第七十六話 ウェイン・ベルセイン=テウロス
彼女は、静かに男の様子を窺っていた。胸の内で蠢く感情を巧みに抑えつけながら、相手の顔だけを見つめている。わずかな表情の変化も見逃さず、微かな瞳の動きにすら意味を見出だそうとする。例えそこに意味がないのだとしても、記憶の中の何かと結び付けようとさえしていた。
そうでもしなければ、耐えられない。
男は、端整な顔立ちだった。貴公子然とした風貌とはこのことをいうのだろう。選りすぐられ、脈々と受け継がれてきた血の結晶。黄金色の頭髪もその証明だった。額は広くも狭くもない。鼻梁は高く、彫りが深いといえる。眉の形は彼女の好みではあった。その下の眼も、好きだった。淡く透明に近いブルー。見詰め合うだけでなんともいえない気持ちになる。
胸を締め付けるそれは、彼への恋情なのかどうか。
彼女は、男の唇を見た。幾度となく重ねあったその部分を見つめ、ときに盗み見るようにして瞳へと視線を移す。男はこちらを見てこそいたが、その湖面のように青く澄んだ瞳に彼女の姿が映りこんでいることなど、到底ありえないことのように思えてならなかった。それは彼女にとって悲しいことだし、認めがたいことだが、厳然たる事実として受け止めざるを得ないのもまた、現実だった。
彼はいつだって、遠くを見ていた。
ログナーの女神たる飛翔将軍アスタル=ラナディース、そのひとだけを見ていた。
だからこそ、彼女の誇りは傷つかない。だれであれ、アスタル=ラナディースという人物と張り合うことなど出来ない。特に彼のような人間にとっては、女神そのものであるといっても過言ではなかった。
畏れ、敬い、信奉しているのだ。
それは恋慕とは違う。
元より勝負すべき相手ではないのだ。彼女自身にとっても、アスタル=ラナディース将軍は信奉すべき存在だった。ログナーの騎士ならば、皆一様にそう想っているはずだ。いや、騎士だけではない。将軍の謀叛に付き従った人数を考えればわかるというものだ。
将軍の謀反が成功裏に終わり、その後の経過が順調なのは、アスタル=ラナディースという人物の国民的人気が影響しているといっても過言ではない。無論、先王キリルの治世への反感もあっただろう。しかし、決め手となったのは将軍にならばログナーの将来を任せてもいいという気運があったからだ。将軍への国民の支持率は圧倒的なものだ。ジオ=ギルバースなどとは比べるべくもない。
そう、彼が将軍を意識するのは当然の成り行きだった。
彼女が気に病むこともない。彼女だって、彼とともに将軍を補佐し、このログナーを泰平に導きたいと考えてはいるのだ。そのための努力を惜しんだことはない。だからこそ、彼は彼女を対等に見てくれている気がする。
とはいえ、彼の心がここにないのは悲しいものだ。
彼女の手は、男の鍛え上げられた腹筋に触れていた。そうしなければならないわけではない。彼に触れていたいという欲求に素直に従ったまでだ。手を重ね、指先を絡め合うのもいいのだが、今日は何故だかできなかった。気恥しいのだ。なんとなく、そう感じている。
男は、ウェインといった。ウェイン・ベルセイン=テウロス。名前からわかる通りテウロス家の人間であり、彼は家督を継ぐべき長男だった。そして、このまま行けば彼が家督を継ぐのは明白であり、そうなればテウロス家の隆盛は約束されたも同然だと、周囲のだれもが囁いている。
彼への期待は、それほどまでに大きい。
彼は、アスタル=ラナディース将軍の片腕たる魔剣であり、《青騎士》と謳われたログナーを代表する騎士だった。先の失態で騎士の称号こそ剥奪されたものの、周囲の彼に対する態度は、騎士の時代と何一つ変わらなかった。
多くの騎士や兵士が、彼を、騎士の中の騎士と見ている。
彼女――エレニア=ディフォンもまた、アスタル=ラナディース将軍の腹心なのだが、彼ほどの名声もなければ影響力もない。無論、ログナーにおいて彼女を知らないものはいないだろう。
しかし、彼女が家督を継ぐことはない。彼女には立派な弟がいた。家督は普通男が継ぐものだ。将軍が、ラナディース家の当主となったのは例外に過ぎない。
それに――。
彼女は、唇を噛んだ。脳裏に浮かんだ愚かで卑しい考えは、彼女に自己嫌悪を促すだけだった。
(どうして……!)
