第七百五十話 ふたりのファリア(後)
ファリアは沈黙したまま、祖母とふたりで、しばらく街を歩いた。
クルセールからは、クルセルクの首都としての色が失われはじめている。各所に翻っていた連合軍参加国の軍旗も撤去されはじめており、ガンディアの紋章が高々と掲げられ、クルセールがガンディア領土になったということを顕示しようとしていた。
クルセルクの正規軍は解体されたものの、ほとんどそのままガンディア軍に編入されたようであり、ガンディア軍の軍服に袖を通した元クルセルクの兵士たちが闊歩する様が、そこかしこで見受けられた。祖国を失いはしたものの、職を失わずに済んだことは素直に喜ぶ。それが人間というものだ。職がなければ金は得られず、金がなければ食にありつけない。生きるためならば、クルセルクという国が滅びたことを受け入れるしかないのだ。
リジウルの反逆に期待した兵士たちもいたようだが、早々に撃滅されたことで、反乱の火種は完全に潰えたようだった。討伐軍がリジウルで繰り広げた戦いは、徹底的な殲滅戦であり、クルセルク人への見せしめ的な意味合いも強かったらしい。
そんなことを考えながら、歩いている。
戦争は終わった。
数えきれないほどのひとが死に、数えきれないほどの皇魔が死んだ。
生き残ることができたものは、その幸福を享受するべきなのだろう。
「さて、と」
クルセールを一周りして王城に辿り着くと、祖母がファリアの前に一歩進み出て、小さく跳ねた。軽い身のこなしは、とても老齢とは思えないものだが、サマラ樹林での戦いぶりを聞く限りでは、当然のように思える。ルウファたちを愕然とさせたファリア=バルディッシュの戦闘力は、無論、召喚武装の能力によるものだけではない。
日々のたゆまぬ鍛錬が、リョハンの戦女神を作り上げたのだ。
そんな超人の後継者など、ファリアにはなれるはずもなかった。おこがましいにもほどがある。
護山会議が、祖母の後継を躍起になって探しているのは理解できる。戦女神も人の子だ。いずれ死ぬ。寿命が尽きて死ぬか、戦場で死ぬか、病を得て死ぬか――いずれにせよ、死は避けられないものだ。戦女神が死ねば、リョハンには動揺が走るだろう。そしてそれは想像を絶するほどのものになるに違いない。
リョハンは、戦女神ファリア=バルディッシュがひとつに纏め上げたという歴史があるのだ。戦女神の消失は、リョハンの根幹が消滅するも同じなのだ。護山会議が焦るのは必然だったし、戦女神の孫に次代の戦女神を押し付けたいと思うのも、わからなくはなかった。実力や才能、人格は遠く及ばずとも、ファリア=バルディッシュの孫であるという事実はなによりも重い。
血は、力だ。
血縁、血筋は、なによりも重要視される。
王の血筋というだけで尊崇されるのと同じだ。
戦女神の孫娘というだけで、ファリアの人生は、特別なものだった。そして、ファリアがリョハンを出たのは、その特別性から脱却するためではない。戦女神の孫娘としての宿命を果たすために、リョハンを出た。リョハンの敵、魔人アズマリア=アルテマックスを討つことこそ、戦女神の孫娘の役割だと彼女は考えた。もちろん、両親のことが第一だったが。
「わたしたちはそろそろ帰らなくちゃね。護山会議に怒られちゃうわ。戦争が終わったならさっさと帰って来い、ってね」
祖母は、いたずらっぽく片目を閉じてみせてきた。リョハンの歴史を見てきたファリア=バルディッシュにしてみれば、護山会議も可愛いものなのかもしれない。護山会議は、その名の通り、リョハンという山を護ることを第一義と考え、行動している。それだけ純粋であれば、ときには鋭い刃となって猛威をふるうことがあるのも仕方のないことだ。そのためにファリアは帰る場所を失ったが、いまとなってはそれでよかったのだと思うようになっていた。
居場所は、すぐ近くにあった。
考えていた以上にすぐ側に、自分の生きるべき場所があった。
人生を捧げるべきひとがいた。
「ファリアちゃんも一緒に帰る?」
