第七百五十九話 黒い騎士様
あてもない旅が続いている。
あてもなく、終わりもない。
永久に近く続く地獄のような旅だ。
それが自分に科せられた罪と罰なのだということだけはわかっている。なぜ、罪と罰を得たのかまでは覚えていないし、思い出そうともしないのだが。
名も、記憶に残っていない。
ただ、自分には力があり、その力を正しく使わなければならないという想いがある。理由はわからない。理由などないのかもしれない。勝手な思い込みが確信となって自分を突き動かしているだけなのかもしれなかった。
延々と歩き続けている。
休む必要はない。
無限に長く歩き続けることも不可能ではなかった。
戦闘を挟むと、さすがに休息の必要性が出てくるのだろうが、幸い、戦闘が必要な状況に遭遇するということがなかった。
野盗や山賊に遭遇することもなければ、皇魔に襲われることもなかった。ひとの通らない、獣道さえない山野を歩いているからかもしれないし、彼を襲ってもなんの旨味もないからかもしれない。彼は、その身一つで旅をしていた。
身に纏う鎧兜だけが彼の持ち物だ。食糧も有していなければ、金銭も持っていない。それらは、彼の旅路には不要なものだ。足さえ動けば、無限に近く歩き続けることができる。
それこそが罪と罰だ。
いくつか国境を越えたはずだ。
ゼノキス要塞を北へ進み、クルセールを通過した。さらにいくつかの街を通りすぎている。記憶によれば、クルセルクの北にはシャルルムという国があり、シャルルムの北にはカラという小国があった。
記憶。
不思議なもので、覚えていることと覚えていないことの落差が激しかった。地理に関する記憶は完全といっていいほど鮮明なのだが、こと人物に関する記憶になると、途端に輪郭を見失った。しかし、朧気な記憶を頼りに、自分と関わりのある人物を探すという旅路ではない。そういった旅を行うのならば、北ではなく南に向かうべきだ。南西、ザルワーンこそ、自分と関係のある土地だったはずだ。
彼はなんとなく足を止めると、周囲を見回した。鬱蒼とした森の中を突き進んでいる。この森を住処とする動物たちが、注意深く、彼の動向を監視しているのがわかる。動物たちにとって彼は異物に過ぎず、望まざる来訪者に過ぎない。
再び、歩き出す。小動物の視線や足音さえ感じ取れるのは、感覚が肥大し、鋭敏になっているからだ。常人では得ることのできないほどの感知範囲に感知精度は、武装召喚師特有のものだという。武装召喚師というものが一体何だったのかさえも忘れてしまったが、大事な言葉だということだけは覚えていた。
が、だからどうということはない。
彼の旅とは無関係のものであるはずだ。
不意に、悲鳴が聞こえた。遥か左前方でなにかがあったようだ。逃げ惑う足音。奇怪な叫び声。獣の雄叫びではない。化け物。皇魔。
彼は、駆けた。木々の間を擦り抜け、草花を飛び越え、悲鳴のあった場所に辿り着く。悲鳴の発生した場所には、皇魔特有の不愉快な気配の残滓が残っている。急いで残滓を辿る。
「いやあ、来ないで……! だれか、助けて!」
叫び声は、すぐ近くで聞こえた。あまり遠くに逃げられなかったのだ。残滓にそって、血の跡があった。悲鳴の主は怪我をしている。皇魔に傷を負わされたのかもしれない。
彼は、考える間もなく血の跡を追い、そして、視界に飛び込んできたグレスベルの後頭部を拳で貫いていた。小鬼が断末魔を上げる暇もなく、ただの肉塊と成り果てる。が、皇魔は一体ではなかった。小型皇魔は群れをなすものだ。
「殺さないで……!」
死体の左右に立っていた皇魔が、死体に変わり果てた同胞の姿に驚き、愕然とこちらを振り返る。振り返るのが速いほうから死体になっていた。彼の手刀が、小鬼の首の骨を叩き折ったのだ。
彼は、グレスベルの死体を見下ろして、完全に息がないことを確認すると、少女を見た。
悲鳴をあげていたのは、少女だった。十代に入ったばかりか、幼さが全面に出ていた。木を背に立ち尽くしているところを見ると、逃げ道を塞がれたところだったようだ。右足に傷があり、血が流れていた。命に別条はない。
気になったのは、髪が紅いことだ。燃え盛る炎のような色彩は、彼の記憶を喚起するものだった。そして、気の強そうなまなざし。
少女を護らなければならない。確信がある。使命だ。
