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第七十五話 武装繚乱(後)

 黒き矛を召喚した瞬間、セツナの脳裏に無限の宇宙が広がるかのような衝動が突き抜けた。

 視野が広がり、あらゆる感覚が増幅する。肥大するだけではなく、尖鋭化していく感覚は、遥か前方の化け物どもの息吹きによる草木の揺れすらも把握し、彼の頭の中にこの闇深き森の情景を明確に投影していく。脳内に構築された森の景色は昼のように明るく、眼前の光景と同期させることで、歩くことは愚か激しい戦闘にさえ不自由を感じることはない。そして、それさえも無意識のうちに処理される。

 黒き矛の禍々しくも狂おしい威容を見つめながら、彼は、すべての感覚が戦闘へと移行していくのを認識した。目も耳も鼻も、手も、足も、あらゆる身体機能が戦いのためだけに力を振り絞ろうとしている。後のことなど考えてはいない。考えられない。いま、この戦闘に勝利することだけが意識を制圧している。そして、その勝利をどのような戦い方で導くのか、そんなことばかりが彼の脳裏に浮かんでは消えた。

 皇魔ブフマッツの姿は、まだ完全には把握できていない。

 どうやら、浮遊する火の玉というわけでもないらしい。遠目には鬼火や人魂を思わせる青白い炎の塊が虚空に浮かんでいるように見えたのだが、黒き矛による五感の強化のおかげで、セツナにはそれの輪郭が見えていた。大型の馬であり、その鬣と尾が炎そのもののようだった。頭部や臀部から青白い炎を噴き出しているのだ。どういう原理なのかはわからない。そもそも異世界の存在である皇魔に常識を求めること自体無意味だ。ブリークにせよ。レスベルにせよ、なんらかの方法で雷光を発生させたりしていたのだ。発火能力を持つ皇魔くらいいるだろう。

 そして、常識が通用しないのは、セツナが握り締める黒き矛とて同様だった。

「深く静かに、ね」

「そうだ。レックス殿たちが熟睡していられるほど静かに、そして速やかに皇魔の掃討を完遂させたまえ」

「あんたは手伝わないつもりか?」

 セツナは、まったくその場から動こうともしないランカインに半眼を投げかけた。長身の男の姿は、半ば闇に溶け込み、地獄から抜け出した幽鬼のように見えなくもなかった。彼は、武器も構えずに悠然と突っ立っている。こちらは愚か、前方の敵さえ見てはいない。

「俺はここで馬車を護っている。馬に騒がれては敵わんのでな」

「オリスンさんならともかく、あんたに抑えられるのかよ」

「俺ならできるさ。君とは出来が違う」

「……だろうな。俺はあんたとは違う」

 セツナは、静かに呼吸を整えた。ランカインへの悪感情だけは抑えなければならない。どのような強引な手段を用いても、いま、感情を暴走させるわけにはいかない。それはわかっている。わかっているのだ。だからこそ、彼は、矛を一度振るうことで気を紛らわせようとした。そんなことでランカインへの感情に区切りが付くわけもないが、それでもこの瞬間だけは切り替えることが出来る。

「俺は皇魔を殲滅するだけだ」

 倒すべきは、眼前の敵だけでいい。

「そうだ。それでいい。君は黒き矛。敵に突き付けられる絶望の刃。絶対の死。終わりの約束。後方に構う必要はない。存分に暴れたまえ。無論、深く静かに、な」

 冷ややかに嗤うかのような男の声を振り切るようにして、セツナは、前方へと駆け出していた。濡れた地面を踏み越え、木々が乱立する森の中を何不自由なく疾駆する。木々の枝葉が風に揺れて擦れ合い、ざわざわと音を立てた。

 セツナは、頭の中に描き出された進行経路を辿り、垂れ下がった枝や草花などの障害物を完全に回避して移動していた。ブフマッツの姿が目視できる距離にまで到達しても、彼は前進を止めなかった。皇魔たちの警戒網を突破し、彼らの注意を一身に浴びる。そのまま敵陣を突破し、馬車から遠く離れた位置まで誘導することで、馬車に届く物音を最小限にしたかったのだ。

 もちろん、そう上手く行くはずもない。

「!」

 突然、眼前に青白い炎が出現し、セツナは、急停止せざるを得なくなった。足を踏ん張るものの、慣性を殺しきることはできず、前のめりに転倒しそうになる。倒れこむ瞬間、真紅の眼光が彼の網膜を焼くかのように煌いた。荒々しい鼻息が耳朶に触れる。殺気が閃く。

「ちっ!」

 セツナは、体勢を崩したまま強引に上体を捻った。矛を振り回す。頭突きでもするかのように突き出してきた皇魔の頭部をわけもなく斬り裂いたものの、血飛沫を上げながら悲鳴を発する化け物の巨体が暴れだしたのを見届けることはかなわない。地面が近づいてくる。皇魔の叫びは雷鳴のように轟く。これでは静寂が乱されたも同然だ。

 口惜しげに顔を歪ませる暇もない。

 彼の顔面は、つい数時間前の豪雨によってぬかるんだ地面に突入していた。顔の半分が泥に浸かり、泥の味が口の中に広がった。泥塗れになったのは顔だけではない。衣服もべとべとになってしまった。だが、後悔している暇はない。幸い、転倒したことによる負傷や痛みはなく、立ち上がりさえすれば即座に次の行動に移れるだろう。

 化け物が、激しく地団太を踏んでいた。泥水が飛び散り、セツナに降りかかってくるが、非難の声を上げても意味はない。怒気を孕んだ叫び声を聞けば、皇魔が既に正気を失っていることもわかるというものだ。攻撃しようとしたところを斬り付けられ、頭に血が上ったのだろう。それでなくとも、皇魔と言葉が交わせるとも思えないが。