声を上げて叫びたかった。だが、声を上げれば、このふたりきりの時間を破壊することになる。壊したものは二度と元に戻らないのだ。もちろん、ウェインはそんなことを気にするような男ではない。むしろ、慈しみをもって対応してくれるのかもしれない。だが、それではエレニアが耐えられない。
(どうして満足できないの……!)
自分の浅ましさが嫌になる。
いまさら、人並みの幸福を求めている。ウェインと結ばれ、幸福な家庭を築くことを夢見ている。夢想などという生暖かいものではない。取るに足らないくだらぬ妄想。
妄執。
アスタル=ラナディース将軍とともに数多の戦場を駆け抜け、無数の死を看取ってきた自分にありふれた幸福など、あろうはずもない。味方の屍の上を進み、敵を滅ぼしてきたものに訪れる未来など、たかが知れている。人並みの幸せなど求めるならば、最初から剣を取らなければよかったのだ。騎士になどならなければよかったのだ。
しかし、それはできなかった。
騎士を目指す以外の選択肢など、彼女には存在し得なかった。
不意に、エレニアの口の中に血の味が広がる。余程強く噛んでいたのだろう。歯が、唇を破っていた。
彼女は、ウェインの顔を見た。彼はいつものようにこちらを見ている。遠くを見るような目で、将軍の背中を追いかけている。その幻想の風景に彼女の姿が映っているのかどうか。
だから、なのかもしれない。
エレニアは、上体を起こすと、ウェインの胸元に顔を埋めた。汗ばんだ肌は、事を終えたという事実への証左にしかならない。ただ、彼の肌の温もりは、いつも彼女の気持ちを落ち着かせてくれている。
体温を感じながら、彼女は瞼を閉じた。
ウェインが、心配そうな声で尋ねてくる。
「どうしたんだ?」
彼には、きっとわかったのだろう。こちらが果てていないことに気づいたのだろう。何度となく肌を重ねてきたのだ。それくらい、見破るのは当然のことなのかもしれない。ほんの少しだけ、嬉しかった。
ただ、問いには答えない。
まったく関係のないことをつぶやく。
「……あなたの鼓動が聞こえるわ」
答えることなどできなかった。それは、彼女のわずかな誇りが許さなかった。いまにも壊れてしまいそうなほどに傷つき、原型を留めてもいない無残なものだったが、いまはどうにかしてでも体裁を保つ。取り繕うくらいなら、なんとかなる。
そうでもしなければ、この関係は終わってしまうのではないか。
そんな恐怖が彼女の胸の内に渦巻いていた。
だが、そんな不安を打ち消したのは、耳朶を震わせた音色だった。ウェインの胸の奥で心臓が激しく動いている。その鼓動の高鳴りは、彼がなにかを感じている証にほかならないのではないか。
「どきどきしてる……?」
「そりゃそうさ」
彼が笑ったのが、声音だけでわかった。
「君とこうしているんだ。どきどきしないはずがないだろう?」
至極当然のことのようにいってきた男に対して、彼女は、愕然とするのだ。もちろん、嬉しくないはずがなかった。だが、その前に頭の中が真っ白になった。思考が停止して、なにも考えられなくなる。彼がなにをいったのか理解しているはずなのに、驚きのあまり反応できなくなっている。
それは歓喜に違いない。
だから、呼吸さえも忘れた。
一瞬、時が止まったかのような錯覚に陥る。いや、実際時が止まっていたのかもしれない。ただ、世界は既に動き出していて、彼女は、その実感とともに思考停止から復帰した。
「わたしも……!」
彼女がやっとの思いで口を開き、叫ぶように言葉を発したのは、思考の再開とほぼ同時だったかもしれない。動き出した意識の中で、ウェインの顔を見上げる。
淡いブルーの虹彩が、こちらを見下ろしていた。澄んだ湖面のような瞳。美しく、吸い込まれるようだった。
「どきどきしてるよ」
いつも遠くを見ていたはずの彼のまなざしが自身に注がれていることを実感して、エレニアは、本当に時が止まってしまえばいいのにとさえ想った。
「最近、夢を見るんだ」
