第七百三十三話 闇を越えて(四)
『行ってあげて』
不意に、死んだはずのカナギの声が、聞こえた。
もちろん。振り向いた先にカナギの無事な姿などあるはずもない。あるのは、闇の中に横たわる彼女の亡骸だけだ。物言わぬ亡骸だけなのだ。だが、声は聞こえた。感傷が生み出した幻聴などではないことはわかっている。冷静ではないにせよ、思考は明瞭だ。
『レムちんのこと、頼んだぜ』
今度は、ゴーシュの声だった。彼の亡骸も動いてはいなかった。クレイグの“死神”たちに殺されたときのまま、微動だにしない。
セツナが疑問に感じていると、黒き矛を握る手に伝わるものがあった。黒き矛の力が流れ込んでくる。いや、力というよりは意思に近い。黒き矛が、力の使い方を教授してくれようというのだ。新たな力。闇黒の仮面を吸収したことで得た能力だ。だが、マスクオブディスペアのそれと極めて近く、限りなく違う能力だった。
理解すれば、いま起きている現象がただの幻想ではないということがはっきりとする。声が聞こえるのは、この空間のせいだ。なにもかもを閉じ込めてしまう暗黒空間。死者の魂すら引き止めてしまっているのだ。この空間を破壊しなければ、彼らの魂はここに留まり続けるだろう。闇の中をさまよい続け、苦しみ続けるのだ。
だから、だろう。
セツナは、ふたりの声に尋ねた。
「あんたたちは、いいのか?」
『俺はいいよ。兄貴がいない世界に用はないのさ。兄貴だけが俺の理解者だったからなあ』
『わたしも、いいわ。もう疲れたのよ。レムを見守るのは、あなたに任せます。勝手だけど』
ふたりは、問いかけの意味を理解していた。
「そうか……」
セツナは、それ以上なにもいえなかった。
この能力が使えるのは、一度だけだ。黒き矛の能力というよりは、闇黒の仮面の置き土産なのだ。この暗黒空間そのものを利用しなければ実現不可能だった。そして、この暗黒空間は、クレイグが六人の死神の力を利用して、ようやく作り上げることができた小さな異世界だ。黒き矛とセツナの力では、作ることはできない。
つまり、いましかないということだ。
一度しかできないということだ。
そして能力は既に発動していた。魂の選別が始まっているのだ。選別するのは、黒き矛ではなく、セツナだった。セツナに神に等しい力が与えられたのだ。しかし、万能感が心を満たすようなことはなかった。
彼は、虚しさの中にいた。
『でも、レムには生きていて欲しいのよ。我儘ね』
『カナっちはレムちーが好きすぎるんだよ。微笑ましいけどさ』
ふたりの声は、仮初の生という苦しみから開放されて、どこか活き活きとしていた。死んだはずなのに、だ。それが少しばかりおかしくて、少しばかり悲しくて、セツナはどういう顔をすればいいのかわからなかった。
ゴーシュとカナギ、レム以外の死神たちの声は聞こえなかった。気配もない。おそらく、クレイグの“死神”に食らいつかれていたのが原因だ。クレイグは、彼らを殺したあと、その死体から死神の能力と“死神”を取り戻したのだ。その際、魂までも食いつくされたのだとしても、不思議ではない。闇黒の仮面は、絶望した死者の魂を力とするのだ。
だから、もう生き返ることもできないし、魂だけの存在となって囁くこともできない。
クレイグも、蘇生できない。闇黒の仮面に魂までも蝕まれた男の末路には相応しいだろう。仮初の生を与えて、アルジュの生を取り繕うということもできなくなったが、いまさらどうでもいいことだ。クレイグは死に、アルジュも死んだ。殺したのはセツナだ。それでいい。罰を受ける必要があるのならば、受ければいいだけのことだ。
そして、レム。
黒き矛の光によって闇の中に浮かび上がった少女の魂は、ぼんやりと発光する存在となって、亡骸の上で膝を抱えている。彼女には、なにも見えないのかもしれない。なにも聞こえないのかもしれない。カナギの声も、ゴーシュの声も聞こえていないようなのだ。
