第七十三話 武装繚乱(前)
王都ルーンベレルの上空に開かれた門より現れ、雨のように降り注いできたのは、人外異形の化け物――皇魔であった。人間への敵意と殺意を隠しもせず、威圧的な咆哮を上げながら落ちてくる化け物の数はあまりに多く、騎士団だけでは迎撃することさえ難しかっただろう。騎士団の全戦力を動員することができれば撃退することもできるだろうが、ある程度の犠牲は覚悟しなければならない。
しかし、《白き盾》の主力がここに集まっている以上、そんな心配をする必要はなかった。
群衆の中でだれかが悲鳴を上げた。当然の反応。頭上から化け物が降ってきたのだ。この大陸に生きる人々にとって、皇魔ほど恐ろしいものはない。
それは、死。
厳然と存在する死。
力なき弱者は、その圧倒的な暴力に抵抗することもできず、屍となるだけなのだ。
クオンは、野次馬根性で集まった人々の愚かさを認めながら、それでも見放したりはしなかった。愚かなのはだれも同じだ。クオンだって賢しく生きてこられたとは言い切れない。それに、だれもこんなことになるとは想像もできなかった。
皇魔が、クオンたちの周辺につぎつぎと着地していく。高高度からの落下にも関わらず、化け物たちが体勢を崩したり、着地に失敗したりはしなかった。数多の化け物の落下によって局地的な地震が起きたかのように地面が揺れた。
それらは、人間と同じように四肢を持ち、二本の脚で立っていた。筋骨隆々といって差し支えなく、その肉体から繰り出される打撃こそが最大の武器であることはだれの目にも明らかだった。肌は青く、双眸からは紅い光が漏れていた。頭部には角が生えており、日本の伝承などに出てくる鬼を想起させた。
識別名ベスベル。
「お、皇魔が降ってきたぞー!」
「逃げろ、逃げるんだ!」
「ひ、た、助けて!」
恐慌が起きた。
市民が悲鳴を上げながら逃げ惑い、場に混乱をもたらす。騎士団員たちは、そんな人々を誘導しようと懸命に声を張り上げていた。騎士団員の中には剣を抜き、ベスベルに飛びかかるものもいたが、皇魔の意識を市民から逸らすことくらいしかできないようだった。斬撃が通らないわけもあるまい。厳しい訓練を乗り越えてきた騎士団の一員である。その剣の一撃が、クオンたち傭兵に劣るはずもない。
騎士団員たちの身には、疲労が蓄積しているのだ。グラハム邸を包んだ炎の中で体力を奪われすぎた。ここまで歩いてくるだけで、少なくなった体力をさらに消耗しているのだ。まともに戦えるわけがなかった。
元より期待してもいないのだが。
盾の力が作用している以上、命の安全は確保されているとはいえ、過信はできない。これほどの人数を同時に守護したのは今回が初めてなのだ。無敵の盾の力が、完全には機能しないかもしれない。その場合、どのような事態が起こるのかもわからなかった。被害の出ていないいまのうちに市民だけでもこの場から退避させておくべきだろう。そうすれば、盾の力を分散させずに済む。
クオンは、グラハムに声をかけた。
「グラハム殿、早急に市民を退避させ、路地という路地を封鎖してください。皇魔をこの場に留め置き、被害の拡大を防ぎましょう」
「はっ!」
騎士団長は、威勢よくうなずくと、群集と騎士団員、皇魔が入り乱れる中へと突っ込んでいった。グラハムの大音声に幹部たちの怒声が続く。市民と騎士団員の扱いは、彼に任せておけばいい。
クオンたちは、鬼退治に精を出さなければならない。
地に降り立った皇魔の数は優に百を越え、視界を埋め尽くすほどだった。化け物たちは、耳障りな叫び声をあげながら市民や騎士団員に襲いかかっていたが、見えざる盾によって阻まれ、だれひとり傷を負わせることもできていなかった。そしてその理不尽な事実が、ベスベルを怒らせるのだ。
「そろそろ行きますかね」
「そう致しましょう」
ウォルドとマナは互いに視線を投げ合うと、同時にクオンの前に出た。普段はぶつかることも多いふたりだが、戦闘となれば呼吸を合わせるところが非常に頼もしい。
とはいえ、戦闘は既に始まっていた。皇魔と騎士団員と逃げ惑う市民が入り乱れながらも地獄絵図になり得ないのは、単純に大いなる守護による防壁が機能しているからに他ならない。
