第七百十三話 救い(四)
リネン平原の戦いは、ジベル軍の勝利で幕を閉じた。
白聖騎士隊による囮作戦に始まる一連の策によって魔王軍は翻弄され、ジベル軍は優位を保ったまま戦いを終えることができたのだ。
自軍陣地に構築した包囲陣に誘き寄せた皇魔たちを相手に、ただの人間がよくも戦い抜いたものだと、エイン=ラジャールなどは思ったようだが、実際、そのとおりではあっただろう。武装召喚師が数多く参加しているとはいえ、主力となる四大天侍のひとりは使い物にならず、ひとりは別働隊として陣地を離れていた。《獅子の尾》のファリア・ベルファリア=アスラリアも別働隊として行動しており、主力級の武装召喚師が不足していたのは否めない。もちろん、普通の武装召喚師であっても通常戦力とは比べ物にならない攻撃力を持ち、彼らの存在がジベル軍の勝利に繋がったのはいうまでもないが。
「快勝とは言い難いな」
ハーマイン=セクトルは、本陣周辺の有り様を見て、いった。彼の目には、死屍累々の惨状が写り込んでいるのだろう。
謎の光によって蹂躙された直後、ジベル軍は包囲陣の再構築に尽力した。光の蹂躙は皇魔の数を激減させたが、それでも気を抜くことはできなかった。戦力が低下したのは、ジベル軍も同じだったからだ。
包囲陣は狭まり、皇魔と人間の戦いは加熱した。が、それもわずかばかりのことだった。皇魔たちが突如統制を失い、暴れだしたのだ。暴走した皇魔の軍勢は、ジベル軍本陣を強襲し、破壊と殺戮を撒き散らして包囲陣を突破した。そして、そのまま戦場から消え失せたのだ。
ジベル軍は、皇魔の追撃は行わなかった。
皇魔が統制を失ったということは、指揮官が倒れたということにほかならない。
勝利したのだ。
「さすがにあれは予想できませんよ」
エイン=ラジャールがいったのは、戦いを終局に導いた光のことだろう。進路上のものを有無を言わさす消滅させた光芒。あの光の正体については、武装召喚師にもわからないということだ。
リネンダールの巨鬼と関係しているのは間違いないようであり、光の柱が消え去ったのも関係しているのかもしれない。
「ナーレス=ラグナホルンでも無理だったでしょうね」
ハルベルクはエイン=ラジャールの発言に同調しながら戦場を見回した。千に近い皇魔の亡骸が転がり、それに匹敵する味方兵の死体が転がっている。光芒によって消滅した将兵、皇魔の数のほうがそれを上回っているようなのだからやっていられない。
地に刻まれた光芒の痕跡を見ていると、巻き込まれて死んでいったものたちの無念を感じずにはいられなかった。
敵と戦って死ぬのならばまだ納得もできよう。力が及ばなかったと認識することが出来る。勝てない相手と戦えと命じた上官、組織、国を恨みながら死ねる。だが、あの光芒は、死者になにも与えなかった。ただ、消滅させただけだ。
彼らは、光の中で悲鳴を上げることもなかったのだ。死を認識することもできなかったのかもしれないし、痛みも感じずに死ねたのだとすれば、それは幸運なことなのかもしれない。
死が幸運などとは思いたくもなかったが。
やがて、指揮官の撃破という重要任務を成し遂げた強襲部隊がジベル軍本陣に辿り着いたのは、東の空が赤く染まるころだった。二月六日の朝日は、いつも以上に眩しく感じられたが、それは眠ることも休むこともなく、強襲部隊の帰還を待ち続けたことによる疲労のせいもあるのかもしれない。
強襲部隊の生き残りはたった四人だけだった。強襲部隊の纏め役であったシヴィル=ソードウィン、ガンディア王立親衛隊《獅子の尾》から借りだしたファリア・ベルファリア=アスラリア、それに《大陸召喚師協会》のオウラ=マグニス、ハンナ=エンドーウィル。皆、負傷していた。とくにオウラ=マグニスは支えがなければ歩けないほどの傷を負っており、すぐに軍医の元に運ばれた。
「十二人中四人も生きたまま帰ってこられたのです。喜ぶべきですよ」
シヴィル=ソードウィンの冷ややかな物言いは、強襲任務の苛酷さを物語っているかのようだった。
それから、シヴィルたちによって敵指揮官であったメリオルという名のリュウフブスの凶悪さが語られた。八人の武装召喚師がメリオルによって殺されたのだという。メリオルの召喚武装が人間の武装召喚師では召喚することもままならないような代物だったのだ。ほかに千体以上の皇魔が控えており、それらも確かに強力ではあったのだが、メリオルの前には霞んでしまうのだろう。
ハルベルクは、ファリアやシヴィルの報告を聞きながら、通常人である自分の無力を理解し、思い知ったのだった。
白聖騎士隊、白天戦団が本陣強襲の役割を担っていた場合、果たして任務を成功させることができたのかどうか。
(力……やはり力か)
朝焼けの本陣には、将兵の姿も少ない。夜戦だったのだ。夜を徹して行われた戦いが終わり、だれもがほっとしているところだった。仲間を失い、悲嘆にくれているものも少なくなかったし、休んでいる場合ではないと発奮しているものもいないではない。ハルベルクのように強襲部隊の帰還を待っていたものもひとりやふたりではなかった。
彼らが帰ってこなければ、この戦いが終わったとはいえなかった。
