第七百三十四話 闇を越えて(五)
「まったく、馬鹿なことをしたもんだ」
シーラ・レーウェ=アバードがあきれたのは、ジベルが起こした事件についてだ。
ジベルが事件を起こしたのは、魔王との戦いに決着がつき、クルセルク戦争も終結に向かうかと思われた矢先だった。事件も事件、大事件だ。連合軍の盟主国であるガンディアの領伯であり、親衛隊長セツナ・ラーズ=エンジュールを連れ去ったのだ。それも、レオンガンド王や《獅子の尾》の隊士たちが揃っている場所でだ。
連合軍の勝利に貢献し、高まりつつあったジベルの評価は、一瞬にして地に落ちた。ジベル軍の指揮官であり、連合軍首脳陣に名を連ねるハーマイン=セクトル将軍は、連合軍首脳陣の追求に対して釈明に追われた。
いわく、将軍命令ではなく、死神部隊の独自行動であり、ジベルとは無関係。
いわく、死神部隊は、国王直属の暗躍機関であるが、隊長のクレイグ・ゼム=ミドナスの独断で動かすこともできる。
いわく、領伯誘拐は故にジベル国王アルジュ・レイ=ジベルの考えではない。そもそも、セツナ伯をさらうことに利点がない――。
「あんな話、信じられるかよ」
「まあ、信じられませんな」
シーラの意見に同調したのは、イシカの弓聖ことサラン=キルクレイドだ。クルセルク戦争ではガンディアから借りだしたという剛弓を見事に使いこなし、数多の皇魔を討った老将は、アバード軍に同行したこともあって、いまではシーラの良き話し相手となっていた。サランにしてみれば、孫娘と話している気分なのかもしれない。
連合軍の手に落ちたゼノキス要塞は、いま、セツナ伯誘拐事件の話題で持ちきりだった。それも当然の話だ。セツナ伯は、ガンディア躍進の象徴であり、黒き矛、竜殺しの二つ名はあまりに有名であり、ガンディアの近隣でその名を知らぬものはいないほどの人物なのだ。この度の戦争でも、だれにも真似のできない戦果を上げている。
連合軍が緒戦を見事な勝利で飾れたのも、彼の活躍によるところが大きい。彼の戦功ばかりは、シーラも息を呑むほかなかった。
この戦争の論功行賞が行われれば、連合軍全軍を合わせても第一位は彼になるだろう。彼だけ、皇魔を撃破した数が五桁に及ぶのではないかといわれるほどだった。化け物じみているし、それが事実だった場合、ガンディアに戦争をふっかけるようなものは現れなくなるだろう。アザークもおとなしくなるはずだ。
そんな人物を、連合軍の主要国の軍関係者がどこかへ連れ去ってしまったのだ。話題にならないはずはないし、ジベルを避難する声が高まるのは、必然だった。可哀想なのはジベル兵だ。上層部の愚かな行動の結果、肩身の狭い思いをしなければならないのだ。
「とはいえ、セツナ伯を誘拐することになんの利益もないという彼の発言は、本音でしょう。いま、そんな大それた行動にでたところで、痛い目に遭うのはだれの目にも明らか。ハーマイン将軍ほどの人がそれをわからなはずがない」
「そりゃあな……。大事な時期だ。連合軍参加国がそんな愚行を見過ごすわけがねえ。ジベルが袋叩きに合うだけだ」
そして、そうなれば、ジベルは凋落の一途をたどるしかない。連合軍は、ジベルの周辺諸国で成り立っている。ガンディア、アバード、ベレル……。そういった国々が一斉に敵に回るのだ。ガンディアは、黒き矛のセツナが不在であっても強大な軍事力を持っている。ルシオンなどの同盟国もある。それらの戦力を投入すれば、ジベルを攻め滅ぼすことなど難しくはあるまい。
ガンディアは、セツナに依って強くなった国だ。もし、セツナを失ったとあれば、その報復にジベルを滅ぼすくらいやってのけないはずがなかった。
「あの将軍なら、そんな馬鹿なことをするはずがないのはわかっているさ。けど、現実にセツナは攫われたんだ。ジベルの死神にな」
レム・ワウ=マーロウと名乗る女だ。少女染みた外見と使用人のような衣装が特徴的な人物は、一度会えば忘れようがない。ジベルがセツナの身辺警護に差し出したという話だったが、要するにセツナを監視するためのものだったのだ。
つまり、今回の事件は最初から仕組まれていたことだ。しかも、ジベルが行動を起こしたのはクルセルク戦争が本格化する以前のことであり、周到に準備されていたのではないかと思われる。
ジベルがセツナをどこかへ連れ去ってしまったという事実は、覆しようがない。ガンディアの国王レオンガンドが目の当たりにしているし、ほかにも目撃した人物は多い。ハーマイン将軍は頭を抱えているだろう。ジベルの立場は、その事件によって極端に弱くなった。戦後の領地分割における発言力も低下したといえる。ハーマイン自身、ジベルの潔白を示すため、ハスカの占有権の主張を取りやめると言い出しているようだ。ジベルは、ハスカの遺臣団の願いを聞き入れ、旧ハスカ領に死神部隊を差し向けている。死神部隊が都市のひとつでも解放していれば、戦後、ハスカの旧領はジベルのものとなったはずだった。それが台無しになったのだ。ハーマインの怒りたるや想像に難くない。
「いずれにせよ、ジベルがなんのためにセツナ伯を攫ったのか、それが問題ですな」
「セツナを殺すためか。ガンディアの弱体化を図るためか。ガンディアと交渉するためか――なんにしても、ジベルは最悪の方法を取ったってことに違いはねえさ」