ウェインの囁きを、彼女は夢見心地で聞いていた。至福の時を堪能している。これ以上にない幸福感が、エレニアのくだらない不安や思い込みを吹き飛ばしてしまっていた。ただ、彼の心音に耳を澄ませている。未だに高鳴る鼓動は、彼の想いの証。ずっと聞いていたいと思った。寝入るまでずっと。
「夢?」
反芻するように訪ねたのは、半ば反射のようなものに違いなかった。ウェインの声を聞いていたいのに、そこに自分の声という雑音が混じるのは避けたいと考えるのは我が儘だろうか。
「そう、夢。戦場にいる夢。戦いは苛烈で、怒号や悲鳴が飛び交っているはずなのになにも聞こえないんだ」
淡々と紡がれる彼の言葉は、エレニアの脳裏にひとつの光景を描き出す。広大な戦場の情景。なぜか天は荒れ、風が吹き荒んでいる。地を埋め尽くすのは、青の騎士と数多の兵。
だが、剣を掲げ、勇猛を振るうのは騎士だけだ。それは悲壮な戦場といえた。その騎士がどれだけ強くても、ひとりでは戦局を動かすことなどできない。ましてや、敵は無数にいた。
エレニアは、瞼を開くなりウェインの顔を仰ぎ見た。彼は、天井を見据えている。彼の網膜に映るのはきっと、戦場の景色。
「そのうち、嵐が来る」
ウェインが、声の調子を落とした。声音が震えていた。いや、震えているのは声だけではない。エレニアに触れている手も、かすかに震えていた。それは恐怖から来る震え。
「嵐のような惨禍がやってくる。破滅を連れてやってくる。黒き死が」
吐き捨てるようでありながら戦慄しているかのような彼の口振りに、エレニアは、驚きを覚えた。ウェインがそのような態度を見せたことなど、いままでになかったのだ。
常に温厚で、どのような相手にも柔和に対応する――それが彼だった。戦場ではどうあれ、戦場以外では穏やかさを失わないのが、ウェイン・ベルセイン=テウロスという人物だったはずだ。
彼はなにを恐れているのだろう。彼女は知りたかった。知ることでなんらかの力になりたかった。恐れを取り除いてあげたかった。できるならば、彼を恐怖から護ってあげたかった。だが、問いかけようがない。
「俺はたったひとりで立ち向かわなくちゃいけない。味方が見当たらないんだから仕方がない。負けるのがわかっていても、行かなくちゃいけない」
「どうして?」
「だれかがそれを止めないと、君も、国も護れない」
エレニアは、はっと呼吸を忘れた。ウェインがこちらを見詰めている。決然たる意志を秘めたまなざし。
「そんなとき――」
不意に彼の表情が崩れた。いつも以上に優しげな顔が生まれる。エレニアは、顔面が急速に火照っていくのを感じた。自分の鼓動が聞こえた気がする。ときめく、というのはこのことをいうのだろうか。
「いつも君の声が聞こえて、それが夢だってわかるんだ」
「わたしの……声」
「君の声だけが聞こえるんだ。君だけが俺を救ってくれる。だから……」
彼女のものに比べれば大きなウェインの手が、エレニア後頭部に触れた。なぜだろう。その手つきからはいつも以上の深い愛情を感じる。いつだって、愛情は込められていた。彼女が気にしなくてもいいほどの愛情があったはずなのだ。にも関わらず、不要な不安を感じていたのは、自分が相手を信じきれていなかったことに起因するのではないか。
エレニアは、己の愚かさを呪った。
そして、全身全霊で彼を信じようと想った。
心の底から愛そうと想った。
彼を悪夢から呼び覚ませるように。
彼を悪夢から遠ざけられるように。
「君を護る」
ウェインの決意の声を聞きながら、エレニアは、至福の時を感じた。夢のような一時。いや、夢なのかもしれない。
ふと、そんなことを想った。
(……そう決めた)
ウェインは、胸元に顔を埋めたまま寝息を立て始めたエレニアの髪を優しく撫でながら、天井を睨んでいた。考えはじめると、自然と表情が険しくなる。
数日前、彼に宛がわれた部屋は、騎士の頃とは打って変わって、こじんまりとした、なんとも言い様のない個室だった。相部屋でないだけましだと思え、とは、上官となった男の言葉だったか。