いや、ふたりの声がセツナにしか届かないだけかもしれないが。
セツナは、足を引きずりながらも彼女の元へ急いだ。
「レム」
彼が声をかけると、少女の姿をした魂が反応した。膝に埋めていた顔を上げて、こちらを見たのだ。少女の顔は、レムの顔そのものだ。その表情が悲しみに暮れているのは、孤独だったからだろう。死は、すべてのものを孤独にする。
セツナは、淡く光を放つ少女の霊体に右手を差し出した。少女が、恐る恐る手を伸ばしてくる。手が触れ合った。実感とともに、黒き矛が再び光を放つ。魂の選定が完了し、肉体への再拘束が始まる。少女の霊体が、亡骸に取り込まれ、亡骸の傷口が嘘のように消えて失せる。流した血はそのままに傷口だけが塞がり、肌の色も急速に良くなっていく。まったく動かなくなっていたはずの体が、わずかに痙攣したかと思うと、活動を再開する。
闇黒の仮面による蘇生がそうであったように、なにもかも一瞬だった。一瞬のうちに、死はなかったことにされ、生が欺瞞された。
仮初の命。
彼女の時間は止まったままだ。十年前から変わらなかったように、これからも、少女の姿のままだということだ。それは彼女にとって喜ばしくないことだろう。そして、この世にとっても受け入れがたい事象なのかもしれない。
『ありがとう』
『頼んだぜ』
ふたりの声に、セツナは強くうなずいた。うなずきながら、これで良かったのかとも思った。たった一度だけとはいえ、死者を蘇らせるとは、なんとも都合の良い能力だ。なんとも都合よく、なんとも途方も無い力だった。これが黒き矛の力なのだとすれば、とんでもないものを平然と振り回しているということになる。
黒き矛の凄まじさは理解していたつもりだったが、どうやら、理解していたつもりになっていただけのようだった。
「ごほっ」
レムがむせ、血を吐き出した。喉に詰まっていたのだろう。血が凝固していなくてよかった。固まっていたら、窒息死していたかもしれない。
(そんなことはありえないか)
セツナは、レムの体が動き出すのを見守りながら、彼女と自分の身に起きた異変に眩暈を覚えそうになった。
レムの命は、セツナから供給されるものとなったのだ。生命の同期によって、レムは、セツナが死ぬまでは生き続けなければならなくなった。永久に近く生きなければならないわけではない。セツナが力尽きるまでだ。それまでの命。だが、それまでは死ねない。どのようなことがあったとしても、死なないのだ。
魂の隷属。
命の契約。
レムが、目を開いた。長い眠りから覚めたかのような緩慢な動作で、目をぱちくりとさせた。それから、こちらを見上げる。目があった。闇色の瞳。そこに絶望はない。ただ、哀しみがある。深い哀しみは、ちょっとやそっとでは癒やしきれないものだ。
彼女は、口を開いた。
「あたし……生きてる」
「ああ、生きてる」
静かに反芻し、手を差し出す。彼女は、セツナの手を掴んで、ゆっくりと上体を起こした。身体機能は瞬時に回復したはずだった。節々が痛むようなこともないだろう。
「死んだはずなのにな」
彼女は、その場に座り込むと、ぼんやりとつぶやいた。クレイグのときのように、死んだ記憶も消えていないということのようだ。尋ねる。
「覚えているのか」
「うん。覚えてる。それだけじゃない。全部思い出したわ。あたしがどうやって死んで、なんで死神になったのかも、全部」
「そうか」
セツナは、深くは聞かなかった。ほとんどのことを知ってしまったからだ。彼女にかぎらず、死神部隊の死神たちの素性も、その死の原因も、死神となった経緯も知ってしまった。救いの手を差し伸べたのは、そういうこともあるのかもしれない。だれもが救われない人生を歩んでいた。レムだけが特別酷いというわけではなかったのだ。
