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第七十一話 逢魔ヶ刻

 クオンは、ただ困惑していた。

 足元で跪き、こちらを眩しそうに仰ぎ見るグラハム・ザン=ノーディスの声音は真に迫っていたし、嘘や偽りといった不純物が微塵も混じっていないように感じられたものの、だからといって「はい、そうですか」と納得できるようなものでもなかった。

 グラハムがクオンたちに行った仕打ちを振り返れば、当然のことだ。会食中の雑談めいた交渉に応じなったがばかりに兵をけしかけ、なおかつ屋敷に火を放ったのだ。クオンがごく普通の常識的な能力しか持っていない人間ならば、命を落としていたかもしれない。

 百人に及ぶ騎士団員たちの包囲を打ち破り、屋敷から脱出できたとして無傷ではいられなかったに違いない。こうした五体満足でいられるのは、すべて、盾の能力のおかげだった。見えざる防壁を形成する純白の盾があったればこそ、クオンたちは、この夜空を再び拝むことができたのだ。

 大きな月と無数の星々が鏤められた夜空は、丘の上で未だに咆哮を上げる紅蓮の猛火にその領域を侵され、わずかに赤らんでいる。風は緩やかで、どこか余所余所しい。それは夜空に君臨する月も同様で、そ知らぬ顔で冷ややかな光を降り注がせていた。

 しかし、静寂はない。

 丘の上に聳えていた騎士団長の私邸が炎に包まれたことで、王都ルーンベレルは、大騒ぎになっているようだった。クオンたちの周囲に集まっている野次馬の数だけでも相当なものなのだが、異変に気づいた市民が各地から集まってきているらしく、群集の膨張は止められそうにもなかった。

 群集たちは、先ほどの騎士団長の叫び声の意味が理解できないらしく、口々に囁きあって憶測や推測を飛ばしていた。グラハムの罪とはなんなのか、なぜ騎士団長が傭兵如きに跪き、許しを請わなければならないのか。迫りつつある災厄とはなにか。グラハムの私邸が燃えていることと関係があるのか。

 盾の力によって拡張されたクオンの感覚は、群集の視線や囁きを不要なほど捉え、彼の頭の中を掻き乱そうとした。

 背後では、ウォルドとマナが胡乱臭げなまなざしをグラハムに投げかけていたし、スウィールも疑念に満ちた視線を注いでいるのがわかる。

 ともに火宅を脱出した騎士団員たちは、グラハムの台詞に愕然としている様子だったが。彼らの気持ちもわからないではない。突然、命を捨てる覚悟を強いられた彼らにとって、グラハムの反応は、無念という言葉では言い表せられないのではないか。もし、ひとりでも命を落としていれば、それこそ無駄死に以外のなにものではなかったということになるのだ。幸い、盾の力のおかげでだれひとり欠けることなく脱出できたのだが。だからといって許せるようなものでもないだろう。

 前方に展開する騎士団幹部たちは、それぞれに武器を構えながらも、指揮官の突然の言動にどう対処するべきか困っているようだった。自分たちも騎士団長と同調するべきなのか、成り行きを見守るべきなのか。なんにせよ、騎士団の幹部たちは、グラハムから肝心なことをなにも聞かされていないのが見て取れた。幹部である。団長の命令には従わざるを得ない。騎士団員たちがそうであったように。

 その向こう、闇に溶けるようにイリスが佇んでいる。彼女は、グラハムたちの居場所を突き止めるために先行させていたのだ。グラハムたちがまだ屋敷の近くにいるとは想っても見なかったが、イリスが足止めしてくれたおかげで追いつけたのは明白だった。クオンがイリスに視線を送ると、彼女は照れたように顔を背けた。

「非を認めるといっているのです。わたしが間違っていたと。すべて、わたしの過ちであったと」

「間違っていた? 過ち? それがどういう意味なのか、どうしてそう想ったのか教えていただけませんか?」

 クオンは、グラハムに視線を戻すと、静かに問いかけた。群衆が一斉に静まり返る。クオンとグラハムのやり取りを一言たりとも聞き漏らさまいとしているのかもしれない。それは騎士団員たちも同様であるらしい。

