第七百六十一話 御前試合(一)
四月六日。
春真っ盛りといった気候が続いている。
穏やかな日差しには青ざめた空、白雲のまばゆさは目に痛いばかりだ。流れる雲を数えているだけで暇を潰せそうなほど、今日は雲が多かった。
空は、天窓の遥か彼方にある。
ガンディア王都ガンディオン獅子王宮の練武の間には、あふれんばかりの人が集まっていた。貴族、軍人、使用人――王宮に出入りすることのできる様々な階級の人間が集まり、観客となって練武の間の中心に熱い視線を注いでいる。
練武の間は、通称であるらしい。
王宮で生活する貴族たちのための訓練施設であり、自身を鍛え、武を練り上げるための空間だということだった。半球形の広い空間だ。普段ならば訓練用の器具が至る所に設置されているのだが、いまは室内から撤去されている。練武の間の中心には舞台が作られていて、その舞台を取り囲むように観客席が用意されていた。観客席には、先にも述べたようにガンディアの重臣から軍関係者まで、だれもが息を呑むような顔ぶれが揃っている。
一際高い位置に用意された貴賓席には、国王レオンガンド・レイ=ガンディアと王妃ナージュ・レア=ガンディアが座しており、太后グレイシア・レイア=ガンディア、領伯ジゼルコート・ラーズ=ケルンノール、大将軍アルガザード・バロル=バルガザール、右眼将軍アスタル=ラナディースらの姿もあった。有力貴族ももれなく顔を出している。
練武の間を緊張感が包んでいるのは、ガンディアの首脳陣が顔を揃えているせいであり、彼らの前で恥ずかしい姿は見せられないという出場者たちの強い想いがあるからだ。
現在、御前試合が行われているのだ。
レオンガンド王の御前での競技試合であり、真剣での勝負ではない。しかし、一歩間違えれば死人が出るのは間違いない。が、国王陛下の前で死者を出すわけにもいかず、そういう理由もあって緊張感が高まっているのかもしれない。全力を出し切って相手を殺してしまっては、なにもかもおしまいだ。
「みんな、緊張しているなあ」
といったのは、ルクス=ヴェインだ。銀髪の“剣鬼”は、観客席にいた。彼の所属する傭兵団《蒼き風》の団長シグルド=フォリアーと副長ジン=クレールの姿もある。ルクス=ヴェインほどの剣術家が御前試合にでないのは不思議な事だったが、彼にしてみれば当然の話だった。
優勝者が決まっている御前試合など、だれが興味を持つものか、というのだ。
つまり、ルクスが出場すれば、ルクスの優勝一択だということだ。それだけ剣の腕に自身があるということであり、それは召喚武装など関係ないということなのだ。
出場の打診はあったが、そういう理由で断られば、ぐうの音もでまい。
「確かに、皆、動きが硬いな」
「マーカスのやつ、張り切ってたのにな」
「初戦敗退でしたね。残念ですが、相手が悪かった」
彼らの会話から察するに、傭兵団からも出場者がいたのだろう。それが一回戦で敗れてしまったらしい。
御前試合というだけはあって、出場者の水準は極めて高い。出場するためには、王宮から直接打診されるか、審査を通らなければならなかった。その審査が厳しいらしく、ある程度の腕前では、審査の最中に落とされるというのだ。審査では、ガンディア人の軍人は全滅であり、ログナー人は何人か通ったということだ。“ガンディアの弱兵”という評価は、しばらくは覆らないだろう。
「リューグだっけ」
「リューグ=ローディンですね。《獅子の牙》に所属しているそうですよ」
「中々の剣の使い手だったな」
「見応えがありそうなのは、そいつくらいかな」
傭兵団の評価は適切であり、彼らの近くに座れたのは幸運だったのかもしれない。しかし、少しばかり気にかかる発言もあった。
レム=マーロウは、ルクスを横目に見た。“剣鬼”の目は、練武の間の舞台に注がれている。
「御主人様は?」
