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第七十二話 皇魔ヶ刻

 ファリアが異変に気づいたのは、オーロラストームを召喚していたからに違いなかった。怪鳥が一対の大きな翼を広げたかのような威容を誇るその召喚武装は、召喚主たるファリアの身体能力を向上させるのみならず、五感をも大幅に強化し、些細な空気の変化さえも見逃させなかった。

 静寂に支配された夜の世界で、虫や動物の鳴き声さえ聞こえない。それはおかしなことだった。あるべき自然の姿ではない。上天に月はひとつ。星々は数多あり、どれもが同じようでいてまったく異なる光を発しているように思えた。そして星明りとともに降り注ぐ冷ややかな夜気は、ひとを眠りに誘うよりもむしろ意識の覚醒を促す。冴え渡る感覚は、彼女の精神を戦場へと導いていった。

 カランの街からクレブールへと至るシスクゥ街道の脇に、ファリアは佇んでいた。道の両端に奇妙な形状の石柱が立ち並ぶその街道は、ガンディア国内でも特に奇異な光景だということで有名であり、石柱に刻まれた古代言語を冠してシスクゥ街道と呼ばれるようになったという。その石柱の由来はわかっておらず、ガンディアが国家として成立する以前から存在していたとも、建国の王サグナスと銀の獅子レイオーンが邂逅したとき、地の底より隆起してきたともいわれている。なんにせよ、この街道が奇妙なことに変わりはないが。

 ファリアがシスクゥ街道の近くに立っているのは、リノンクレアの考えによるものだった。彼女は、復興も儘ならないカランで一夜を過ごすのは街の人々に迷惑がかかるだろうと、街の外で夜営することを決定したのだ。反対はしなかった。むしろ彼女の気遣いに感謝したほどだった。ファリアにとってカランは第二の故郷といってもいいくらいに慣れ親しんだ街なのだ。気を使われて嬉しくないはずがない。

 白聖騎士隊百名と荷駄隊百名以上の人間と、荷駄を引くための馬もいれば、騎士隊の愛馬もおり、その大所帯を纏めて夜営をしようというのだ。

 これほどの規模での夜営を彼女自身、あまり経験したことがなかった。武装召喚師としての修行時代を含めても極めて稀である。リョハンでの大規模演習はこの比ではないにせよ、今回の夜営と同列に語るものではないだろう。

 ともかく、夜営の準備だけで手間がかかった。人数が人数である。全員、馬車の中で眠れるわけもなく、寝床を用意しなければならなかった。無論、カランの人々の手を煩わせるわけにはいかない。騎士隊と荷駄隊、ファリア、ルウファが力を合わせて夜営準備をした。リノンクレアも手伝いたがっていたが、白聖騎士隊副長の王子妃がやるべき仕事ではないという頑なな主張の前では、彼女も黙り込むしかなかったようだった。

 そうしてシスクゥ街道の外れに急造された夜営地は、常に火が焚かれ、ちょっとした喧騒に包まれていた。まるでキャンプでもしているかのような賑わいは、リノンクレアの人柄によるものも大きいのだろうが、白聖騎士隊が女性のみで構成されているというのも理由にあげられるかもしれない。彼女たちは、夜営の準備すら楽しんでいた。

 ファリアはひとり、そんな喧騒の中心から離れている。騒がしいのが苦手なわけではない。むしろそういった騒ぎを人一倍楽しむ質だ。しかし、今夜はなぜかそんな気になれなかった。

 この夜空が繋ぐ大地のどこかで、セツナが戦っている。そう想うと、居ても立ってもいられなかった。胸騒ぎがしていた。嫌な予感がする。それがどういったものなのかわからないからこそ、余計不安に駆り立てられた。

 だから彼女は、周囲を警戒するといって夜営地を離れたのだ。そして、荒ぶる極光オーロラストームを召喚した。

「こんなところに居たんですか」

 突然背後から声をかけられて、ファリアは、ぎょっとした。まったく気配を感じなかったのだ。遠方に蠢く気配を知覚するほど警戒していたにも関わらず、だ。

「なにか用?」

 ファリアは、後ろを振り返りもせずにいった。相手に驚いた表情を見せたくなかったというのもあるが、前方から目を離せないのも事実だった。たゆたう闇の中に、紅い光が明滅しているように見えた。

