第七百四十二話 レムの処遇(後)
「そんなことがあったのか……」
セツナの説明を聞き終えたレオンガンドは、心底驚いたらしく、自分を落ち着かせるためか深く息を吐いた。
ふたりきりの部屋。セツナが小声を意識していたため、たとえ扉に耳を当てているものがいたとしても、すべてを理解することはできなかったはずだ。もっとも、扉の前にはレムが立っているはずであり、彼女の監視を掻い潜って室内の様子を窺うことはできない。窓の外側に張り付いて、なら可能性はなくはないが、そこまでしてセツナとレオンガンドの会話を探ろうとするものもいないだろう。それに窓の外に張り付くなど、人目について仕方がない。可能性は皆無といっていい。
「クレイグの目的はともかく、正体がアルジュ陛下だったとはな」
「自分も驚きました。まさか、ジベルの王様が死神部隊を率いていたなんて、思いも寄らなかったですから」
「当然だな。小心者で知られる陛下が、死神部隊などという暗躍機関の長を務め、みずからも任務に出ているなどとだれが想像できる。この件に関しては、セツナにはなんの落ち度もあるまい。たとえクレイグがみずからの正体を明らかにしたとしても、あの場を切り抜けるには殺す以外にはなかったのだろう?」
「はい……」
うなずいたが、本当に殺すしかなかったのかどうかは疑問の残るところだ。闇黒の仮面さえ破壊すればよかったのではないかと思わないではない。しかし、闇黒の仮面だけを破壊するのは至難の業だった。まず、セツナは重傷を負い、まともに戦えるような状況ではなかった。そんな状態で仮面だけを破壊しようと考えるのが、無茶なのだ。仮面だけを破壊するには、仮面に攻撃した上で、クレイグの顔面に攻撃が入らないように細心の注意を払わなければならない。手加減するも同じであり、上手く行けばいいものの、わずかでも失敗すれば、クレイグの反撃でセツナが死ぬだろう。あの状況下でそんな賭けにでることはできなかった。
セツナは、なんとしても生還する必要があった。
でなければ、レオンガンドの夢を叶えることもできない。
(夢。陛下の夢……それが俺の夢)
大陸小国家群の統一。
簡単なものではないが、クルセルクを打倒したことで、その夢は現実味を増したという。クルセルク領土は広大だ。その広大な土地のすべてがガンディアのものになるわけではないにせよ、ガンディアの影響下に置かれることはまず間違いないようだ。連合軍参加国がガンディアとの関係悪化を望むわけがない。そして、それはつまり、連合軍参加国がガンディアの小国家群統一事業の妨げにはならない可能性が強い、ということになる。レオンガンドは、小国家群統一を支配によるものでなければならないとはいってはいない。ベレルのような属国もあれば、ルシオン、レマニフラのように同盟を結ぶ国もある。そうやって小国家群を一纏めにしたい、というのが、レオンガンドの夢であり、野心なのだ。
そうしなければ、いずれ三大勢力に飲み込まれてしまうのではないか。
強迫観念が、レオンガンドを突き動かし、ガンディア躍進の原動力となっている。
「これで、ハーマイン将軍が君に便宜を図る理由がわかった気がするよ。将軍は、クレイグの正体を知っていたのではないかな」
「そうかもしれませんね」
「彼とは、クレイグの正体については話していないのか?」
「はい。ハーマイン将軍には、死神部隊の行動について謝罪されただけですよ」
「藪蛇を恐れたか」
「でしょうね」
「しかし、国王みずから我が矛に手を出そうとしたのだ。その責任は追求しなければなるまい。戦いが終われば、ジベルにはおとなしくしていてもらおう」
なにかと厄介なジベルに対して、上の立場でいられるというのは、ガンディアにとって悪い話ではないのかもしれなかった。そのためにセツナが死んでは元も子もないが、生きて帰ってきたのだ。この事件を利用しないわけにはいかない。
「レム=マーロウの件についても、ジベルと交渉しておく。ジベルとしても、死神部隊のセツナ誘拐事件はなんとしてでも終息させたいだろうし、なんとかなるだろう。だが、わたしには彼女が生きているように見えるな」
