第七百四十五話 クルセール模様(三)
シーラ・レーウェ=アバード。
その名の通り、アバードの王女である。獣姫の通称で知られる彼女は、持ち前の身体能力と召喚武装ハートオブビーストを用いて、みずから前線に出て指揮を取る人物だった。アバードの将兵からの信頼も厚く、クルセルク戦争においては連合軍全体からの評価を高めてもいた。彼女が指揮官ならば、戦意も高まろうというものかもしれない。
白髪の美しい女性だ。筋肉質な体ではあるが、女性としての部分を失っているわけではない。むしろ肉感的といっても差し支えはなかった。もっとも、冬場では、その魅力的であろう肢体は分厚い衣服で覆われており、堪能することはできそうにない。胸の大きさは、防寒着の上からでもよくわかるのだが。
彼女がクルセール城内に設けられた《獅子の尾》の部屋に訪れたのは、二月も後半のことだった。二月二十日。セツナたちがクルセールに入って五日が過ぎ、討伐軍がクルセールを発って四日が経過している。討伐軍は今頃ノックスを横断しているだろうということであり、リジウル到着は二十二日前後になりそうだという。そこから反逆者との本格的な戦いが始まり、どれだけ早く見積もっても、三月の上旬まではかかるだろうということだ。
クルセルク本土は落ちたのだ。兵站線に困ることはなければ、補給物資が滞ることもない。討伐軍の戦いは、魔王軍との戦いを考えると気楽なものだった。
時間を惜しむナーレスにしてみれば、気が気でないのかもしれないが、エイン=ラジャールとアレグリア=シーンの教育を考えると、必ずしも不要な戦いでもないのかもしれない。
「どうされたんです? シーラ姫」
シーラは、ひとりだった。ひとりでセツナたちの部屋を訪れ、室内に入ってくるなり、固まっていた。彼女の象徴といっても過言ではない斧槍ハートオブビーストは当然、手にしていない。戦場ではないのだ。常在戦場のような心持ちの彼女だが、場を弁える術は心得ているということだろう。
「あ、ああ……いや、その、なんだ……」
彼女は、なぜか、しどろもどろになっていた。シーラといえば常に活発で、元気が取り柄といってもいいような人物だった。太陽のように眩しく、いるだけでその場が明るくなるような、そんな女性だとセツナは勝手に認識している。戦場でも、彼女の周囲は異様なまでの明るさに包まれていたことをセツナは知っている。それは彼女の人徳のなせる技に違いなかった。
そんな彼女が、どういうわけか緊張しているように見える。
「……もっと早く来ようと思ってたんだが、遅くなっちまった。すまねえ」
「姫様がお気になさるようなことでもありませんし、謝られるようなことではございませんよ」
セツナは、シーラの言い分に驚きを覚えながらも、やんわりと言葉を返した。クルセールに到着して以来、セツナの元を訪れる連合軍関係者は後を絶たなかった。ジベルの将軍ハーマイン=セクトルに始まり、メレドの王サリウス・レイ=メレド、イシカの弓聖サラン=キルクレイド、ルシオン王子夫妻にベレルの騎士団長たち、ガンディアの三将軍に軍団長たち。だれもが忙しい合間を縫って、セツナの様子を見に来てくれたのだ。セツナはそのたびに応対に追われ、気疲れすることもあったが、感激しないわけがなかった。だれもが、セツナの無事を喜んでくれたのだ。もちろん、それらがすべて本心とは考えてはいない。他国人の場合、外交の側面もあるだろう。セツナは、王立親衛隊長であり、エンジュール領伯なのだ。そんな立場の人間を黙殺することなどできるわけがない。特に連合軍が一箇所に集まっている状況では、評判に関わるだろう。
そんな状況にあって、シーラがセツナの元を訪れないのは、確かに不思議なことではあった。だが、セツナは気にしてもいなかった。彼女は、一国の王女だ。王位継承権こそ放棄しているとはいえ、王女としての責任と役割がある。自由に動けるわけでもないはずだった。
「しかしな……」
