第七百三十五話 闇を越えて(六)
灰色の空を見上げている。
なにもない平原に仰向けに寝転がって、遥か視線の先を睨んでいてる。
黒でもなく、白でもなく、灰色だ。
なにもかもが灰色だった。大地も、草木も、石も、砂も、空も、雲も太陽も、吹き抜ける風の色すら灰色に思えてならなかった。
夢と現の境界。
「またかよ」
セツナはぼやいたが、今回ばかりはそれでいいと想っていた。
ここでしか、彼と対話することはできない。彼に聞かなければならないことがある。知っておかなければならないことがある。でなければ、セツナは戦えなくなるかもしれない。黒き矛を拒絶してしまうかもしれない。
もちろん、彼が応えてくれるかどうかは別問題だ。
やがて、灰色の空に黒点が出現する。灰色の中の唯一の色彩がそれだ。やがて黒点は大きくなっていく。こちらに近づいてきているのだ。遥か上天から降下してきているのだ。それがとてつもなく巨大なのがわかる。
それは、翼を開いた。一対の飛膜。そしてそれの姿が明らかになる。漆黒の竜だ。何十メートルはある巨体がセツナの視界を覆い、天地が崩壊するような物音を立てて着地する。着地の衝撃の余波だけで吹き飛ばされそうになる。馬鹿馬鹿しいが、それほどまでの質量なのだ。
夢と現実の間で質量や物理法則に意味があるのかはわからないが、衝撃を感じたのだから意味はあるのだろう。
何度目かの竜との対面。その威容にはもはや慣れたものだが、圧倒されないわけもなかった。黒き竜は、黒き矛の化身だ。カオスブリンガーの凄まじさをもっともよく知っているのがセツナなのだ。身を以て知っているといっても過言ではない。その切れ味の鋭さ、一撃の破壊力、常識では考えられないような力があり、複数の能力を有した最強の召喚武装。最強という言葉が言い過ぎではないと思うほどだった。
仰ぐと、無数の目がこちらを見下ろしていた。真紅の目は、黒く巨大な体によく映えている。顎が動いた。
「また、死にかけたな」
漆黒のドラゴンの開口一番の言葉に、セツナは憮然とした。その場で立ち上がりながら、声を上げる。胸の内に燻ぶる思いが、声音を低いものにした。
「悪かったな」
「散々警告したはずなのだがな」
「あんたの警告は要領を得ないんだよ」
セツナは、黒き竜を睨んだが、相手は意に介してなどいないようだった。
「あれで理解できないおまえが悪い」
「ふざけんな」
吐き捨てると、竜は愉快そうに笑った。黒き竜は、セツナが苦しむのが好きなのかもしれない。あえて不明瞭な警告を発してきたのも、セツナに猜疑心を植え付け、心身に負担をかけさせるためだとすれば、説明がつく。納得したくないことではあるが、ほかに理由も見当たらない。
「で、そんなことを言いに来ただけか?」
「まあ、そんなところだ」
「暇なんだな、あんたも」
「暇だよ」
ドラゴンがあまりにあっさり認めたので、セツナは拍子抜けした。
「翼があっても空を飛べず、口があっても言葉を発せず、力があっても発揮できない。それが召喚武装というものだ」
「……そうか」
黒き竜がその姿を取り、自由自在に動いていられるのは、ここが夢と現の狭間だからに過ぎない。現実世界の彼は、黒き矛以外のなにものでもないのだ。セツナに意思を伝えることはできても、明確な言葉を発することはできない。自由に動き回ることは愚か、力も、セツナを通して発することしかできないのだ。不自由極まりない。
そう考えると、少しばかり同情を覚えたりもするのだが、
「ところで神になった気分はどうだ? 使い魔を生み出せたのだ。造物主にでもなったつもりなのではないか?」
「使い魔……?」
反芻するが、思い当たるふしはなかった。使い魔という言葉の意味は、なんとなくわかる。使い魔といえば、魔女や魔法使いが使役するものであり、小動物がその役割を担うという印象がある。吸血鬼が蝙蝠を使い魔として使役するという話もある。もちろん、セツナの知識は漫画やアニメといったものから得た程度のものでしかないのだが。
しかし、神になった気分という言葉が示す事象については把握できた。レムの再蘇生のことだろう。
竜が目を細める。血のように紅い目が一斉に半眼になるのは、それはそれで奇妙な光景だった。
「レム=マーロウのことだ」
「レムが使い魔?」
「かの娘の魂はおまえに隷属し、命もまた、おまえに同期した。しかも、一方的な同期だ。おまえが上位存在であることは理解できていよう?」
「ああ……」
うなずき、認める。
セツナは、自分とレムの関係について、完全に理解できていた。それもこれも、再蘇生に際し、黒き矛から流れ込んできた情報のおかげだった。セツナが死ねば命の同期は断たれ、レムは死ぬが、レムが死んだとしても、セツナが死ぬことはない。
いや、そもそも、レムが死ぬことがないといったほうが、正しい。レムの肉体がどれだけ損壊し、生命活動に支障が生じようと、彼女の肉体はセツナから供給される生命力を用いてすぐさま復元される。
「それこそ主従関係そのものだろう。おまえは主となり、かの娘は使い魔となったのだ」
黒き竜が言いたいことがわかった。まさにその通りかもしれなかった。彼女は、セツナの使い魔としてこの世に生まれ変わったのだ。
「……だったら、神になった気分を問うのは間違いだな。神には使い魔なんて不要だろう」
「そうだな」
黒き竜がおもむろに笑った。巨大な頭部が動くだけで、灰色の世界が激しく揺れた。黒き竜の影響力の大きさを示しているようだった。