シーラは、嘆息とともにジベルの国民や兵のために、ジベルの指導者の愚かさを嘆いた。現状、ガンディアと敵対するような行動を取ることになんの旨味もない。ガンディアを倒し、その領土のすべてを手に入れることができるという算段があるのならば話は別だが、セツナひとりを失ったところで、勝算が生まれるはずがないのだ。むしろ、ジベルが負ける要因しか見えない。
ジベルの行動は、まったく理に適っていなかった。
「で、そのセツナが攫われたのがここか」
シーラたちは、ゼノキス要塞天守一階の広間に辿り着いた。話しながら歩いていたのだ。夜中。哨戒任務中の兵士以外、天守周辺を歩きまわっているような輩はいない。多少、大きな声で話していたとしても、なんの問題もなかった。そもそも、セツナの消失事件は秘事ではない。
天守一階の広間。魔晶灯の光に照らされた室内は広く、人一人いないため、どこか閑散としている。中心の床が大きくせり上がっており、その頂点に魔王の玉座があったということだ。話によれば、レオンガンドたちと対峙していた魔王が突如として作り上げたものであり、元々はなかったものだという。天井まで届くほどとはいえないにしても、かなりの高さがあった、魔王が君臨するには相応しい高さかもしれない、などと思いながら、シーラは玉座まで上り詰めた。
玉座は既に撤去されているものの、室内を見渡すにはちょうどいい場所だったこともあり、彼女は気に入った。
「影も形も見当たりませんな」
「そりゃそうだろ」
シーラは、室内を睥睨するサランの口ぶりに笑うしかなかった。そんな簡単に見つかるのなら、だれも苦労はしない。セツナ捜索部隊も、いまやゼノキス要塞の外に出ていた。内部は調べ尽くしたということらしい。
「影の中に消えたということだ。自力で戻ってこれるのかどうかも怪しいもんだ」
「召喚武装の能力のようで」
「死神の女も召喚武装の使い手ではあったからな」
レムの召喚武装は、あの黒獅子の仮面だ。その仮面の能力によって、彼女は“死神”を具現させ、大きな鎌を生み出していたのだ。広間に現れたとき、彼女は仮面をつけていなかったという話だが、なにも能力を行使するのに仮面を被っておく必要はないはずだ。身につけてさえいればいいのだ。体が触れてさえいれば、召喚武装の能力は使用できる。
ハートオブビーストも同じだ。足の指で掴んだとしても、能力を発揮することはできる。しかし、斧槍の使い方としては実用的ではないし、まともに戦えるはずもないため、手で握るのだ。大抵の召喚武装はそのように通常兵器と同様の扱い方をされる、しかし、装身具ならば話は別だ。指輪の召喚武装ならどの指にはめても問題はないし、足の指でも構わない。外套なら体に巻き付けるだけでもいい。それで全能力を解放できるかは別問題だ。
ともかく、レムは仮面の能力を用いて、セツナを影の中に連れて行ったということだ。
「いやはや、召喚武装というものはおそろしい。わたしが現役の頃にはなかったのですが」
「じいさんはいまも現役だろ」
「そろそろ後任を見つけて、引退したいものなのですがな」
「じいさんが引退したらイシカは人材がいなくなるな」
「そんなことはありませんぞ。刀匠イゼルラインがおります」
サランが強くいった。確かにイゼルラインならば、弓聖の後任に相応しいだろう。
「隠棲してるって話じゃねえか」
イゼルライン=オークレットは、イシカの歴史に名を刻むほどの人物だといわれている。隣国のアバードにも聞こえるほどの名だ。凄まじい剣の腕を誇り、マルディアの侵攻部隊をたったひとりで退けた百人斬りの逸話は、アバードでも知らぬものがいないほどだった。しかし、イゼルラインは、百人斬りを機に軍を辞めた。理由は伝わっていないが、本来の仕事である刀鍛冶を極めるためだともっぱらの噂だった。
「だから困っておるんです」
サランが心底困ったような顔をするので、シーラは気の毒になった。イシカも色々悩みを抱えているようだ。アバードも問題がないわけではないが、いまのところ順調に推移している。この戦いが終わり、クルセルク領土の一部を貰い受けることができれば、シーラの立場も安定する。そうなれば、アバードは盤石だ。幼い王位継承者とそれを補佐する王女。シーラの頭の中には、そのような絵があった。だから戦功を少しでも稼ごうとした。戦後、アバードに少しでも多くの領土を割いてもらうためだ。
でなければ、この戦いに参加した意味がない。
不意に物音がした。なにかが地面に落下したような音だった。
「姫さま!」
侍女の悲鳴じみた叫び声に、即座に視線を向ける。
「セツナ!?」
シーラも悲鳴を上げたのは、予期せぬ出来事だったからに他ならない。
広間の出入り口付近に、セツナとレムが倒れていた。
どうやって現れたのかなど、いまは考えている場合ではなかった。シーラたちはセツナの元に急行すると、彼が瀕死の状態であると判断、即座に軍医の元に運んだ。ゼノキス要塞の一角が、簡易的に病院の役割を果たしていた。
セツナは、マリア=スコールの手腕もあって、一命を取り留めた。
しかし、彼が目覚めるまで数日あまりの時間を要することになった。