確かに、それはありがたい配慮だといえた。個室でなければ、こうして会瀬を重ねることもできない。
だからといって、新しい上官に感謝するいわれはなかった。彼に個室を与えるよう指示を下したのは間違いなくラナディース将軍そのひとなのだ。
将軍には感謝してもしきれないほどの温情を受けている。先の戦いに於いて、上官の命を待たずして全軍に撤退を号令したのは、帰国後大きな問題となった。帰国後といっても、将軍の反乱による混乱が収束してからのことではあったが。
ガンディアよりジオ=ギルバース将軍戦死の報がもたらされ、ちょっとした騒ぎになったのだ。
なぜ、将軍だけ戦死したのか。
将軍に随行したふたりの騎士は、なにをやっていたのか。勝ち目がないからと勝手に撤退命令を下すなど、言語道断である、と。
謀反の成功によって王という後ろ楯を失い、もはやわずかな力さえ残っていない反ラナディース派の最後の悪足掻き、と断じることもできる。だが、独断専行だったのも事実だ。
あまつさえ、ガンディア攻略の要であったバルサー要塞を奪還されてしまったのは、取り返しようのない失態だった。
無論、要塞の全兵力を吐き出し、平原での決戦へと持ち込んだのはジオ=ギルバース将軍の意思である。戦闘中に奪還されるなどとは考えなかったものの、危うい戦術だというのは火を見るより明らかだった。
結果からいえば失策だった。わずかな兵力差さえ覆され、ログナー軍は甚大な被害を負って敗走した。バルサー要塞は奪い返され、ギルバース将軍は戦死、千名以上の死傷者が出た。
その責任を名誉の戦死を遂げた将軍ではなく、彼に随行したふたりの騎士に負わせようというのだ。飛翔将軍の翼を引きちぎることで、ラナディース派に痛烈な打撃を与えるつもりだったのかもしれない。
しかし、その目論見は見当外れといわざるを得ない。
確かにウェインとグラード=クライドが罷免されるなりすれば、ラナディース将軍は、重大な戦力を失うことになるのは間違いない。だれも否定はしないだろう。が、それはログナーにとっても損失であり、普通に考えれば、まったくもって得策ではないのだ。
そして、ラナディース派は主流であり、国民の支持を集めている。先王に譲位を迫るという臣下として最悪の行動は、むしろ喝采をもって受け入れられていた。いまさらふたりの騎士に敗軍の責を取らせたところで、将軍の地位は微動だにしないだろう。
そもそも、ふたりだけに責任を負わせるなど、アスタル=ラナディース将軍が許さなかった。彼女は、ジオ=ギルバース将軍と、彼に全権を与えた先王、先王に同調した連中の責任を追及し、ウェインたちだけではなくログナー全体の問題であるとした。
結論として、ウェインたちは一時騎士の称号を返上し、一兵士として軍務に従事することになった。一時というのは、本当に一時的なものであり、新王の判断でいつでも騎士に復帰できるというものだった。
拍子抜けするくらい軽い処分なのは、ザルワーンの動向が不穏だったからにほかならない。
果たして、アーレス=ログナーが軍を率いてやってきた。それもグレイ=バルゼルグの精鋭部隊だという。
アーレス=ログナーには正義がある。彼は先王キリルのふたり目の王子であり、ザルワーンに留学していたのだが、ラナディース将軍の謀反という事態に居ても立ってもいられなくなったのだろう。
ザルワーン首脳部に懇願して軍を借りたに違いない。もちろん、ザルワーンがただで兵力を貸し出すはずもない。たとえ属国の内紛を収束させるためとはいえ、大事な戦力を簡単には貸し出せないだろう。
アーレスとザルワーンの間になんらかの密約が結ばれたと見るべきだ、というのがラナディース将軍の見解だった。ウェインに異論はない。
ザルワーンの支配を強めるのは当然として、国土の幾らかを譲渡するなどという約束でも結ばれているのではないか。でなければ、ザルワーン最強と名高いグレイ=バルゼルグ将軍旗下の精鋭部隊を貸し出すなど考えにくい。
