第七百三十一話 闇を越えて(二)
「やらせないに決っているでしょう?」
“死神”の剣を受け止めたのは、虎面の死神だった。彼女の投げ放ったふたつの戦輪が“死神”の剣をそらし、首を刎ねたのだ。“死神”の姿は一瞬にして崩れ去り、セツナは事なきを得た。
「助かった」
「まだですよ。クレイグ隊長を倒さないかぎり、“死神”は何度でも現れます」
虎面の死神は、クレイグを完全に敵として認識していた。鷹面も同じだ。敵意を闇黒の仮面の男に注いでいる。
「わかってる」
「本当にわかっているのか? わたしを殺せば、闇黒の仮面が力を失えば、彼らは死神の能力を失うばかりでなく、仮初の生をも失うことになる」
クレイグの言葉は、セツナに対する精神攻撃だった。セツナに迷わせ、その隙を突こうとでもいうのだろう。だが、あいにく、セツナには、もう迷っているだけの余裕はなかったし、ふたりの生死を考慮するつもりもなかった。
死神が、鷹の仮面を外して、叫んだ。
「だったらなんなんすか。あんたはレムだけじゃなく、兄貴もトーラもリュフも、殺したんだ! 俺達だって使い捨てにするつもりなんだろ」
「そうだ。おまえたちはもはや用済みなのだよ。セツナが瀕死となったいま、手駒は不要となった。思えば、壱号が一番役に立ってくれたのかもしれないな。セツナの弱点として機能してくれたのだから」
クレイグが嘲笑しながら動いた。死神の男に飛びかかる。男の“死神”がクレイグの軌道を塞いだが、その横から現れた“死神”が双剣を振り回して男の“死神”を切り刻んだ。“死神”の残骸の中を突っ切って、クレイグが、男に殺到する。手には一振りの剣。レムや死神たちの血を吸った剣だった。
「まずはおまえだ。ゴーシュ=メーベル」
「なめんな、クレイグ!」
ゴーシュと呼ばれた男は、全体重を乗せた斬撃を槍の切っ先で受け止めると、攻撃の勢いを利用してクレイグを左に移動させた。その先には、女と“死神”が得物を構えている。合計四つの戦輪。
「そうよ、敵はひとりじゃないわ」
「ああ、知っている。油断するほど余裕はないのだ。わたしにもな」
クレイグは、女の投げた戦輪を新たに生み出した“死神”で受け止めると、“死神”の戦輪も別の“死神”の体で受け止めてみせた。唖然とする女の体が、さらに別の“死神”によって切り裂かれ、蹴り飛ばされた。ゴーシュの“死神”を切り刻んだ“死神”だ。
「おおおおおっ!」
「情は不要だといったはずだ」
雄叫びを上げながらクレイグに肉薄したゴーシュだったが、その槍の切っ先がクレイグを捉えることはなかった。三体の“死神”が、ゴーシュの肉体をずたずたに切り裂き、絶命させた。闇の世界に満ちる血のにおいは、セツナの感情を激しく揺さぶった。揺さぶられながらも、彼と黒き矛は、自分たちの成すべきことを成し遂げている。
闇を貫く光芒が、クレイグの背を突き破っていた。
「光……?」
クレイグは、己の世界を破壊する一条の光を見たのだろう。愕然とつぶやき、血を吐きながらその場にくずおれた。黒き矛から放たれた光が、彼の体に大穴を開けていた。助かりはしない。即死してもおかしくはなかった。むしろ、息があるのは奇跡的だった。
セツナは、黒き矛を掲げたまま、空気を求めて喘いでいた。腹に受けた傷が思いの外酷いようだ。出血だけで死ぬかもしれない。全身から力が抜けていくのを感じていた。力の流出。命の喪失。この暗黒空間で人生が終わるのだろうか。
「まだ……まだだ。まだ、終わらぬ」
クレイグは、死んでいなかった。常人ならば、衝撃だけで死んでいるような状態であるにも関わらず、彼は、立ち上がる素振りを見せていた。
セツナは、止めを刺すべきだと判断した。まともに動かない体を引きずるように前進する。そして、吐き出すのは怒りの言葉だ。怒りをぶつけるべき相手は、クレイグだけではない。