「特に用事はないんですけど、ね」

 歯切れの悪い返事を浮かべてきたのは、ルウファである。彼は、夜営地で絶賛開催中の宴会に参加し、それなりに乗り気だったはずだが。

「皆さん、ちょっとはしゃぎ過ぎていて……」

「ついていけなかった?」

「まあ、そんな感じです」

「そう」

 彼の声音からは、精神的な疲労が滲み出ていた。きっと白聖騎士隊の女性陣に玩具のように扱われていたからに違いない。道中からずっとそうだったように。

 白聖騎士隊が女性ばかりの集団であるとはいえ、決して男に飢えているというわけではあるまい。恋愛が禁止されているということもないのだ。が、道中はわりと暇である。暇潰しの対象にいま話題の武装召喚師を選んだとしてもおかしくはない。ルウファがセツナ=カミヤを名乗っている以上、仕方のないことだ。

 もっとも、ファリアはファリアでたびたびリノンクレアにからかわれていた。リノンクレアといるときは、大体いつもそんな感じだった。たまにうんざりしないこともなかったが、ガンディア王家の一員にしてルシオンの王子妃という高貴な女性と対等な友人として振舞ってもらえるのだ。この程度なんということもない。

「ところで、なにかありましたか?」

「ありよ。大あり」

 ファリアは、背後に向かって囁くように言葉を投げると、オーロラストームを静かに掲げた。それは全長百六十センチほどの長弓なのだが、弓というにはあまりにも凶悪な形状をしていた。怪鳥が翼を広げたような、というのは大袈裟な表現ではない。一目見ただけでは弓に見えないのは、その異形の猛禽を思わせる姿のせいに違いない。弓の中心には獰猛な鳥類の頭部を模した装飾があり、大きく開かれた嘴の内側に握りがあった。そこから上下に伸びるのは鋭角的な翼であり、無数の鋭利な結晶体が羽毛のようについている。それらを一言で表現すれば怪鳥となるだろう。

 体を半身にして構え、水平に掲げた弓の嘴の内側に右手を差し入れる。握りを掴む左手に右手を添えるようにしながら意識を集中すると、羽のような結晶体が一斉に震え出し、燐光を放ち始めた。オーロラズトームがファリアの要請に応え、力を発揮し始めたのだ。

 彼女の視線は、前方二十メートル先に蠢く悪意の塊を捉えている。

「へ?」

 ルウファの間の抜けた反応は、彼の状態を考えれば致し方のないことだ。彼は、武装召喚術を行使しているわけではない。身体能力も五感も鍛え上げられているとはいえ、召喚中のファリアと比べると常人とさほど変わらないといっても差し支えの無いくらいだった。遥か前方の闇に蠢く気配など、感じ取りようがなかった。彼の落ち度ではない。

 オーロラストームの結晶体が発する淡い光は、握りに添えた右手の内へと収束していく。強烈な力が、ファリアの掌から全身に伝わってきた。痺れるような力の胎動。嘴の中に集まった光が、周囲の闇をわずかに退けた。

皇魔おうまよ」

 ファリアは、告げると同時に矢を引き絞る要領で、右手を引いた。彼女の右手は光の束を掴んでおり、それはさながら雷光によって形成された一条の矢であった。そう、オーロラストームに矢を番える必要はなく、オーロラストーム自体の魔力を矢として射ち出すのだ。

 目標を定め、矢を解き放つ。

 闇を切り裂く雷光は、激しく蛇行しながらも瞬く間に目標へと到達した。苛烈な閃光に曝され、人外異形の化け物の姿が闇の中に浮かび上がったのも束の間、殺到した雷光に打ちのめされ、奇怪極まりない悲鳴を上げた。断末魔。強烈な雷撃は、皇魔を一撃の下に葬り去ったのだ。