 ざわめきが消えた。

 グラハムは、クオンの眼を見つめていた。相変わらずなぜか眩しそうにはしているものの、視線は逸らさなかった。彼が、口を開いた。

「……わたしは、天使様の降臨に立ち会ったのです」

「天使の……降臨」

 クオンは、その突拍子もない言葉を反芻しながら、いつか幻視した光景を脳裏に描き出していた。晴れ渡る空。雲ひとつない快晴。青く澄んだ空は、涙が出るほどに美しく愛おしかった。その澄み切った蒼空を一対の翼を持つ影が泳いでいく。鳥にしては大きな影だった。そして、その影はクオンを見ているようだった。

(天使……)

 ここは異世界。クオンが生まれ育った世界とは多くの点で異なるのだ。ひとが生き、魔物が呼吸し、幻想が謳っている。武装召喚術という魔法が行使され、竜や巨人の伝説が息づいている。天使が実在しているのだとしても、なんら不思議ではない。いや、不思議は不思議なのだが。

「天使様は、マージアに〝魔〟が興るとお告げになられました。其は倒すべき敵であると、討つべき敵であると、滅ぼすべきであると」

「俺たちがマージアを拠点にしていたから〝魔〟と断定したのか。冗談じゃない」

「納得しかねます。元々、わたくしたちの拠点をマージアに定めたのは、あなたがたではないのですか?」

 ウォルドとマナが、口々に意見した。ふたりの言い分ももっともだったが、クオンは、口を挟まなかった。脳裏に浮かべた青空の光景が、彼の思考を多少鈍化させていた。空を横切る影はただひとつ。翼を広げ、気持ち良さそうに泳いでいる。その光景は神秘的でありながらどこか懐かしく、クオンは、珍しく郷愁を覚えたものだった。

「そうだ。わたしはどうかしていたのだと想う。天使様の御言葉を聞き、舞い上がっていたのかもしれない。陛下が、《白き盾》の拠点をマージアからルーンベレルに移すつもりだと知ったとき、わたしは、ついに〝魔〟が到来するのだと思った。だが、それは逆に好機だとも考えた。〝魔〟を討ち滅ぼせば、きっと天使様はこの国を祝福してくださるだろう。ベレルに安寧と平穏が訪れるはずだ、と」

 グラハムの言葉を聞き終えた頃には、さすがのクオンも幻想から解き放たれていた。頭の中が目まぐるしく回転する。天使様と彼はいった。彼は、ヴァシュタラの信仰者なのだろう。それもかなり熱烈な信者であることは、彼の台詞を聞いているうちにわかった。だからこそ、彼は怪訝な顔をした。

「そこまで思い込んでいて、どうして過ちを認めるんです?」

「それは、クオン様に光を見たからです」

 グラハムが、顔色ひとつ変えずに告げてきた。どこか眩しそうにこちらを仰ぎ見ているのは相変わらずだったが、神妙な面持ちそのものだった。その言葉の意味するところは判らない。

 光とはなんなのか。

 クオンは、反芻するように尋ねた。

「光?」

「それは天使様と似て非なる光でした。ヴァシュタラの教えに説かれる、人間の姿をした救い主が持つとされる光をあなた様に見出したのです。そして、それこそがわたしという人間の存在意義。わたしが生まれ、今日まで生きてきた理由であるのだとわかりました」

「なにをいって――」

「クオン様こそが、この混沌の大陸に平穏と安寧ともたらすため、神に遣わされたひとの姿をした救い主であると確信したのです」

 グラハムの前例の言葉は、場に静寂を満たした。聴衆は、グラハムの発した言葉に対してどう反応していいのかわからなかったのかもしれず、あるいは敬虔なヴァシュタラ教徒である彼の発した言葉だからこそ、沈黙せざるを得なかったのかもしれない。ベレルの国教である以上、この場に集った野次馬のほとんどがヴァシュタラ信徒なのだ。騎士団長の言葉と振る舞いを無視できるはずもない。静寂の中に波紋が広がり、小さなどよめきが起きる。