 セツナは、素早く立ち上がると、口の中の泥水を吐き出した。そこでようやくブフマッツの全貌を認識する。一言でいえば、装甲を纏う軍馬だった。巨体であり、全長四、五メートルはあるように思えた。青白い炎は、頭部と臀部から噴き出しており、鬣と尾の役割を果たしているようだった。セツナが切り裂いたのは鼻筋辺り。血は止まるどころかどくどくと溢れており、皇魔が興奮するのもわからなくはなかった。

 彼は、興奮のあまり眼前の敵さえ見ていない化け物に多少の憐れみを覚えた。だが、矛を握る手を緩めようとも想わない。敵は一体ではなかった。周囲のブフマッツたちがこちらに向かって近づいてきているのだ。猶予はない。既に静寂は破壊され、雷鳴のような咆哮が森の闇を震撼させていた。もはやランカインからの注文は果たせない。

(最初から無理な注文なんだよ!)

 振り被った黒き矛を一閃させ、いまにも暴れ出そうとしていたブフマッツの首を切り落とした。装甲のような表皮に覆われていようと、漆黒の刃の前では紙切れも同じだった。たいした手応えさえ伝わってこない。皇魔の首が胴体から離れた瞬間、鮮血が噴き出した。臀部の炎が消えたのは、ブフマッツの死体が力なく崩れ落ちてからだった。頭部の炎は、胴体から切り離されてすぐに消えた。胴体から供給されていたのだろう。そんなことを考えながら、セツナの意識は新たな敵意に向いていた。

 敵意は無数。

 周囲一キロ以内に二百程度の皇魔の気配が存在しており、それらが先の悲鳴を聞きつけたのか、一斉にこちらに向かっていた。皇魔を一ヵ所に集めるという点で彼の作戦は成功していたが、馬車から引き離すことはできないようだった。ブフマッツは、前方百八十度以上の広い範囲から、セツナを取り囲むように距離を詰めてきている。馬車から引き離すには、その皇魔の包囲陣を突っ切らなければならない。

 セツナは、後方を一瞥した。深い闇に彩られた森の中。馬車の様子は見えないし、ランカインがどこにいるのかも目視ではわからない。闇に溶けているのだとしても、あの男ならば不思議ではなかった。狂気の殺戮者。技量においてはセツナが及ぶべくもない。彼が馬車の護衛に当たっている限り、安全ではあるのだろう。ランカインならば、最悪この森を焼き払うこともできる。

 後方の安全は確認した。皇魔がそちらに向かっている様子もない。討ち漏らさなければいいだけの話だ。

 ならば、と彼は前方に向き直った。もっとも近い皇魔までの距離は、およそ百メートル。矛を構え、呼吸を整える。生臭い血の臭いが鼻腔を衝いた。死の臭いだ。化け物は絶命し、物言わぬ肉の塊と成り果てた。あとは腐り落ちて地に還るのみだろう。

 ブフマッツの死体を飛び越え、前進を再開する。蒼白の火の玉が群れを為して迫りくるのが見えていた。盛大な破壊音とともにこちらへと突き進んできている。

「おいおい……」

 セツナは、ブフマッツたちが木々を薙ぎ倒しながら迫りくる光景に唖然とした。もはや夜の静寂などどこにも見当たらない。皇魔の群れが上げる地響きや倒壊する木々の立てる物音が、この森に混沌をもたらしていた。土砂や粉塵が舞い、小動物たちが悲鳴を上げて逃げ惑う。この闇を支配していた沈黙が破られ、森の生命が一気に活動を始めたのだ。

 無数の情報がセツナの頭の中に飛び込んでくる。ブフマッツの破壊的な進軍を非難することもできず、ただ逃げ惑うことしかできない小動物たちの怒りや恐れが、セツナの五感を刺激した。倒れゆく木々の枝から飛び立つ鳥たちの羽音が、四方八方に逃散する小動物たちの足音や鳴き声が、呆気なく薙ぎ倒される木々が奏でる不協和音。

 セツナは歯噛みした。前方十メートルの距離にブフマッツの炎が見えている。倒壊する木々に燃え移った炎は、ゆっくりと、しかし確実に森の闇を焼いていく。蒼く、白く、あざやかに。

「静かどころじゃねえ!」

 皇魔は、様々な場所からこちらに向かっていた。このままだと森全体が炎上しかねない。炎は矛で吸えばいいのだが、それにしたって目立ちすぎではないのか。この森が王都からどれくらいの位置にあるのか判然としないが、情勢が情勢だ。森が炎上すれば、厳しい警戒の目に引っかからないはずがない。

 いや、もう既に手遅れなのかもしれない。

 ランカインの嘲笑が聞こえた気がした。


(君には難しすぎたか?)


「うるせえ」

 セツナはその場に立ち止まると、泥水を撥ね飛ばしながら猛然と迫り来るブフマッツの群れを見据えた。蒼白の火の玉が群れをなしている。皇魔どもは、頭部から噴き出す炎を全身に纏ったのかもしれない。その炎が木々を焼き、草花を炎上させているのだ。樹木を薙ぎ倒すほどの体当たり。直撃すれば軽傷では済むまい。一溜まりもなく粉剤されるだけだ。

 彼は、黒き矛を強く握った。望むのは破壊。対象の撃滅。念じるのは殺戮。敵対者の殲滅。脳裏に描き出されるのはイメージ。矛に秘められた力が解き放たれ、無慈悲なまでの暴圧によってすべてを抹殺する情景。築き上げられるべきは死屍累々。血の河が大地を埋め尽くす。恐怖が心を締め付ける。だが、彼は止めようとは考えない。そうしなければならない。そうしなければ、目の前の敵集団を滅ぼすことなどできるはずがない。

 皇魔の先頭は、正面五メートルの距離にまで到達していた。炎の塊。地響きを上げながら猛進してくる。舞い上がるのは粉塵よりも泥水であり、雨に濡れた草花さえも焼き払う炎など触れるわけにはいかない。