 仲間を殺されたからか、皇魔たちが一斉に叫び声を発してきた。敵意に満ちた獰猛な叫び声は、人間の耳にはあまりにも不愉快で、神経を逆撫でにした。

 ファリアは、仕留めた皇魔の周囲に浮かんだ無数の紅い光点に目を細めた。先ほどの叫び声は、宴会中の連中にも聞こえただろう。騎士隊に素早く命令を飛ばすリノンクレアの勇姿が思い浮かべられて、彼女は口の端に微笑を浮かべた。

 こういう唐突な事態に対応できるのがリノンクレアである。十代前半からいくつもの戦場を経験し、ルシオンのハルベルク王子の元に嫁いでからも白聖騎士隊長として前線に立ち続ける彼女には、皇魔との戦いも慣れたものだろう。

 後方を案じる必要はない。むしろ後方からの援護に期待するところだ。

「結構な数ですね」

 ルウファが、呆れたようにいってきた。夜空に響き渡る皇魔の雄叫びは、その数量を明示し、こちらを怯えさせようとするものに違いなかった。

 新たな雷光の矢が形成されていくのを見守るファリアの脳裏に、ふと閃くものがあった。

「そうよ。すっかり忘れていたわ。シスクゥ街道の近くだったのよ」

「はあ」

 青年召喚師は生返事を浮かべてきたが、ファリアは、彼の反応など気にも留めずに思考を回転させる。確か前方に横たわる街道の先に広がっているはずだった。小さな、しかし有名な森。ガンディアに生まれ育ったものなら一度は耳にしたことがあるだろう。ファリアはこの国の出自ではないが、それでもカランで働いているうちに自然と覚えたものだ。

「使者の森の在処が、よ」

「使者の森がどうかしたんですか?」

 ルウファが疑問に思うのもわからなくはない。ガンディアの伝説に謳われるその森も、いまや名ばかりの遺跡に等しい。

 使者の森。カランの街の南西、シスクゥ街道沿いに広がる小さな森である。かつて、何百年も昔、この地を覆っていた戦乱を納めるため、天からの使者たる銀獅子が降臨した場所だと伝えられており、ひとりの青年が力を与えられた地であった。その青年こそガンディアを建国した人物であり、名をサグナスといった。

 シスクゥ街道は、銀獅子の降臨に際して贈られた大地よりの祝福だといわれることもある。

「セツナから聞いていたのよ。使者の森で皇魔に襲われ、撃退したって話をね」

 カラン滞在中の話だ。満身創痍で包帯だらけの少年を相手によくそこまで話を聞けたものだと、いまさらのように想う。もう少し気を使ってあげれば良かったかもしれない。

「使者の森に〝巣〟があったと?」

「そこまではわからないわ。一応、カランの警備隊が調査はしたみたいだけど、森の半分が消し飛んでいてそれどころじゃなかったらしいし」

「森の半分が消し飛んでた……って」

「セツナ、でしょうね」

 ファリアが嘆息するように応えると、背後でルウファが息を飲んだ。当然の反応だ。何の面白味もない。ファリアも始めてその話を聞いたときは驚いたものだった。しかし、当初はセツナが森を半壊させたなど考えもしなかった。彼の実力こそある程度は認識していたものの、それとてランカインを打ち倒せるくらいのものであり、地形を変えてしまうほどのものだとは、まったくもって考えても見なかった。

 しかし、彼女は、あの黒く禍々しい矛の力を現実に目の当たりにしたときから考え方を改めている。

 晴れ渡る空の下、だだっ広い平原に満ち満ちた軍勢が、黒き矛の吐き出した紅蓮の猛火に飲まれていく光景。王都の市街地に現れた皇魔の群れを一掃する光芒。圧倒的な力。破壊的で獰猛極まりない力の奔流。感じただけで気が狂れそうな――。

「ま、彼に悪意はないわよ。自分の身を守るために力を振るっただけでしょうし」

 自己防衛のための力がひとより大きすぎた、ただそれだけのことだ。赤子と大人の力に差があるように、ただの武装召喚師とセツナ=カミヤの間には歴然たる力の差があるのだ。大河のように広く、埋めようのないものが横たわっている。