「弟子に見応えなんて期待してないさ。一回戦くらいは突破してほしいものだけど」
「セツナ、常人だからねー」
「あら、ミリュウ様、御主人様が弱いと仰られるのですか」
「弱いでしょ。普通のセツナは。もちろん、強くなったとは思うわよ。少なくとも、一般の兵士よりは戦えるはずだし、もしかしたらそこそこやれるようになってるかもしれないけど」
ミリュウのセツナ評が、思った以上に適当だったことに彼女は驚きを禁じ得なかった。セツナに対して常に甘えているのがミリュウだ。彼の評価も曇っているものかと思ったのだが、想像以上にはっきりとした輪郭が見えているようだった。
確かに、黒き矛を手にしていないセツナは、弱い。本当に黒き矛のセツナと同一人物なのかと疑いたくなるほどに弱いのだが。それでも強くなっているし、伸び代もある。なにより、まだまだ若い。これからどんどん強くなれるだろう。
セツナは、結論を急ぎ過ぎなのだ。そこが愛おしいところでもあるのだが。
「愛情と評価は別物、ということですか」
「そういうことよ」
ミリュウのそういうさっぱりとしたところは、嫌いではなかった。
舞台には、いま話題に上げたばかりの人物が登場し、観客から注目を集めていた。
「第一回戦第七試合、セツナ=カミヤ対ニナ=セントール!」
進行役を務めるゼフィル=マルディーンの声が響くと、歓声が上がった。
観衆のほとんどが、黒き矛のセツナの登場を待ち望んでいたのだ。
「御前試合?」
王宮から届いた招待状の内容を聞いたセツナが目を丸くしたのは、三日前のことだ。招待状というよりは、指令書といったほうが正しいのかもしれない。セツナには拒否権は用意されていなかったのだ。
その日は、レム=マーロウがやっとの思いでガンディオンまでやってきた日であり、彼女は、久方ぶりに体験する王都の賑わいに目を回しながらも《獅子の尾》隊舎に辿り着き、主直々の出迎えに感極まったりもした。その勢いで抱き着くと、即座にミリュウに引き剥がされたが、一連の流れが妙に懐かしく感じられて、彼女はガンディアに来てよかったと思ったものだ。
ジベル軍新生死神部隊は、レムの望み通り解隊された。新生死神部隊に入隊したばかりの軍人たちは、すみやかに別の部隊に配属されたはずだ。墓地に彼女を呼びに来た青年は、さぞ残念がっていることだろうが、彼女には関係のないことだ。感傷さえ生まれなかった。
むしろ、清々しいほどだ。
死神部隊の名は、彼女の同胞とともにジベルの集団墓地に埋葬されたのだ。
ハーマインは思惑通りに事が運ばなかったことを嘆いていたが、そもそも、クレイグを制御しきれなかった時点で失敗しているということに気づくべきなのだ。レムはその事実を指摘することもなく、ジベル軍を辞した。軍を辞めた彼女は、ハーマインの計らいにより、ガンディアに国籍を移す運びになった。ジベル国籍のまま、セツナの下に行くのはなにかと不都合だ。たとえジベルがガンディアと同盟関係を結んでいたとしても、ジベルに籍をおいたままだと、ジベルの間者だと疑われても仕方がなかった。そういうハーマインの配慮には、レムも素直に感謝した。もっとも、ハーマインが配慮せずとも、元よりそのつもりではあったのだが。
ジベル人からガンディア人になることになんの抵抗もなかったといえば、嘘になる。ジベルにも想い出はあったし、愛着もないではなかった。しかし、過去に縋り、いまを見失うほど、彼女の目は曇ってもいなかった。
いまを見失えば、未来さえ掴めなくなる。
「なんでも、王妃殿下の御懐妊祝いの一貫だそうよ」
ファリアの説明に、レムは驚きとともに納得した。
「なるほど」
「なにがなるほどなんだ?」
「いえ……市街のお祭り騒ぎの理由がわかった気がいたしましたので」