「ファリア様がご無事で安心いたしましたわ」
将軍たちへの報告が終わって真っ先に声をかけてきた人物が彼女だったことに、ファリアは脱力を覚えざるを得なかった。
「……あなたも無事でよかったわ」
「わたくしが皇魔如きに引けを取るわけがございませんでしょう」
「そうでしょうね」
相変わらずなレム・ワウ=マーロウの様子に、ファリアは嘆息を浮かべるしかなかった。レム・ワウ=マーロウは、なんともいいようのない人物だ。ジベルの暗躍機関とでもいうべき死神部隊の一員でありながら、命令とはいえ、セツナの従者を演じることに全霊を注いでいるのだ。奇妙なことだと思う反面、どんな任務にも全力なのが死神部隊というものなのかもしれないとも思ったりもした。
当初は、ミリュウに対する彼女の発言が火種となって、《獅子の尾》に不協和音をもたらしかねなかったが、いまとなっては溶け込んでいるといっても過言ではない。ミリュウはいまだにレムを毛嫌いしているが、彼女を監視するという名目でセツナに張り付いていられることが嬉しくもあるらしい。現金なものだが、それが人間というものかもしれない。
などとどうしようもないことを考えるのは、戦いが終わったばかりで疲労が溜まっているからだ。本陣に帰り着くまで休みらしい休みもなかった。
シヴィルが帰還を急いだのだ。敵指揮官を撃破したからといって戦いが即座に終了するわけではないし、指揮系統に乱れが生じたからといって皇魔が弱くなるわけではない。暴走した皇魔に手痛い反撃を喰らう可能性も捨てきれなかった。
シヴィルは、少しでも早く帰陣し、必要とあれば戦闘に参加するつもりでいたのだ。もっとも、辿り着くまでにリネン平原から皇魔が逃散していくのがわかったこともあり、連戦は避けられたのだが。
「凛々しいお顔が傷だらけですわね」
「あなたの顔は傷ひとつないわね」
「仮面をつけておりますもので」
死神壱号はそういって微笑むと、ファリアを天幕まで案内してくれた。天幕に入ると、待ち受けていたらしいニュウ=ディーに抱きつかれ、ファリアはそのまま尻餅をついてしまった。痛かったが、それよりも生還を泣いて喜んでくれるニュウ=ディーの様子に唖然とした。しかし、嬉しくないはずがなかった。
「ごめんねえええ! わたし、役立たずになっちゃってええええ」
「そんな……ニュウさんが地均ししてくれたから、戦えたようなものですし」
「わたしが一緒にいってあげられたら、こんな傷だらけにならなかったのにいいい」
「これくらい、たいしたことないですよ」
ファリアはいったが、ニュウは聞き入れてくれなかった。
ニュウはしばらく泣き止まなかった。
ファリアは、ニュウの髪を撫でながら、生きているという実感を得た。
「やあ」
声に呼び止められたのは、道を歩いているときだった。いや、道といえるのかどうか。
リネンダールに穿たれた大穴の縁を北へ廻り、そこから、神の光の跡を辿ってリネン平原を目指していた。道は、破壊の爪痕である。その草ひとつ残っていない道を進むということは、神の力の凄まじさを思い知らされるということでもあった。急ぐなら空間転移を使うべきなのだろうが、生憎、媒介とするべき血がなかった。少量の血では転移できる距離も短いのだ。自分を傷つけるのは論外だった。その後の戦闘にも支障が出る。
だから、歩かざるを得ない。
夜を越え、朝が来た。
声は、朝焼けの中で聞いた。左を振り向くと、見知った顔があった。燃え盛る炎のような頭髪が、朝日を浴びて、まさに紅く燃えていた。だれもが息を呑むような容貌を持つ美女が、その悩ましげな肢体を強調する装束に身を包み、佇んでいる。
アズマリア=アルテマックス。
「なんであんたがここにいるんだよ」
セツナは、敵意を剥き出しにしたものの、矛を召喚したりはしなかった。距離を保ったまま、相手の出方を伺う。
「わたしはどこにだっている。わたしに境界はないからな」
「境界なきもの……あんたの二つ名か」
「覚えたか」
「竜殺しは返さないぜ」
アズマリアには、ほかにもいくつかの二つ名があった。紅き魔人、竜殺し、空を渡るもの。そのうち、竜殺しはいまやセツナの代名詞となっていた。そうなるよう、ガンディアが仕向けたということにほかならない。そしてそれは、ザルワーンの守護龍を討伐した事実は、セツナを喧伝するのに格好の材料だったからだ。
アズマリアは、小さく笑った。セツナの反応が予想外だったのだろう。
「いいさ。わたしが殺したのは、異世界のドラゴンではないからな」
「ってことは、この世界にもドラゴンが存在するのか?」
「それはそうだろう。でなければ、だれがわたしを竜殺しなどというのだ」
「そっか……そうだよな。いまでもいるのか?」
「さあな。北には未開の地があるという。そこにならいるかもしれん」
「ふうん」
セツナが相槌を打つと、なにが気に食わなかったのか、アズマリアはその美貌を歪めた。
「世間話をしている暇はあるのか?」
「ねえよ」
「だったら、少しは焦ったらどうだ」
「焦ってどうなるってんだ」
「紅き魔人が救いの手を差し伸べてくれるかもしれんぞ?」
女は、妖艶に笑った。