 ただ、それでも付け入る隙はあるだろう。黒き矛の絶大な力は、敵の命を刈り尽くすだけでなく、振るうものの体力をも際限なく奪う。意識を失えば、最強の矛を手にしていようと赤子以下だ。

 無論、矛を手にしたセツナがそこまで追い込まれる状況などそう起きるものではないが。

「はは……」

 ルウファは、セツナが市街地に大穴を開けたときのことでも思い出したのかもしれない。皇魔の群れを倒すためとはいえ、やりすぎだった。それは彼が矛の力を制御できていないからに違いなく、セツナの欠点のひとつといえた。

 彼は生粋の武装召喚師ではない。血の滲むような修練の末に技術を身に付けたファリアたちとは違い、イルス・ヴァレに召喚されてから突如として行使できるようになっただけなのだ。どういう原理かはわからない。ともかく彼は力を行使する技術を学ぶ暇もなく戦場に駆り出され、いまや敵国の空の下だ。彼が任務を終え帰国した暁には、折を見て特訓でもするべきだとファリアは考えていた。

 そして、第二射を放つ。

 動き出した皇魔の群れの最前列に向けて撃ち放たれたのは、三条の光芒。紫電を帯びた光線は、闇夜にでたらめな光跡を描きながら化け物へと飛翔する。皇魔が咆哮した。が、反応が遅すぎた。三つの光線は、それぞれ異なる目標の頭部や胴体を貫き、閃光とともに爆裂した。爆音は大きく、衝撃波が大気を激しく震わせた。街道沿いの奇岩は微動だにしない。

「さて。そろそろ君の出番じゃないかしら?」

「そうなるだろうと思ってはいましたけどね」

 どこか達観したようなルウファの声は、決してなにかを諦めたからというわけでもないのだろう。ただ流れを理解していただけだ。

 皇魔と戦わなければならない。白聖騎士隊だけを当てにするわけにはいかない。それだったら、彼女たちがリノンクレアの護衛についた意味がない。黒き矛のセツナに成りすました意味がない。ここで活躍し、セツナの現在地に関する情報を拡散するのもまた、ひとつのやり方だろう。一戦にしてガンディアの主力と目されるまでの活躍を果たした人物がガンディア南部にいるという情報は、ガンディアの北方に位置する国々の警戒を少しでも緩めることに繋がりうるのだ。

「ラブレターは読んでくれたんでしょ?」

「ええ。おかげで眠れない日々が続いていますよ」

 ラブレターとは、数日前にファリアがルウファに手渡した手紙のことである。あの手紙にびっしりと書き込んだ古代言語の羅列に等しい呪文を一言一句間違えないよう記憶するのは、必ずしも難しいことではないにせよ、いとも容易く行えることでもない。それをわずかな日数で暗記できたとすれば、日々の鍛錬と弛まぬ努力の賜物だといえるだろう。

 もちろん、その術式をたった半日で紡ぎ上げたファリアの手腕も並大抵のものではない。セツナ=カミヤの代名詞に相応しい召喚武装を呼び出すための呪文である。かの禍々しき黒き矛に相似した武装を召喚するには、古代言語に精通しているだけでなく、呪文の構成原理にも詳しくなければならない。ただ呪文を唱えればいいというものではないのだ。

「ふふ。じゃあよろしく。黒き矛のセツナ君」

 ファリアは、ルウファを振り返ると、悪戯っぽく笑ってみせた。







 夢と現の狭間で呼び声を聞いた気がした。それはきっと気のせいに違いない。見知らぬ空の下、大地の上で、だれが彼の名を呼ぶというのか。

 寄る辺なき異世界。

 それが現実。

 だれも知らない。

 だれも彼を知ろうともしなければ、彼がだれかを知ろうともしない。

 だれもが好奇の目を向けては素知らぬ顔で通り過ぎていく。視線の先にあるのは黒き矛であって、彼自身はおまけに過ぎない。

 必要とされるのは黒き矛の力。

 彼は黒き矛の召喚装置であり、制御機構でありさえすればいい。人格は要らない。どのような性格で、なにを考え、なにを夢見ていようと関係ない。彼でなくとも構わないのだ。

 黒き矛さえあればいい。

(それが……いまの俺の価値だ)

