第七百二十六話 使命
「拍子抜けですな」
天守一階の広間を支配していた沈黙を破ったのは、カイン=ヴィーヴルだった。魔王ユベルと彼の供回りであったらしいリュウディースたちが姿を消したことで、一階の広間はセツナたちが取り残される形になっていた。玉座付近のレオンガンドも、玉座を見上げていたセツナたちも、ユベルの言動に呆気に取られ、言葉を失ったのだ。沈黙は、長く続いた。発するべき言葉も見当たらぬまま、セツナは、皇魔がゼノキス要塞から離れていくのを感じ、連合軍の勝利を把握した。
「まさかこれで終わりとはいいますまいが」
「いや、終わりだろ」
「ん?」
「連合軍と戦闘中だった皇魔が戦いをやめ、戦場から離脱している。要塞に戻ってくる様子もない……魔王は、この要塞を連合軍に明け渡すらしい」
セツナが告げると、カインの仮面の奥の目が笑った。なにが嬉しいのかはわからない。戦闘狂の彼にとって喜ぶべき事態ではないはずだったが。
「彼は戦いを放棄したのだろう」
レオンガンドが、玉座のある高所から降りてきた。獅子の兜を抱えたながら降りてくる様は、ただそれだけで絵になるのだから不思議なものだ。生来の王者とは、そういうものなのかもしれない。
「戦う意味を失ったのだ」
「エレンは、復讐という言葉に囚われすぎていたのよ。きっと」
ウルが囁くようにいった。魔王になる前のユベルを知っている彼女の発言には、重みがあったし、実感があった。それが正しいかどうかは別として、まったくの他人であるセツナの考えよりは、説得力があるはずだ。
「復讐に妄執するあまり、周りが見えなくなっていた。少し冷静になって考えればわかるはずのことも、わからなくなっていた……」
「でも、エレンの気持ちもわからなくはないわ」
アーリアがいうと、ウルは小さく頷く。ふたりにはユベルと共通の記憶がある。外法機関というガンディアの暗部は、彼女たちにとって終生忘れられないものなのだろうし、その記憶が、いつかレオンガンドへの悪意となって花開くこともあるかもしれない。それでもレオンガンドはふたりを手放さない。彼女たちの能力があまりにも優秀であり、いまや無くてはならない存在となってしまっているからだ。
セツナはふたりの様子を見やって、それからレオンガンドに視線を戻した。魔王を下した若き獅子王は、ふたりの異能者を穏やかな目で見つめている。彼は、いつ裏切られても構わないと考えているのだ。ユベルに命を差し出したように、常に覚悟の中にいる。自分が死んでも、ジゼルコートがいる。グレイシアがいる。ガンディアが乱れることはないと思っている。
セツナには、そういうレオンガンドの余裕に満ちた態度が許せなかった。
確かに戦いは終わった。魔王は身を引き、レオンガンドのいうように皇魔を遠ざけはじめている。いずれクルセルクは皇魔の国ではなくなるだろう。そうなれば、連合軍が分割統治することに支障はなくなるだろう。それはいいのだ。問題はそこではない。
「それにしたって、馬鹿なことを考えたものですね」
「どうした、いきなり」
レオンガンドは、セツナの言葉の刺々しさに面食らったようだった。
「ユベルに殺されなかったからいいものの、本当に殺されていたらどうするんですか」
レオンガンドが殺されなかったことで浮かび上がった感情は、安堵と怒りだ。それも魔王への怒りではない。レオンガンドへの怒りだった。
「覚悟のほどについては、伝えたはずだが……」
「なにいってるんです! ガンディアはいま大事な時期なんですよ! 陛下がいなくなったら国内が荒れるのは目に見えているじゃないですか!」
怒気を含めて大声で責めながら、彼は胸中で頭を振った。違う。伝えたいことは、そういうことではない。もっと、個人的な感情だ。
「わたしがいなくなっても、ジゼルコート伯がいる。グレイシア太后と力を合わせ、国を運営してくれるだろう。軍事に関しては大将軍らと参謀局がいる。なにも問題などないのだ」
「ありますよ、おおありです!」
セツナは、レオンガンドに詰め寄った。
「陛下がいなくなったら、俺は、どこへ行けばいいんです」
「セツナ……」
「ガンディアは好きです。国土も、ひとびとも、全部。でも、俺がガンディアにいるのは、陛下が俺に手を差し伸べてくれたからです。陛下がいたから。あのとき、陛下が声をかけてくれたから、俺は、ガンディアのために戦えるんです」