 残り三メートル。矛を掲げる。

 殺気全開で迫り来るブフマッツの荒々しい鼻息が聞こえた。一体、二体、三体――間合いに飛び込んでくる皇魔の数は多ければ多いほどいい。すべての化け物を一網打尽にするにはもっと広範囲の攻撃手段を取らなければならないが、この森をさらに破壊するのは避けたいものだ。

 二メートル。半歩、踏み込む。

 ブフマッツの獰猛な咆哮が耳朶に触れた瞬間、セツナは、全身全霊の力を込めて矛を振り抜いた。横薙ぎの一閃。黒き矛は、漆黒の軌跡を虚空に描き、眼前の化け物たちを薙ぎ払った。暴風のような一撃だった。三体の皇魔は、我が身になにが起こったのかわからないまま絶命したに違いない。断末魔の声さえ上げられなかった。両断された肉体は肉塊と化し、鮮血とともに地に沈む。炎はすぐには消えまい。そしてそれを確認している余裕はない。

 セツナは、ぬかるんだ地を蹴ると、前方へと飛躍した。青白い炎が道のように連なっているのが見える。その炎の経路を辿って、ブフマッツの後続部隊が殺到してきていた。セツナの肉体は躍動する。轟然たる勢いで突進してくる化け物たちの先陣へ。

 先頭を進むブフマッツの頭上を越える瞬間にその額に穂先を突き立て、その勢いのまま頭蓋を割る。悲鳴が聞こえた。

 が、彼の標的は後に続く皇魔へと移っていた。跳躍による滞空時間が尽きようとしている。矛を旋回させ、目の前にあった皇魔の首を刈る。馬のように長い首だ。斬りやすいことこの上ない。首を切り落とされても尚前進を続ける化け物の胴体を矛の石突で薙ぎ倒し、ようやく着地する。

 横倒しになった巨体の後方からさらに無数の殺気が接近してくる。が、セツナは来た方向――真後ろに向き直ると、彼の横を通過してしまった数体のブフマッツの後姿を捕捉した。化け物たちは目標を見失い、方向転換しようとしたのかどうか。皇魔どもの反応などお構い無しに、セツナは矛を一閃させた。

 矛が閃き、既に三メートル以上も離れていたブフマッツの胴体が横一文字に切り裂かれた。四つの火の玉が、ほぼ同時に地に崩れ落ちる。死んだのだろう。

 いくつかの木も切り裂いてしまったが仕方あるまい。

 セツナは、矛をくるりと回転させると、背後に穂先を刺し出した。手応えと悲鳴。後方から殺到してきていた皇魔に突き刺さったのだろう。彼は、口の端に笑みを刻むと、背後を振り返った。黒き矛の穂先が、ブフマッツの首の根元に突き刺さっていた。皇魔を包む熱気が凄まじい。が、嗤う。

 矛を深く突き入れ、悲鳴をさらに激しいものにした。怨嗟と憤怒に満ちた叫び。彼は黙殺し、必死にもがく皇魔の巨躯を突き刺したまま、黒き矛を掲げた。かなりの重量があるはずだったが、セツナの両腕にほとんど負担はかからず、拍子抜けするくらいあっさりと持ち上がった。その間、数体の皇魔が横を通り過ぎたものの、転進してくるに違いないと判断する。

 持ち上げた皇魔が激痛に対抗するように怒りの咆哮を発し、四本の脚を暴れさせた。鬣の炎が激しく燃え上がり、膨張した炎の尾をセツナの顔面目掛けて伸ばしてくる。上体を仰け反らせて尾をかわし、その勢いのまま矛を背後に振り下ろし、ブフマッツを後ろの地面に叩き付ける。

 なにかが盛大に潰れるような音と、手に伝わる衝撃。悲鳴が止む。鋼鉄に覆われた化け物がその程度の衝撃で死ぬとは思えないが、元より致命傷を与えてはいたのだ。

 セツナは、背後に確認の一瞥をくれることもなく、前方の三方向から猛進してくる敵へと目標を切り替えた。矛を一振りし、突き刺したままだった肉塊を投げ飛ばす。もはや物言わぬ肉の塊と化したそれは、正面から接近しつつあった皇魔の一団に直撃し、その進軍を一瞬だけ遅らせることに成功した。

 左の集団が先頭に踊り出る。そのつぎが右から来ている。左からは十五、右からは二十二、正面からは三十に及ぶ大群だった。さらに後方で馬首を巡らせたブフマッツが嘶くのが聞こえた。

「大量だな」

 いまさら、あきれるようにつぶやく。よくこんな森で一晩を過ごそうとしたものだ。ランカインはこの森が皇魔の〝巣〟になっていたことを知らなかったのだろうか。知っていたのなら、わざわざこんな場所で休もうとはしないはずだが。

(ランカインのことだ!)

 知っていて、こうなるように仕向けたとしてもなにもおかしくはない・

 無論、狂っている。

 こんな状況になれば、窮地に陥るのはセツナたちだけではない。ランカイン自身、無事でいられる保障などどこにもないのだ。彼が全力を振るえばどうにでもなるのかもしれないが、ランカインも結局は、力の扱い方もわからないころのセツナに敗れたような男だ。場合によっては、あっけなく死んでしまうことだってありうる。

 彼は、死を恐れてはいない。むしろ死の足音を聞きたがっているようなところがある。殺し合う中に生を見出しているとでもいうのか、どうか。

 だからこそ狂っているのだが。

 そのときだった。

「っ!」

 不意に、痛みがセツナの意識を突き抜けた。強烈な衝動が、彼の全身を駆け抜ける。激痛。総毛立つような感覚とともに極めて激しい怒りが、セツナの心を掻き乱していた。すべてを焼き尽くさんと燃え盛る、どす黒い猛火の如き激情。憤怒。だが、その怒りが何処から生まれ、だれへと向けられているのか、セツナ自身にすらわからなかった。そもそも、これはセツナの感情なのか。

 だが、その正体不明の激情がセツナの心を焦がさんとしているのは事実だった。

(なんだ、これ……?)