 いつの間にか明瞭になりつつある意識の中で、冷ややかに認める。否定はしない。レオンガンドが彼に求めたのは、黒き矛の使い手としての力である。セツナも、それをわかった上で君臣の契りを結んだのだ。

 そして望まれるまま力を振るうつもりだった。それしかなかった。ガンディアそこが居場所だと想った。居場所を護るためには、レオンガンドの望むように黒き矛を振り回すしかないと想った。

 それだけが、彼の価値だからだ。

(いまは……)

 いつかその評価を覆せるときがきたとしても、いまはどうしようもない。体力もなければ技術もなく、経験も少なく、頭がいいわけでもない。それでもこうして使ってもらえるのは、偏に黒き矛のおかげだった。

 セツナは、馬車の天蓋を見やりながら、耳を澄ませて夜風の音を聞いていた。夢から覚めたばかりだというのにも関わらず、彼の意識は冴えていた。

 耳朶を染めるのは風の音色とだれかの寝息だけで、虫の鳴き声が夜の世界を彩ることはない。闇が深いのは、馬車の荷台に外光が入る余地がないからだ、ほぼ完全に密閉された空間。男臭いのは仕方がないだろう。

「気づいたか?」

「!」

 セツナは、突然投げ掛けられた言葉に少なからず驚きを覚えた。不意をつかれたのだ。あの逃走劇の直後だ。みんな寝入っていると思い込んでいた。

「なにを驚くことがある?」

 ランカインの冷笑は、セツナの耳には不愉快極まりなかった。馬鹿にしている。セツナは、声のしたほうに目を向けると、闇の中の相手を睨み付けた。そんなことをしても意味がないことはわかっていたし、なにより、視線の先に彼の眼があるとも限らない。

 セツナは、ランカインがみずからの領土と主張してやまない荷物の上に視線を注いだまま、つぶやくように告げた。

「……心臓に悪いんだよ」

「それは失礼」

 とはいってきたものの、決して彼の本心ではないだろう。慇懃無礼という言葉ほど、常時のランカインを示す言葉もないだろう。戦闘時となれば話は別だが。

 セツナは、いきり立っても仕方がないと思い返すと、声を潜めて問いかけた。寝息を立てる三人の男たちを起こすのは可哀想だと思ったのだ。

「で、なんだって?」

「その様子だと、気づいていなかったようだな」

「?」

「皇魔だよ」

「またかよ」

 セツナは、うんざりしたようにいった。街の外で夜を過ごすたびに皇魔と遭遇しているような気がする。実際はそんなことはなく(王都から出発した直後に襲われたくらいだ)、数度の皇魔との戦闘が記憶に焼きついているからに違いない。皇魔との戦いは、どれも印象深いのだ。

 この世界に召喚されて最初の戦闘が皇魔ブリークとの戦いであり、つぎが王都での戦闘。そして、ランカインと力を合わせざるを得なかった戦い。すべて、セツナの頭の中に鮮明な映像として思い浮かべることができた。

 ランカインが、あきれたようにいってくる。

「夜は皇魔の世界。教わらなかったか? 夜に街の外を移動するのは死地を求めさ迷うのと同じだと」

「聞いたことねーよ」

 セツナは即座に言い返した。事実、その通りである。セツナは、この世界の在り様について詳しくはなかった。学ぶ暇がなかったのもそうだが、教えてくれるようなひとがいなかったのもある。そもそも、彼は当初みずからの素性を隠していた。情勢がわからないのだ。異世界から召喚されたなどと、簡単に口に出せるはずもない。別段思慮深いわけでもないセツナではあったが、それくらいは考えていたし、言動にも気をつけていた。

