第七百二十五話 魔王と彼女
「皇魔が去っていくわね」
ファリア=バルディッシュは、魔王軍の皇魔たちが戦場から離脱するのを見届けると、閃刀・昴を鞘に納めた。送還はしなかった。戦闘の可能性は皆無ではないと判断したのだろう。皇魔の撤退、クルセルク兵の後退で、連合軍の将兵は浮き足立っていた。長い長い戦いが、ようやく終わろうとしている。浮かれるのも無理はなかった。
しかし、これですべてが終わるとは思えないという大ファリアの考えもわかる。
「追撃しますか?」
シヴィル=ソードウィンが額の汗を拭いながら、大ファリアに尋ねた。答えのわかりきっている問いだが、問わずにはいられない。それが四大天侍の長たる彼の役割だ。
リョハンが戦女神と四大天侍の派遣を認めたのは、皇魔の討伐という題目があったからだ。魔王の存在を許していては、大陸全土に暗い影を落とすことになりかねない。魔王を討つという連合軍に参加し、魔王支配下の皇魔を殲滅する――それがリョハンの武装召喚師たちに与えられた使命だった。だから、皇魔だけを相手にした。皇魔だけを攻撃対象とし、人間のクルセルク兵が連合軍兵士を攻撃するのも見て見ぬふりをしなければならなかった。
そのために何人かの連合軍兵士は死に、何人かのクルセルク兵は生き残った。生と死を分かつのは、そのようなものなのかもしれない。
「我々が万全の状態ならそれも良かったのだけれど、みんな消耗しすぎだもの。無理はできないわ」
「はい」
シヴィルがいつもの渋い顔を柔らかくしたのは、大ファリアが珍しく疲労の色を見せているからかもしれない。大ファリアは、戦女神であり、超人なのだという共通認識は、シヴィルでさえ持っている。それもそうだろう。大ファリアの最盛期には、シヴィルさえ生まれていなかった。伝説的な人物なのだ。神に等しい。
だから、大ファリアが人間らしいところを見せると、つい嬉しくなってしまうのだろう。それはニュウも同じだ。同じように大ファリアを敬愛しているからこそ、四大天侍でいられるのかもしれない。
「で、どうなの? マリクちゃん」
大ファリアが話を振ると、マリク=マジク少年は、ギャブレイトの死体の上に立って、小難しい顔をしていた。七つの剣が色とりどりの光を帯びて、彼の周囲を乱舞する。不用意に近づくと怪我をするかもしれない。
「……クルセルクに集結中だった皇魔が、元いた場所に帰り始めてる。魔王の命令が変わったんだね」
「そう!」
大ファリアが嬉しそうに手を打った。四大天侍中最大の感知範囲を誇るマリクのいうことだ。嘘などではないし、誤報でもない。
連合軍は勝利したのだ。
「急いで知らせなきゃ!」
大ファリアの命令によって、ニュウたちは疲労困憊の体に鞭打って、戦場に散らばった連合軍首脳陣にその事実を伝えにいった。
連合軍が勝利したという確証が得られたことで、ゼノキス要塞の内外で警戒していた連合軍の将兵たちが歓声を上げた。勝鬨を上げるもの、生還を喜び合うもの、仲間の亡骸を探し、戦場を駆けまわるもの。仲間の死体を目の当たりにして泣き崩れるもの。
勝敗が決したあとの光景とは、このようなものなのだろう。
ニュウ=ディーたちリョハンの人間には縁遠い風景だが、一度味わえば、二度と忘れられないような苦さがあった。
「さすがに……疲れたわ」
ミリュウの顔色の悪さは、いったことが嘘ではないのだと証明するかのようであり、肩を貸して歩くファリアは、彼女のことが心配で仕方がなかった。
皇魔との戦いは、紛れも無い勝利で終わった。ミリュウとファリアのふたりに、ルウファが加わったのだ。負ける要素はなかったが、予想通り、苦戦を強いられた。それは、三人が三人、戦いに次ぐ戦いで消耗していたからにほかならない。
「無茶しすぎよ」
「いま無茶しないでいつ無茶をするのよ」
「まったく、そういうところは、セツナの影響を受けすぎだわ」
「そうかな?」
ミリュウの照れた顔は愛らしい少女のそれなのだが、ファリアは半眼になって、言葉を強めた。
「嬉しそうにいうんじゃないわ。こんな怪我で戦うなんて、馬鹿よ」
ミリュウは、頭に包帯を巻きつけていた。ゼノキス要塞に至るまでの戦いで負った傷なのだろうが、激しい戦いが傷口を開いたらしく、包帯が紅く染まっていた。
ファリアがミリュウの後頭部の怪我を知ったのは、戦闘のまっただ中のことだ。兜が破壊されたことで明らかになったのだ。彼女は、隠し通すつもりでいたらしい。
「だって……後方で待っているなんて、出来るわけないじゃない」
「そうそう。もう、待っているのは嫌ですからね」
