第七十話 見出すもの
屋敷が燃えている。
轟然と、燃えている。
真紅の猛火が、夜の闇を引き裂き、星々の煌く天上をも焦がすほどの勢いで立ち上っている。屋敷の全焼は免れない。敷地内にあるものはすべて灰燼と帰すだろう。それは当初からわかっていたことだし、後悔もない。
王都ルーンベレルを見渡す丘の上に聳える壮麗な屋敷は、王国騎士団長グラハム・ザン=ノーディスの私邸にして、彼の権威の象徴とでもいうべき建物だった。父祖伝来の土地などではない。彼がこの地位に上り詰めてから、みずからの意志で手に入れたものだった。思い入れがないはずがない。だが、背に腹は変えられないのも事実だ。
それに屋敷ならばまた建てればいい。丘を失ったわけではないのだし、別邸も持っている。王都で生活する上での問題は、まったくといっていいほどなかった。むしろ、王宮に程近い別邸のほうが利便性では格段に上だった。
痛みは、ある。
魂が震えている。
慟哭。
部下を巻き添えにしてしまった。将来有望な騎士団員たち。名と顔が脳裏に浮かんでは霧散する。彼らのことを想うだけで心が折れそうになる。
しかし、必要な犠牲だったのだ。
その上、無敵にして不敗の傭兵集団《白き盾》を討つために払った犠牲としては少なすぎるといっていい。
たった百人で《白き盾》団長クオン=カミヤを討ち取るなど、笑い話にもならない。もしそのような作戦を立案したとして、失笑を買うことすらできないだろう。黙殺されるのが精々だ。あるいは、その頭の弱さに絶望されるかもしれない、
《白き盾》とは、それほどの強敵なのだ。
半年前、突如としてガンディア軍とログナー軍が対峙する戦場に現れ、ログナーに難攻不落のバルサー要塞を陥落せしめ、奇跡的とも言える大勝利をもたらした神秘の少年クオン=カミヤが結成した傭兵集団。
ウォルド=マスティア、マナ=エリクシアというふたりの武装召喚師を始め、凄腕の剣士にして〝懐刀〟と呼ばれるイリスや、《白き盾》の知を司るスウィール=ラナガウディなど、有能な人材を多数抱えており、その戦力は王国騎士団にも匹敵するという。
結成当初は本当に小さな組織だったらしい。クオン=カミヤとスウィール=ラナガウディのほかには数えるほどしか団員はおらず、およそ傭兵集団などとは口にすることも憚られるようなものであったという。だが、彼らは傭兵として国々を渡り歩くうちに実績に実績を重ねていった。
言うなれば不敗。
言うなれば無敵。
それが《白き盾》の評価であり、すべてであった。
参加する戦闘のすべてにおいて、彼らは負けなかった。団員ひとり欠けることもなかった。重傷を負うものもいなかった。味方が全滅状態にあろうとも、《白き盾》だけは無傷のまま戦場から離脱したという。
だからこそ、無敵であり不敗なのだ。
だからこそ、彼らと対決するには全力で挑まなければならない。
だが、グラハムは、投入する人数を百人程度に止めた。《白き盾》の戦力は、団長を含めた幹部五名だけであり、普通に考えればそれでも多すぎるくらいだが、今回の場合は、これでは少なすぎるくらいだった。百人程度、彼らの前では容易く蹴散らされる。無駄死にになりかねない。
それでも、払う犠牲は少なければ少ないほどいい。できるなら贄など捧げたくはないのだが、この国の将来が懸かっている。
仕方がなかった。
そして、その犠牲をできる限り少なくするために用意したのが、今夜の会食だった。いくら《白き盾》の幹部たちといえど、武器も持たない丸裸同然の状態ならば、こちらが有利になれるはずだった。
彼らは、ベレル王国と契約を結んだ傭兵である。そうである以上、騎士団長直々の会食の誘いを断ろうはずもない。そして、ただの食事会ならば、無防備ならざるを得ない。衣装に凝るのならともかく、武装するなどもっての他だ。元より、騎士団長主催の食事会だ。武装する必然性もあるまい。
しかし、だ。相手はあの《白き盾》である。無敵の軍勢。不敗の集団。武器さえ手にしていなければどうにかなるという相手なのかどうか。