 異世界の人間だという事実を隠している以上、この世界の常識であろう皇魔の存在や生態について尋ねることなどできるはずもなかった。

「ならば覚えておきたまえ。ワーグラーンが皇魔という病巣を抱えて五百年あまり、夜に人里を離れるのは禁忌とされている。無論、腕に覚えがあるのならば話は別だ。軍隊のように戦力を持った団体行動も例外だな。しかし、力なき弱者たちが出歩くのは自殺行為に他ならない。皇魔は人間を襲う。なぜかは知らないが、あれらは人間を敵視し憎悪しているようなのでな」

 セツナは、ランカインの丁寧な説明を聞きながら、密やかに上体を起こした。手元に置いていたはずの剣を手探りだけで見つけ出し、柄を握りしめる。彼の脳裏には化け物どもが蠢いていた。神経を切り裂くような奇声をあげ、敵意と殺意を振り撒く人外異形。

 ランカインのいうようにこの馬車に皇魔が接近しつつあるのなら、戦う準備をしなければならない。エメリオンとロクサリアを傷つけられるわけにはいかないし、なによりラクサスを護らなければならない。このなんとも形容のしがたい一行の中で、ラクサスと御者のオリスンだけが常識人だった。

 ランカインは狂気そのものがひとの形をしているといってもいい有り様だし、リューグの軽さは信用に値しないし、その正体は掴めない。ランカインは彼を信用しているようなのだが、その理由は納得しがたいものだった。

『狗は裏切らない』

 だから信頼しても構わないというのだが。

 セツナには理解できない論理だったが、かといってリューグのすべてを否定するわけではない。彼が、こちらについてくれたおかげでレコンダールからの脱出が速やかに行われたのだ。リューグが馬車を移動しておいてくれたことには感謝するだけだ。

 もっとも、それだけだ。

 それだけでは信を置くことなどできない。

(それは俺も同じじゃないのか?)

 冷ややかに自嘲する。

 バルサー平原での戦闘でこそ活躍したものの、それ以外では王都に被害をもたらしただけだ。アズマリアを呼び寄せ、彼女の召喚した皇魔との戦いが市街地に爪痕を残してしまった。それだけではない。アズマリアの置き土産が、ガンディアに置けるセツナの立場を危ういものにしていた。

 皇魔と同じく、異世界から召喚された存在だと暴露されたのだ。イルス・ヴァレの人々と同じ姿をしていても、その正体が異界の存在だと告げられた以上、ガンディアにセツナの居場所はなくなったとしてもおかしくはなかった。

 レオンガンドが手を差し伸べてくれなければ、セツナは、どのような目に遭っていたのかわかったものではない。

(陛下は俺を必要としてくれている)

 黒き矛の力を欲しているだけかもしれない。

 ガンディアという小さな国を強くするための一要素でしかないのかもしれない。

 ただ利用できるものは利用しようというだけかもしれない。

 それでも構わなかった。

 必要としてくれたのだ。そこに居場所がある。安らぎがある。孤独よりはいい。比べるまでもなかった。

 少なくとも、レオンガンドはセツナのことを皇魔と同質の存在とは見ていないようだった。セツナの話に最後まで耳を澄ませ、優しげな表情を浮かべていた。

 そして、セツナを掬い上げてくれた。

(そうだ)

 セツナは、剣の柄を握る手に力を込めた。陛下の期待に応えなければならない。信頼されるように。居場所を失わなくて済むように。

「で、どうするんだ?」

「無論、蹴散らす。でなければ目的を果たせない」

 闇の中、ランカインの双眸に鈍い光が走ったような気がした。同時にセツナの頭の中に浮かぶのは、ランカインの笑みである。狂ったようでいて決して正気を失ってはいない、そんな笑み。

 セツナは、脳裏に描いた男の笑みに恐れとも怒りともつかない感情を抱く己を自覚して、強く歯噛みした。許せないという想いは未だに心の奥底で燻っていて、ちょっとしたことで火が着きかねなかった。一度火が着いてしまえば、一瞬にして猛火となり、燃えて尽きるまで荒れ狂うだろう。そして、すべてを失うのだ。