 騎士団幹部たちも同様だった。グラハムの真に迫る言い様は、幹部たちが取るべき行動を明示しているともいえる。彼らは、次々に得物を納めると、グラハムよろしく跪き、クオンを仰いだ。そうしながらも、彼らは納得しがたいといった表情を隠せずにいた。当然だろう。クオンは彼らにとって抹殺すべき対象だったのだ。それが一瞬にして仰ぎ見るような存在へと変わるなど、到底考えられるものではない。

「神に遣わされた……? ぼくが?」

 反芻とともに、心音が高鳴る。

 クオンは、茫然とした。グラハムの言葉に込められた力に、ひとびとの反応に、そしてそれを不快と感じず、むしろ当たり前のように受け入れようとする自分自身の心境に。頭を振る気にもならない。グラハムの語った言葉の意味を理解してなおかつ、否定しようとも想わなかった。

 元より自分が他人の意見を強情に突っぱねるような人間ではないことはわかっているが、それとこれとは別問題だろう。ついさっきまで全力で殺しにかかってきた相手が、突如として神の遣い、救世主などとのたまってきたのだ。常軌を逸している。狂気といっても差し支えないのではないか。普通ならば警戒するべきところだ。裏を疑い、真意を探るべきだ。慎重になるべきなのだ。

 しかし、クオンは、疑念を差し挟もうともしなかった。相手は、信仰心が強すぎるあまり、部下を犠牲にしてでもクオンたちを抹殺しようとした男だ。彼が態度を百八十度改めただけで、ある程度の説得力を伴うのではないか。その上、彼は全生命を賭して言葉を発しているようだった。純粋に信じている。

 クオンは、グラハムのその純粋さを好ましく想った。さきほどの凶行も、彼の信仰心が純粋すぎる故に引き起こされた悲劇だったのかもしれない。そう考えれば許せなくもない。なにより、ひとりとして犠牲者が出ていない以上、クオンが彼に罪を問う理由はほとんど消滅していた。無論、傭兵団長としてすべてを水に流すことはできない。が、彼の個人的な感情としてのわだかまりはなくなりかけていた。

 自分の命を奪おうとした相手ではあるが、一度許してしまえば全力で手助けしたくなるのがクオンである。クオンは、グラハムを救いたくなっていた。しかし彼の場合、なにを持ってすれば救いといえるのだろう。ただ力を貸せばいいのならば、それほど単純なことはないが。

「まあ、わからなくはないんですがね」

 不意に、ウォルドが口を開いてきた。彼は、周囲を見回しながらどこか気恥ずかしそうに目を細めていた。ふと気づくと、クオンたちとともに火宅から脱出してきた騎士団員たちも、団長や幹部に習ったかのように跪いていた。彼らのまなざしは、幹部たちのそれとは違い、熱が篭もっていた。あの地獄から生還できたことへの感謝もあるだろうが、中には騎士団長の言葉を信じたものもいるように見受けられた。視線に込められる熱量が違うのだ。

「そうですね。わたくしにもわかりますわ。それはイリスもきっと同じ」

 やはりどこか恥ずかしそうでありながら嬉しそうなマナの言葉に、クオンは、騎士団幹部たちの後方に佇むイリスに視線を向けた。

 漆黒のドレスを身に纏う彼女は闇よりも暗い影のようであり、暗殺者としての本性がわずかに覗いている。だが、敵を前に殺気を曝け出すのは暗殺者としては二流三流であるという。どれだけ上手く忍び寄ることができても、殺気を感知されてしまえば失敗なのだ。もっとも彼女ならば、忍び寄りさえできれば殺気を感知されたところで、有無を言わさず斬り殺してしまえる気がしてならなかったが。