相手はたった五人とはいえ、百人程度で押し潰せるのか。無敵とは、その程度の異名なのか。不敗とは、そんな簡単に終わる伝説なのか。
グラハムは、熟考に熟考を重ねた上で決断した。投入する百人を贄として捧げよう。その代わりに《白き盾》の団長ら五名を地上から消し去り、ベレル王国に安寧をもたらそう。
この策ならば、騎士団員には時間稼ぎをしてもらうだけでいい。《白き盾》の幹部たちと殺し合う必要はなく、故に敗北を恐れることもない。命を無駄にせずに済むのだ。
犠牲はやむを得ないとしても、だ。その数が少ないに越したことはない。そして犠牲を払う価値のある相手だった。
なにしろ、国の存亡が懸かっている。
「これで良かったのですか?」
「ああ……」
グラハムは、副団長アッシュ=ウィンベールの問いかけに小さくうなずくと、燃え盛る丘から目を背けるようにして進路へと向き直った。痛みがある。しかし、この心を焼くような痛みを飲み下すことができなければ、騎士団長などやってはいられないのだ。
彼には、騎士団長としての責務がある。ベレル王国の平和と安寧を守護し、外敵を打ち払わなければならない。軍を指揮し、戦いに勝利しなければならない。敗北は許されない。その重圧たるや物凄まじいものであり、並大抵の精神力では耐えられないだろう。重圧に負けて判断を誤るなど、言い訳にもならない。
そう、この判断は正しかったのだ。
百人に及ぶ部下を犠牲にするだけの価値はあったはずだ。
最悪の敵を滅ぼしたのだ。これ以上ないくらいの成果。イストリア王も納得してくれるはずだ。王がどれだけ《白き盾》に入れ込んでいようと、理由を知れば、グラハムの行動を認めざるを得ない。
それほどの理由がなければ、彼が行動を起こすわけがない。
「〝魔〟は滅んだ」
彼は、独り言のように告げた。同行する騎士団幹部のだれもが、彼の言葉の意味を理解していなかっただろう。アッシュ=ウィンベールにせよ、ミラン=クラス、ワイズ=マッドレイにせよ、シックス=ライムにせよ、理解力が足りないわけではない。むしろ察しがよすぎるくらいに気の利く部下たちだった。騎士団が彼の想う通りに機能しているのは、彼らがグラハムの意を汲んで活動してくれいるおかげだった。
それでも理解できない。当然のことだ。説明されていないことをだれがわかるというのか。
しかしグラハムの言葉は、彼にとって真実だった。それだけがすべてで、それ以上の事実は要らなかった。現実に百人の騎士団員が犠牲になったのだとしても、その真実の前には霞んでしまう。
グラハム・ザン=ノーディスは、王宮を目指した。ノーディス邸が燃えている報が既に王宮を騒がせているかもしれない。実際、ルーンベレルの市街は、街を見下ろす丘の上に炎の搭が出現したことで大騒ぎになっていた。
まだ寝静まるには早すぎる時間帯。王都はいつものように賑やかで、故に、騎士団長の私邸が爆炎に包まれ、火柱が夜空に突き刺さる様を目撃したものは多かっただろう。目撃者が騒ぎ、丘の周辺に市民が集った。なにが起きたのだろう。不安と好奇と憶測が、人々の耳を賑わせた。
グラハムたちは、野次馬根性で集まった群衆の中を突っ切らなければならなかった。しかも、背後――丘の上で燃え盛る炎は、頭上から降りしきる夜の闇を幾分押し退け、丘から降りていく彼らの存在を際立たせていた。
群衆の中のだれもが、グラハムらの登場に驚きつつも、騎士団長及び幹部の生還を喜んでいた。突如炎に包まれたグラハムの私邸の方角から現れたのだ。グラハムたちが、なにものかによる放火(というにはあまりにも火力が大きすぎたが)から逃れ得たのだと推測するのが当然というものだろう。
なにしろ、グラハムたちの格好からして首謀者には見えなかった。豪奢な衣装に身を包んだ彼らは、どこからどう見てもパーティーの最中に脱出して難を逃れたようにしか考えられなかった。
グラハムは、群衆の畏敬と好奇に満ちた視線を浴びながらも表情ひとつ崩さなかった。彼らはすぐに目線を落とすだろう。貴族ですらない一般市民が、騎士団長を直視していいはずもない。といって、この場で群衆に注意するほど愚かなことはない。王宮に急がなければならない。