(……馬鹿馬鹿しい)

 セツナは、頭を振った。いまは私情よりも優先すべきことがある。このまま状況が変化するのを見届けるという選択肢はない。

 彼は立ち上がると、ランカインの気配を振り返った。

「俺とあんただけで?」

「そうだ。皆様方にはこのまま熟睡していてもらうつもりだ」

 ランカインのこの返答は、さすがにセツナも予想していなかった。それはつまり、派手な戦い方をしてはいけないということであり、皇魔に叫び声を上げさせてもいけないということに他ならない。戦闘の難易度が急激に高くなったのだ。

「睡眠不足で任務に支障が出ても困るだろう」

 というのが彼の言い分だったが。

 セツナは、半ば茫然としながら、ランカインが馬車から出て行くのを気配と物音で感じ取っていた。

「どうしろってんだよ……」

 セツナは、剣の柄を握り締めたが、これで皇魔と戦えるはずもない。鍛え上げられた鋼の肉体を持っているわけでもなければ、飛び抜けて運動神経がいいわけでもない。まともに剣を振り回したこともないし、通常の状態で皇魔と対峙したこともなかった。その上、この有様である。

 レコンダールの包囲網からの脱出時に黒き矛を召喚したがために、全身の筋肉という筋肉が悲鳴を上げていた。いわゆる筋肉痛なのだが、それは矛の力の反動であった。

 黒き矛を手にしたとき、セツナは尋常ならざる力を得る。しかしそれは一時的なものに過ぎず、矛を帰還させた途端、超絶的な力は消えて失せ、酷使した肉体は激しい疲労を訴えてくるのだ。

 最初からそうだった。

 カランでの戦いのあと、数日ほど寝て過ごさなければならなかったのもそうだし、バルサー平原での戦闘の直後から意識を失っていたのも同じような原理だろう。体力だけでなく、精神的な力まで消耗しているのかもしれない。

 召喚武装は強力極まりない。なんの代償もなしに行使できるはずもなかった。そもそも、異世界から武器を召喚するということ自体、大それている。

 そして、力を使うということは、力を消耗するということに他ならないのだ。

 もっとも、黒き矛ほど絶大な力を持つ武器を行使する代償が、体力や精神力だけならば安いものだともいえるのだが。

(行くしかない、か)

 考えていたところでどうしようもない。答えは出ないのだから、前に進むしかない。ランカインひとりに任せても大丈夫そうな気はするものの、後のことを思えば、手伝わないわけにはいかなかった。したり顔で説教などされたくもない。

 セツナは、ラクサスやリューグの体を踏み付けないように気をつけながら、馬車の中を歩いていった。鎧を身に纏う暇はない。ランカインはとっくに飛び出しているのだ。すぐに追いかけなければ、どんな嫌味をいわれるのかわかったものではない。

 幌馬車から飛び出すと、凍てつくような夜気が全身に絡み付いてきた。着地と同時に視線を巡らせる。ランカインは、すぐ近くに立っていた。彼は前方を指し示している。

 セツナは、促されるままに視線を前方に戻した。森の中。乱立する木々の重なり合う枝葉のおかげで星々の光さえも届かず、漆黒の闇が悠然とその権力を誇示していた。夜行性の生物の鳴き声が聞こえることもなければ、気配さえ感じ取れない。植物さえも萎縮しているような感じがした。必ずしも気のせいとはいえなかった。暗澹たる闇の中を、青白い炎が揺らめいているのが見えた。

 その数は多く、ゆっくりとこちらに近づいてきているように見えた。

「あれが皇魔?」

「ブフマッツだ。この森に〝巣〟を作っていたようだな」

 ランカインの嬉しそうな声は、しかし、森の闇の静寂を掻き乱すことはなかった。前方の皇魔が反応を示すこともなかった。小さな声だ。セツナにしか聞こえなかったのかもしれない。

 そして、あらゆる生物が沈黙した森の中で、ランカインの囁きがセツナの耳朶を震わせた。

「さあ、深く静かに戦いたまえ。ニーウェ=ディアブラス君」


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