「終わりだ、なにもかも。あんたの野心も、あんたの夢も、この馬鹿げた茶番も、黒き矛のお遊びも」
「終わってなど、なるものか……!」
血反吐を吐きながら、大量の血液で黒衣を赤黒く染め上げながら、彼は立ち上がった。闇黒の仮面が不気味な光を発している。黒き矛が震えた。許してはならないといっている。いますぐ破壊しろ、ともいっている。仮面を破壊し、契約者も殺せ、といっているのだ。
ウェイン・ベルセイン=テウロスのときと同じだ。
セツナは、歯噛みした。黒き矛へのぶつけようのない感情を辛くも抑えこむ。
「絶望こそが我が力の根源。望みを絶たれようとしているいまこそ、真価を発揮する――をおおおおおおおおお……!」
変容が始まった。闇黒の仮面が、質量を無視するかのように膨張し、仮面と同じ闇黒でクレイグの全身を包み込んでいく。ランスオブデザイアに支配されるウェインと同じだ。まるで同じだった。だから、セツナは、矛を手元で回して自分の足を裂いた。血が、空間を歪める。
「絶望がどうしたってんだ」
一瞬後、セツナは変容を遂げようとしていたクレイグの背後に現れ、躊躇なく彼の首を刎ねていた。首は、闇黒の仮面に覆われていたが、弾かれることはなかった。闇黒の仮面がどれだけ強固な物質でできていたとしても、黒き矛が通用しないわけがないのだ。
暗黒物質に覆われかけていたクレイグの体が地に落ち、首も、暗黒空間に転がった。頭部は、暗黒物質に完全に覆い尽くされていた。異形化した闇色の頭部には、無数の目があった。黒き竜を想起させるのは、マスクオブディスペアもまた、黒き矛の力の一部だからなのかもしれない。
「くっ」
セツナは、矛の切っ先を足元の地面に叩きつけた。この気分の悪さは一体なんなのか。黒き矛を手にし、その力を振るうことの代償というのなら、甘んじて受け入れるほかはない。だとしても、黒き矛への不信感や怒りは当分、収まることはないだろう。
(信頼し始めた途端にこれだ)
矛は、セツナを半身と呼んだ。
セツナも、矛を半身と認めようとした。
だが、矛の導く運命は、到底受け入れられるものではない。
黒き矛が激しく震えた。闇黒の仮面を破壊し、力を取り込めというのだろう。セツナは、カオスブリンガーの禍々しい姿を睨みつけると、クレイグの頭部に歩み寄った。切り裂いた足が悲鳴を上げているが、黙殺する。いまは痛がっている場合ではない。
幸い、クレイグの頭はすぐ近くに転がっていた。マスクオブディスペアに支配され尽くした頭部は、もはや人間のものには見えなくなっていた。皇魔といっても通るような異形。しかし、その暗黒物質の下には、クレイグの素顔があるはずだ。仮面を破壊すれば、拝むこともできるだろうが、興味はなかった。
セツナは、クレイグの側頭部に矛の石突を叩きつけた。もはや力を失っていたからなのか、暗黒物質は簡単に砕け散り、仮面の部分だけが綺麗に剥がれ落ちた。そして、愕然とする。
「どういうことだよ……」
仮面の下から現れたクレイグ・ゼム=ミドナスの素顔は、アルジュ・レイ=ジベルそのひとのものだったのだ。レオンガンドの婚儀に出席したジベル王の顔は、忘れるはずもない。たった二月前のことなのだ。アルジュの兄か弟という可能性もないではないが、とてもそうは思えなかった。冴えない顔つきから、なにからなにまでアルジュそのものなのだ。別人の線は薄い。
(俺は、ジベルの王を殺したということか?)
だとすれば、とんでもないことをしでかしたということになる。外交問題に発展するのは言うまでもなく、ガンディアの立場そのものがまずくなるのではないか。セツナが考えるのは、自分ではなく、他人のことだ。
自分に関わる人たちのことばかりが脳裏を過ぎった。