ファリア=バルディッシュの表情は、穏やかだ。彼女は、いつだって、慈愛に満ちた女神のようなまなざしだった。長い人生、様々なことを経験したからたどり着いた境地なのか。それとも、ずっと昔から女神であり続けていたのか。
ファリアは、祖母の顔に刻まれた年輪を見つめながら、きっぱりと言い切った。
「……ニュウさんにも誘われましたけど、わたしは《獅子の尾》隊長補佐ですからね。リョハンには戻れませんよ」
「そう……残念。じゃあセツナちゃんを連れて行こうかしら」
「駄目ですよ」
「あら」
祖母は、ファリアの即答ぶりが面白かったようだが、ファリアにしてみれば笑い事ではない。
「そもそも、セツナがリョハンに行くとも思えませんし」
「そうねえ……でも、いつか、来てもらいたいものだわ。リョハンはあなたの生まれ故郷だもの」
「それ、関係ありますか?」
「あるわよ。十分にね」
「はあ……」
祖母はにこやかに微笑むのだが、いまいち要領を得ないと感じるのは、ファリアの理解力が足りないからなのだろうか。
「でも、どうやって帰るつもりなんですか?」
「陸路や船を使って気ままな長旅もいいかと思ったんだけど、それだと護山会議を怒らせちゃうし、空路、帰ることになっているわよ」
祖母は、遠い目をした。
「マリクちゃんがクオールちゃんのレイヴンズフェザーの召喚に成功したのよ」
「なるほど」
納得したものの、腑に落ちないものが残ったのは、レイヴンズフェザーがクオールの召喚武装だという認識が強いからだ。レイヴンズフェザーは、クオール=イーゼンの代名詞であり、彼がリョハンで特別足り得た召喚武装だ。クオール以外の人間が、彼の断りもなしに召喚するのは、すぐには承知できないものなのかもしれない。そして、彼から了承を得ることは永遠にできなくなってしまった。彼は死に、命は失われた。永久に。
「“吸血鬼”の二つ名も、マリクちゃんが受け継ぐことになるかもしれないわね。可愛い吸血鬼だと思わない?」
「はあ……」
マリク=マジクに“吸血鬼”という二つ名が似合わないのは否定しないが。
クオールの二つ名“吸血鬼”は、召喚武装レイヴンズフェザーの能力の代償だった。強力過ぎる能力には、精神力以外のなにかを捧げなければならない場合がある。それがレイヴンズフェザーの場合、使用者の血液であり、能力の行使のために失った血液を補う方法として、彼は他人の血を求めた。まるで伝説上の吸血鬼のような振るまいが、彼に“吸血鬼”の二つ名を与えたのだった。もちろん、血を吸うのも、召喚武装の能力であり、副作用といってもいいものらしかった。
そのような特別な副作用を持つ召喚武装は、決して多くはない。
クオール=イーゼンは、四大天侍にこそ選ばれなかったものの、四大天侍に匹敵する武装召喚師だという評価は妥当といってよかった。彼の才能と実力が、レイヴンズフェザーという類まれな召喚武装を呼び寄せたのだ。
ファリアには、決して真似のできないことでもあった。
もっとも、オーロラストームがレイヴンズフェザーに遅れを取るとは思ってもいない。オーロラストームはオーロラストームで強力極まりない召喚武装だった。
「リョハンに帰れば、女神らしくしないとね」
「ファリア様は、いつだって女神らしくあられますよ」
「ふふっ……ありがと」
祖母の笑顔は、いつになく輝いて見えた。ファリアもいつかは祖母のような笑顔になれる日が来るのだろうか。
「なんにしても、ガンディアまで来て良かったわ。ファリアちゃんの元気な姿が見ることができたもの」
「わたしも、お祖母様に逢えて嬉しかったです」
ファリアが同意すると、祖母は微笑みを湛えたまま、想像もし得ない言葉を投げつけてきた。
「ファリアちゃんの想い人にも逢えたしね」
「なっ……!」
「頑張ってね」
「なにをですか!?」
ファリアが素っ頓狂な声を上げると、祖母は、女神らしさのかけらもないいたずらっぽさで微笑み、王城の中に駆け込んでいった。
城門前に取り残されたファリアは、全身を焼くような熱量の中で呆然とした。