グラハムが無言のまま群衆に近づくと、市民はあわてふためきながら彼らの為の道を開いた。何百人という野次馬たちが、騒然と左右に別れていく。
人波がふたつに割れ、一本の道が生まれた。
その道は市街へと至り、王宮へと通じているだろう。王宮内部はいまや大騒動になっているかもしれない。騎士団長の私邸が燃やされたのだ。しかも、傭兵集団《白き盾》との親睦を深めるためのパーティーを開催している頃合いである。騒ぎにならないはずはない。
グラハムは急がなければならなかった。彼が直接面会し、王の不安を取り除くための説明をしなければならない。傭兵集団《白き盾》との会食、その顛末を。この国の将来を脅かしたであろう〝魔〟が、たったいま滅び去ったという事実を。
(これで良かったのだ。〝魔〟は滅んだ。これ以上、望むものはない。この国は安泰だ……)
群衆の間に生まれた道を進みながら、グラハムは、胸を焦がす痛みを飲み下そうとしていた。祖国の将来のための礎となれたのだ。犠牲となったものたちとて本望だったろう。そう、思い込もうとする。だが、その考えに無理があることもわかっている。極秘で進めていた計画であるが故、あのとき投入した騎士団員たちにはなんの説明もしていなかったのだ。ただ、《白き盾》の幹部たちを斃せという命令しか下していない。そうである以上、国のために死ぬのだという覚悟も持てなかっただろう。その死が決して無駄ではないのだということすら知らずに炎と消えた。彼の考えは、自分の心を慰めるための欺瞞にもならなかった。
そのとき、黒い風が吹いた。漆黒の突風。その風がグラハムの横を通り過ぎる瞬間、彼は、強烈な敵意に満ちた視線を感じた。ただの敵意ではない。研ぎ澄まされた殺意は、時として鋭利な刃物の切れ味を想起させるものだ。
グラハムは、その風が自然現象などではないという確信を抱いたものの、だからといって前進を止めるわけにもいかなかった。王宮に急いでいる。そんなことに気を取られている場合ではないのだ。
と。
「何処へ行く気だ。グラハム・ザン=ノーディス」
目の前から聞こえてきたのは、刺すような声だった。女の声。怒りを圧し殺しながらも、溢れ出る敵意を隠そうともしない。いや、隠しきれないのかもしれない。純化した敵意は、刃物の如き殺意となってグラハムに襲いかかってくる。
グラハムは、聞き覚えのない女の声に目を細めた。前方の路上、闇が舞い降りたかのようになにかが揺らめいている。その闇の中に蠢く殺意の凄まじさに戦慄を覚えないではなかったが、それがなんであれ、彼が遅れを取ることはないように思えた。
こちらは、戦いなれた騎士団の団長と幹部である。屋敷を出る際には、武器も携帯している。なにより相手はひとりだ。
まなざしはひとつ。殺意もひとつ。ただ、その正体が判然としない。女の姿が闇に溶けているのだ。
「何者か?」
厳しい声音で問いかけたのは、副団長アッシュである。彼は、腰に帯びた剣の柄に手をかけ、抜き打ちで切り捨てられるように構えていた。
しかし、女はアッシュの問いには答えなかった。むしろ予想だにしない言葉を紡いできた。
「我が主は、おまえと直接話がしたいそうだ」
「なに?」
グラハムは怪訝な顔になった。脈絡もない言葉だ。主とはだれで、彼女はいったいなにものなのか。想像もつかない。
そしてグラハムが彼女の台詞の意味を理解したのは、揺らめく闇の正体を見極めてからだった。
闇の中で揺らめくのは漆黒のドレスだった。その独特なゴシック調の衣装には、見覚えがあった。少し前に目撃し、その衣装からくる退廃的かつ背徳的な印象が記憶に残らないわけがなかった。黒髪に灰色の瞳の女。小柄で、まるで着飾った人形のように見えるのは、身に纏うドレスだけが原因ではない。無機的で生命の温かさを感じない眼。起伏のない表情。透けるように蒼白い肌。およそ生身の人間に抱きうるものとはかけ離れた気配。生きているのに死んでいるような――。
「イリスか!」
彼は、我を忘れて叫んでいた。イリス。《白き盾》に所属する女剣士にして、クオン=カミヤの懐刀!