ザルワーンは、ただでさえ戦力が不足しがちだという話だ。内紛に次ぐ内紛で疲弊しているとも聞く。なんの見返りもなしに大事な戦力を貸し与えるなど、正気の沙汰ではない。
ウェインは、眼を細めた。目下、考えるべきはアーレス=ログナー擁するザルワーン軍との決戦のことだ。ログナーに侵入するなり速やかにレコンダールを占拠した彼らの下に、守旧派とでも反ラナディース派とでもいうべき連中が集まっているという報告もある。
それらは、数にして千人にも満たないのだが、ザルワーン軍の戦力が増大することは間違いない。バルゼルグ将軍旗下三千の精兵だけでも厄介だというのに、余計なことをしてくれるものだ。
ウェインは毒づきたかった。
もっとも、ログナーの膿みが出ただけのことだ、というラナディース将軍の意見には賛成なのだが。
ザルワーン軍もろともにその膿みを処分しきることができれば、ログナーの新生は上手くいくはずだ。
大国にしてログナーの支配者であったザルワーン最強の部隊を撃破するということは、国民の鬱屈した感情を解放し、宣揚するに違いなかった。
新王エリウスとラナディース将軍による新体制は、国民に広く受け入れられるはずだ。いまでさえ支持を集めている。謀反という不実の極みを行いながらも、国民は、ラナディース将軍の行動を賞賛し、歓声をもって受け入れている。
ならば、その期待に応えなければならない。
ザルワーン最強の名を欲しいままにするグレイ=バルゼルグ将軍を撃退し、勝利の凱歌を満天下に響かせるのだ。
(本当に……?)
その勝利の先、ログナー新生を謳うことができるのだろうか。
彼の脳裏を一筋の閃光が過る。まばゆい光は、切っ先に反射する陽の光に違いなかった。
戦場に掲げられた漆黒の矛。
禍々しく破壊的な刃が旋回するたび、数多の命が露と散った。
動悸がする。背筋が凍るような感覚。戦慄を覚えている。それは畏怖とでもいうべき感情なのかもしれない。
圧倒的な敗北感。
死の足音を聞いた。
破滅の影を見た。
どくん。
ウェインは、自分の心臓が震える音を聞いた。口惜しさに歯噛みする。己の心の弱さに吐き気がした。
(護ると決めたのに……!)
だが、それを思い出すだけで体が震えるのだ。魂が叫ぶのだ。怖い、恐いと大声を上げて泣き出すのだ。
それを目の当たりにしたものにしかわからない感情だろう。
黒き矛。
使い手の武装召喚師の名は、セツナ=カミヤというらしい。ガンディアの青年王レオンガンド・レイ=ガンディアが、王都凱旋の際に触れ回ったというのだから間違いない。
カミヤという家名からクオン=カミヤとの関連が囁かれているものの、その信憑性がどうあれ、ウェインには関係のないことだった。
かつてログナーに偉大な勝利をもたらした少年は、いまや《白き盾》を率い、傭兵稼業の傍ら慈善活動の真似事をしているというが、彼が恐れているのは、黒き矛のセツナなのだ。カミヤ姓などどうでもいい。
話によれば、バルサー平原での戦いでのログナー側の死者のほとんどがセツナ=カミヤ一人の活躍によるものだという。
報告だけならば、一笑に付すような馬鹿げた戦果だ。誇張にも程があると冷笑したに違いない。たったひとりで千名以上の兵士を殺戮するなど、あり得ないのだ。あってはならない。
例え武装召喚師であれ、それを成し遂げるのは難しいことだ。とてつもなく強力な召喚武装でもあれば話は別だが。
彼の白蛇の牙や蒼の天鎧では、とても真似のできる所業ではなかった。
だが、事実だ。
彼は、開戦早々五百名の兵士が業火に焼かれ、消し炭となるのを目の当たりにしたし、ログナーの精兵たちが手も足も出ずに殺戮されるのを目の当たりにしていた。
鋭角的な軽装の鎧に身を包んだ、悪魔のような男。
紅い目。
血のように紅く、狂ったような輝きを湛えていた。
純然たる殺意があった。まごうことなき殺戮意志。闘争本能などという生易しいものではない。
破壊衝動。
目が合えば斬り殺される。目が合わずとも突き殺される。立ち向かえば切り捨てられ、背を向けようとも薙ぎ払われた。
誰も彼もが塵のように――。
(俺に……できるのか?)