「だが、おまえの望みだろう」
「俺の? どうかな」
レムの再蘇生は、カナギとゴーシュの願望が強く影響している。もちろん、セツナ自身も彼女を救いたいと想ったものの、それがすべてではなかった。
黒き竜が頭を振った。
「おまえは力を求めている。より強く、より激しい力を欲している」
「それは、俺自身の問題だ。あんたを使いこなすためには、いまのままじゃだめなんだ」
マリク=マジクが黒き矛を使ったとき、力量の差というものを目の当たりにした。思い知ったのだ。自分がいかに卑小で、脆弱な存在かということが理解できた。並の努力では足りない。いや、努力などでどうにかなるものではないのかもしれない。しかし、マリク以上に黒き矛の力を引き出せるようにならなければならないのだ。でなければ、黒き矛の主たる意味がない。セツナの存在する意味がなくなってしまう。
「だが、それだけでは足りないと考えている。そうだろう?」
「……」
セツナの沈黙を肯定と受け取ったのか、ドラゴンが言葉を続けた。
「おまえはあまりに力を振るいすぎた。我が力を用い、破壊と殺戮を撒き散らし、混沌の世に圧倒的な力の存在を誇示してしまった。おまえに魅入られるものが現れるのも無理はない」
黒き竜の目の中にいくつもの顔が浮かんだ気がした。幻視かもしれない。しかし、セツナは確かに竜の目の中に多くの人の顔を見た。ファリア、ルウファ、ミリュウら《獅子の尾》の面々にレオンガンド、ナーレス、アルガザード、アスタル、エイン、ドルカといったガンディア軍関係者だけにとどまらない。ルシオンの王子夫妻やアバードの獣姫、メレドの王にイシカの弓聖といった直接関わりの少ないひとたちまで、竜の複眼に写り込んでいた。
ひとびとの夢といわれてもいまいちピンとこないが、レオンガンドだけは納得できた。彼自身がいっていたことだ。セツナと黒き矛の存在が、彼の夢を突き動かした。それは間違いない。それだけは、セツナも認めるところだった。
「おまえは、おまえに夢を見たものたちが夢破れ、現実に堕ちるまで見届ける義務があるのだ」
「義務……」
「そしてそれは俺の義務でもある。おまえに力を委ねる俺もまた、おまえとともにすべてを見届ける義務がある。故にひとつ教えてやろう。俺の力は、まだ完全ではない。完全なものになるためには、あとひとつ、破壊しなければならないものがある」
「あとひとつ……それで、本当に最後なんだな?」
まだあるのか、と思わざるをえないものの、あとひとつと明言されれば、気も楽になるというものだ。ランスオブデザイアとウェインとの戦いは熾烈を極め、マスクオブディスペアとクレイグとの戦いは苦しいものでしかなかった。それらが黒き矛の力の一部だというのならば苦戦するのも当然といえるのだが、だからといって嬉しいわけもない。苦戦に興奮するような質ではないのだ。
だが、黒き矛がさらに強化されることが明確化したのは、セツナとしても嬉しいことではあった。もっと強くなれるのだ。だれにも負けないくらいの力を得ることができるかもしれない。そうなれば、ガンディアによる大陸小国家群統一も成し遂げたも同じではないか。
「エッジオブサーストと名付けられているようだ。この世界の何処かでおまえと俺を感じていよう」
力が強大になったからな、と彼は付け足した。ランスオブデザイアやマスクオブディスペアを吸収した影響ということなのだろう。
「そのエッジオブサーストとやらを破壊すれば、あんたの、黒き矛の力は完全なものになる……」
「そうだ」
「そうなったら、どうなる?」
問いかけたものの、答えのひとつはわかりきっている。強くなるということだ。黒き矛が完全なものになれば、最初の召喚時とは比べ物にならないくらいには強くなるのかもしれない。黒き矛はただでさえ強いというのに、だ。
これ以上強くなることに意味があるのだろうか。
もちろん、黒き竜、黒き矛の望みは、力ではない。完全な状態に戻ることを望んでいるのだ。セツナは、矛の使い手として、彼の望みを叶えなければならない。これも義務だろう。彼の力を使っているのだ。
「おまえの願いが叶うかもしれんな」
「願い……」
「もっと強くなれるということだ。しかし」
不意に、竜の声が乱れた。まるで混線したかのような雑音が、耳朶に不快感を与える。
「おまえはこれ以上の力をどうするというのだ――」
竜の声が急速に遠ざかったかと思うと、唐突に目が覚めた。
夢から覚めたばかりだというのに思考は明瞭だった。いや、夢と現実の狭間をさまよっていたから、目覚めが軽いのかもしれない。夢を見るのは眠りが浅い証明だという。夢と現実の狭間は、どうなのだろうか。
「っ」
腹部に痛みがあり、助かったのだという事実を認識した。体は動く。重いのは疲労のせいもあるのだろう。腹部には包帯が巻きつけられている。
つぎに感じるのは、暗闇だ。夜中であるらしい。窓は固く閉ざされているらしく、月や星の光が入ってきてもいない。ガラス窓ではないのかもしれない。どうしてそんなことばかりが気になるのだろう。自分の考えに疑問を抱くが、簡単なことだ。
光が欲しかった。
闇を照らす光がなければならなかったのだ。
「おはようございます、御主人様」
声は、少し離れたところから聞こえた。
「長い眠りでございましたね」
そして、彼女がつけたらしい魔晶灯の光が、闇の中に少女の顔を浮かび上がらせた。
もちろん、レム=マーロウだ。