えている。なにかを忘れているような。忘れようとしているような。

「……セツナ」

 唐突にルウファがつぶやいた言葉は、ファリアの耳朶に突き刺さるかのようだった。そして、記憶が甦る。

 天地を震撼させる稲光を帯びた暴風。

 今にも夜空を突き破り、星の海をもかき混ぜんとするかのような嵐の中で、ファリアは確かに見たのだ。

 黒き矛を携え、ルウファに殺到する少年の姿を。

 セツナ=カミヤの姿を。

「セツナが居たんです。信じられないかもしれませんけど、俺、見たんですよ。気がついたら、目の前に居て」

 ルウファの独白に耳を澄ませながら、彼女は、脳裏に浮かべた鬼気迫る少年の姿を見ていた。黒き矛を掲げ、ルウファへと近づく彼の姿は、だれとはなしに忍び寄る影を想起させた。

 それに見つかってはならない。それに捕まってはならない。ましてやそれに触れるなどあってはならないことだ。それに対峙することさえ許されない。

 それは、死だ。

「俺を殺そうとしてた……」

「……」

 ファリアは、沈黙をもって返答とする以外になかった。彼の言を否定するでも、肯定するでもない。

 確かにあの瞬間、彼女もセツナの姿を目撃した。ルウファを殺そうとしていたように見えなくもなかった。いや、殺そうとしていたといっていい。彼は、殺意を剥き出しにしていた。

 しかし、セツナはログナーにいるはずだった。極秘任務を遂行している最中であり、どのような手段を用いても、この場に現れることなどできるはずがない。

 アズマリアの《門》ならばそれも可能だが、《門》の影も形も見当たらなかった以上それは考えられない。

 そもそも、ファリアが目撃できたこと自体がおかしい。彼女はランス・オブ・デザイアが起こした竜巻の勢力圏外にいて、雷光を帯びた暴風の渦の中など見えるはずがなかった。どれだけ夜目が利き、視力がよかろうとも、渦巻く力の奔流は視界を遮り、ルウファの姿さえ目視させなかった。

 だが、ファリアの網膜には、暴風に抱かれたルウファへと接近するセツナの姿が鮮明に焼き付いている。

 黒き矛の禍々しい姿も、強烈にその存在感を発揮していた。

 それなのについさっきまで考えもしなかったのは、それらを無意識の内に錯覚や幻覚と判断していたからかもしれない。無意識の内に処理し、忘れ去ろうとでもしたのかもしれない。ルウファの証言が無ければ、記憶の奥底に沈んでいっただろう。

 それは、瞬間的に空間を転移してくるなど、黒き矛の力を以てしても不可能だと思われたからだ。

 アズマリア=アルテマックスの召喚武装は例外だと決めつけていた。あの女だけが持つ特別な力なのだと、思い込んでいたのかもしれない。

 アズマリア=アルテマックスは、武装召喚術の創始者であり、神秘言語の翻訳と術式の体系化は彼女がたったひとりで成し遂げたというのだから、そう思い込んでいたとしても不思議ではなかった。

 そして、黒き矛に空間を転移する力が秘められていたとしたら、それはとても恐ろしいことのように感じられてならなかった。

(セツナ……)

 ファリアは、異形の弓を抱き締めるように強く握った。そうでもしなければ、胸の内で蠢く感情の波に負けてしまいそうだった。

 その正体はわかっている。

 不安――。

 あの少年の将来に影を見てしまった。

 あれほどの力を秘めた武器を手にしたものの辿る運命が、平坦なものであるはずがないのだ。その力が制御できないというのならなおさら。

 彼の命の時間は、普通よりも短い。

 死の淵から救うにはそうするしかなかったとはいえ、罪悪感を覚えないでもない。そうしなければ死んでいたとはいえ、寿命を削り取ったのは事実だ。限りある人生の時間をさらに短くしてしまったのだ。わずかにも負い目を感じるのは、人として当たり前なのかもしれない。

 そして、その短い人生が波乱に満ちたものだとしたら、彼女はどうすればいいというのだろう。彼女になにができるというのだろう。彼を救ってあげたい――などと傲慢な考えは抱かないが、それでも、力になれるのならばなりたいとは想う。

 無論、彼女の出来る範囲で、の話だ。

 彼女には彼女の使命がある。なによりも優先すべき事柄がある。それを為すためだけに生きている。それ以外のすべては雑事であり、もし障害として立ちはだかるものがあるのならば、全力を持って叩いて潰すだけだ。

 たとえ近しい人間であっても、使命を邪魔するというのなら。

 それがたとえセツナであったとしても――。

(……本当に?)

 ファリアは、頭を振った。馬鹿馬鹿しいことばかり考えてしまうのは、自分の悪い癖だ。いまは目の前のことだけを考えていればいい。セツナのことも、使命のことも、後で考えればいい。考える時間はたっぷりとあるはずだ。

 いまは、リノンクレアたちへの対応を考えるほうが正しいだろう。

 そして、この状況をどのように説明すればいいものか、彼女は軽く頭を抱えた。


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