彼女は、クオンとともに炎に焼かれて地上から消滅したはずだったが。
背筋が凍るような感覚。悪い予感。いや、それは予感などではない。目の前の現実から生まれる、予測。
イリスは、我が主といったのだ。
「まさか……!」
グラハムは、愕然と背後を振り返った。彼の視線は、イリスの強襲に備えてグラハムの前方に展開する幹部たちを視界の隅に捉えると、突然騒ぎだした群衆を通りすぎ、後方――丘へと続く道に至る。
瞬間、彼は、唖然とした。
グラハムの視線の先には、亡者の群れと見紛う一団があった。亡者と思わざるをえない。重い体を引き摺るようにゆっくりと、しかし確実にこちらに向かって歩いてくる。甲冑の一団。その足取りはあまりにも不確かで、まるで地獄から這い出た死者の群れが、殺すべき生者を探し求めているかのようだ。
死者の群れを先導するのは、それらよりも足取りは軽いものの、やはりどこか重苦しい空気を纏うものたち。しかしながら身に付けたパーティー用の衣装は、甲冑の亡者どもとの間に埋めようのない溝を作っている。もっとも、地獄の道先案内人とは存外そのようなものかもしれなかった。
どよめいたのは群衆であろう。燃え盛る丘の上から甲冑の一団が現れ、静かに、密やかに行進しているのだ。それはどう贔屓目に見ても敗残兵の行列であり、死に損ないの無惨な姿だった。
(無惨……?)
グラハムは胸中で頭を振った。亡者の如き一団を先導する賑やかな獄卒どもは、明らかに状況を楽しんでいた。足取りは次第に軽やかになり、表情は明るい。視線はこちらを見据えるでもなく、群衆の反応を伺っている。
先頭に立つのは、クオン=カミヤ。純白の盾を手にしている以上、彼を傷つけることはできやしないのだろう。そのまなざしは慈しみに満ち、亡者どもを先導するにはあまりにも不釣り合いだった。
クオンの左右を固めるのは、ウォルド=マスティアとマナ=エリクシアのふたりだ。ウォルドはスーツ姿には不似合い極まりない漆黒の手甲を装着しており、それが話に聞くブラックファントムなのだろう。
マナもまた、豪華なドレスにはまったく似合わない棍棒を手にしている。それが彼女の召喚武装スターダストなのだろうか。
スウィール=ラナガウディは、クオンの背後に控えている。彼が非戦闘員なのは、年齢が原因というわけではあるまい。スウィールは《白き盾》の頭脳だという。戦いに参加するだけが組織への貢献ではないのだ。
そして、《白き盾》の背後に控えるのは、グラハムが贄として差し出した騎士団員たちだった。カレル=ファリウス、ガッシュ=ベイレル、ザナン=サトライン等々、兜を取ったものたちの顔は悄然としている。視線は定まらず、悪夢にでも囚われているかのように動作は鈍い。
「なぜだ……なぜ!」
グラハムが絞り出すように発した声は掠れ、虚空に散逸した。騎士団員たちの生存は、グラハムの心を焼く紅蓮の業火の如き痛みを多少和らげてはくれたものの、クオンたち《白き盾》の存在は、彼に別種の痛みをもたらしていた。
それは恐怖。
一歩、また一歩と近づいてくる存在への恐怖。
なればこそ、彼は、屋敷に火を放ち、部下もろともすべてを焼き払ったつもりだった。
それは畏怖。
静かに、悠然と近づいてくるものへの畏怖。
だからこそ、彼は、如何なる犠牲を払ってでも、それをこの地上から消滅させようとしたのだ。
クオン=カミヤ。
魔。
「なぜ? それはこちらの質問ですよ。なぜこんな真似を?」