もしクオンが盾の守護対象を市民にまで広げていなければ、今頃大変な事態になっていただろう。大変などというものではない。阿鼻叫喚の有り様になっていたに違いなかった。
「一夜の幻想、奏でようか!」
ウォルドが、勢いよく地面を蹴った。前方に向かって跳ぶ。筋肉の塊のような大男の巨躯が、一瞬にしてクオンの視界から掻き消えた。速度が原因ではない。クオンの視覚では認識できなくなったのだ。
それがブラックファントムの能力。
前方で市民に襲いかかっていたベスベルの巨体が、突然、なんの前触れもなく吹き飛んだ。直後、その場にウォルドの姿が現れ、一呼吸の後消失した。ウォルドが殴り飛ばしたのだ。
「ああいった台詞は様になっているとでも想っているのでしょうか?」
マナがこちらを振り返ってきた。心底あきれている。
「どうだろう?」
「クオン様から注意してあげてください。壊滅的に似合っていない、と」
「辛辣だな~」
クオンは苦笑を浮かべるしかなかった。
「では、わたくしも参戦して参ります。どうかご無理だけはなさらずに」
「わかっているよ」
心配性なマナの言葉には、心の底から同意しておく。無理をしてひとりで戦った結果、無惨に破れ、命を落としかけたのだ。やはり自分ひとりでは戦えない。
ひとはひとりでは生きていけない。支え合わなければ、前に進むこともままならない。
だからこそ、彼は、皆を護るための力があると信じていた。
皆を護り、皆に護られ、ここにいる。
それでいい。それで十分だ。
と、クオンの思考を中断させたのは、ベスベルたちの獰猛な雄叫びだった。数多の光が連続的に瞬き、クオンの視界を青白く染めた。ベスベルたちが体内で生成した光を、一斉に吐き出したのだろう。閃光の息吹き。地面や建物、盾の障壁にぶつかり、爆音と白煙を撒き散らす。
群衆の中から悲鳴が上がり、騎士団員たちが皇魔に負けじと気合いを発した。もうもうと立ち込める爆煙が状況の把握を困難にするのだが、クオンの拡張された五感は、周囲の有り様を鮮明な映像のように脳裏に投影する。
闊歩する青鬼の群れの中を一陣の風が通り抜けた。漆黒の突風。その風が通り抜けた直後、複数のベスベルが同時に崩れ落ちた。どす黒い鮮血とともに地に沈んだ皇魔たちは、自分の身になにが起きたのか理解しないまま絶命したのだ。断末魔の叫び声さえ上げなかった。
死体の群れの中で血飛沫も浴びずに佇むのは、ゴスロリ風の衣装を身に纏う暗殺者の女。イリス。手に刃物などは握られておらず、彼女がどのような手段で化け物を倒したのか、クオンにはわからなかった。
「……これでは混乱が大きくなる一方ですわ」
マナ=エリクシアは、密やかに眉根を寄せた。戦場への足取りは軽いものの、心中穏やかではなかった。爆煙が風に流れる中で、ベスベルの吐き出した光線が道路を破壊し、周囲の建物にも大きな被害をもたらしていたことがわかったからだ。立ち並ぶ家屋の壁や天井に穴が開き、粉塵が立ち込めている。建物の中に居たであろう人々は無事だったのだろうか。
クオンの盾の保護対象に被害は出ていないのだが、この事態がルーンベレル全体に波及しないとも限らない。クオンはそうならないように騎士団を動かしたのだが、この混乱した状況で目論見通りに動いてくれるかどうか。
マナは、左前方に渦巻く白煙の中から殺気を感じ取ると、スターダストを構えた。彼女の召喚武装。全長八十センチ程度の槌というべきか。柄頭には無数の棘があり、棘は青白く輝いているようにも見える。柄にはなぜか水色のリボンが可愛らしく巻きつけられており、武骨な打撃兵器のイメージを破壊するかのようだった。
一見非力な女性にしか見えないマナには、不釣合いな得物であろう。身に付けたドレスがその違和感に拍車をかけている。が、スターダストは彼女にとって使い慣れた武器だった。それ以前に召喚武装なのだ。異世界から召喚した彼女のためだけの武装。使いこなせないものを態々召喚するわけもない。そして厳しい鍛錬を潜り抜けてきた武装召喚師である以上、彼女の華奢に見える肢体も鍛え上げられた戦士の肉体と同じだった。メイスを振り回すことくらい造作もない。
爆煙を散らしながら、青き鬼がマナの視界に飛び込んできた。ベスベルの紅い眼光がこちらを捉えている。殺気は鋭く、肌に突き刺さるようだった。
ベスベルが咆哮を上げた。飛びかかってくる。