レオンガンドは、扉の方を見て、囁くようにいった。レムは扉の向こう側にいるはずだ。レオンガンドの発言もわからなくはない。彼女は、どう見ても死者には見えない。そして実際、彼女は死者ではない。仮初めにも生きている。血の通った肌を見れば一目瞭然だ。
「生きていますよ。俺と同じ命で」
「……命の同期か。よくわからんが、彼女の身になにがあろうと、君には関係がないのだろう?」
「はい。俺が死ねばレムも死にますが、レムが死んでも俺は死にません」
完全に上位下位の関係だった。命は同期している。しかし、命の源泉はセツナにあり、レムは与えられている側なのだ。だから、レムが死ぬこともないのだが。
「それならば問題はない。それに彼女が君の護衛として常についてくれるのならば、わたしとしても安心できる。彼女が君の使い魔というのならなおさらだ。君が危険に曝される可能性は極端に減るからな」
レムがセツナの支配下にある以上、彼女がセツナを裏切ることはありえないという話もしてある。だからこそ、レオンガンドも安心して、レムにセツナを任せることができるのだ。もちろん、レオンガンドがセツナを信用していることが前提であり、話を聞く限り、彼はセツナを信頼してくれているようだった。でなければ、このような荒唐無稽な話、平然と受け入れられるはずがなかった。
死者の魂を肉体に拘束し、仮初に生き返す。
闇黒の仮面の力はあまりに凶悪だった。黒き矛は、闇黒の仮面を吸収したことで、セツナにその力の一部を分け与えた。それがレムの再蘇生に繋がり、現在に至る。彼女と普通の生者の違いは、成長するかしないかの違いくらいのものだ。彼女は成長することもなければ年老いることもない。肉体は最初に死んだときのままであり続けるのだ。しかし、それ以外はほかの人間と同じだった。普通のひとと同じように考え、同じように怒り、同じように哀しみ、同じように笑う。死者に見えなくて当然ではあった。
「ジベルが彼女を手放してくれれば、ガンディアで受け入れ、《獅子の尾》に配属させよう。いや、エンジュール領伯の従者のほうが都合がいいか?」
「陛下の望むままに」
「……考えておこう。時間はある。リジウルが落ちるまで、多少時間はかかるだろうからな」
リジウルは、ノックスを挟んだ北東にある。クルセールを発した軍がリジウルに辿り着くだけで数日は要するのだ。戦いが起きたとして、終結するまで十数日はかかると見ておいたほうがいい、というのがナーレス=ラグナホルンの言葉だった。負ける要素はないが、だからといって一瞬で終わるはずもない。
「君は、ここでゆっくりと休んでいたまえ。決して無理をするものではないぞ。君がいなければ、我が国は立ちゆかなくなる」
「そういっていただけるのは恐悦至極ですが、いまや俺ひとりいなくともなんとでもなるのではないですか?」
「軍は、そうだろう」
レオンガンドは、セツナの発言を否定しなかった。そのことにセツナはむしろ好感を覚えた。レオンガンドは、最初から正直なひとだった。その素直な部分には惹かれこそすれ、嫌う要素はなかった。
「ガンディアの軍事力は、ログナー、ザルワーンを取り込み、さらにベレルを得たことで盤石なものとなった。戦いが終われば、クルセルクの大半も我がものとなる。軍は、黒き矛が不在でも戦えるだけの力を持つことになる」
国土が広がり、臣民が増えれば、それだけ軍事力も充実していく。
ガンディアがこのまま成長を続ければ、いずれ、完全に黒き矛は不要になるのかもしれない。無用の長物となった暁には、セツナはどうなるのか。圧倒的過ぎる力は、恐怖の対象になるのではないか。
(夢の終わり……)
神がいった言葉がいまになって引っかかった。
夢の終わりとはいつのことなのか。
夢の終わりになにがあるというのか。
「しかし、わたしには君が必要だ。君という矛があればこそ、わたしは戦えるのだ」
レオンガンドの力強い言葉が、セツナの意識を現実に引き戻した。顔を上げる。澄んだ湖面のような碧い瞳が、セツナを見つめていた。
「セツナ。これからもわたしを支えてくれ」
「はい……!」
セツナは、全霊でうなずくと、レオンガンドの差し出した手を握った。