 セツナは、胸の奥底で燃え盛る漆黒の猛火に慄然とした。当人が寒気を覚えるほどに激しく苛烈な怒り。純然たる殺意。破壊への意志。

 彼は、苦しみを覚えた。正体のわからない感情のうねりは瞬く間に心を席巻し、意識を締め付けていく。マグマのように煮え滾る黒い想いを吐き出すことも叶わない。燃える。燃えていく。このままでは燃え尽きてしまうような気がした。

 どこにぶつければいいのか。いや、そもそも、どうすればこの怒りを静めることが出来るのか。なにに対して、自分は怒りを感じているというのだろう。

 眼前の皇魔に、だろうか。

(目の前?)

 セツナは、はっとした。

 気が付くと、青白い火の玉が視界を埋め尽くしていた。視野が狭くなっている上、接近を感知し切れていなかった。ブフマッツたちが、猛然たる勢いで突進してきている。地響きを上げ、撥ね飛ばした泥水を蒸発させながら。

 かわしきれない。

 反応さえ、出来ない。

 体が動かなかった。

 だが、怒りは依然として胸の内で燃え盛っている。渦を巻き、幾重もの螺旋を描く。漆黒の炎。セツナの心さえ破壊しかねない、純粋な悪意。敵意。殺意。なにかがセツナの網膜の裏に映った。影――。

「ぐはっ!」

 猛烈な衝撃が、セツナを襲った。彼のがら空きになった腹部に、ブフマッツの頭部が突っ込んできたのだ。炎を帯びた鉄の塊を叩きつけられたようなものだ。腹部に生まれた凄まじい痛みは即座に脳に伝達され、脳からは危険信号が発せられる。骨が数本、折れたかもしれない。胃の内容物が口に込み上げてくる。喉が熱い。痛みは、強烈な打撃によるものだけではなかった。

 青白い炎が、セツナの全身を瞬く間に包み込んでいく。ブフマッツの頭部から燃え移ったのだが、それにしても物凄い速度だった。そして、全身の皮膚を焼かれる痛みは、筆舌に尽くし難かった。

(あの時と同じだ――)

 ブフマッツによって中空に打ち上げられながら、セツナの脳裏を駆け抜けたのは、炎上する小さな街の光景だった。カラン。ガンディアの小さな街だ。ランカイン=ビューネルの狂気によって焼き尽くされた街。その街を滅ぼす猛火の中で、彼もまた、炎に巻かれて死のうとしていた。

 火竜娘かりゅうじょうといったか。

 ランカインの召喚武装が吐き出した炎は、セツナの命の灯火さえも焼き尽くさんとした。事実、彼の命数は尽きようとしていた。彼女が現れなければ、セツナは命を落としていたのだ。彼女がオーロラストームを行使しなければ。

 ファリア=ベルファリア。

 その武装召喚師は、なにかと彼の世話を焼いてくれていた。どんなときでも、親身になって彼を支えてくれていた。時には叱咤し、励ましてくれた。彼女がいなければ、いまのセツナはいない。それは間違いない。あらゆる意味で、ここにはいられなかったのだ。

 彼女の理知的で優しげな容貌が、セツナの脳裏に浮かんだ。

(だから、死ぬわけには行かない!)

 約束したのだ。

 生きて帰る、と。

 セツナは、両の手が矛を手離していないことに感謝した。全身が熱い。絡みつく炎が、皮膚や衣服を焼いていくのを止める手立てはない。だが、もはやそんなことは関係ないように想われた。怒りがある。どす黒い殺意の炎が、皇魔の炎に負けないくらいの熱量を以て彼の心を焦がしていた。それで痛みを誤魔化せるはずもないのだが、なぜか、いまならいける気がした。根拠のない自信は、いつだって確信に変わる。

 眼下に皇魔たちの姿が見える。数十のブフマッツが一箇所に集まっているのは壮観であり、恐ろしくもあった。飛び掛ってくる様子はない。巨体だ。同時に飛び掛っては、仲間同士でぶつかり合ってしまうだけだ。それならば、一体ずつ飛び掛ってきそうなものだったが、そういう気配もない。

 いや、ブフマッツたちは、こちらを見てはいなかった。すべてのブフマッツが、同じ方角に首を向けている。セツナのことなど、もう放っておいても死ぬと判断したのかもしれない。通常ならば、それは正しい判断といえる。

 しかし、セツナは普通ではない。

(おまえは化け物だ)

 中空へと打ち上げられた態勢のまま黒き矛を旋回させ、胸中で告げる。化け物。黒き矛を振るうとき、自分は化け物へと変容するのだ――そう、認識する。人間の形をした人外の化け物へと変わる。これまでがそうであったように。そしてこれからもそれだけは変わらない。化け物。心が震えた。化け物。化け物。化け物。

「おおおおおっ!」

 彼は、我知らず咆哮していた。地上のブフマッツたちが、一斉にこちらを振り仰いだ。一様に驚いているように見えた。まだそんな力が残っているのか、とでも想ったのかもしれない。

「吸え」

 セツナは、矛に命じた。石突の宝石が紺青の閃光を発し、あっという間にセツナの全身を包み込んでいた青白い炎を吸い尽くす。炎は消えたものの、痛みは残っている。衣服も体も頭髪も焼け焦げていた。鼻腔を満たす臭いは、自分の体が焼けた臭いだろうか。ぞっとしない。

