第七百三十六話 闇を越えて(七)
「長い?」
セツナが引っかかったのは、レムがいった長い眠りという言葉だった。長く寝ていたという感覚はない。しかし、戦いで疲労し、消耗し尽くした上で重傷を負ったのならば、眠りが長くなったとしてもなんら不思議ではなかった。
「何時間くらい寝ていたんだ?」
「何時間だなんて、そんなご冗談を」
レムが携行用の魔晶灯を寝台横の机に置きながら、くすりと笑った。
「四日間、眠りっぱなしでございましたのよ」
「四日……そんなに寝ていたのか」
疲労が取り切れていないのは、寝過ぎたからではないのかと思ったりした。そして、まったく運動しない日数が四日も続いたことに戦慄を覚える。体は鍛え続けなければ衰えるものだ。毎日、師匠であるルクス=ヴェインの課した訓練を続けていたセツナにとって、四日の空白はあまりに痛かった。もちろん、戦争の翌日に訓練を再開することはないにしても、四日は大きい。
セツナが途方に暮れていると、レムが小さくうなずいた。
「はい。つまり今日は二月十日でございます」
「……それで続けるつもりか?」
セツナは、ようやくレムの言動に突っ込むことにした。彼女の格好を見ると、半眼にならざるをえない。レムは、彼女が護衛任務のためという名目で身につけていたメイド服を着込んでいたのだ。その狂ったような言葉遣いも、使用人らしく振舞っているせいだ。彼女がなぜ使用人にこだわるのかは、セツナにはわからない。
「御主人様におかれましては、お気に召しませんか?」
「お気に召すとか召さないとかじゃなくて、レムの意見を聞いてるんだけど」
好きか嫌いかでいえば、好きといえるだろう。十三歳の少女のままのレムが黒と白のメイド服を着こむと、人形のように可愛らしいのだ。レムは、色白美人だ。美少女といってもいい。そんな少女が自分のためにメイドの格好をしてくれるのは嬉しくないはずがなかった。が、それとこれとは別の話だ。
「わたくしは、御主人様の下僕でございますもの。これでいいのです」
「読めないな。あんたの心はさ」
「わたくしにも、御主人様の心は読めませんわ」
他人だからな、などとといおうとして、やめた。
そんなことをいっても、会話が弾むわけはない。会話を弾ませるつもりもないのだが。
沈黙が、夜の静寂を浮き彫りにする。真冬の夜中。空気は冷えきっていて、毛布に包まっていないと寒くて仕方がなかった。そんな寒さの中で、レムは防寒着でもないのに平然としている。きっと、寒さも暑さも、いまの彼女には関係がないのだ。それは彼女がただの人間ではないという証明であり、彼女が仮初の命を与えられた存在であることを表している。
「四日間、大変でございましたのよ」
「だろうな……俺のことを説明するのも大変だったんじゃないか?」
「ええ、とても」
彼女はにこやかに笑った。これまで、レムの笑顔といえば営業スマイルといっても過言ではないようなものばかりだったのだが、いまセツナに向けられた笑顔は、彼女の感情がこもっているように思えた。もっとも、それが必ずしも良い感情とも限らないが。
「まず、御主人様の身に起きた出来事を説明するのが困難でした。どこまで話していいのか、判断に困ることばかりでございましたし……もちろん、御主人様が不利益を被るようなことは話しておりませんが」
「不利益……ね」
セツナはクレイグの正体のことかと思ったが、そういうわけでもなさそうだった。少なくともレムはクレイグがアルジュ・レイ=ジベルだということは知らないだろう。あの暗闇の中では、クレイグの死体を確認することもできなかったはずだ。
「御主人様はただ巻き込まれ、ご自身の命を護るために戦っただけでございますので、不利益もなにもないとえいばないのですが」
そう前置きを置いてから、連合軍首脳陣に対して行った説明を掻い摘んで話してくれた。
四日前。つまり二月六日の夜中、セツナとレムはゼノキス要塞天守の一階広間に出現したらしい。そこにたまたま訪れていたシーラ・レーウェ=アバードとサラン=キルクレイドがセツナたちを発見、急いで軍医の元に連れて行ってくれ、事なきを得たということだ。もし、一晩中広間に放置されていれば、いくらセツナであっても死んでいたのは間違いない。もっとも、レムは、広間にだれもいなかったとしても自分がなんとかしたと主張している。彼女は、シーラたちに運ばれている最中に意識を取り戻していたといい、無傷の彼女には、セツナひとり運ぶことくらい造作も無いことだった。
意識を失ったままのセツナは放っておくしかないとして、目を覚ましたレムには質問の嵐が待っていた。レムがセツナを影の中に連れて行ったのだ。しかも、夜中に戻ってくることができたということは、かなりの長時間、闇の世界に囚われていたということになる。彼女が問われるのは当然の結果だった。
レムは、自分がセツナを影の中に引きずり込んだのは、クレイグ・ゼム=ミドナスの意思によるものだと説明したという。実際、あのときの彼女には自分の意思というものがなかったのは間違いないようだ。闇の世界で自我を取り戻したような言動もあった。レムはクレイグに操られていたのだ。いや、この場合は闇黒の仮面というのが正しいだろう。クレイグさえも、マスクオブディスペアに支配されていたに過ぎない。
それから、彼女はクレイグが作り出した暗黒空間での出来事を語ったということだ。もちろん、彼女が分かる範囲での出来事であり、意識を失っている間のことはセツナに聞いて欲しいといい、了承を得たという。