食い下がろうとするシーラに対して、セツナは、微笑み、話題を変えた。
「そういえば、姫様が俺とレムを見つけてくださったそうですね。ありがとうございます。姫様の迅速な判断がなければ、俺は死んでいたかもしれない」
「い、いや、当然のことをしたまでだし、俺ひとりじゃなくて、サランじいさんもいたんだ。サランじいさんもいたからふたりを運べたんだぜ」
「ええ。存じあげております。サラン様にも感謝の意は伝えましたよ」
サラン=キルクレイドとじっくり話したのは、そのときが初めてといってもよかった。イシカの誇る老将にして、弓の名手である人物だが、話してみると想像以上に話のわかる人物であり、話が弾んだりもした。サランとセツナの接点は、ひとつだけ、か細いながらもある。サランは、この度の戦争で、ガンディアからある弓を貸し与えられていたのだ。その弓とは、バハンダールにて猛威を振るったベイロン=クーンの剛弓であり、常人には扱いきれない代物である。サランにとっても扱いの難しい弓だといい、戦闘後、ここまで筋肉が悲鳴上げることはこれまでなかったともいっていた。あの弓で超長距離射撃を平然と行っていたベイロン=クーンは異常だという結論に至り、彼が生きていれば連合軍の戦いでも活躍しただろうと、サランは惜しんだ。
「そ、そうか、それならいいんだ、良かった」
照れたシーラの表情は、戦場での彼女を忘れさせるくらいに可憐だった。思わず見惚れてしまう。もしこの場にミリュウがいれば、後で詰られたかもしれない。ファリアとレムならば、そんなことはしないだろうが。
そんなとき、ファリアの囁きが、セツナの耳に届いた。
「姫様ってあんなひとだったかしら?」
「御主人様を前に緊張なさっておられるようにお見受けいたします」
ファリアに答えたのは、レムだ。ふたりは、いつの間にか部屋の片隅に固まっており、じっとこちらの様子を窺っていた。
「どうして?」
「そればかりは、本人に聞いてみなければわかりませんでございますわ」
「使えない使用人ねえ」
「わたくしの主はセツナ様でございます。ファリア様の使用人ではございませんですのよ」
レムがきっぱりと告げると、ファリアが冷たい視線を彼女に注ぐ。
「セツナの命令ならなんでもするんだ?」
「はい。掃除洗濯なんでもござれ。望みとあれば夜伽まで」
「……あなた、意味がわかっていってるんでしょうね?」
「はい。経験はございませんが、技術は、カナギから教わりましてございます」
レムが自信満々に告げると、ファリアは額に手を当てて首を振った。レムと話していても疲れると思ったようだった。
「まあ、なんだ。領伯殿が無事に意識を取り戻して良かったぜ。領伯殿がいないと、張り合いがないからな」
「シーラ様も、ご無事で何よりです」
「おうよ!」
力強く応じて、彼女は、包帯の巻きつけてある腕を掲げてみせた。シーラは、サマラ樹林の戦いで左腕を骨折している。完治するまでもう少し時間がかかるだろう。
「そうだ。戦争が終わって状況が落ち着いたら、アバードに遊びに来ないか? 俺が直々に案内するぜ?」
「それはいいですね。皆も喜びます」
シーラの魅力的な提案に、セツナは、満面の笑みを浮かべた。アバードという国がどういう国なのか、よく知らないのだ。知らない国に行くのは、楽しみとしかいいようがない。これまでもガンディア以外の国に行ったことはある。しかし、そのほとんどは外征であり、戦闘の伴うものだった。唯一、ベレル行きだけが戦闘と無関係のものだったが、それも実際のところは、ベレルを支配下に置くためのものであり、セツナたちはナーレスの策に利用されたに過ぎなかった。
友好国となるだろうアバードに遊びに行くとなれば、話は別だ。間違いなく純粋に楽しむことができるだろう。
「お、おう……そうだな!」
シーラの反応が不明瞭だったことが気にかかったものの、そんなことはアバードのことについて話すうちに気にならなくなっていった。