 が、彼は、薄く笑った。多少は化け物らしい姿に近づいたかもしれない。それでいい。そんな風に考えると、少しだけ楽になった。とはいえ、気分は晴れない。正体不明の憤怒が渦巻いている。怒りは、時とともに巨大で形容しがたいものへと変貌していくかのようであり、セツナ自身不安を覚え始めていた。だが、その前にこの状況を打破しなければならない。

 炎を吸い尽くしたことで、ブフマッツの敵意がセツナに集中していた。青白く燃える鋼鉄の軍馬たちが、真紅の眼光をこちらに向けている。既にセツナの体は落下を始めていた。ようやくというべきかも知れない。長い滞空時間。それさえも矛の力だろう。セツナ自身の能力ではない。セツナ自身は無力に等しい。

 だからこそ、化け物なのだ。

 セツナは、着地へと至る軌道の途中で矛を振り被った。ブフマッツの雄叫びが聞こえた。皇魔が地を蹴る力強い音。着地の瞬間を狙って飛び掛ってくるのは一体。だが、その一体の攻撃に続こうとする気配もあった。彼は、火の玉となって突進してくるそれを一瞥すると、黒き矛を無造作に振り下ろした。

 漆黒一閃。

 凄まじい剣風が巻き起こり、セツナへと飛来してきていた火の玉が見事真っ二つに割れた。為す術もなく両断され、肉塊と化したそれは、どす黒い鮮血と臓物を撒き散らしながら地面に落下する。

「ぐっ……!」

 着地の衝撃でセツナの腹部に痛みが生じた。それだけが人間であることの証明に思えた。嘲笑う。

 おまえは化け物だ――。

 セツナは目を細めると、つぎの皇魔が動き出すより速く、前方に飛び出していた。六十体以上の皇魔を相手にするのだ。休んでなどいられない。足のバネを最大限に利用した跳躍。解き放たれた矢のように、ただ敵へと殺到する。無数の殺意がこちらを捉えている。紅い殺気。だが、彼は止まらない。そして一体のブフマッツの眼前で、矛を横薙ぎに振るった。

 再び、剣風。

 土砂が舞い上がり、その狭間で三体の皇魔が横一文字に切り裂かれるのが見えた。切っ先が触れていないにも拘らず、だ。血を噴き出しながら悲鳴を上げるそれらを一笑に付すると、彼は着地し、矛を頭上へと振り上げた。視界になにかがちらつく。

(なんだ?)

 それは、剣風が舞い上げた粉塵の隙間に見えた。青白く燃える化け物たちとは別のなにか。錯覚あるいは幻視なのかもしれない。

 いや、それは確かにセツナの視界を彩った。

 散乱する土砂と皇魔が上げる鮮血、そして青白い炎が乱舞する視界の間隙。

 見えたのは闇。雷光が閃き、螺旋を描く。

 音が聞こえた。

 巨人が天地を蹂躙するかのような轟音。爆音といってもいい。

「!」

 セツナは、眼を見開いた。怒りがある。胸の内を焦がす漆黒の業火。その殺意の向かう先を見出したのだ。粉塵と血飛沫、炎が彩る視界に過ぎる幻視の彼方。

「あれが……!」

 前へ踏み込み、矛を振るう。先の一閃で薙ぎ払った皇魔の一体に止めを刺し、返す刀で残る二体も斬殺する。さらに血が舞い踊り、セツナの視界を様々な情報で埋めていく。そのたびに、彼の目の前を幻想が舞踏した。

 どこかの街道が見えた。道の両側には奇妙な石柱が立ち並んでいる。いつか見た光景。エリナたちと出逢ったなんとかという街道の景色に酷似していた。街道の名前までは思い出せないが、カランの街の近くにあったのだということまでは思い出す。

 始まりの地。

「それがなんだってんだよ!」

 胸を焦がす激情の矛先こそわかったものの、それを理解したところでどうしようもないのも事実だった。眼前には敵の群れがいて、それらを掃討しなければならない。しかし、彼の心を焼き尽くす炎は、怒りをぶつけることを望んでいる。彼の意志とは無関係に。

 矛がうなりを上げた。

 殺気。

 セツナの肉体が無意識に反応する。体を捌いて、なにかを回避する。火の玉が視界を過ぎった。後方からの突進だった。猛然たる熱気が頬を撫でる。そして、いままさに通り過ぎたブフマッツの下半身に、黒き矛の切っ先が突き刺さった。脊椎反射のような攻撃。悲鳴が聞こえた。即座に矛が旋回し、軍馬の下半身を両断する。大量の血が噴き出し、セツナの視界を赤黒く塗り潰す。

 血潮の中に草原が広がった。星空の下、皇魔の群れが蠢いている。始まりの日、セツナが戦った皇魔――ブリーク。その数はあまりに多く、たったふたりで相手にするには分が悪いように思われた。

(ふたり……?)

 確信とともに抱いた感想に疑問を抱く。

 ふたりとはだれだ? 

 そもそも、戦闘中だったというのか。

 疑問が解決しないまま、幻想は消え失せた。化け物の咆哮が耳朶に叩きつけられる。状況は依然として変わっていない。数十のブフマッツがセツナを包囲している。だが、不利ではない。

 こちらは皇魔以上の化け物だ。

 鮮血を浴びながら、笑う。鉄の味がした。口の中に入ってきたらしい。化け物の血も人間の血も、舌で味わう分には大差ないようだ。では、自分はどうか。

 同じであろうと変わっていようと、結論は揺るがない。

 所詮、化け物だ。

 血の雨の中で、矛を突き出す。手応えと悲鳴。殺意が膨張する。が、彼は黙殺した。突き刺したまま切っ先を回転させ、皇魔の肉体を蹂躙する。悲鳴が一段と甲高くなった。さらに一閃。ついに悲鳴が消えた。絶命したのだ。

 彼は笑みを消した。

 またしても、どす黒い血潮の影に幻が生まれた。

 幻の中で、怪鳥が翼を広げていた。鋭角的な結晶体で構成された翼は、電光を帯びて神秘的な輝きを放っている。さながら神話の空を飛翔する霊鳥のようだった。獰猛な嘴は大きく開かれ、咆哮とともに数多の雷光が迸った。闇を走る無数の稲妻は神の怒りを想起させ、皇魔の群れが駆逐されるのは時間の問題かと思われた。

 それが本当に天上より遣わされた神の鳥ならば。

 セツナは、頭を振った。

(あれはオーロラストーム!)