マナは、皇魔が上体をひねって繰り出してきた右拳を体を捌いてひらりとかわすと、その瞬間に生まれた隙を逃さず、ベスベルの頭部にスターダストの先端を叩きつけた。威圧的な顔面に無数の棘が突き刺さり、そのまま頭蓋を粉砕する。抜群の手応え。血や脳漿が飛び散り、化け物が絶叫したものの、その巨躯が崩れ落ちることはなかった。致命的な一撃には違いなかったが、皇魔の執念は瀕死の肉体を突き動かしたのだろう。マナに掴みかかろうと、両手を伸ばしてきた。
が、マナとて会心の一撃に酔いしれ、隙を曝け出すような愚行を犯したりはしない。彼女の肉体は、ベスベルが反撃に出るより早く後方へと飛び退いており、皇魔の太い腕が空を切るのを見届けていた。
(なんとまあ……)
頭部を破壊されてもなお人間への殺意を失わないその様子に化け物の化け物たる所以を見た気がして、マナは、スターダストを握る両手にわずかに力を込めた。気を抜くことはできない。それは戦場において当然の心構えであり、彼女とて、戦闘中に気を抜いたことなどはないし、抜くつもりもない、ただの再確認である。
ベスベルの無惨に破壊された頭部には、スターダストの棘がいくつも刺さっていた。スターダストの青白く輝く刺は、対象に突き刺さった瞬間、抜け落ちるようになっているのだ。
マナは、ベスベルに刺さった刺の数を数えると、その後方から皇魔たちが接近してきつつあるのを視認した。仲間を心配しての行動なのか、それとも仲間に致命傷を負わせたマナを倒しておこうという判断からの行動なのか。どちらにせよ、一網打尽にするにはもってこいの状況が生まれつつあった。
さらに視線を走らせる。
周囲には市民や騎士団の姿はない。既にこの戦場から遠く離れようとしている。混乱はまだ続いているが、騎士団の懸命の呼びかけと行動により、市民の中には落ち着きを取り戻したものもいるようだった。だからどう、ということもないが。
クオンはスウィールと行動をともにしており、イリスが彼の元に駆けつけようとしているのが見えた。一足飛び。それはまるで一陣の風のよう。彼女の運動力は常人には理解できない類のものだった。化け物染みているというのは言い過ぎにしても、およそ通常の鍛錬などで得られる能力の範疇を超えているように感じられてならなかった。
ブラックファントムを振るうウォルドの姿は認識できないものの、彼の熱を帯びた気配はマナの周囲には存在しておらず、横から飛び込んでくる心配もないだろう。
マナがスターダストを振り回しているところに近づかないというのは、《白き盾》の暗黙の了解に等しい。だれも仲間の攻撃に巻き込まれたくはないのだ。例え無敵の盾に護られていたとしても、巻き添えを食いたくないのが人情というもの。マナ自身、味方を攻撃対象に含めるような真似はしたくない。
「打撃程度では満ち足りないようですね」
マナは、瀕死にも関わらずこちらに向かって迫ってくるベスベルを一瞥した。頭蓋を破壊され、脳髄が露になっていた。血や体液が流れ落ち、青い顔面を暗い赤で染め上げている。双眸から放たれる紅い光に衰えはなく、むしろいままで以上に強烈な殺意を発していた。どす黒い殺気は奔流となって、滅ぼすべき敵へと殺到する。
彼女は、涼しい顔で敵意の視線を受け流すと、スターダストを頭上に掲げた。棘の抜けた部分がどこか不恰好だった。
瀕死の皇魔の周囲に仲間の青鬼どもが辿り着く。十体。普通の人間ならば、たったひとりで相手にするような数ではない。皇魔の群れに単身立ち向かうのは勇気ではなく、無謀である。一対一で戦うことすら危険極まりないという。しかし、彼女ら武装召喚師は違った。一対多の戦力差を覆し、多勢に無勢の常識をも凌駕するのが召喚武装という存在だった。
彼女のスターダストもまた、常識外れの武器といっても過言ではない。
「では、少しばかり派手に参りますわ」
マナは、スターダストを振り下ろした。足元の地面に叩き付け、スターダストの力を解き放つ。見えざる力の拡散。力の波動は皇魔の元に到達すると、その無残な頭部に突き刺さったままの棘に最初で最後の命令を送る。命令を伝達されたすべての棘が同時に強烈な光を発し、闇の世界を青白く塗り潰した。爆光の連鎖。皇魔の悲鳴は盛大な爆音に飲み込まれる。マナの視覚や聴覚さえも狂わされかねない。