クオンの声は、よく聞こえた。敵意や殺意は見当たらず、むしろ哀れみや慈しみといった感情が声音に込められている。そのまなざしも柔らかいものだ。敵対者に向けるような視線ではなかった。
双方の距離は、既に十メートルほどにまで縮まっている。
「なぜ、だと……!」
グラハムは、目を見開いていた。クオンのみを凝視する。雑音は聞こえず、雑念が脳裏を埋めることもない。意識が震える。
「そんなこと、決まっている!」
ただ叫ぶ彼の頭の中で、あざやかな光が閃いていた。純然たる白の光。清らかな閃光。すべてが白く塗り潰されていく。
「決まって……いる」
頭上を仰ぐ。
真っ白な世界。星々の散りばめられた夜空ではなく、純白が視界を染め上げている。一切の穢れなき白。その純白の中をなにかが泳いでいるのが見えた。
影。
雑じり気のない白の世界を渡っていくなにかの影。
それもひとつだけではない。ふたつ、みっつと増えていく。
やがて、影が四つに増えたとき、彼はその影の背中に当たる部分に一対の翼があることを発見する。大きな翼だった。その影の形状から鳥などではないこともわかった。
では、なんだというのか。
彼は、なぜか空気を求めて喘ぎながらも、影から目を離すことができなかった。四つの影は、彼の遥か頭上で旋回していた。眼を凝らす。
「ああ……!」
彼は、頭上で弧を描く四つの影の正体を悟った。それはただの影ではなかった。光を背負っているのだ。背後から差す光は、それらの姿を逆光の中に隠していたが、むしろその事実こそ、影の正体が神聖な存在であるということを証明していた。後光を背負う存在など、それ以外には考えられない。
彼は、叫びだしたい衝動に駆られた。体が歓喜に震えるのを止められない。涙さえ流れ落ちる。止まらない。心の奥底より激情が奔流となって溢れ出す。
喜び。
慶び。
歓び。
悦び。
「天使よ!」
上天の影は、彼の叫び声に応じるかのようにその旋回を止めた。グラハムの頭上四方に滞空しながら、静かにそのまなざしを投げかけてきていた。後光に隠れた視線は、四つ。威厳と慈愛に満ちたまなざし。その視線を認めたとき、彼は、魂の奥底から溢れ出る喜びに全身を震わせながら、崩れ落ちるようにして地に跪いた。
グラハム・ザン=ノーディスは、敬虔なヴァシュタラ教徒であった。ベレルという国自体がそうなのだ。つまりは国教であり、国王から末端の市民に至るまで、ヴァシュタラ教会に帰依している。が、彼の信仰心の篤さは、ベレルで並ぶものがいないほどであった。
彼の行動の規範は教会の教えそのものであり、神の使いたる天使の降臨を目撃したとき、彼の運命は決まった。
天使の降臨などあり得ない現象なのだとは考えなかった。
それは彼が勁烈なヴァシュタラ教徒というのも大きいが、この大陸に皇魔という人知を越えた異形の化け物が実在していることも無関係ではなかった。悪魔のようなものが存在するのだ。神が天にましまし、天使たちが主の使いとして地上に降りてきたとしてなんら不思議ではない。むしろ必然であるとさえ想えた。
神は、地上の人々を救う存在だと信じられている。
グラハムが疑うはずもない。天使は厳然と存在し、彼に語りかけてきたのだ。感極まって咽び泣いたとしてもおかしくはないし、笑い話でもなかった。
『マージアに〝魔〟は興れり』
マージアとは、ベレル南部の街である。そこは、一見するとなんの変哲もない小さな街だったが、傭兵集団《白き盾》が活動拠点として選んだことで一躍注目を集めるようになっていた。無敵の傭兵集団《白き盾》の雷名は、ベレル国民の関心を集めるには十分すぎるほどの効果を発揮し、彼らの姿を拝むためだけに国内各地からマージアを訪れるひとも多かったという。