 ファリア=ベルファリアの召喚武装!

 視界が揺れ、幻視が消えた。露のように。

 セツナは、落胆した。せっかくあのひとの姿を見ることが出来ると思ったのに。心に渦巻く怒りに初めて同調した。もっとも、怒りの矛先はまったく違っていたが。

 彼の怒りは、周囲のブフマッツに向けられた。殺気を放ち、躊躇なく襲い掛かってくる化け物たちだ。遠慮をする必要はない。ありったけの感情をぶつけてしまえばいい。どうせこちらも化け物なのだ、なにをしようと評価は変わらない。どのように凄惨な方法で殺そうとも、彼を定義する言葉になんら変化は起きない。

 セツナは、ついさっき殺した皇魔の死体が地に倒れていくのを見届けるまでもなく、前進を再開した。皇魔の殺気は四方八方から飛んできており、どれを相手にするべきなのか迷うほどの数だった。が、考えない。ただ前進し、目の前の敵を屠る。皇魔がどれだけ吼えようと、火の玉となって突進してこようと、セツナの前では一瞬にして肉塊と成り果てた。

 黒き矛が一閃し、皇魔の肉体が両断され、その断面から鮮血が噴き出すたびに、セツナは幻覚と遭遇した。そして、その幻影の中に彼女の面影を見出したがために、彼の攻撃は激しさを増した。慈悲も情けもなければ、容赦もない。もはや、笑みさえ浮かべなくなっていた。

 怒りと欲望のままに矛を振り回し、鋼鉄の軍馬を血祭りに上げていく。

 鮮血の中に見るは、やはりあの街道周辺の光景。

 怪鳥の如き異形の弓を構えた女性の横顔が見えたとき、彼の胸は一段と高鳴った。逢いたかった。逢って、話がしたかった。聲が聞きたいと想った。心が求めている。彼女の聲は、救いになりえた。どんな言葉でもいい。たった一言で良かった。記憶の中の聲では駄目なのだ。直接、この耳で聞きたいと想った。

 セツナがこんな感情を抱いたのは、生まれて初めてだったかもしれない。

 だからこそ、彼女の凛とした横顔が皇魔の炎によって掻き消されたとき、セツナは憤然と咆哮を上げた。黒き矛を旋回させ、ブフマッツを粉微塵に切り刻む。膨大な血が滝のように降り注ぎ、何度目かの幻視が起きる。

 しかし、彼がその幾度目かの幻想の中で見たのはファリアの横顔ではなかった。

 巨大な竜巻があった。

 街道の外れ、草原の中。

 天を衝くほどの竜巻が聳えていた。

 ただの竜巻ではない。雷光を帯び、破壊的な旋律を奏でるそれが普通の竜巻であるはずもなかった。大地を掘削し、土砂や粉塵を舞い上げ、化け物の死体らしきものをも巻き上げながら、甲高い音色を響かせている。それは破滅の響き。幾重もの螺旋を描く竜巻に吸い寄せられたものは、抵抗することさえ許されずに粉砕されるしかない。見ている間にも何体かのブリークが飲まれ、無残にも破壊されていった。

 圧倒的な暴虐。

 絶対的な破壊の力。

 それは、黒き矛に似ていた。

「!」

 セツナは、己の鼓動を聞いた。どくん、と心臓が鳴った。怒りだ。理解しがたい憤怒の矛先がやっとわかった。すべてを把握する。それが許せないのだ。破滅的な竜巻を生み出している存在を容認できないのだ。否定しなければならないとさえ想っているのだ。いや、否定しようとしている。全力でそれを破壊しようとしている。

 それは黒き矛の怒りだ。

 セツナは、胸を焦がす激情の出所をようやく理解したものの、どうすればいいものかと考えあぐねた。なにしろ、相手は幻想の中の存在なのだ。実像ではあるまい。彼のファリアに逢いたいという想いや、さまざまな感情が重なり合って生み出された妄想の産物に過ぎない。

 不意に幻想が掻き消えたのは、皇魔が雄叫びを上げながら飛び掛ってきたからだ。突然思索を打ち切らざるを得なくなり、セツナは、不愉快になった。セツナの感情は、黒き矛の怒りとの同調を始めている。出所がわかり、矛先がわかったことで理解しやすくなったというのもあるのだろうが。

 矛を閃かせ、頭上から殺到してきた火の玉を意図も簡単に両断して見せる、真っ二つに分かれた肉体の断面から降り注ぐ血液や臓物が、彼の意識を幻の向こう側へと誘ってくれる。

 竜巻の内側が見えた。だれかがいる。黒髪の青年。顔はよく見えない。彼は、漆黒の槍を頭上に掲げていた。異形の槍は、その穂先を高速回転させることで竜巻を生み出しているようだった。穂先が回転する様はドリルさながらであるものの、現実世界のドリルとは比べ物にならないほどの力があることは明白だった。ドリルでは竜巻を生み出すことなど出来ない。

 どくん。

 セツナは、その槍を壊さなければならないと想った。なぜかはわからないが、どうしても破壊しなければならなかった。完全なる破壊が必要だった。それがセツナ自身の望みのように思える。遥か昔からの願いのように。