そういったのはルウファだ。彼は、左腕を負傷し、動かすこともできない状態だったのだ。もちろん、彼の召喚武装シルフィードフェザーさえあればどうとでもなるのだろうが、それにしても無理をしているのは間違いない。
「エミルが泣くわよ」
「エミルはわかってくれますよ。あのときも、俺の側にいてくれたんですから」
ルウファが言及したのは、ザルワーン戦争のことだろう。彼は、ザイン=ヴリディアとの戦闘による負傷が原因で後送され、最終決戦には参加できなかったのだ。そのことを後悔し続けているのが、なんとも彼らしい。
「もう、嫌なんですよ。置いていかれるのは」
彼の横顔には、決意があった。もう二度と隊を離れまいとする強い意志には、ファリアも感じるものがあった。同じ気持ちなのだ。ミリュウもそうなのだろう。いつもの彼女ならばルウファに対して軽口を叩くものだが、いまはなにもいわなかった。彼の想いを踏みにじるような真似はしたくなかったのかもしれない。
そのとき、ルウファが足を止めた。ファリアも続いて足を止めて、背後を振り返る。喪服のような黒衣の少女が佇んでいる。
レム・ワウ=マーロウだ。
「皆様お揃いで。戦いは終わったのでございましょうか?」
「そうみたいだけど……あなた、持ち場を離れてもいいのかしら?」
ファリアが問い返すと、彼女は微妙な表情をした。レムは、ジベル軍の一員であり、ゼノキス要塞外部の戦場が持ち場だったはずだ。もちろん、戦闘らしい戦闘が終わったいま、要塞内部に入ってこようとも問題はないのだが。
「御主人様の護衛がわたくしの使命でございまする故」
「それ、もう終わりでしょ。この戦争が終結するまでの任務なんだから」
ミリュウが若干嬉しそうなのは、セツナがようやく彼女の監視から開放されるからだ。それに関してはファリアも同意見だったが、表情にも声音にも出さなかった。レムにも感情がある。
「ええ。ですから、最後のお別れをしなければなりませぬ」
「殊勝な心がけだこと」
「まあ、いいじゃないですか。俺達も隊長のところに向かうんでしょ?」
「そうね。ここにいたってしかたがないわ」
「では、皆様、参りましょうか」
レムが、三人の先頭になったのは、彼女が一番元気だったからだが。
ミリュウは、それも気に入らないようだった。
ゼノキス要塞各所に掲げられたクルセルクの軍旗、魔王軍の軍旗が燃やされたことで、連合軍の勝利が周知徹底されることになった。
クルセルク最大の要塞が、たった数時間で落ちてしまったのだ。クルセルクの敗北は覆しようのないものとして認識されるだろうし、そして、それは間違いなどではなかった。魔王がゼノキス要塞を去り、皇魔を本来あるべき状態に戻したのだ。クルセルクの軍事力は、大幅に低下した。いや、軍事力だけではない。
求心力も失われるだろう。
魔王は、すべてを放棄した。
「ユベル、これで良かった?」
「どうだろうな」
燃え尽きていく魔王旗を見遣りながら、彼は、連合軍の勝鬨を聞いていた。リュウディースたちとともにゼノキス要塞からの脱出に成功している。要塞を墓場に死ぬつもりもなかった。だからといって、生きる希望もない。
なにもかもなくなってしまった。
「俺は、なにがしたかったのかな」
遠く凱歌が聞こえる。黒き矛の勇猛さを称える歌。《獅子の尾》の凄まじさを語る歌。参加国の名を連ねていくような連合軍賛歌。勝利の声はどこまでも雄々しく、どこまでも果てしない。
戦いが終わった。
数えきれない皇魔が死に、また、人間が死んだ戦いが、彼の決断ひとつで終わってしまった。
虚しささえ、残っていない。
「なんのために、あのとき差し伸べられた手を跳ね除けたんだろうな。なんのために、ガンディアを離れた。なんのために、力を求めたんだ。なんのために」
復讐のためだ――そんなことは、わかりきっている、と彼は頭を振った。
皇魔を使役し、軍を組織し、この国を手中に収めたのも、復讐のために他ならない。なにもかも、復讐のためになのだ。復讐。自分の人生をでたらめに破壊されたことに対する復讐としては、十分に果たせたのではないか。十分にガンディアを困らせることができたのではないか。数多くのガンディア軍人が戦死していることを考えれば、十分過ぎる。
(十分過ぎる……か)
彼は、胸中で苦笑した。以前の自分ならば、そんな風に考えたりはしなかっただろう。
「俺は、ガンディア王家が憎かった。そしてそんな王家を支持する国が許せなかった。だから、すべてを破壊しようとした。ガンディアを滅ぼそうと考えたんだ。それがシウスクラウドと同じ狂王の道だという事実から目を背けて、な」
わかっていたことだ。