そのマージアに〝魔〟が興るという。
「〝魔〟とはいったい……?」
彼は、恐る恐る問いかけた。天使に声をかけるなど、恐れ多いにもほどがあったが、その意味を理解しなければ行動に移すこともできない。神の使いが、直々になにかを伝えてくれようとしている。ならば、全身全霊を以てその期待に応えなければならないのだが、言葉の意味を理解できなければそれさえも叶わない。
『〝魔〟……其は悪しきもの。邪なるもの。天意に背きしもの。呪われしもの。我らが主に弓引くもの。夜を謳うもの。地獄の化身。破滅の指先。彼の者はかねてより大陸の滅ぶを望み、混沌の氾濫を望む。我らが敵。汝らが敵。倒すべき敵。討つべき敵。滅ぼすべき敵なり』
揺るぎなき威厳に満ちた天使の声は、やはりグラハムの魂を激しく揺さぶり、彼の思考を一定の方向に純化させた。
つまりは、天使の言う〝魔〟を問う滅私、このベレルの地に平穏と安寧をもたらすためにのみ、意識を傾けた。
〝魔〟がどんな姿をし、どのような形でこのルーンベレルに到来するかは、天使は語らなかった。
グラハムは、マージアを拠点とする《白き盾》こそが“魔”であると解釈した。イストリア王が彼らを王都ルーンベレルに招き、そのまま王都こそ《白き盾》の拠点にしてもらおうと計画しているのを知ったとき、グラハムは、今こそ行動を起こさねばならないと判断した。〝魔〟が馬脚を現してからでは遅いのだ。
その上で、彼が、ルーンベレルに設けられた《白き盾》の新拠点に夜襲をかけるなどといった手段を取らなかったのは、犠牲を最小限に済ませるためだ。《白き盾》の主力たる幹部たちを消し去ることさえできれば、後は楽なものだ。数で圧倒すればいい。
そして、グラハムはクオンたちを屋敷に招き、食事会の席上で彼らの理念に反することを提案した。それは《白き盾》のベレルへの帰属であり、その提案に飛びつくような連中ならば、〝魔〟とは呼べないだろうというグラハムなりの思惑もあった。
結果、交渉は決裂し、グラハムは命令を下した。多少の呵責とともに。天使の勅命であろうとも、彼もまた、ひとりの人間である。心が痛むのは当然といえた。
また彼は、《白き盾》が〝魔〟であろうとなかろうと、長期的に見れば、ここで潰しておくのも悪くないとも考えてはいた。彼らがいつか敵に回ったときのことを考えても見よ。無敵の傭兵集団など、相手のしようがない。武器が届かないのだ。研ぎ澄まされた刃も、鍛え抜かれた肉体も、かの見えざる盾の前では無力だった。
噂に聞いていたその現象を目の当たりにしたとき、グラハムは己の決断が間違いではなかったと確信したのだが。
(……?)
彼は、ふと視線を感じて顔を上げた。天使ではない。天使は頭上を羽ばたいていたはずで、前方に降り立った記憶はなかった。いや、そもそも、天使は再び降臨したのか。彼の窮地を憐れんで、手を差し伸べようとしてくれたのか。
グラハムがそう考えたとき、純白の幻想は消え失せた。天使たちの影も、錯綜する記憶の深淵に沈んでいく。目の前に広がるのは現実。丘の上の炎に照らされた淡い闇が、漠然と周囲を包み込んでいた。
(これはいったい……?)
彼は愕然とした。天使の再臨は、ただの幻だったのか。絶体絶命の窮地に陥った心が現実から逃げ出すために生み出した幻想だったというのか。だが、心は歓喜に震えている。涙が溢れ、頬を伝ったのは事実だった。
どうして?
不意に、光が差した。
(……!?)
