第七百三十七話 彼と彼女
二月十一日。
セツナが目を覚ました翌日のことだ。
セツナは、レムに話を聞いた後、もう一度眠りについている。彼女からもう少し詳しく聞き出したかったが、蓄積した疲労がセツナに眠りを強いた。レムの目の前でも眠ることができるという安心感が、睡眠欲を刺激したのは間違いなかった。彼女がセツナの寝首をかくことは、もはやありえない。彼女が自分の死を求めて、セツナを殺すという可能性も、いまのところ考える必要もなさそうだった。
その眠りの中で夢を見ることはなかった。深い眠りがあったのだ。
再び目を覚ましたとき、視界に飛び込んできたのはミリュウであり、ファリアであり、ルウファであり、マリアであり、エミルだった。《獅子の尾》の面々が、レムの報告を受けて集まってきていたのだ。レムが報せに走ったのだろう。
「良かった……! 本当に良かったよー!」
真っ先に抱きついてきたミリュウは、涙さえ浮かべていた。四日間も眠りこけていたのだ。心配をかけたのは間違いなかったし、彼女が不安を抱くのも当然だったのかもしれないとも思った。そんな彼女を尻目に、ファリアがぼそりといった。
「心配なんてしていないんじゃなかったのかしらねー」
「ちょっとファリア!」
「まあまあ、隊長が無事目を覚ましたんだし、良かったじゃないですか」
ルウファが、ふたりの間を取り持つ。包帯を巻いた左腕が痛々しかったが、ほかに外傷らしい外傷はなさそうだ。外傷といえば、ファリアもミリュウも無傷ではない。ミリュウは頭部に包帯を巻いたままだったし、ファリアも傷だらけだった。戦闘要員で無傷なのは、レムくらいのものだ。セツナも満身創痍であり、少し動くだけで痛みが走った。もう少し安静にしていなければいけないのかもしれない。
当然、後方にいたマリアとエミルは無傷だ。数えきれないほどの負傷者が出た戦いだ。忙しくなかったはずもなく、《獅子の尾》専属軍医であるはずのマリアとその助手のエミルも、各所に引く手数多の活躍ぶりだったという話を、ゼノキス要塞戦前に聞いている。実際、寝る暇もなかったのかもしれない。マリアの目元にくまができていて、エミルも疲労困憊といった有り様だった。
皆、疲れきっている。それでも元気に振舞っているのは、だれもが負けず嫌いだからなのかもしれない。《獅子の尾》とはそういう部隊だった。
「それはその通りなんだけどね」
「その通りなんだけど、なによお」
「そうむくれないの。可愛い顔が台無しよ」
「そ、そんなこといわれたって、嬉しくないわよ」
言葉では突き放していたものの、彼女がファリアに褒められて喜んでいるのはだれの目にも明らかであり、いつもどこか不機嫌そうな顔をしているマリアですら笑ってしまうほどだ。ミリュウは、そういう和気藹々とした輪の中にいられることを幸福に感じているのかどうか。その表情からは少し読み取りにくい。
それはそれとして、セツナは、《獅子の尾》がだれひとりかけることなくここまで来られたことにほっとしたし、当然だろうとも思った。
《獅子の尾》はガンディア最強の戦闘部隊だ。
ゼノキス要塞の修復工事が、少しずつ進められている。
要塞在住の少数の職人の手による作業であり、本格的な工事とは言い難いものであるらしい。人数を揃えるには、戦争が完全に終わってからでなければならない。それには、もうしばらく時間がかかるだろうということだ。
セツナは、マリアの許可を貰って、部屋の外に出てきていた。歩くだけで痛みがあったものの、気分転換もあったし、なにより筋肉を動かす必要に迫られていた。体が怠けはじめている。このままでは、せっかくつき始めた筋肉が落ちてしまうのではないかという恐怖が、セツナを外出に駆り立てた。とはいえ、移動可能な範囲は要塞内の仮設病院内部に限定されている。マリアの手の届く範囲ということだろう。
仮説病院は、西の一郭にある建物そのものであり、そこにはゼノキス要塞戦の負傷者のうち、重傷と判断されたものだけが運び込まれ、治療を受け、回復に努めていた。セツナのように一命を取り留めたものもいれば、助けられなかったものもいるらしい。生者と死者を分けるのは、一体なんなのか。ふと、そんなことを考えてしまうのは、生と死について考えさせられることがあったからに違いない。
ゼノキス要塞の戦いでどれくらいが死んで、どれくらいが生き残ったのか。
正確な数字は不明だが、多数の死者が出たのは想像に硬くない。もっと大きな力があれば、戦死者をひとりも出すことなく、この戦いを終わらせることができた。
セツナが力を欲する最大の理由がそれだ。
勝利のために必要なものだとはいえ、犠牲者があまりに多すぎる。
クルセルク戦争全体を通しての死者の数は、数千を超えるだろう。相手が皇魔で、常人では対抗するのも難しい敵だったとはいえ、だ。セツナが奮起すれば、もっと犠牲を少なくすることができたのではないか。
そんな風に思ってしまうのは、ゼノキス要塞の惨状を目の当たりにしているからかもしれない。
神の放った光芒によって、ゼノキス要塞の一部が完全に消滅していた。城壁や城郭の一部が綺麗さっぱり消滅しているのだ。破壊というようなものではない。消し去ったのだ。神と呼ばれるものの力がどれほど強大なのか、それをみただけでわかる。セツナと黒き矛では到底及ばない。抵抗することさえ不可能かもしれなかった。
「あまり思いつめないほうがいいわよ」