なにもかも、知っていたことだ。理解していたことだ。自分がなぜ魔王と名乗りながら善王として振る舞うのか。すべては、民を顧みなかったシウスクラウドへの当て付けなのだ。かの狂王のようにはならぬという決意が、ユベルという存在を作り上げた。そして、そのように振る舞いながら、狂王と同じ道を進んでいることにも気づいていた。復讐という言葉で正当化し、幾重にも装飾を施して、自分でもなにがなんなのかわからなくなっていた。
ガンディアを滅ぼすということは、民を犠牲にしたシウスクラウドよりも邪悪な存在と成り果てるということだ。
それは、できない。
シウスクラウドになってはいけないのだ。
それがシウスクラウドへの復讐となる。
「やっと、わかった。俺が俺であるためになにが必要なのか。ようやく理解できた」
「良かった」
リュスカの嬉しそうな声に、彼も安堵を覚えた。彼女を不安にさせたまま別れるのは、あまりに心苦しい。いや、別離そのものが心を苦しめているのかもしれないが、彼は気づかぬふりをした。でなければ、別れを切り出せない。
人間と皇魔は、別の生き物だ。
この世界に元からいたものと、異世界から流れ着いたもの。
五百年の長きに渡って憎しみ合い、殺し合ってきた。分かり合うことなどできるわけがないのだ。魔王の能力がなければ、協調することなどもできなかった。
「リュスカ。今日までありがとう。おまえは自由だ。だれに支配されることもない」
「ユベル……」
リュスカの目が潤んでいた。彼女が魔法で構築した眼球は、いまや人間と遜色のないものとなっていた。肌の色さえ違わなければ、人間としか思えないだろう。もっとも、ユベルが彼女を欲したのは、彼女が人間に近いからではない。リュスカだからだ。リュウディースの女王がリュスカでなければ、側に置いておくということもなかったのは間違いない。
「さっさと行け」
ユベルが視線を逸らしたのは、彼女を見ていると抱きしめたくなってしまうからだ。だれが見ているわけもない森の中。衝動を抑えることができたのは、奇跡に等しい。
「どうして?」
リュスカが小首を傾げたのがわかったが、ユベルはいつもどおりの彼女の反応が愛おしくてたまらなかった。同時に苛立たしさも感じる。さっさと離れてくれなければ、自分の感情を制御しきれなくなるかもしれない。
もう、魔王に返り咲くつもりはないのだ。
「どうしてもこうしてもないだろう。俺に従う必要はなくなったんだぞ」
ユベルが強い口調で言うと、徐ろに抱きしめられた。冷ややかで柔らかいリュスカの体が、ユベルの身も心も包み込んでいく。抗えない。抗いようがない。
「リュスカ、ユベル、好き」
「なにをいっている」
わかりきったことだ。しかし、それは幻想なのだ。魔王の力がもたらした、数年余りの幻想であり、虚構。ひとときの夢。
泡の如く弾けて消える。
だが、リュスカは、ユベルに囁くのだ。
「きっと、一目惚れ」
「なにを……」
彼には、彼女がいっている言葉の意味が理解できなかった。
いや、理解できるからこそ、わからなかったのだ。
皇魔が人間に一目惚れするなど、ありえないことのように思えた。
「リュスカ、支配されてない」
彼女は満面の笑みで告げてきた。
「最初から――」
冬の日。
吹雪の中で、彼は一体のリュウディースと出逢った。
そのリュウディースは、最初から馴れ馴れしかった。全身で好意を示してきたのだ。呆れるほど積極的かつ熱情的な主張に、彼は根負けして、同行を認めた。
リュウディースが共通語を覚え始めたのは、それからすぐのことだったが、それもこれも、彼と意思疎通を図るためだったのはいうまでもない。
しかし、魔王の力が働いているならば、共通語を覚えるまでもなく意思疎通ができるはずだった。
彼女は、最初から支配などされていなかったのだ。だから、言葉を覚えようと考えたのだ。人間の言葉を覚えなければ、彼と愛を語らうこともできない。彼の発する言葉の意味も理解できない。それでは、あまりに悲しくて寂しいから。
皇魔と人間はわかりあえない。
皇魔と人間が共存することなど不可能。
皇魔は人類の天敵であり、人類もまた、皇魔の仇敵。
五百年の長きに渡る敵対関係が修復されることなどありえない――。
そういった常識が一瞬にして瓦解してしまった。
彼は、茫然とした。
彼女を支配した記憶は、確かになかったのだ。
「行こう、ユベル。わたしの国へ」
リュスカの囁きは、魅力的な提案だった。リュウディースの国。皇魔だけの国。人間などいない領域。魔王には相応しい世界かもしれない。
「もう、苦しむ必要、ない」
リュスカの慈愛に満ちた声は、悪魔というよりは女神のものであり、彼は、視界が滲むのに任せた。
そして、彼女の腕の中で、泣いた。