第七百十四話 ゼノキス要塞へ
大陸歴五百二年二月六日。
反クルセルク連合軍ガンディア軍が、ゼノキス要塞南東に築いた野営地を撤収し、進軍を再開したのはその朝のことだった。
朝焼けが東の空を真っ赤に燃え上がらせ、暗い空を青ざめさせていた。たなびく雲は風に押し流され、真冬の冷気が行軍する将兵の身に染みるようだった。息が凍るように白かった。
長期間滞在しているとわからなくなりがちだが、ここは敵地だ。警戒を怠ってはならない。末端の兵士から頂点の王に至るまで、極限の緊張感をもって進軍を続けていた。
敵の拠点は、残すところふたつ。
ゼノキス要塞、そして魔都クルセール。
ゼノキス要塞さえ落とせば、あとはクルセルクの首都を残すのみとなるということだ。そして、敵の現有戦力は、ゼノキス要塞で尽きるだろう。魔王軍は、ウェイドリッド砦に籠もった連合軍を殲滅するためにほとんどすべての戦力をつぎ込んでいる。
覇獄衆なる陸戦軍団、魔天衆なる飛行軍団、そして鬼哭衆と呼ばれる軍勢。それらが、連合軍の三軍団とかち合い、それぞれ連合軍の勝利で終わっている。もちろん、すべての戦いで皇魔を殲滅できたわけではなかった。勝利を最優先とした結果、多数の皇魔が生き残り、撤退した。
皇魔が逃げ帰った先はゼノキス要塞だろうというのが、マリク=マジクの予想だった。彼の広大な感知範囲は、皇魔の逃走経路を完璧に近く把握させた。
ゼノキス要塞は、魔王軍の生き残りによって防備を固められていると見るべきであり、激戦が予想された。しかし、こちらもガンディア軍だけで要塞攻略に臨むことにはならないだろう。リネン平原のジベル軍は、戦闘直後ということもあって参戦は遅れるかもしれないが、サマラ樹林を突破したアバード軍は、ガンディア軍と同時期にゼノキス要塞に到達する見込みだった。
東西から同時に攻撃することができれば、敵防衛戦力を分散することもでき、勝利に近づくだろう。
ガンディア軍の現有戦力は一万千五百程度だ。ウェイドリッド出発時が約一万二千であり、ウェイル川の戦いで五百人ほどが戦死しているということになる。五百人。少なく思えるかもしれないが、普通に考えて死に過ぎであろう。もちろん、敵の主力が皇魔であることを考えると、勝利の代償としては少ないほうなのだが。
『もっと被害を抑えられなくては、軍師失格ですね』
ナーレス=ラグナホルンの一言が、レオンガンドの頭の中に残っている。
軍師を名乗るものならば被害を最小に抑え、最高の戦果を上げなくてはならない。
彼の覚悟と決意を頼もしく思ったものだが、同時に不安を抱きもした。彼は、急いでいる。なにもかも、急いでいるように見えるのだ。勝利を、結論を、生を、急ぎすぎているのではないか。
(時間がない……か)
ナーレスの命の時間は、あまり残されていないのだという。だから、なにもかも急いでいる。勝算が少ないにも関わらずクルセルクとの戦いに打って出たのも、時間の少なさが影響しているのだ。残された時間でどれだけのことをガンディアにできるのか。どれだけ、ガンディアを発展させることが出来るのか。ガンディアを強く出来るのか。ナーレスの頭には、それしかない。だからこそレオンガンドは彼を信用し、彼にすべてを任せることができた。
彼ならば、ナーレスならば道を違えることはないだろう。
全幅の信頼を寄せた。
なればこそ、覚悟もできよう。
ゼノキス要塞を目前に控え、レオンガンド・レイ=ガンディアは、決意を改めた。心残りがないとはいわない。子が生まれなかったのは残念だが、それでガンディア王家の血が絶えるわけではない。血が残れば、王家は続く。また、たとえガンディア王家の血が絶えたとしても、ガンディアという国が滅びるわけではない。ガンディアがあり続ける限り、レオンガンドの成したことは無意味ではない。
(そうであろう?)