ベスベルに刺さっていた十数本の棘が、一斉に爆発したのだ。その威力たるや凄まじいもので、あの棘のどこにそんな火力が秘められていたのかと首を傾げたくなるほどだったが、そんなことマナにわかるはずもない。彼女はただ召喚した異世界の武器を利用しているに過ぎない。そして、その力が制御できるものであるのならば、原理まで解明する必要はない。
爆風とともに吹き飛ぶのは四散した皇魔の肉体であり、もはや肉片や肉塊としか呼べなくなったそれらが体液を撒き散らしながら飛散する様は、凄惨というほかなかった。限界を留めていないものがほとんどだった。それほどの爆発だった。しかし、その範囲は決して広くはなく、マナの前方に集まっていた十体の皇魔のうち、五体を絶命させ、三体には重傷を負わせられたものの、残る二体には軽傷さえ与えられなかった。殲滅するつもりだったのだが。
「少なかったようですわね」
マナは、激昂の咆哮をあげる化け物を見据えながら、スターダストを構え直した。爆心地の地面には大きな穴が開いているものの、火力が足りなかったと判断せざるを得ない。爆発の火力を上げるには、同時に起爆する棘の数を増やす以外にない。しかし、スターダストの棘の数には限りがある。無駄にはできない。
前方から、無傷だった二体の皇魔が飛び掛かってきた。重傷のベスベルは、憎悪と怨嗟の叫びを発してはいるものの、戦闘に参加できそうにはない。その様子を見る限り、閃光の息吹を吐くことすらも困難なのかもしれない。
「とはいえ」
彼女は、迫り来るベスベルたちに向かってスターダストを振るった。鉄槌が空を切り、柄頭の棘が飛び散った。棘が抜けるのは、なにも対象物に突き刺さったときだけではない。マナの意志により、矢のように飛ばすことも出来た。
「この数ならば出し惜しみする必要もなさそうですわね」
皇魔が百体以上とはいえ、こちらには無敵の盾があり、ウォルドとイリスがいる。騎士団は、当てにならないとはいえ、盾によって不敗の軍勢と化しているのだ。彼らも皇魔殲滅に貢献してくれるに違いない。
数では同等以上。
個体の質はどうやらベスベルのほうが上のようだが、こちらには図抜けた能力の持ち主が何人もいる。その筆頭がイリスであろう。彼女の人並みはずれた身体能力は、人並み以上の鍛錬によって肉体を強化してきたマナを以てしても嫉妬を覚えるほどのものだった。
だが、だからこそ、安心してクオンの護衛を任せていられるのだ。
スターダストから飛んだいくつもの棘は、マナに向かってまっしぐらに突き進んでくる二体のベスベルの顔面や胴体につぎつぎと突き刺さった。といって全弾命中というわけにもいかず、外れた棘の向かう先に味方がいないことを祈るより他なかった。確認している暇はない。敵はもはや眼前にまで迫ってきていた。
「これは手向けです」
マナは、スターダストを構えると、ベスベルに向かって一歩踏み込んだ。距離は限りなく零に近づいていく。皇魔は引き下がらない。怖れを知らない赤子のようだった。獰猛な本能を剥き出しにしたまま、突っ込んでくる。前方二方向からの同時攻撃。
「ふっ!」
マナは、息吹きとともに鉄槌を振り回した。皇魔の攻撃を恐れず怯まず、こちらの一撃の速さにすべてを賭ける。全身全霊の一撃。二体のベスベルは前方左右から拳を繰り出してきたが、大きなふたつの拳がマナに届くよりもわずかに速く、スターダストの先端が右の皇魔の脇腹を捉えた。手応えは十分。相手の拳は空を切っていた。
マナは、その勢いのままスターダストを左に向かって振り抜いた。鬼の巨体をもう一体のベスベルに叩きつける。仲間を叩きつけられた皇魔が吼えた。口汚く罵ったように感じられたが、化け物の言葉を理解できるはずもなく、彼女は、仲良く転倒した二体のベスベルを一瞥すると、即座に後方に飛び退いた。力を込め、スターダストを地面に振り下ろす。
スターダストが地に触れた瞬間拡散したのは起爆信号。波紋のように拡がり、スターダストの棘を一斉に爆裂させる。マナの前方で盛大な爆発が起こった。夜空さえも染め上げる閃光の乱舞。鼓膜を痛めつけかねない爆音の饗宴。衝撃波。皇魔の断末魔など聞こえるはずもなかった。
「相変わらず派手にやるもんだ」
