第七百三十話 闇を越えて(一)
「レム!」
虎面の死神が、地に倒れてわずかに痙攣する少女に飛ぶような速さで駆け寄った。しかし、彼女が近づいたときには、レムの顔からは生気が失われていた。レムは、胸を貫かれている。容赦もなにもあったものではない。
仲間に、部下に対する仕打ちではなかった。
いくら部下といえど、いくらセツナを殺すためとはいえ、やりすぎではないのか。指揮官は末端の兵の命など考慮しないものだが、だからといって、ここまで簡単にその生命を犠牲にすることができるものなのだろうか。
怒りが湧いた。
レムへの情が、怒りを助長するのだ。
レムがただの敵ならば、そういった感情は黙殺することができただろう。しかし、レムは、彼女は、ただの敵対者ではない。二ヶ月近く、ずっと側にいたのだ。常に警戒していたとはいえ、寝る間も惜しんで気を張り詰めていたとはいえ、だ。レム個人とジベルの思惑は別物であり、彼女自身に対する好意は日々高まっていっていた。だから、敵対を無念に想ったし、できれば殺したくはないと考えていた。
それが深手を負う原因となってしまったのなら、仕方のないことだ。
セツナは、腹の傷を手で探りながら、顔を上げた。傷は深い。致命傷とは言い切れないものの、この状況ではまともに戦うことはできないだろう。それでも戦うしかない。
「レム……どうして……」
死神が、虎面を外して、もはや動かなくなったレムの体を抱えていた。死神の女の痛ましい表情は、彼女のレムに対する想いを表している。体が震えていた。震える体で、レムの小さな亡骸を抱きしめていた。
「隊長、いくらなんでもこれはやりすぎだ」
口の軽い男の声音には、小さな怒りがあった。両刃の槍の切っ先がクレイグに向けられる。
「わかってるさ。俺たちゃあんたの駒だってことくらい。でもな、それでも、こりゃあねえだろ!」
「情は捨てよ。そう教えたな? 何度も、何度もだ。死神部隊の間でも同じことだといったはずだ。情など、死神には無用のものだ」
「それとこれとは別の話だろ! 同じだとでも言うのか」
「同じことだ。おまえも、レムと同じなのだ」
クレイグの視線が鷹面の死神に注がれる。鷹面は、クレイグの意図に気づいてその場から飛び離れるが、“死神”の斬撃を避けきることはできなかったようだった。鷹面は、苦悶の声を吐くと、“死神”をクレイグに殺到させた。が、これには狼面の死神が対応する。長棍の凄まじい突きが“死神”の頭を貫き、消滅させた。
「兄貴! 邪魔を……!」
「隊長命令は絶対」
「まだそんなことを……あいつは、俺たちの命なんてなんとも思っていないんだぜ」
「だが、隊長が拾ってくれたから、我々は今日まで生きてこられた」
「そうそう。いまさらじゃん」
鬼面の死神と、蛇面の死神が狼面の死神と並び立つ。三人の死神と三体の“死神”が、彼の行く手を阻んだのだ。鷹面が破壊した“死神”が、直後に再構築されている。“死神”を破壊してもほとんど意味がないということらしい。死神を倒さなければいくらでも出現するのだろう。
「トーラ……リュフ!」
狼面の死神が、荒い息を吐きながら、槍を構えた。片手で構えたところを見ると、左腕が使い物にならなくなったようだ。クレイグの“死神”に斬られでもしたのだろう。
「命をゴミのように捨てられてもいいっていうのかよ」
「ゴミのよう、とは失礼だな。彼女の命は役に立ったぞ。黒き矛を追い詰めることができた。おまえさえ、わたしに逆らわなければ、もう終わっていたというのに」
「レムは、こっちに戻ってきたんだ。それなのに、殺す必要なんてなかっただろ」
「生かす理由もない」
クレイグが、冷然と告げる。
「元より、死んでいる身だ」
「……確かに俺達は死神だがな……!」
「そういうことではない」
狼面の怒声を一蹴すると、クレイグは、自分を護る死神たちに歩み寄った。そして、いつの間にか手にしていた両手の剣で、死神たちを斬りつけていった。背後からだ。死神たちが反応できなかったのは当然だったし、予測のしようもなかった。
ただの裏切り行為だ。
「おまえも、おまえも、おまえも――」
死神たちが崩れ落ちると、三体の“死神”が消滅した。一瞬で絶命したとは思えないものの、“死神”を維持することはできなくなったようだ。瀕死の重傷。この暗黒空間では、死を意味する。助けなど来ない。
「レムと同じく、とっくの昔に死んでいるのだよ」
「なにを……!?」