「ん……」
「自分にもっと力があれば……とか考えてるんでしょ。いま、そんな顔してたわ」
ファリアの声音が、やけに優しかった。その優しさが胸に刺さる。リネン平原で戦っていた彼女は、神の光によって消滅していた可能性があるのだ。もしそんなことになっていたら、セツナは、それこそ絶望していたかもしれない。少なくともやりきれなくなるだろう。
仮説病院の二階屋上にセツナたちはいる。セツナとファリア、ミリュウの三人だけだ。ミリュウは、セツナの左腕にしがみついて、目を閉じている。なにを考えているのかわからないが、いまは黙っていたい気分なのかもしれない。
ファリアは、セツナの右隣に立って、同じように要塞を見ていた。凛とした横顔は、いつまでも見ていられる気がする。いや、気のせいではない。何時間でも見ていられるだろうが、そんなことをすればファリアに半眼で詰られるだけだ。
マリアとエミルは仕事に忙殺されていたし、ルウファはルウファで役割があった。シルフィードフェザーは要塞内を移動するのに便利すぎるのだ。レムは、要塞外部の哨戒任務に出ていた。ちなみに彼女は、ハーマインの特例によってセツナの側にいることを認められたということだ。もちろん、クルセルクの平定がなるまでの期間の話のようだが。
「……クオールさんは死んだよ」
「……うん。なんとなくわかってた。だって、無事ならどこからでも飛んできそうだもの、彼。リネンダールに異変があって、彼が現れないということは、そういうこと以外には考えられなかったわ」
ファリアは、深く呼吸するようにいった。ため息とは違う、深く重い息吹き。
「まさか、それが自分のせいだとはいわないわよね? だとしたら勘違いも甚だしいわよ。四大天侍のマリク=マジク様ですら、君の矛を使っても鬼を倒すことはできなかったのよ。なんとしてでも接近するしかなかった。接近するには、クオールの翼を頼るしかなかったのよ」
「……わかってる。でも」
「でも、俺に力があれば? 力があればなに? ウェイドリッドから鬼を倒せたとでもいうの? 冗談も休み休みにして。どれだけ君に力があったとしても、鬼に近づく手段がない限り、倒しようがなかったのよ。クオール以外の翼なら、近づくこともできなかったでしょうね」
それも、わかりきったことだ。
あの光の弾幕をくぐり抜けることができたのは、レイヴンズフェザーの超加速能力があってこそだ。それでもクオールは傷だらけにならざるを得なかった。クオールですら、決死の覚悟がなければ攻撃可能距離に接近することなど不可能だったのだ。ほかに方法なんてあるわけがない。あったとしても、巨鬼を倒せたかどうかは不明だ。
セツナでさえ、巨鬼を倒したとは言い切れない。が、それは別の話だ。巨鬼の中から神が出現するなどとは想像しようもない。
「クオールの死は、決して無駄じゃなかった。君が巨鬼を倒したんだから。少なくとも、巨鬼の攻撃で連合軍が壊滅するなんていう最悪の事態を避けることができたのは、クオールとセツナが巨鬼を止めてくれたからよ。そのための死が、無意味なわけがない」
ファリアは、まるで自分に言い聞かせるようにいっていた。彼女にとってクオール=イーゼンがどういう人物だったのか、深くは知らない。しかし、幼少期よりの知り合いであり、同じ教室で武装召喚術を学んだ仲だということまでは知っているし、クオールがファリアに好意を抱いていることも理解していた。
そのクオールにファリアを任されたのが、セツナだ。
「セツナは十分強いわ。確かに武装召喚師としての技量は四大天侍に遠く及ばないけれど、黒き矛を使いこなせるのは君だけよ。君だけが、あの巨鬼を止めることができた。そのおかげで、連合軍は勝ち得たのよ」
「みんな、そういってるな」
部屋を出て、ここに至るまですれ違った人は数多いるが、ひとり残らずセツナの戦いぶりを褒め称え、連合軍の勝利はセツナあってのものだとまでいうものもいた。褒められて悪い気はしないが、少しばかり褒め過ぎなのではないかと思ったりもした。褒められるほどの戦果を上げた記憶が無い。結局、巨鬼は倒しきれなかった。巨鬼の内から現れた神は取り逃し、その圧倒的な力によって連合軍は多大な被害を出してしまっている。それもこれも、セツナの失態ではないのか。
セツナがそういうと、周囲に不安を与えてしまうから、彼は自分の想いを胸に秘めるしかない。話せるとすればレオンガンドかナーレスくらいのものだろう。が、レオンガンドもナーレスもこのゼノキス要塞にはいないのだ。連合軍首脳陣のほとんどがゼノキス要塞を出払っていた。
ファリアが多少あきれたような顔をしたのは、セツナが評価を受け入れていないと思ったからかもしれない。
「だって、その通りだもの」
「……でも、満足はできないな。もっと上手く使えるはずなんだ。マリク=マジクには及ばなくても、もっと力を引き出すことができるようになるはずなんだ」
「そうね。セツナは武装召喚師としては駆け出しもいいところよ。これから強くなれるわ」
ファリアの厳しくも温かい言葉が、心強く感じる。
「でも、焦らないことよ。焦って無理をしても、いい結果は出ないわ」
「……肝に銘じておくよ」
「素直でよろしい」
「さすがは隊長補佐だよ」
「ふふ……褒めてもなにも出ませんよ、隊長殿」
そういってこちらに向けられた彼女の笑顔こそ、セツナにとってはこの上ない褒美だった。