ウェインは、うめくように自問した。彼のアークブルーの全力をもってしても、あれの侵略を押し留めることはできなかった。
持って、数秒。
本来ならそれだけあれば十分だった。動けない獲物には、スネークラインの一刺しで事足りる。
だが、スネークラインは破壊された。伸縮自在の魔剣も、黒き矛の一撃により打ち砕かれた。
破壊された召喚武装など使い物にならない。本来在るべき世界で復元されるまで、待ち続けるしかない。それが明日のことになるのか、一年後のことになるのかだれにもわからない。
そこが召喚武装の難しいところだ。強力な召喚武装も、破壊されてしまえばガラクタに過ぎない。代用品など、即座に見つかるはずがない。
(いや)
ウェインは、胸中で頭を振った。
そもそも、スネークラインとアークブルーで勝ち目があるのかどうか。あのときは上手く動きを封じられたものの、今度は上手くいくかどうか。
だが、黒き矛のセツナを殺さなくては、ログナーに未来はない。
せっかくグレイ=バルゼルグ率いるザルワーン軍を撃退し、ログナーの新生を謳ったところで、ガンディアに攻め滅ぼされては意味がない。
ガンディアの正規軍は弱兵で知られ、おそるるに足りない。ログナー全軍で蹴散らすことができるだろう。勇猛果敢な傭兵たちも、数で圧倒すればいい。剣鬼も所詮は人の子だ。多勢に無勢には閉口せざるを得ないだろう。
問題はやはり、黒き矛なのだ。
セツナ=カミヤ。
あの悪鬼だけが、ウェインの脳裏に開かれた戦場を蹂躙する。
圧倒的な数量で十重二十重に押し包もうとも、死兵の集団をぶつけようとも、彼が全生命を賭して立ち向かおうとも、黒き矛を手にした化け物は、薄く笑うのだ。
そして、一蹴される。
追い詰めることさえ敵わない。
ウェインは、眼を見開いたまま、エレニアを見下ろした。彼女は、いつの間にかこちらのことを仰ぎ見ていた。不安そうなまなざし。きっと、ウェインの心音や体温に不穏な変化があったのだ。
だが、エレニアは、なにもいってこなかった。ただウェインの眼を見つめ、やがて微笑した。
(あ……)
ウェインは、エレニアの微笑みにいままでにない愛を感じた。全身全霊の愛情といってもいいのかもしれない。
魂が震えた。
恐怖が薄れていく。
(君に逢えて良かった)
ウェインは、エレニアの髪を撫でながら、あらゆる不安から解放されていくのを実感した。なにを恐れていたのだろう。馬鹿馬鹿しさにあきれる想いがした。
(君が居てくれて良かった)
相手がだれであれ、全力でぶつかるしかない。あらゆる策、あらゆる手段を用いて、打ち倒すしかないのだ。
(これで俺は戦える……!)
そのためには力がいる。
今以上に強大な力が。
あの黒き矛を退けるだけではない。使い手の息の根を止めるだけの力が必要だった。
(力が欲しい)
そのためには新たに呪文を編み上げ、術式を構築しなければならない。自分に扱える限界ギリギリの召喚武装が欲しい。いや、扱えなくてもいい。支配できなくてもいい。
(奴を殺せるなら、なんだって……!)
黒き矛を打ち砕き、セツナ=カミヤをこの地上から抹消できるのなら、どんな力でもよかった。どんな武器でもよかった。どんなものでもよかった。
ただ、純粋に力を欲した。
不意に、なにかがウェインの瞳の裏を過ぎった。一条の雷光。意識を焼くかのような強烈な閃光。
(なんだ……?)
草原が見えた。闇夜の下に広がる草原。轟音が聞こえる。暴風が渦巻いているのだ。物凄まじい勢いで、天と地の間にあるものすべてを巻き込みながら旋回している。地を削り、草花を巻き上げ、無数の皇魔も天へと運んでいく。
竜巻の狭間に雷光が煌めき、爆音が轟く。
(俺は何を見ている?)
ウェインは、愕然としながらも、その光景から目を離せないでいた。目を開きながら夢を見ているような感覚があった。
声が聞こえた。
『ならば我を手に取るがいい』
地の底の遥か深淵から響いてるような声。
『力を欲するものよ』
ウェインは、我を忘れた。
『我は欲深きもの。そう定義付けられしもの』