「疑問に思わなかったか? なぜ自分たちの姿形があのときのままなのか。成長や老化が起きないのはなぜか。ゴーシュ、特におまえは、ハスカの地で致命傷を受けたはずではなかったか? 覚えているはずだ。死ぬほどの傷を受けただろう。皇魔に殺されかけただろう」
「……!」
ゴーシュが、はっとする。
「簡単な話だ。おまえたちの肉体はとっくの昔に死んでいて、この闇黒の仮面の力で仮初の命を与え、繋ぎ止めていたに過ぎないからだ。どれだけ肉体を破壊されても、死なず、再生する。それがおまえたちの本質。死神の真実」
クレイグの言葉が、狼面の死神とレムを抱えていた死神に衝撃を与えたのは疑うまでもない。
セツナですら愕然とした。あまりに衝撃的過ぎる内容だったし、信じられない話だった。だが、召喚武装ならば、死者を生き返らせることも不可能ではないのかもしれない。もちろん、なにかしらの制約はあるのだろうし、無制限に使えるものでもあるまい。無制限に死者を蘇らせることができるのならば、ジベル軍は不滅の軍勢を得ることができる。それができていないということは、闇黒の仮面の能力は万能ではない。
それがわかったところで、なにができるわけでもないのだが。
セツナは矛を握る手に力を込めながら、クレイグを睨んでいた。クレイグは、三人の死神の亡骸を見下ろしている。さすがになにか感じるものがあるのかと思ったが、そうでもなさそうだった。クレイグの“死神”が、三人の亡骸に触れ、食らいつくのがわかった。
「だから、レムは十年前から変わらなかったのね……かわいいままなのはいいけれど、可哀想だったわ。あの子、胸の大きな女性に憧れていたし」
「そういえば、レムっちって、巨乳の女に対して辛辣だったっけな」
突然世間話を始めたふたりに、セツナは唖然とした。虎面の死神は、慈しみに満ちた目で、レムの亡骸を見つめていた。彼女にとっては仲間というよりは、家族のようなものだったのかもしれない。それほどの親しさが込められている。
「ええ。羨ましかったのよ。自分は子供のような体型だから」
「なるほどなあ。胸のことでからかわなくてよかったぜ」
鷹面の男が、槍を構え直しながらいった。彼の“死神”は、以前健在だ。死神たちの能力は、クレイグの支配下にあるわけではないということがわかる。その意思も、自立したもののようだ。
「セツナ伯様。ありがとうございました」
「え?」
セツナは、突然なにをいいだすのかと思った。
「レムは、この子は、あなたのことを話すとき、とても楽しそうでしたよ。きっと、あなたとの日々が充実していたのでしょうね。この子が、あんなに楽しそうにしているのが見られたのは、初めてていってもいいくらいでした」
「そうそう。どうしたのかってくらい、あんたのことを面白そうに話してたよ。きっと、あんたと波長が合ったんだろうさ」
「最後に、あなたと逢えたのは幸福だったはず。できるなら、この子には普通の人生を歩んで欲しかったけれど」
「普通の人生が歩めないから、死神になったんだけど」
「ええ。そうね。そして、死神に選定されたとき、わたしたちは命を落としていた」
「記憶の中じゃ、生き延びていたんだけどなあ」
「人間の記憶ほどあてにならないものはあるまい? 改ざんしたのだろう。自分を護るために。死んだという事実ほど恐ろしい物はないからな」
クレイグは、平然と会話に参加しながら、剣を構えて見せた。
「おまえたちはもう用済みだ。死神部隊には、セツナ伯殺害の責任を負って貰わねばな」
彼が死神たちを殺したのは、そういう理由なのかもしれない。セツナと相打ちになったとでも言うつもりなのだ。
「それで全部が帳消しになるとでも?」
「ジベルは孤立しますよ」
「孤立しようと、黒き矛の力さえ手に入ればどうとでもなる。わたしがアルジュ様の守護者となり、ジベルの矛となるのだからな」
「勝手なことばかりいいやがって……」
セツナは、痛みを堪えて立ち上がった。腹部の傷は、浅いものではない。むやみに動くことはできない。かといって、クレイグの行動を見守っている場合でもない。そんなことをしていれば殺されるだけだ。なんとしてもクレイグを倒し、この暗黒空間から抜け出すしかない。
でなければ、セツナは死ぬ。
「そういうことは、俺を殺してからにするべきだぜ」
カオスブリンガーが震えている。怒りだ。黒き矛の意思が憤怒を燃え上がらせているのだ。力を引き出すことに躊躇はなかった。ためらいは、セツナを殺すだけだ。レムへのためらいがこの窮地を生んだ。もはやためらっている場合ではない。
「だから、殺すのだ」
気配は、背後にあった。
セツナの真後ろで、クレイグの“死神”が、剣を掲げていた。