「イリスも? いったい、なんの話なんだ?」

「御本人にはわかりかねますかな?」

「スウィールさん」

「わたしは、クオン様をはじめてお見かけしたとき、ついに天からお迎えが来たのかと覚悟を決めたものですよ」

「俺、言いませんでしたっけ。クオン様に最初に会ったとき、あなたに光を見たって」

「わたくしも、クオン様に光を見ましたわ。だから、ついていこうと決めたのです」

「……なんかずるいな。ぼくにはなにがなんだかわからないのに、みんな勝手に納得しちゃうんだもの」

 ぼやくように言いながらも、クオンは微笑を隠せなかった。大切な仲間たちとの出逢いを思い出してしまったのだ。スウィールとの出逢いから始まり、ウォルドを紹介され、マナと知り合った。イリスには出遭って早々殺されかけたものの、なんとか思いとどまらせることができたのは彼にしても上出来だったろう。

 運が良かった。

 恵まれていたのだ。

 この世界に来てからというもの数多くの出逢いがあり、別れがあったが、その多くがクオンにとって良い方向に働いているような気がする。

 今回のこともそうだ。途中こそ最悪の事態に陥りかけたが、いまのこの状況は、彼にとっても《白き盾》にとっても決して悪いものではなかった。敵対者だと思っていた人物が、一方的に頭を垂れ、尻尾を振ってきているのだ。悪くはない。だが、必ずしも心地よくはない。彼が求めているものとは多少形の違う対応だからかもしれない。

 救いはしたいが、救い主とやらになりたいわけではないのだ。勝手な言い分だろうが、それが本心だった。もちろん救い主などといっているのは、目の前の騎士団長くらいのものだが。

「皆、クオン様に光を見出したということではないのですか?」

 グラハムは、ウォルドたちの反応がまるで当然のことのようにいってきたが、クオンには納得できかねなかった。が、彼のいいたいこともわからないではない。

 理屈ではないのだろう。

 それだけはクオンにも理解できる。彼の個人的な親友への想いや、人々を救いたいという気持ちも、理屈などではなかった。どれだけの理屈を並べ立てても説明できないものだって、この世には存在するのだ。

 クオンは、そう結論付けると、グラハムの眼を見た。眩しそうに目を細める彼の網膜には、本当に光とやらが投影されているのかもしれない。そんなことを考えて、彼は胸中で苦笑した。

「納得しがたいけど、理解はしました。みんながぼくに光を見たっていうのなら、それはその通りなんでしょうね」

 否定はしない。受け入れた上で、考えるのだ。

 こんな自分に光を見たというのならば、その期待には応えないといけない。

 クオンは、速やかに思考を切り替えると、グラハムのいっていたことに思いを巡らせた。天使の降臨と、彼を駆り立てた予言について考える。天使が実在すると仮定した場合、その予言は信じるに値するのだろうか。だとしても、なぜそうも曖昧な予言なのか。そもそも、〝魔〟とはいったいなんなのか。

 クオンは、マージアでの出来事を思い返した。あの小さな街を出るまでになにがあったのか、そのすべてを。

 戦いがあったのだ。拠点として借りていた屋敷が半壊するほどの規模の戦闘。ベレル国内が騒ぎになるどころか、王都に報告さえされていなかった様子を見ると、屋敷の持ち主であり街の名士でもあったカーウェル老人が手を回してくれたのかもしれない。

 それは国家に対する裏切りに等しかったが、カーウェル=カリオンにしてみれば、国民に安寧と平穏を約束できない国家こそ大いなる裏切りものだとでも言いたいのかもしれない。彼はベレル王家と騎士団に対して辛辣な考え方の持ち主だった。そんな彼がたかが傭兵集団に過ぎない《白き盾》のために色々と尽力してくれたのは、どういう風の吹き回しだったのか。