異世界に召喚されたばかりで、寄る辺もなく、右も左も分からないセツナに最初に居場所を用意してくれたのが、レオンガンドだった。それがたとえ黒き矛の力が目当ての行動だったとしても、良かった。利用し、利用されるのが世の常だ。大事なのは、利用できるだけの価値を見出してくれたという事実なのだ。
レオンガンドはセツナを必要としてくれた。
「わたしのいないガンディアに興味はない、と?」
「……」
なにもいわなかったが、それが答えとなった。だが、言葉にすれば、棘が残る。だからなにもいわなかったのが正解なのだ。セツナは、勝手にそう思うことにした。思い込まなくては自分を納得させることなどできない。
「セツナならば、わたしがいないガンディアでも戦い続けてくれると思っていたのだがな」
「……」
「だが、嬉しくもある。君がそこまでわたしのことを想っていてくれたなんてな」
「……なにを」
「しかし、たとえあの場で魔王がわたしを殺そうとしても、それはできなかっただろう」
レオンガンドが、こちらを一瞥して、いたずらっぽく笑った。だが、その目は笑っていなかった。
「君が許さない」
どきりとする。自分の考えが見透かされている。
「君がわたしを死の運命から守り、魔王を討ったはずだ」
「それは――」
その通りだった。セツナは、ユベルがレオンガンドを殺そうとした瞬間、ユベルを殺すつもりでいた。そのあとのことなどどうでもよかった。レオンガンドを失うことはできない。ナーレスの考えでもあったし、セツナ自身の想いでもあった。
「そうなれば、クルセルクに集っていたという二十万の皇魔が周辺諸国で暴れ狂っただろうが、そのときはそのときだ。すべての責は我にある。わたしが、業を背負おう。その結果、何万、何十万の人間が死んだのならば、その罪のすべてはわたしのものだ」
「陛下……」
「煽るような真似をして、すまなかったな」
はっとしたのは、レオンガンドの目が慈愛に満ちていたからではない。もちろん、それもあるのだが、ウェイドリッドでの発言がこのときのための策だったのではないかと思い至ったからだ。セツナに危機感を抱かせるため、煽動したということなのか。
だとしても、セツナはレオンガンドを嫌いになどなれないし、ますます好きになった。
「わたしはまだまだ死ねんよ。少なくとも、子を成し、成長を見届けるまでは、死んでも死にきれん。いっただろう。わたしは欲深いのだ」
レオンガンドは微笑んで、右手をセツナの頭に乗せた。兜を軽く叩かれる。レオンガンドらしからぬ親しげな行動にセツナは笑みをこぼした。不安や怒りといった感情が消え失せて、喜びが湧き上がる。
(なんとも単純だな)
自分のことながら、苦笑せざるを得ない。
「しゃんとしろ、《獅子の尾》隊長。君の部下に笑われるぞ」
「はい。……部下?」
レオンガンドがいった言葉の意味を理解したのは、広間の出入り口を振り返ってからだ。兵ひとりいない出入り口には、《獅子の尾》の隊士たちとレム・ワウ=マーロウの姿があったのだ。皆、満身創痍といった有り様だ。負傷していないものはだれひとりいない。皇魔との戦いは苛烈だ。無傷でくぐり抜けられるわけがない。しかも連戦だったのだ。前の戦いの消耗が響いている。
セツナは、仲間たちの姿に表情を緩めた。背中を押された。レオンガンドだ。主君の優しさに泣きそうになるが、堪えた。カインがこちらを見て、ほくそ笑んでいたからだ。歩き出す。ウルとアーリアの複雑そうな視線を乗り越え、仲間たちの元へ。
途中から小走りになった。
レムが先頭に立っていた。なぜ彼女がここにいるのかという疑問も抱かなかった。彼女の存在を当然のように受け入れている自分がいる。約二ヶ月。側にいることに慣れすぎたのだ。だから、警戒心などなかったし、彼女が両腕を広げ、セツナを抱きしめてきたことも受け入れてしまった。らしくない行動だとは思ったものの、ミリュウの影響を受けたのだろう――そう思った。
「使命を果たします」
レムは、セツナを抱きしめたまま、後ろに向かって倒れこんだ。セツナには抵抗する暇もなかった。レムが自分自身の影に沈み、つぎにセツナが影の中に取り込まれた。
絶望の闇が見えた。