ウォルドが目を細めたのは、夜空を塗り潰す閃光が眩しいからだけではなかった。マナの召喚武装の火力が以前にも増して凄まじいからだ。夜の王都に反響する爆音は、きっと夢見る市民を叩き起こし、この騒動に拍車をかけるに違いない。が、彼女を責めることはできない。王都が混乱に陥ろうとも、皇魔の殲滅こそ最優先にすべきなのだ。混乱の拡大を恐れて力を出し惜しみしている間に被害が増大することこそ避けなければならない。
ウォルドは、足元を見下ろすと、頭部を破壊したベスベルが絶命していることを確認した。ブラックファントムによる打撃ならば、頭蓋骨程度軽く粉砕できる。頭部を粉々に破壊してしまえば絶命するのは皇魔とて同じである。壊しきれなかった場合はわからないが、少なくとも拳による殴打が直撃さえすれば、そのような失敗は犯さないだろう。以上のように例え人外の化け物が相手であろうと引けを取ることはないのだ。
(五体目、と)
周囲に視線を巡らせる。戦場に蠢く化け物の数は、一向に減る様子がなかった。実際には減少しているはずである。しかし、ベスベルの数が多すぎて減っているようには感じられなかった。
口笛を吹く。と、周辺の皇魔の視線が一斉に彼に注がれた。が、ベスベルたちは首を傾げるような素振りを見せる。彼らの紅い瞳には、口笛を吹いた人間の姿など映らないのだ。しかし、気配は確かに存在する。耳を澄ませば呼吸する音さえ聞こえたかもしれない。だが見えない。目に映らないものをどうしろというのか。
ウォルドは、化け物たちの反応を見やりながら、ゆっくりと拳を構えた。ブラックファントムから流れ出る力を拳に集め、次の一撃の威力を飛躍的に向上させる。
ブラックファントム。彼の召喚武装である。両の前腕から手の甲まで覆う漆黒の籠手であり、武器というよりは防具に近い武装だった。鋭角的な形状をしており、両方の手首付近に碧玉が飾られていた。
彼は、一歩踏み出した。ベスベルの亡骸を跨ぎ、皇魔の集団への接近を試みる。気配を消そうとはしない。できないのではなく、しないのだ。この混乱した戦場で殺気を隠す必要はなかった。数多の殺気が飛び交う中、彼の気配だけが特別浮いているわけもない。
二歩。
ベスベルはまだこちらに気づかない。こちらへの興味を失ったからかもしれない。爆音が次々と轟き、まばゆいばかりの閃光と強烈な衝撃波が化け物どもの注意を引いたのだ。マナの大暴れがウォルドの攻撃を援護してくれていた。
ウォルドは、スターダストの爆発に注意を逸らした化け物に向かって飛び掛った。その間抜けな横っ面に右拳を叩きつけようとする。瞬間、ベスベルがこちらの気配を察知し、顔を向けてきた。が、その紅く輝く双眸でウォルドの姿を捉えられたとしても、迎撃することは出来なかっただろう。こちらを振り向いたときには、ウォルドの手甲を纏った拳が直撃する寸前だったのだ。拳は、皇魔の顔面を抉った。皮膚を突き破り、頭蓋骨を破壊し、脳髄をも粉砕する。悲鳴さえ上げさせない絶対の死。
正に一撃必殺。
ウォルドは、飛散する血や体液を浴びながら着地すると、敵の死を確認するまでもなく別の皇魔へと跳躍していた。皇魔の数は多い。状況を終息させるには、一体一体確実に殺していくしかないのだが、死を確認している時間さえも惜しい。とにかく迅速に敵を倒していかなければならない。
見ると、皇魔がこの場に留めておくために構築された騎士団員による防衛線は上手く機能しているらしかった。騎士団の壁を突破しようと、ベスベルの群れが強烈な攻勢を仕掛けているのだが、無敵の盾の加護により、騎士団員はだれひとりとして傷を追うこともなく、鉄壁の防衛網を維持することに成功していた。
「後は俺たちが活躍するだけってな」
だれとはなしにつぶやいて、彼は、背後への振り向き様に左腕を振り抜き、真後ろにいた皇魔の側頭部に裏拳を叩き込んだ。抜群の手応えとともに憎悪に満ちた叫び声が響いた。意識を集中させていなかったためか、ベスベルの頭を粉砕するには至らなかったようだ。
すぐさま体を捻って足払いを仕掛け、転倒した皇魔が反応するより速く、ひしゃげた頭部に必殺の一撃を叩き込む。ウォルドの拳が鬼の顔面を貫いたのは、化け物の口腔から光が吐き出される寸前だった。もっとも、閃光の息吹きが吐き出されたところで、痛くも痒くもなかったが。
(この緊張感の無さはどうだ?)