 ともかくも、名士が手を尽くせば揉み消せるくらいの戦闘ではあったということだ。

 しかし、その戦いの原因を考えれば過ぎ去ったことと笑い飛ばせるわけもない。

「天使様はマージアに〝魔〟が興ると告げられたのですね?」

 クオンは、グラハムに向かって尋ねながら、その脳裏にひとりの女の姿を浮かび上がらせていた。煉獄の炎の如き緋色の髪を靡かせ、すべてを見透かすような黄金の瞳を持つ女。数多くの伝説を持ち、無数の異名で呼ばれる紅き魔人。武装召喚術の基礎を築き上げながら、《大陸召喚師協会》から追放されたと噂される人物。魔性そのもの。

 女は、アズマリア=アルテマックスといった。

 クオンをこの世界に召喚し、あまつさえセツナをも召喚した女だ。

「はい。確かにわたしはそう聞きましたが……」

 グラハムが顔を俯けたのは、その予言を聞いたがために暴走してしまったことを恥じたからかもしれない。

 クオンは、そんな彼を見つめながら、やはりアズマリアこそが〝魔〟ではないのかと考えていた。

 彼女は、召喚武装たるゲート・オブ・ヴァーミリオンの力を用いて皇魔を召喚、クオンにけしかけてきたのだ。クオンは無論、抗戦した。当然のことだ。皇魔などという制御のできない化け物を相手には、力以外で対処することはできなかった。それは己が無力だからだと想うのがクオンであり、彼は、その戦いの中で無残に散り逝く化け物たちの魂が天に昇るのを幻視した。

 だが、クオンは敗れ去った。完全な敗北。後先考えずに力を行使した結果である。だが、それは仕方のないことだったのかもしれない。

 シールド・オブ・メサイアでは、相手の攻撃を防ぐことはできても、相手を倒すことはできない。しかも敵は皇魔である。戦うには、力ある武器が必要だった。そのために彼は仲間を招集するよりも、盾とは異なる武装を召喚するという選択をした。ウォルドたちは出払っていたのだし、その選択も間違いではない。だが、結果として彼は破れ、イリスたちが駆けつけてくれなければ命を落としていたかもしれなかったのだ。

 激情に支配されて暴走した上、皇魔相手に敗北するという失態を犯した己の迂闊さを戒めながらも、彼は、それも自分らしいと想わないでもなかった。だからといって許容できる過ちでもないが。

 あのとき、アズマリアは、地に倒れ伏したクオンに対して失望の言葉を投げ、消えて失せた。《門》を使い、文字通り消失したのだ。その後の消息はわかるはずもない。神出鬼没はアズマリアの代名詞でもあった。ゲート・オブ・ヴァーミリオンの力を行使すれば、大陸の北端から南端へと一瞬で移動することさえ容易いという。クオンたちを召喚したように、異世界に転移することさえ可能なのかもしれない。

 かの魔女の居場所もわからなければ目的もわからない以上、このルーンベレルに突如として表れ、夜の王都を混乱と恐怖のどん底に陥れる可能性だってあるのだ。

 そこまで考えて、彼は、小さく首を振った。

(いや……)

 紅き魔人の目的は多少わかっている。ひとつは、クオンを武装召喚師として鍛え上げようとしているらしい。彼女の言葉の端々からそれとわかったのだが、それだけならばまだいい。しかし彼女の傍若無人なやり方は、クオンのみならず周囲の人間を巻き込みかねないのだ。実際、アズマリアがマージアで召喚した皇魔は、クオンへの試練などと嘯いておりながら、彼の仲間だけでなく街の人々へも危害を加えようとしていた。人間を敵とする皇魔にとってはごく当然の行動だったが、そんなものを街中で召喚するアズマリアが彼には許せなかった。そして、そうである以上、彼女がここに現れないという道理もなかった。

