第七百六十話 エリナ=カローヌ
四月に入った。
クルセルク戦争が終わり、王都への凱旋を果たして数日あまり。
戦後処理に忙殺される日々が続いている。
クルセルク戦争に関する報告書の作成にばかり時間を費やしており、鍛錬がおざなりになりつつあった。それでも毎朝の弓術の訓練だけは怠らないのだが、それだけでどうにかなるような問題ではない。もっと修練を積まなくてはならない。少しでも強くなって、彼の負担を減らさなければならなかった。
それが隊長補佐としての使命であり、役目であろう。
事務処理を担当することだけでも十分に負担を軽減している、という声もあったし、隊長はそれだけでもありがたいというのだが、彼女としてはそれだけでは満足できなかった。事務だけを任せるのならば、専門家でも雇えばいいのだ。しかし、《獅子の尾》に事務処理の専門家など入れる余地はない。いや、余地はあっても、隊の色として不要だ。
王立親衛隊《獅子の尾》は、三隊ある王立親衛隊の中でも特別な立ち位置にある。
他の二隊――《獅子の牙》と《獅子の爪》は、王に近侍することでその役目を果たしているといってもいい。特に《獅子の牙》は、王の盾だ。レオンガンド王の身辺警護こそがその役割である。隊に事務処理の専門家が入っていたとしても、なんら問題はない。
しかし、《獅子の尾》は違う。
《獅子の尾》は、王の意思だという。
王の剣でも王の盾でもない。
王の意思の赴くまま、戦場を蹂躙する遊撃部隊。
それが《獅子の尾》だった。
隊を構成するのは、武装召喚師ばかりだ。隊長のセツナ・ゼノン・ラーズ=エンジュールを始め、副隊長ルウファ・ゼノン=バルガザール、隊士ミリュウ=リバイエン、そして隊長補佐ファリア・ベルファリア=アスラリア。それに軍医マリア=スコールと助手エミル=リジルのふたりを加えたのが《獅子の尾》だった。
「事務処理くらい、わたしひとりでなんとかしないとね」
伸びをして、気合を入れなおす。
休憩が終わろうとしていた。
「あー……すみません」
ルウファが申し訳なさそうにいった。隊舎の広間だ。ルウファはエミルとなにやら話し込んでいたのだ。
申し訳無さそうなのは、彼が怪我をしているからだ。彼は、先の戦いで左手を骨折してしまっている。もうほとんど治ったといい、包帯で巻くだけで十分だというのだが、無理をさせて症状を悪化させるわけにもいかなかった。
「気にしなくていいのよ。たまに差し入れでもしてくれれば」
「それって気にしろってことじゃないですか」
「あら、そう聞こえなかった?」
「やっぱり根に持ってるんじゃ……」
「そんなわけないでしょ。冗談よ、冗談」
ファリアが笑うと、ルウファとエミルはほっとしたような顔をした。無論、それも冗談だろう。さすがに本気で受け取っているわけがはない。
一般隊士であるミリュウに、隊の大事を任せることもできない。彼女に事務仕事ができるかというと、疑問の残るところでもあるが。
「師匠ー!」
聞き知った声が、隊舎の中に響き渡る。それだけでだれなのかがわかる。そもそも、《獅子の尾》隊舎の出入りを許されている一般人はほとんどいない。
「師匠はどこですかー!」
元気溌剌そのものの声は、聞いているだけで活気が生まれるというものだが、発している言葉の内容が引っかかった。
「師匠?」
「師匠って?」
「さあ?」
ファリアたちは顔を見合わせ、声の主が広間に足を運んでくるのを待った。彼女は、必ず広間に向かってくるだろう。広間は、隊士が屯していることが多い。そういうことさえ、彼女は理解しているはずだった。
彼女は、毎日のように《獅子の尾》隊舎を訪れていた。最初は、セツナが目当てだと思っていたのだが。
広間の出入り口に少女が、ひょこりと顔をのぞかせた。長い髪が揺れる様さえ愛らしい。エリナ=カローヌ。カラン以来、セツナと交友のある少女だ。ファリアの歳の離れた友人でもある。
「ファリアお姉ちゃん、師匠の居場所がわかりませんか!」
「師匠ってだれよ?」
「え、師匠は師匠ですよぉ!」
「……まさか、ミリュウのことじゃないでしょうね」
ファリアがふと思い立って問いかけると、彼女は憤然とした。
「なにいってるんですか!」
「……そうよね」
安堵する。ミリュウがエリナに武装召喚術を教えるだのなんだのといっていたのは、記憶違いかもしれない。
「ミリュウお姉ちゃん以外ありえるわけないでしょお!」
「……ああ、そっちの意味ね」
納得して、愕然と椅子から腰を浮かせる。
「って、どういうことよ!?」
「ふぇ?」
「エリナ、あなた、ミリュウに弟子入りしたってわけ!?」
少女に詰め寄ると、彼女はむしろ誇らしげにうなずいた。
「うん!」
「うん! じゃないわよ! なに考えてんの!」
「お兄ちゃんの力になりたいの!」