「ミ……リュウ」
その言葉だけは、なんとか発することができた。喉が焼けるように痛い。音を発することを肉体そのものが拒んでいるかのようだった。
「え……?」
少女は、愕然としていた。
いつの間にか皇魔が死体に成り果てていたのもそうだが、突然、黒鎧を全身に纏ったものが現れたのだ。助けられたということよりも、単純に驚きのほうが強いだろう。彼女の反応は当然だったし、それが悪いというわけでもない。
「あなたが……助けてくれたの?」
少女がきょとんとして、いった。
彼は、小さく頷くと、少女に歩み寄り、彼女の目の前で跪いた。
「な、なに……?」
少女がたじろぐのがわかったが、彼には説明する言葉を持たなかった。
彼は、自分の生きる場所を見出した気がしたのだ。
彼は、少女に導かれるまま、彼女の村に向かった。
村は、森の外にあった。当然だ。森の中になんの囲いもなく集落を作るなど、正気の沙汰ではない。この世界には人外異形の怪物があふれていて、それらは人類に対して敵意を抱いている。魔王に支配されていたときでさえ、彼らの人類への悪意や殺意を消し去ることは敵わなかった。皇魔は、どうあがこうとも人類の敵なのだ。
敵に対する備えは、小さな村であっても必要だ。
村もまた、大陸全土の都市と同様に壁に囲われていた。といっても、都市ほど巨大で、堅牢そうなものではない。しかし、壁で周囲四方を囲うだけで、皇魔に対する牽制になった。皇魔は、基本的に壁に覆われた領域を襲撃することはなかった。なぜかは不明だったが、皇魔全体の習性なのだろうということとして、認識されている。魔王の下で皇魔の研究に勤しんでいた男にならわかったのかもしれないが、その男はとっくに死んでいる。
彼が殺した。
殺さなければならなかった。
そうしなければならなかった。
それも、彼に課せられた使命だったのだ。
使命を終えれば、新たな使命が待っている。
そう信じて、旅に出た。旅に出なければならなかった。あの場に留まっていれば、敵に捕まっていただろう。敵は、彼の秘密を暴こうとするはずだ。殺しても死なない化け物である自分のことだ。研究素材には打って付けといってもいい。
彼は、逃げるように旅に出た。
旅に出てよかったと思うのは、彼女と出会えたからだ。
少女は、名をミレイユといった。人物名も思い出せないほど欠陥だらけの脳だったが、少女の名前だけは記憶に刻むことが出来た。幸運というほかない。使命だからだろう。単純な構造の彼の頭は、疑いを持ち得なかった。
ミレイユは、村に向かうまで、ずっと喋り続けていた。元々饒舌なのか、不安を打ち消すために喋っていたのかはわからない。後者だということに気づいたのは、村にたどり着いた途端、彼女が無口になったからだ。
村人たちは、少女が勝手に村を飛び出したことを叱責したが、彼の存在に気づくと、沈黙した。彼の無言の圧力が、村人の意気を消沈させてしまったようだった。悪気があるわけではないが、少女を傷つけるつもりならば容赦をするつもりもなかった。
ミレイユが森にいたのには理由がある。
村の南にある森には、小さな湖があり、その湖の水が母の病に効果があるからだ、ということだった。森は、使徒の森とも呼ばれている。ヴァシュタラの使徒が降り立った森には、奇跡の残り香としての湖があるのだ、というのだが。
迷信だろう。
彼は思ったが、みずからの命を擲ってでも母を病から救おうとする少女の想いを踏みにじる気にはなれなかった。
ミレイユは、家に戻ると、病床の母に汲んできた水を与えた。母が、どうやって手に入れたのかと問うと、彼女は、彼に汲んできてもらったと嘘をついた。足の怪我も隠していた。母は、娘を疑わなかったし、彼に感謝した。
「ごめんね、勝手なことばかりいって」
母の部屋を出た後、少女は謝ってきたが、彼は別段、悪い気はしなかった。
彼女に頼られているというだけで充足感があった。
「あなたは、これからどうするつもりなの?」
少女の問いに思うように答えられないもどかしさだけが、彼を苦しめた。
彼は、村に残った。
ミレイユの家の納屋が、彼の居場所となった。
ミレイユは、彼を黒い騎士様と呼んだ。
悪くない気分だった。
ここで、使命を果たそう。
彼は、春の日差しの中で、仕事に精を出す少女を見守りながら、そんな決意を固めた。