 むしろ、ここに現れるに違いないという確信すら抱く。

 なぜかはわからない。

 アズマリア=アルテマックスという人物を理解しているはずもないのに、だ。

 そして、その確信は天使の予言が後押ししているのだ。

〝魔〟はマージアに興り、ルーンベレルに襲来する――。

 クオン、は盾を掲げた。真円を描く純白の盾。大いなる守護シールド・オブ・メサイアと名づけた彼の召喚武装。《白き盾》の名前の由来にして、《白き盾》が無敵の傭兵集団たる所以。その能力は、対象を見えざる力場の障壁で包み込み、打撃や斬撃など様々な外圧から身を護るというものだ。その防御力たるや素晴らしいものであり、クオンが盾を召喚し、その力を行使しただけで勝敗が決するといっても過言ではなかった。

 だが。

「クオン様?」

 グラハムの問いには応えず、彼は、周囲を一瞥した。見回さずとも群衆の数はある程度把握できていた。盾の召喚による身体能力の拡張がそれを可能にするのだ。それでも、この眼でもう一度確認しておかなければならないと思った。感覚だけを頼りにするのではなく、精確に把握しておくべきだろう。ひとりの漏れも許されない。野次馬に集まった市民のうち、だれひとりとして怪我ひとつ負わせるわけにはいかない。自業自得、などといっている場合でもない。力があるものには力なき弱者を護る義務がある。少なくともクオンはそう信じていた。

 故に彼は力を行使することを躊躇わない。

 クオンを中心に周囲に集まった市民の数は優に五百人を超えており、想像を上回る野次馬の多さに彼は少なからず驚きを覚えた。無論、王都を見下ろす丘の上に聳える騎士団長の私邸が、突然火に包まれたのだ。すわ事件かと飛び出すものがいないわけもないのだが、それにしても多すぎた。

 クオンの盾とて絶対無敵というわけではない。

 例えばクオンひとりを護るためだけに力を行使するならば、それこそ無敵となりえる。あらゆる衝撃を跳ね除け、どのような攻撃からもクオンを護ってくれるだろう。しかし、防衛対象を増やせば増やすほど、盾の防御精度は下がっていった。それでも百人程度ならば無敵に相応しい力を発揮するのだが、五百人の群集と百人の騎士団員、グラハムたちにウォルドらを含めるとなると、どれくらいの防御力を堅持できるものか。

 バルサー要塞での戦いにおいても、それほどの人数に対して盾の力を行使したわけではない。アスタル=ラナディース将軍率いるわずか五十人の精鋭部隊に対して使用したのみであり、その人数で難攻不落といわれていたらしい城塞を落としたからこそクオンは評価され、その名を広く流布されたのだろう。

 ともかく、クオンは、盾の力を解き放った。純白の盾がまばゆい光を発する。白き閃光は、瞬く間に周囲一帯を包み込み、彼の望むとおりの結果をもたらした。輝きは一瞬。余韻も残さずに消え失せ、クオン以外には盾の力が働いている事実すら認識させない。群衆の中のだれひとりとして、なにが起こったのかわからなかっただろう。盾が発光したとしか理解できなかったはずである。彼の盾の力はそれほどまでに密やかに発揮される。目に見えてわかるようなものではない。

 それでいいのだ。召喚者当人でさえ、その力に気づくのに時間がかかった。無敵の防壁を構築する盾など、想像できるはずもない。その上、盾の力場は眼に映りもしなければ、触って実感できるようなものでもない。なんらかの外圧を受けてようやくその守護を実感できるのだから、クオンの盾を見たこともない人々が一目見て理解できるわけがなかった。

 この場に集ったすべての人間を盾の保護下に置けたことに安堵を覚えながらも、クオンは、決して油断することはなかった。むしろより強い警戒感を以て事に当たろうとしていた。

 必ず来る。

 確信は、クオンの意識を冴え渡らせていく。

「グラハム殿、いますぐ騎士団を纏め上げ、王都防衛に全力を尽くしてください。市民の皆さんを安全な場所に誘導するのも忘れずにお願いします。ぼくらも全力を上げて王都を護りますが、ぼくらだけで守り抜くにはこの都市は広すぎます」