ファリアの怒声にも、エリナはまったく負けなかった。力強く、目を輝かせながら言い放ってくる。そのまばゆさは、いまやファリアが失ってしまったものかもしれない。ルウファとエミルの声が聞こえてくる。
「純粋だ……」
「まぶしいくらいに純粋ですね……」
ふたりの感想には同意するし、それはそれで素晴らしいことだとは思うのだが。
「純粋なのはいいけど、ミリュウに弟子入りするって意味、わかってるの?」
「わかってるよ! 武装召喚師を目指すの!」
「……なんでよ。ほかにも、力になる方法なんていくらでもあるでしょ」
ファリアが肩を落としたのは、武装召喚師への道の険しさを知っているからだ。それこそ、身を以て理解している。術を習得するだけで大変だったし、召喚武装を思うままに操れるようになるのも簡単なことではなかった。長年愛用しているオーロラストームでさえ、つい最近新たな能力を発見したほどだ。
エリナは、目をそらさず、こちらを見ていた。力強いまなざしに決意の程が知れる。
「わたしも考えたよ。いろいろ。でも、お兄ちゃんの力になるためには、《獅子の尾》に入る以外にないって結論がでたの」
「……なるほどね」
「《獅子の尾》は武装召喚師の部隊。浸透していますなあ」
「感心するところですか」
ルウファの言葉がすべてだろう。
納得のいく理由ではあった。《獅子の尾》に入ることだけが道ではないと思うのだが、かといって、これ以上セツナに助力できる道があるかというと、難しいところだ。ガンディア軍に入って、軍師の道を目指すか、大将軍にでもなって彼を支援する以外にはなさそうだ。そしてその二つの道は、武装召喚師になるよりも険しく、不可能に近い。
「ファリアお姉ちゃんは反対なの?」
「反対よ。大反対。でも、止める気はないわ」
「本当に!?」
「ええ。あなたの人生だもの。好きにすればいいのよ。止めたって無駄でしょうし」
エリナの決意は強く、その想いは烈しい。まばゆいほどに純粋なのだ。ファリアが反対したところで、彼女は歩みを止めないだろうし、歩み始めたものを止めることほど愚かなものはない。他人の人生。強く干渉していいものでもない。
「でも、これだけはいっておくわよ。武装召喚師の道は、あなたが考えている以上に厳しくて、遠いものよ。本当にセツナの力になりたいのなら、相応の覚悟が必要だってことを肝に銘じておくことね」
ファリアは、ただ、それだけを告げた。決して強い口調ではないが、優しい声でもない。真剣に思いを伝えるには、相応の態度で望まなければならないのだ。
それは、彼女に伝えた言葉そのものでもある。
「わかってるよ! 師匠にもっと厳しくいわれてるから!」
エリナが嬉しそうに、けれどもとてつもなく真剣なまなざしでいってきた。
「ミリュウが……」
茫然とつぶやいてから、納得する。
(そっか。ミリュウか)
ミリュウ=リバイエンほど、武装召喚師に強烈な感情を抱く人物もいないだろう。彼女は、生き抜くために武装召喚師にならざるを得なかった。ファリアやルウファより余程過酷で凄惨な地獄の中で武装召喚術を学び、習得した。彼女ならば、エリナを間違った道に歩ませることはないだろうし、適切な方法で武装召喚師に導いてくれるだろう。
(心配するだけ無駄だったわね)
胸を撫で下ろして、エリナを見下ろす。
彼女は、古めかしい本を抱えていた。古代言語の勉強から始めているのだろう。武装召喚術の初歩の初歩だ。
「ところで、師匠の居場所はどこですか!」
「ミリュウなら、王宮にいってるわよ。セツナの付き添いでね」
セツナにはレムがついているのだが、レムだけでは不安だという理由でついていってしまったのだ。エリナががっくりと肩を落とした。
「そんなあ……」
「しばらくしたらわたしたちも王宮にいくわ。ついてくるでしょう?」
「いいの!?」
「もちろんよ。未来の《獅子の尾》隊士だもの」
ファリアの言葉に、エリナの顔があざやかに輝く。当然、エリナは登殿する資格を有していないが、《獅子の尾》隊長補佐の従者としての登殿なら、なんの問題もないだろう。英雄を隊長とする《獅子の尾》の立場は、こと王宮においては極めて強い。
「それまでルウファに教えを請うといいわね」
「え、俺!?」
「彼も優秀な武装召喚師よ。学んでおいて損はないわ。さて、わたしは仕事に戻るとしますか。さっさと片付けないと、間に合わなくなるかもしれないし」
「お姉ちゃん、親切にありがとう!」
「いいのよ。友達じゃない」
「うん!」
元気の塊のような少女の返事は、ファリアに戦う力を与えてくれた。彼女が《獅子の尾》隊舎に出入りしてもいいとセツナが判断したのは、そういうところがあるからかもしれない。エリナのいる空間は、いつも活気に満ちていた。
「ということで、臨時師匠、よろしくおねがいします!」
「臨時師匠って……」
ルウファが、エリナの勢いについていけないとでもいうようにつぶやくのが聞こえた。