クオンのシールド・オブ・メサイアによる絶対の守護がもたらす弊害なのかもしれない。本来ならば死と隣り合わせの戦場にありながら、なんの緊迫感も抱けないのだ。それは戦士の感覚を鈍らせ、いままで培ってきた経験さえ無駄にしかねない。無論、安全を約束されるのはいいことでもある。安心して死地に飛び込めるのだ。どのような状況にあっても焦らず冷静に対処できるのも、盾の守護の利点であった。
そして、盾の庇護下にあってこそ、《白き盾》はここまでこれたのだ。いまさら盾を使わないなんていう選択肢はありえない。
(なら、俺たち自身がその戦いの感性を鈍らせないようにしておけばいいのさ)
これほど簡単な答えはないだろう。
ウォルドは、口の端に小さく笑みを浮かべた。やるべきことが増えた。どんな戦いでも手を抜くことは許されない。緊張感を抱き、技を磨くのだ。それこそが《白き盾》を更なる高みへと押し上げる力になるはずだ。
ウォルドは、再び地を蹴った。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
召喚に時間がかかるのは仕方のないことだ。
術式を構築するためには長ったらしい呪文を唱えなければならない。古代言語の羅列。複雑怪奇な言葉の組み合わせは、しかし、一定の法則に従って構成されたものである。呪文を詠唱することで、生命の根源の力を引き出すのだという。魂の力。霊力。あるいは魔力ともいう。生きとし生けるものだれしもが持つ力であり、人間のみならず、動植物にも宿っているのだとか。
ルウファが呪文を詠唱する間、ファリアは、皇魔の群れを相手に大立ち回りを演じていた。といっても、大したことをしていたわけではない。オーロラストームを掲げ、矢を形成し、撃ち放つ。命中の如何に関わらず、新たな矢を生成、二射三射と連射し、皇魔の接近を牽制、あるいは撃破していただけのことだ。リノンクレア率いる白聖騎士団の応援を期待してはいけない。彼女らは夜営地を防衛することを最優先に考えて行動してもらわなければならないし、その通りにするだろう。ファリアたちの姿が見えないこともわかっているだろうし、ふたりが皇魔撃退に動いていることも承知しているだろう。
ならば、ファリアたちのやるべきことはひとつである。
眼前の敵の殲滅。
それだけだ。
「武装召喚!」
ルウファが召喚術を完成させる頃には、ファリアの皇魔撃破数は二十を軽く超えており、皇魔ブリークの群れは前方十数メートルのところにまで到達していた。
夜の闇を一掃するほどの閃光とともにルウファの手の内に顕現したのは、漆黒の槍である。セツナの矛とは比べるべくもないが、禍々しい形状をしていた。奇妙に捩れた穂先は悪魔の角のようだ、とでもいうべきか。柄は当然長く、全長はルウファの身長よりも長かった。二メートル以上はあるだろう。石突からは悪魔の尾のような帯状のものが伸びており、それがどんな役割を果たすのか、術式を組み上げた本人にもわからなかった。
「ランス・オブ・デザイアとでも呼びましょうか」
漆黒の槍を構えたルウファが、そんなことをいってきた。