胸中でだれとはなしに問いかけたとき、前の方で騒ぎがあった。
「なにごとか?」
レオンガンドが左右のものに問うと、《獅子の牙》の隊士がひとり、馬を飛ばしていった。しばらくすると、先ほど飛び出していった隊士が物凄い勢いで戻ってくるのが見えた。
「なにもそこまで急ぐことはなかろう」
レオンガンドは笑ったが、隊士が近づいてくると、彼が急いだ理由がわかって、笑っていられなくなった。いや、喜ばしいことなのだ。だが、笑顔ではいられなかった。喜びと、嬉しさのあまり、涙がこぼれた。
《獅子の牙》隊士の馬には、漆黒の甲冑を身につけた少年が乗っていた。竜を模した鎧は、竜殺しに相応しい威容を兼ね備えている。もっとも、兜を外している手前、ドラゴンらしさは消えてなくなっていたが。
「おお、セツナ! セツナか!」
レオンガンドは馬を飛び降りると、隊士の馬に駆け寄った。行軍が一時止まってしまうが、仕方がない。ここは、進軍よりも彼との再会を喜ぶべきだった。彼の帰還を喜ぶべきだった。
セツナが馬から降りた。
「陛下! セツナ・ラーズ=エンジュール、只今戻りました!」
「よくぞ戻った……!」
レオンガンドは、セツナの手を取って、それだけをいった。それだけしかいえなかった。ほかにもいうべき言葉、伝えるべきことはいくらでもあったはずだが、感極まってなにもいえなかったのだ。
セツナは、ウェイドリッドで最後に見た時とあまり変わらない様子だった。消耗こそしているものの、負傷は見当たらない。巨鬼を相手によく無傷で乗り越えたものだと感心するが、それはセツナだからこそなのかもしれないとも思った。
セツナと黒き矛だからこそ、巨鬼を倒すことができたのだ。
「よくぞ……」
レオンガンドは、セツナを抱擁して、感激の意を表した。《獅子の牙》や《獅子の爪》の隊士たちが拍手しながら涙しているのは、彼らにはセツナの労苦が理解できるからだろうし、レオンガンドの行動に感動したからかもしれない。
彼は、セツナの報告を後回しにして、休ませた。
ここまでどうやって来たのか、巨鬼はどうなったのか、など聞きたいことは山ほどあったが、いまは休ませるべきだ。ゼノキス要塞まで数時間。合流したということは、セツナにも戦ってもらわなければならなくなった。もっとも、レオンガンドがセツナに休養を強制しても、彼は戦いとなれば参加し、だれよりも戦果を上げるのだろうが。
そういうところは頼もしくもあったが、危なかしくもあった。
だが、レオンガンドは、セツナと合流出来たことには素直に喜び、運命に感謝した。セツナとの合流は、レオンガンドの目的を果たすための大いなる力となる。
太陽が空の中心に至る頃、ガンディア軍はゼノキス要塞の目前に到達した。
ゼノキス要塞は、リネン平原の北に位置している。クルセルクの軍事拠点のひとつであり、その中でも最大のものだろう。堅牢な多重城壁に覆われ、その周囲を皇魔が囲むことで防壁をさらに厚くしている。城壁の上には正規兵の姿もあり、クルセルクが皇魔のみに頼っていられなくなったという現状を示しているようにも思えた。
それでも一万以上の皇魔がゼノキス要塞を取り囲んでいるのだが。
「セツナ伯のいってたのはあれかー」
マリク=マジクは、エレメンタルセブンなる召喚武装を展開すると、ゼノキス要塞を見やっていった。彼の広い視野には、ゼノキス要塞の全貌が映り込んでいるのだろう。武装召喚師の視覚は、通常人よりも優れたものになりうる。
「確かにカミサマの所業かもね」
セツナは、数時間あまりの休憩後、巨鬼とその本質についてナーレスに報告している。巨鬼とは、異世界より召喚された神そのものであり、その力は、セツナと黒き矛すら軽く凌駕するという。リネンダールの大穴からリネン平原を攻撃したといい、マリク=マジクが目撃したのは、その破壊がゼノキス要塞にまで至ったという事実だった。
実際、ゼノキス要塞の城壁が大きく破壊されているという報告があり、報告に訪れた兵士たちは総じて首を傾げていた。要塞の城壁を破壊されたまま放置するなど、通常では考えられないことだからだ。しかし、それも昨夜の出来事ならば、納得できる。一晩では修復できまい。
「神……」
聖皇ではなく、別の人間によって召喚された神は、セツナに一方的に再会を約束して消えたという。
つまり、セツナは巨鬼を倒せなかったということになるが、それは問題ではなかった。巨鬼を無力化し、連合軍の勝利に貢献してくれた事実に変わりはないのだ。
「神とやらの行動は気になりますが、いまはゼノキス要塞のほうが大事ですね」
ナーレス=ラグナホルンの言葉に、レオンガンドは、意識を目前の要塞に集中させた。