「ということは、〝魔〟が到来するということですか?」

「間違いなく――」

 クオンは、ふと感じるものがあって頭上を仰いだ。わずかに赤みを帯びた夜空は、いつもとは違う表情を浮かべているように見えた。銀の月も数多の星々もなにかを忌避するかのように余所余所しく、白々しい光を落としてきている。それは錯覚。幻視に等しい。しかし、彼の眼には虚空に生じる小さなひずみを捉えていた。薄明るい闇に刻まれた微かな亀裂のようなそれは、まるでクオンの発見を待っていたかのように唐突かつ急速にその範囲を拡大させていく。

「ほら」

 クオンがだれとはなしにつぶやく間も、彼の視線の遥か先の虚空では変化が起きていた。歪は波紋の如く広がり、地上と星々の間に奇妙な紋様を描き出す。円と直線を多用した複雑極まりない紋様は、見ようによっては武装召喚術の術式に見えなくもない。いや、間違いなく術式を視覚化したものに違いないのだが、規模があまりにも大きすぎた。とても人間が扱う武装を召喚するための魔方陣には見えなかった。

 魔人と呼ばれる存在が構築したのならば理解できる。

「ほら、とは?」

 グラハムの問いを黙殺する形で、クオンは、背後のふたりに声を投げた。

「ウォルド、マナ、準備はいいかい?」

「俺はいつでも構いませんよ」

「わたくしも準備万端整っておりますわ」

 頼もしいふたりの返答に満足げな笑みを浮かべながらも、クオンは、夜空に構成された召喚術式を凝視していた。彼の網膜には魔方陣として映りこむそれは、グラハムをはじめ、武装召喚術を学んだことのないひとの眼には捉えられないものなのだ。古代言語の呪文とともに体外に放出された命の力であるそれを認識するには、みずからもまた、命を燃やし、魂の根底に流れる神秘の力を解き放たなければならないという。

 クオンは、武装召喚術を学んだわけではなかったが、なぜか目視することができた。それは武装召喚術の行使に関してもいえることだ。武装召喚とたった一言口にするだけで、彼の力は解き放たれ、異世界から武装の召喚は為された。そして、術式を目視できるようになっていた。

 アズマリアがクオンを召喚した意味がここに隠されているのかもしれない。

 やがて、頭上の魔方陣が完成した。

 爆発的な光が魔方陣から拡散し、夜空を純白に塗り潰した。力の奔流を感じる。莫大な力が渦巻き、巨大ななにかが形作られていく。遥か上空。ここからではどれだけ手を伸ばしても届くはずもなく、召喚武装の顕現をとめさせることはできない。術式が完成した時点でわかっていたことではあったが。

 どよめきが起こったのは当然だろう。闇夜を引き裂く閃光は、一瞬ではあったが、ひとびとの網膜さえも真っ白に染め上げたに違いない。それは、クオンの盾の光よりも強烈で獰猛な光の奔流。目にしただけで悲鳴を上げたくなるような極光。圧倒的で暴力的な力の波動。

 驚くのは当たり前だった。

「アズマリア=アルテマックス!」

 クオンは我を忘れて大声を上げていた。

 光が消え去ったあと、彼の視線の先にあったのはとてつもなく巨大な門であり、さながら王都ルーンベレルを覆う天蓋のようなそれは、いつになく享楽的かつ退廃的な形状をしていた。

 百万世界の門ゲート・オブ・ヴァーミリオン

 クオンは、複雑な形状をした門扉がゆっくりと開いていくのを見つめていた。門扉がわずかに開き、その向こう側から瘴気が漏れてくるのを目撃する。さらに瘴気たゆたう門の向こう側に無数の紅い光点が蠢いているのを確認したとき、彼は、眼を見開いていた。肥大した感覚が、それらの殺意を敏感に感じ取る。鋭利な刃のように研ぎ澄まされた殺気の群れ。

 そして、門が完全に開く。

 どす黒い瘴気とともに皇魔の雨が降り注いできた。


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