ガンディオンに辿り着いたとき、王都は、彼女が目を回すほどに賑わっていた。どこもかしこもひとであふれていて、まさにお祭り騒ぎという有り様であり、さすがは大国の首都と思っていたのだが、よくよく考えて見ればおかしな話ではあったのだ。ガンディオンの許容量を超える人出だった。
王妃が懐妊したというのなら話は別だ。
慶事も慶事だった。国中が沸き立つのも不思議ではないし、むしろ、沸き立たないほうがおかしいといっていい。ガンディアの未来には、光が満ちている。国民のだれもがそう思うような出来事だった。
「そういや、レムは知らなかったんだな」
「はい」
おそらく、懐妊の情報がジベルに届く前に出てきてしまったから知る機会がなかったのだろう。ジベルの首都ル・ベールからガンディオンまで、彼女はほとんど休むことなく馬を飛ばしてきたのだ。馬を休ませることはあったものの、休息のために街に立ち寄ることはなかった。街に寄りさえすれば、ナージュの懐妊を知ることができたかもしれない。しかし、彼女は一刻も早く、セツナの元に参じたかったのだ。
主の元に在ることこそ、彼女の使命だ。
そしてなにより、セツナの側にいることで彼女の精神状態は安定した。ジベルにいたときとは比べ物にならないほどだった。
「王妃様の御懐妊ほど喜ばしいことはないものね。なんとかしてお祝いしたい気持ちはわかるなあ」
ミリュウがうっとりといった。彼女にも人並みな幸福に憧れがあるということだろう。レムにはもはや関係のないものではあるが、ミリュウのような幸福感を抱いていた時期もあるにはあった。子供の頃の話だ。
「だからってなんでまた御前試合なんだ? それに俺に出場しろって、どういうことなんだよ」
セツナは不服そうだった。
確かに御懐妊を祝福する行事になりそうもない。
「母胎の健康と無事の御出産をお祈りする、古来からの風習なんですよ。ガンディアの」
と解説したのは、ルウファだった。忘れがちなことではあるが、彼はガンディアの名家であるバルガザール家の出身なのだ。そういった行事に詳しくても不思議ではない。
「へえ」
「グレイシア様が御懐妊されたときも行われたそうですよ。二回ね」
二回というのは、レオンガンドのときとリノンクレアのとき、ということだろう。いずれにせよ、二十年近く行われていないということであり、隊舎にいるほとんどの人間が由来を知らないのは当然の話だった。ファリアもミリュウもレムも、異国人だ。マリア=スコールとエミル=リジル辺りは知っていてもおかしくはないが。
「なるほど。そこは理解した。ガンディア古来の風習なら文句はない。が、なんで俺なんだよ」
「御主人様は、ガンディアの象徴でございますから、ご出場なさらないわけにはいかないのでしょう」
「それもわかるけどさあ……俺には、俺に完膚なきまでに負けさせて、人々に現実を見せつけさせようっていう魂胆が働いている気がしてならないぜ」
「あのねえ……」
「いくらなんでも考えすぎよ」
「そうですよ、いくら隊長がそこら中から嫉妬されているっていったって、そこまで馬鹿げたことはだれも考えませんって」
もちろん、セツナのいうような思惑が働いている可能性も皆無ではない。しかし、ガンディアの政情は、現在、極めて安定していた。レオンガンドが軍を率いて国を離れている間も、レオンガンドの敵対勢力が動くようなこともなかったらしい。そもそも、反レオンガンド派は、とっくに撲滅されている。
セツナを蹴落とそうとするような輩がいるとも思えない。そのようなものがいたとしても、行事に関わる立場にはないだろう。
杞憂だ。
「仕方ないか……任務だしな」
セツナは覚悟を決めたようだった。
それから毎日、訓練に訓練を重ねるのが、セツナのセツナたる所以だろう。
レムは、そんなセツナの練習相手を務めながら、漠然と、幸福を感じたりした。
それが、この三日間の出来事であり、彼女にとっては極めて充実した三日間だった。