それでも、カナギにとってはレムが最悪だったということだ。
レムが死んだのは十三歳のころだ。それから十年近く、死神として生きてきていた。もしかすると、カナギがレムを憐れんだのは、彼女の人生が十三歳で一度終わったことに起因しているのかもしれない。確かに、ほかの死神たちはもっと年を取っていた。十代だったのはレムだけであり、彼女だけが子供のまま、十年を過ごした。
「カナギたちは……?」
「カナギとゴーシュは嫌だってさ。ほかの連中は、魂さえ残っていなかったよ」
「あたしだけ……」
彼女は、茫然とした。
「死んでいても良かったのにな」
「好きにすればいいさ」
セツナは、突き放すようにいった。元より彼女の人生は彼女のものだ。セツナが口を出す権利はない。しかも、三度目の人生。二度も、自分の意志とは無関係に蘇らされている。
「それがどのような決断であれ、レム自身の決めたことなら、それでいい。大事なのは自分で決めることだ」
クレイグに騙し討ち的に殺されたのとは、わけが違う。
「死ねるの?」
彼女がおかしそうに笑った。どうやら、契約の内容も理解しているようだ。そこがクレイグのときとは違う。黒き矛の配慮なのかもしれない。だとすれば、セツナは矛を許せるだろう。
「あたし、あなたが死ぬまで生きなきゃだめなんでしょ?」
「明日には死ぬかもしれないぜ」
セツナは、腹の傷を示して、笑った。レムがあきれたような顔をする。
「それじゃあなんのためによみがえらせたのよ?」
彼女の言うとおりだ。よみがえった直後に死ぬなど、笑い話にもならない。もちろん、セツナに死ぬつもりはない。そのためにも早くこの暗黒空間を破壊して、元の世界に戻るのだ。手当を受けなければならない。マリアなら、この程度の傷、簡単に縫合してくれるだろう。彼女の手腕には安心感がある。だが、そうだとしても、残された時間は少ない。
「カナギとゴーシュがさ」
ふたりの名を出すと、レムが表情を一変させた。
「ふたりがどうしたの?」
「レムを頼むって」
「あたしを……? どうして?」
「さあ、そこまでは……な」
想像はできる。カナギもゴーシュも、レムを実の妹以上に愛していたということだ。もちろん、それは想像の範疇を出るものではない。しかし、カナギを始めとする死神たちにとってのレムが妹のような存在だったのは、疑いようのない事実だ。闇黒の仮面とクレイグの記憶を垣間見たセツナには、それが実感として理解できる。
彼女だけは生きて、幸せになってほしい。
たとえ仮初の命であったとしても、生き続けて欲しい。
セツナは、ふたりの願いを叶えた。消えゆくものたちにしてあげられることなど、ほかにはなかったのだ。
「……そっか」
「で、どうするんだ?」
「……そうね」
彼女は立ち上がって、ゆっくりと周囲を見回した。カナギやゴーシュ、死神たちの死体が転がっているのだが、この闇の中でははっきりとはわからないだろう。
「もう一度、生きてみようかな……カナギとゴーシュがそれを望むのなら。ふたりがあたしに生きろというのなら」
彼女は、胸の前で手を組んで、祈るような所作をした。ふたりの、死神たちの冥福を祈ったのかもしれないし、もっと別のことかもしれない。それから、レムが顔を上げて、こちらを見てくる。暗闇の中でもその表情ははっきりと見えた。どこかさっぱりしたような少女の顔は、いままで見てきたレムのどの表情よりも魅力的に映った。
「そういうことですので、最期までよろしくお願いしますね」
彼女は大袈裟な所作でお辞儀をすると、呆気にとられたセツナの手を取った。
「御主人様」
彼女が手の甲にくちづけたとき、黒き矛の笑い声が聞こえた気がした。
闇が震えた。
レムの再蘇生に力を使い尽くした暗黒空間が、崩壊を始めたのだ。