 だが、どうやって幻想の中へ飛び込めというのか。血潮の中にのみ現れる幻影。皇魔の血が鍵だというのか。幻想とこちらを繋ぐ鍵だとでも。

 ならば、もっと多くの血を流させるしかない。いずれにせよ、皇魔は殲滅しなければならない。

 簡単な答え。

 セツナは、猛り狂った。

 黒き矛の一撃一閃が数体のブフマッツを同時に殺し、大量の血を流させる。どす黒い血液は幻想の扉となって、彼の目の前にカランの草原を映し出す。見えるのは竜巻。すべてを巻き込みながら、夜空さえも掻き混ぜようとしているかのような勢いで増大していく。物凄まじい暴風が、草原上のなにもかもを飲み込んでいく。

 このままでは街道の石柱にも被害が及ぶ。

 早くなんとかしなければならない。

 セツナは、雄叫びとともに矛を振るう。振るうたびに皇魔が死に、皇魔が死ぬたびに幻想が意識を席巻した。竜巻の中へ、中へ。とにかく漆黒の槍を止めなければ。いや、止めるだけではない。破壊を。徹底的な破壊を加え、この世界から消滅させなければならない。

 あれは害悪だ。

 邪悪そのものといってもいい。

 災厄の化身であり、滅びの指先なのだ。

 だから、破壊しなければならない。

 どのような手段を用いても。

 召喚者を殺してでも。

「壊さなきゃ」

 熱に浮かされたようにつぶやきながら、彼は黒き矛を旋回させる。漆黒の剣閃が虚空に刻まれるたび、皇魔の肉体があざやかに切り裂かれ、血潮が彼の視界を彩った。そして、鮮血が目の前を赤黒く染めるたびに、幻想への扉が開いた。

 一歩、また一歩と漆黒の槍へと近づいていく。竜巻の中へは既に潜入できている。後は、男が掲げた漆黒の槍を破壊するだけ。そのためにはもう少し近づく必要があった。召喚者はこちらに気づいていない。気づき、抵抗してきたとしても、槍共々に滅ぼすだけだ。

「あってはならないんだ……!」

 激しい怒りが炎と燃える。

 だが、思考は鈍らない。むしろ加速する。この滾る憤怒をぶつけなければならない。少し前までとは違う。それは、彼の意志と黒き矛の意思が同調しているからに違いないのだが、皇魔を刈りながら血潮の向こうへと至ろうとするセツナには、もはやどうでもいいことだった。

 数え切れない皇魔の亡骸の上で、彼は、ただ矛を振るう。禍々しい異形の矛は、彼の周囲に無限の軌跡を描き、剣風を巻き起こしては被害を拡大していく。積み上げられるのは死屍累々。皇魔の体より流れ出た血は、いままさに大河のように森の地面を染め上げている。紅く、黒く。死の臭いが充満し、噎せ返るほどだった。

 だが、彼は止まらない。

 新たな目標を求めては跳躍し、漆黒の一撃で以て鮮血を上げさせる。絶命させるだけでは足りないのだ。血の中にこそ、幻想への扉が開いた。

 血を見るたびに幻視するのは、天地を蹂躙する破壊的な竜巻の内側。

 その己をも傷つける暴風の渦の中心で、ひとりの召喚師が掲げた漆黒の槍だけが、彼の目標。黒き矛の憤怒の終着点。理由などは知らなくてもいい。ただ、破壊衝動の赴くままに行動すればいいのだ。血の中へ。血潮の影に生まれる幻想領域へ飛び込み、矛を叩きつけるのだ。

 皇魔の死体を踏み越え、血潮の向こうへ。

 意識が飛ぶ。

 眼前に男がいた。暴風が、全身を切り刻むように駆け抜けていく。だが、痛みの程度は知れていた。体中に裂傷が刻まれたくらいか。衣服もぼろぼろになったが仕方がない。いずれにせよ、目の前の槍を破壊すれば終わることだ。距離は二メートルもない。

 召喚師が、こちらを見た。黒髪の青年。顔には見覚えがあった。双眸が見開かれる。

「セツナ!?」

 愕然とこちらの名を叫ぶ男に、セツナは、ただ怒りを覚えていた。知らない相手に気安く呼ばれる名前など持ち合わせてはいない。それにいまから殺す相手でもある。そうだ。召喚者も殺さなければならない。二度と、あの槍の召喚が果たされないように。眼前の召喚師を生かしておくことはできない。

 セツナは、脳裏に浮かんだ結論になんの疑問も抱かなかった。むしろ当然の帰結だと想った。男はそれを召喚し、行使している。それだけで万死に値する。断罪を。大いなる捌きを。

 審判のときが来たのだ。

「どうやってここに!?」

 男の叫び声が聞こえたのは、奇跡に等しかった。さっきもそうだが、爆音が轟いている。暴風が渦巻き、雷光が螺旋を描いている。破滅的な旋律が奏でられている。この状況下では、いくら至近距離とはいっても男の声が聞こえることなど、普通ならばありえないことのように思えた。が、どうでもいいことだ。

 貴公子然とした青年の顔が青ざめているのが、なぜが強く印象に残った。

 セツナは、黒き矛を突き出した。狙うは、召喚者の心臓。まずは元凶を消そう。槍はそのあとでも破壊できる。単純な考えに迷いはない。漆黒の矛がうなりを上げた。その禍々しい咆哮も、彼の耳に届いていた。いまは、黒き矛の叫び声さえ心地よかった。破壊衝動そのもののような雄叫びさえも、彼の魂を燃え上がらせた。

 しかし、矛の切っ先が、召喚者の無防備な胸元に到達しようとしたそのときだった。

「駄目!」

 遥か後方から聞こえた女性の悲鳴のような絶叫が、セツナの意識を掠めた。凛とした女性召喚師の横顔が脳裏を過ぎる。その顔が悲痛に歪む。緑柱玉のような瞳がこちらを見据えている。力強いまなざし。いつまでも見つめられていたいと想った。小さな夢。でも、それは叶わない。ここで、槍の召喚者を殺せば、叶う夢も叶わなくなる。

(どうして?)