グラハムは、我が目を疑った。
薄暗い闇を切り裂く光芒。清浄なる輝き。天使たちの後光と同じだった。その光を浴びるだけで、心が洗われるようだった。感情が激しく揺さぶられ、喜びが激流となって全身を駆け巡る。
光源は、すぐ目の前にあった。
「いったい、どうしたんです?」
光は、クオン=カミヤの後背から差し込み、跪くグラハムのみならず、陣形を整えた騎士団幹部たちや固唾を呑んで成り行きを見守る群集をも飲み込んでいく。だが、グラハムを除くだれひとりとしてその現象に気づいていないようだった。当の本人すら、なにが起きているのかわかっていないらしい。もっとも、クオンの表情は逆光に隠れて見えはしなかったが。
グラハムは、肩を震わせた。跪いたまま、彼の足音に耳を澄ます。舗装された道路に刻まれる軽い靴音。怒りはない。激しい感情の揺らぎが、クオンの足を速めることもなければ、緩めているわけでもない様子だった。ただ、こちらの態度に驚いているのは、彼の気配からわかった。
「わ、わたしは……」
グラハムは、逆光に隠されたクオンの顔を凝視したまま、伝えるべき言葉を探した。彼は、胸中でみずからの過ちを認めた。天使の言葉を勝手に解釈し、納得し、暴走してしまったのだと。結果、彼は多くの命を無駄にしてしまった。いま、目の前のクオン=カミヤに率いられた騎士団員たちこそ生き残ったのだとしても、全員が全員、助かっているはずがなかった。すべてを焼き尽くすだけの火薬を用意し、火を放ったのだ。
無為に命を散らせてしまった。
痛みが、再び彼の心を締め付ける。彼らになんといって謝ればいいのか。
当初こそ、天使の勅命に従っての正義の行いだと思い込んでおり、それはある種の免罪符として機能していたのだが、その考えがグラハムの一人合点だと判明した以上、免罪符は剥がれ落ち、後悔と罪悪感が洪水のように押し寄せてくる。詫びる言葉も思いつかない。いや、詫びるだけでは済まされない。
彼らは、死ぬ必要もなかったのだ。
「間違っていた……」
「え?」
拍子抜けしたようなクオンの反応は、わからなくはない。火を放って部下もろとも抹殺しようとした男が、突然しおらしくなったのだ。奇妙に感じるのは当然だった。だが、グラハムは強気になどなれなかった。一方的な思い込みで、クオンたちを殺してしまうところだったのだ。
天使と同じ光を放つ存在を!
(そうか……そういうことか)
グラハムは、すぐ目の前で足を止めた少年を仰ぎ見た。それはまるで王に対して臣下の礼を取る騎士そのものであったし、彼もそのつもりだった。
彼は、すべてを理解したのだ。理解せざるを得なかった。いつか降臨した天使たちの目的も、そのときグラハム・ザン=ノーディスに与えられた役割も、すべて。今度こそ間違いないといえる。目の前にその実証があった。クオン=カミヤが生きていた。
天使たちは、〝魔〟の到来を予言した。マージアからこの王都に来るのだといった。それを勝手に解釈したグラハムは、マージアに拠点を構える《白き盾》こそが〝魔〟であると断定し、行動を起こした。いかな犠牲を払ってでも、クオン=カミヤとその仲間たちをこの地上から抹殺しなければならないと想った。だが、結果はご覧の通りである。クオンたち《白き盾》の幹部は見るからに無傷であり、それどころか、グラハムが捨て駒として投入した騎士団員たちの命をも救っていた。
クオン=カミヤは、〝魔〟などではない。
むしろ彼は、天使の側に属する存在なのだ。
「わたしは間違っていた……が、間違いではなかった……!」
そう、グラハムは、煉獄の如き炎の中からクオン=カミヤという人間を見出すことこそ、自分の役割なのだと悟ったのだ。この広い大陸のどこにいるともわからない、人間の姿をした救い主を。そのために天使は降臨し、彼の耳元で囁いたのだ。
いまならばはっきりとわかる。天使たちが本当に伝えたかったことが、理解できる。それが彼の生まれ持った使命であり、この世に生れ落ちた理由なのだ。冷静ではいられない。自分に課せられた使命の大きさと重要性を把握したことで、より一層強烈な感動がグラハムの胸の内を席巻していた。
後光が、まばゆい。
「クオン=カミヤ――主よ。我が大いなる主よ。今更許しは請いません。わたしの罪を問うのならば、甘んじてその罰を受けましょう。ただ、どうかこのルーンベレルをお守りください。災厄が迫りつつあります。どうか、この王都を、そして我らの王と臣民の命をお守りください!」
グラハムは、泣き叫ぶように声を張り上げていた。すべて、本心だった。みずからの使命を成し遂げたのだ。もはや後悔はない。自分の身にどのような報いが降りかかろうとも構いはしない。天使に与えられた役割を果たすことができた。それで十分だろう。あとは、この王都に迫りくる〝魔〟を打ち払うことさえできればなにもいうことはない。クオンが生きている限り、救い主が実在する限り、ヴァシュタラの教えに説かれるとおり、この大陸に安寧と平穏が訪れることは間違いないのだ。
もっとも。
「えーと……言っている意味がわからないんですけど」
逆光の中のクオン=カミヤの顔は、困ったような表情をしているに違いなかった。