そして、クレイグの行動が、クレイグ自身の野心によるものであり、ジベルの意思ではないと明言し、ハーマイン=セクトルを始めとするジベル関係者を安心させた、ということだが、やはりセツナが影の国に連れて行かれた事件は、ジベルのせいにされていたようだ。ジベルが無関係とはいわないが、ジベルという国が悪いわけではない。
「疑いが晴れたのなら良かったな」
「疑いは晴れましても、死神部隊が御主人様を誘拐し、殺害しようとした事実に変わりはありませんですわ」
「そりゃそうだが」
「ジベルの責任問題は免れませんの」
ハーマイン将軍は、クレイグの暴走を改めて謝罪し、ジベルはセツナおよびガンディアに対して補償を行うと宣言。また、クルセルクの領土分割においては発言は一切しないことを明言し、ハスカの占有権も撤回するとのことだった。
セツナがレムを除く死神部隊を殲滅したということは、当然の如く不問とされた。反撃しなければ殺されていたのはセツナであり、先に手を出してきたのは死神部隊だという事実もある。ジベルも、死神部隊を失ったことについては、なにもいわなかった。死神部隊の行動を把握していなかった彼らになにかを発言する権利などあろうはずもない。
連合軍首脳陣に睨まれれば、ハーマインも沈黙せざるを得なかったということらしいのだが。
ジベルは、クレイグの一手によって、この戦いで得ることのできたすべてを失ったのかもしれない。いや、元から持っていた戦力さえも失ってしまった。死神部隊というジベル最強の戦闘集団は、《獅子の尾》に匹敵する戦闘力を持っていた。大きな痛手となるだろう。悪手としかいいようがないが、そればかりはハーマイン将軍を責めることはできまい。行動を起こしたのはクレイグであり、クレイグを突き動かしたのは闇黒の仮面だ。ハーマイン=セクトルとは無関係だった。
そこが問題でもあるのだが。
死神部隊の中でレムだけが生還したのは、真っ先に気を失ったからだと説明し、疑念を抱かれながらもそれで押し通したということだった。さすがに死者が仮初にも蘇った、などとは説明しようがない。話したところでだれも信じてはくれないだろうし、死神部隊の正体が死者の集団であったなどともいわなかったようだ。いえば、余計な混乱が膨れ上がるだけだ。死者の集団を配下に加えていたという事実は、ジベルをますます孤立させるかもしれない。レムが、自分の祖国にそのような仕打ちをできるはずもなかった。する必要もない。
レムの立場は、いまだジベルの死神部隊に所属する死神壱号であるらしい。が、それもこの戦いが終わるまでだと彼女はいった。
レムは、連合軍首脳陣による質問大会のあと、ハーマインひとりに質問攻めに遭ったという。そこでクレイグが死んだのは確かなのかどうかと詰め寄られ、また、クレイグの正体を知っているのかとも問われたというが、彼女はクレイグの死亡は間違いないと答えた。彼女は、クレイグの正体など知らないし、興味もないといったらしい。クレイグはクレイグだから付き従ったのだ、と。
ハーマインは、それ以上なにもいわなかったが、口ぶりからするとクレイグの正体を知っているらしいとのことだった。
「御主人様は、ご存知なのですか?」
「ああ。見たよ。仮面の下の顔」
アルジュ・レイ=ジベルの死に顔を思い出した。彼は決して満足して死んだわけではなかった。絶望の中で絶命したのだ。その表情たるや凄絶としか言いようが無い。
「でも、知らないひとでございましょう?」
「いや、知っている顔だったさ」
「御主人様が?」
レムが驚いたのは、セツナがレムたち以外のジベル人に知った顔があるとは思いがたいからだろう。ガンディアとジベルの関係は決していいものとはいえず、交流は薄い。セツナほどの立場となれば、他国の軍関係者や王侯貴族と交流を持ってもおかしくはないのだが、ジベルの人間がセツナと交流を持っているという話は聞いたことがないだろう。あれば、ジベル国内に知れ渡っているかもしれない。
「……知りたいか?」
「いえ……よしましょう。クレイグ隊長の正体など、わたくしには不要なものでございますわ」
彼女は、それでクレイグに関する話題を打ち切った。十年、依存していた相手だ。最後には裏切られても、記憶の中のクレイグまでも汚したくはないという想いはわからないではなかった。クレイグは、死神部隊を掌握するために飴と鞭を使い分け、甘いときはとことん甘かった。レムが懐くのも当然だったのかもしれない。
そんな相手に裏切られた衝撃は大きいに違いないが、彼女は、そのことで苦しんでいる様子を見せなかった。胸の内に秘め、耐え忍んでいるのかもしれない。
「それで、いまの立場はどう説明したんだ?」
「セツナ伯に再雇用して頂いたと」
「再雇用……ねえ」
「まあ、いまはジベルの人間ですので、どうにもならないのですが」
彼女は、戦いが終われば、ジベルをぬけ出すつもりだといった。ジベルに属している限り、セツナの側にいることができないからだ。
「必ずしも側にいなければならないわけじゃない」
セツナは、天井を見やりながらいった。どれだけ離れていても、繋がった命が途切れることはない。セツナが生きている限り、彼女が死ぬこともありえない。
命の同期とは、そういうものらしい。
「御主人様の意向はともかく、わたくしは、御主人様のお側にいたいのです」
レムが意外なことをいってきたので、セツナは思わず彼女を見た。そして、彼女の顔がすぐ近くにあったことに驚く。
「闇の中で、なにもない世界で、ただ滅びを待っているとき、あなたの声を聞いた」
大きくて綺麗な目が、セツナを見つめていた。
「レム――ただ、そう呼んでくれた言葉が、あたしをもう一度、この世界に呼び戻したのよ」
使用人ではなく、レムとしての本音。本当の声。だからこそ心に響く。胸を打つ。
「それがあたしにとっての光だから」
彼女は、絶望の闇を越えたのだ。