 疑問は一瞬、彼の思考を停止する、

 矛を握る手も止まり、切っ先が男の心臓を抉ることはなかった。

 どうして、この男を断罪しただけで、自分の夢が水泡と帰すのだろう。男は敵ではないのか。漆黒の槍は滅ぼさなければならない。矛が望んでいる。矛は、それを許容できないのだ。滅ぼさなければならない。一刻も早く、召喚者もろとも消し去らなければ――。

 だが、それを実行すれば、彼の取るに足らない望みは永遠に断絶される。

 彼は、頭を振る。なにがどうなっているというのか。ここは幻想の狭間。なにをしようと現実とは関係ないはずなのに。どうして、どうして、どうして。

「セツナ――!」

 ファリア=ベルファリアの呼び声が聞こえた。耳朶が震えた。鼓膜が喜んでいる。聴覚が、その力を最大限に発揮して、彼女の声を全身に伝えてくれる。優しい音。強くも柔らかな旋律。ずっと聞きたかった声音。求めていたもの。

(ああ……!)

 セツナは、言い知れぬ感動が魂の奥底から溢れ出すのを認めた。

 それは天から差し伸べられた救いの手に似ていた。女神の手。力強くも優しい光を湛えた、柔らかな御手。

 彼は、その手を取った。声に意識を委ねたといってもいい。心に光が生まれ、怒りが収まっていく。急速に彼自身の感情は正常性を取り戻していくのがわかった。矛は憤怒を発していたが、いまのセツナには関係のないことのようだった。なぜかはわからない。

 聲をきいたからかもしれない。

 視界が開けた。

 幻想は消え失せ、夜の森の光景が出現した。いや、それはもはや森とはいえまい。地獄といっていい。物凄まじい惨状だった。森を構成する数多の木々が青白い炎を上げており、静かにゆっくりと、しかし確実にその勢力圏を拡げていくのがわかる。止めるには、矛の力を使えばいい。

 次に目に付くのは、彼の周囲に積み上げられた皇魔の死体の山だろう。ただの肉塊とかしたものから、原型を留めているものまでさまざまな亡骸が地面を埋め尽くすほどだった。ひとつとして同じ亡骸はなかった。無残な殺され方をしたものもあれば、一刀の元に斬り捨てられたものもある。そして、皇魔の血が大地を赤黒く染めているのだ。充満する血と死の臭いが、彼の感傷を邪魔した。

「なんだこの有様は?」

 嘲るでも冷笑するでもない男の声に、セツナは、ただ目を細めた。全身から力が抜けていくのを認める。ただ皇魔と格闘しただけではない消耗を感じる。その原因はなんとなく推察できたが、胸中にさえ浮かべなかった。いまは、耳朶に残る彼女の声を思い出していたい。考えるのは後でいいと想った。

 だから、どこからともなく現れたその男に、セツナは冷ややかな視線を投げるのだ。

「護衛はいいのかよ」

 黒き矛を足元の地面に突き刺し、体重を預ける。まっすぐ立っていることすら苦痛だった。全身が悲鳴を上げている。傷だらけだった。竜巻に薄く切り刻まれていた。熱い。血が流れているのがわかる。手当てが必要なのも把握する。が、動けなかった。体力が残っていない。

 ランカイン=ビューネルは、左前方にいた。用心のためか、手には一振りの剣を握っている。剣というよりは刀に近い形状の武器だった。馬車にもなかった武器だ、召喚武装なのは明白だった。だが、興味はない。どうでもいいことだ。

 男は、軽薄に笑ってきた。

「はっ……君が殺し尽くしたじゃないか」

「なにをいってるんだ……?」

 セツナは怪訝な顔になった。確かに、襲い掛かってきていた数十体の皇魔は殺した。しかし、森にはもっと多くの皇魔がいたのではなかったのか。二百を越えるブフマッツの気配を確認したはずだ。それを殲滅した記憶など、ない。

 ランカインの狂った笑みは、セツナの表情を険しくするには十分な力を発揮していた。

「全部、すべて、なにもかも――君の手によって殺戮された。この森の皇魔は滅び去ったのだよ。一体残らずな」

 セツナは、ランカインの蛇蝎のようなまなざしを嫌いつつも、彼の言葉に嘘がないこともわかっていた。ランカインは嘘をつくような男ではない。悔しいが、それは事実だ。狂ってはいても、それだけは確かだった。そして嘘をつく理由もない。敵が滅びたと嘘をついたところでなんにもならない。

 意味がないのだ。

 ランカインは、少なくとも無意味なことをするような男ではない。

 セツナは、茫然と周囲を見回した。死屍累々に変わりはない。が、確かに皇魔の気配は感じなかった。二百以上あったはずのブフマッツの気配が、ひとつとして感じ取れなかった。黒き矛の力を以てしても補足できない。つまり、感知可能範囲に皇魔はいないということだ。

 そしてそれは、皇魔が滅び去ったということ以外には考え辛かった。逃げ出したのなら、ランカインがそういうだろう。彼は、そういう男だ。きっと。

 ということは、だ。

 セツナは、黒き矛を見下ろした。大量の血を浴びてもなおただ黒く輝く異形の矛は、かの槍への怒りの波動を発し続けている。黒き矛が力を発揮したというのだろうか。それ以外に導き出せる結論などなかった。黒き矛の強大な力が、森の中に潜む皇魔という皇魔を滅ぼし尽くしたのだ。

 どくん。

 セツナは、改めて黒き矛に恐怖を感じた。

「まるで混沌の申し子のようじゃないか。え? ニーウェ=ディアブラス」

 むしろ賞賛するようなランカインの言葉は、セツナには到底受け入れがたいものだった。


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