第七百四話 リネン平原の戦い(四)
戦局が動いた。
闇の中、リュウフブスとリュウディースの群れがジベル陣地に押し寄せてきたのだ。人型皇魔の軍集団は、夜襲を仕掛けたものの、ほうほうの体で撤退する白聖騎士隊を追撃し、その勢いのまま、ジベル軍陣地に入り込んできたということだ。おそらく敵指揮官の命令ではない。両軍陣営に満ちていた奇妙な焦りが、兵を突き動かしたのかもしれない。
リネン平原南部に展開していたジベル軍は、扇形防陣から双翼陣に陣形を変更しており、白聖騎士隊は敵追撃部隊を中央の本陣へと導くように移動した。それに合わせて両翼の部隊が動くと、敵追撃部隊は瞬く間に倒れた。両側から放たれる弓射の雨と騎兵隊による挟撃、武装召喚師を始めとする勇士の突撃は。皇魔の群れを持ってしても耐えしのぐことはできなかったのだ。
もちろん、ジベル軍も死傷者を出している。が、それ以上に与えた損害のほうが大きいのは間違いなかった。
「将軍閣下の思惑通りですね」
「この程度、だれでも思いつく」
エインの賞賛にもハーマインは笑顔ひとつ見せなかった。
雲間から覗いた月の光が、平原に残された皇魔の死体を照らす中、ジベル軍は、つぎの行動に映った。再び、白聖騎士隊が敵陣に接近を試みたのだ。もちろん、別の経路を辿り、別の陣地に攻撃を仕掛け、すぐさま撤退した。敵は釣られ、ジベル軍陣地中央付近まで誘引されると、包囲覆滅された。
二度に渡る囮作戦の成功は、ジベル軍の戦意を大いに引き上げるとともに、魔王軍の怒りを買った。しかし、囮作戦も三度目となると、その効力の大半が失われ、四度目になるとさすがの皇魔も乗ってはこなかった。
五度目は、白聖騎士隊のみならず、白天戦団も加わった。敵は、またしても囮作戦を行うものと見て、迎撃の素振りさえ見せなかった。警戒したのだ。そして、その警戒が裏目に出た。ルシオン軍の決死の突撃は、敵陣の中央深くまでに到達するような血路を開いた。そこへ、後続の部隊が攻撃を畳み掛けた。しかし、猛攻は傷口を開くためのものではない。
魔王軍の反撃を引き出すための策に過ぎなかった。
果たして、魔王軍は、被害を最小限に食い止めるため、戦力を傷口に集中させた。
エインの狙い通り、敵本陣が手薄になった。
「乗せられたな」
メリオルは、鬼哭衆本陣にあって、前線からの報告に耳を傾けていた。召喚武装を見につけた彼の五感は冴え渡っている。本陣内部で交わされる配下の会話はすべて筒抜けであったし、リネン平原の北側一帯の状況も把握できていた。広大な感知範囲は、リュウフブスの王たる彼に相応しいものといえた。
自軍の動きも、自陣内に入り込んだ敵軍の動きも驚くほどはっきりとわかった。だが、わかったからといって即座に配下の動きを制御できるかというと、それはまた別の話だ。全軍を指揮するにしても、命令に従わせるにしても、距離があるのだ。時間差が生まれる。そして、常に状況が動いている戦場では、その時間差は致命的なものとなり得た。
「敵の挑発には乗るなと厳命したはずだが……」
彼のつぶやきに答えるものはいなかった。答えるべき部将たちは前線に赴いている。二十名の部将は、それぞれ五百名の部隊を率いており、彼らがメリオルの命令に従っている限り、末端の兵が勝手に動き出すようなことはないはずだった。
鉄の掟が、魔王軍を強固なものにしている。
「焦れたか……」
敵の動きが巧妙だった、というのもあるのかもしれない。昼間の挑発に耐え抜いたことも影響している可能性も大いにある。魔王軍を黙殺して平原の南側を整地するというのは、挑発以外のなにものでもない。部将たちは、配下の兵を抑えるのに必死だったのかもしれない。リュウフブスとリュウディースの人間蔑視は、他の皇魔とは比べ物にならないほどに強烈だ。だからこそ、彼は軍議の場で人間を甘く見てはいけないといったのだが。
彼は、床几から立ち上がった。
メリオルの周囲には、彼の親衛隊と伝令として利用しているベクロボスくらいしかいない。もちろん、本陣を守るための戦力は十分に用意されており、彼の視界外に整列しているはずだった。
ベクロボスが一体、彼の視界に映り込んできた。翼の生えた巨大な眼球のような化け物は、リュウフブスのメリオルからみても醜悪といわざるをえない。飛行能力を有していることから、ベクロボスの大半は魔天衆に配属されているのだが、彼は独自にベクロボスを配下に置いていた。魔王に降る以前からだ。彼には野心があった。だが、魔王の出現によって彼の夢は頓挫した。魔王には、敵わない。
ベクロボスは、戦闘能力こそ低いものの、飛行能力や隠密性から伝令や物見として使うのに適した存在だった。戦闘能力が低いといっても、皇魔の中では低いというだけの話だが。
ベクロボスの眼球の真ん中に穿たれた眼孔が、淡く輝いている。紅い光。皇魔の烙印とでもいうべき光は、皇魔がこの世界に望まれたものではないことの証明ともいえた。その光に、ベクロボスは情報を乗せる。
現在の戦場に関する情報だった。敵の策略にまんまと引っかかり、多数の部隊が平原南側の平地に進出したというのだ。自陣中央に集合した戦力が、そのまま敵陣に雪崩れ込んだということになる。敵は、鬼哭衆の陣地内で戦闘を続行するつもりなどはなかった。最初から、鬼哭衆の戦力を自軍陣地に引き込むことだけを目的としていたのだろう。
徹頭徹尾、誘引策を用いている。
(目的はなんだ?)
メリオルは、星々が瞬き始めた夜空の下で、思考を巡らせた。当初、敵の作戦は、戦力差や地形を考慮した上でのものだと考えていた。強引に地の利を得た鬼哭衆に対抗するには、障害物の一切なくなった自陣で戦う以外にはない。だから、連合軍は執拗に誘引策を用いているのではないか。それ以外には考えられなかった。
だが、障害物が一切なくなっているということは、連合軍にとっての不利がなくなっただけで、有利になったわけではない。鬼哭衆は、リュウフブスとリュウディースからなる軍集団だ。その戦闘力は、魔王軍の中でも随一といっていい。そんな連中を自陣に迎え入れることになんの利もない。むしろ、多大な損害を覚悟しなければならないはずだ。場合によっては、本陣の陥落もありうる。
そうまでしてこちらの戦力を放出させることに固執する理由は、ひとつしか考えられない。
(なるほど)
メリオルは、本陣周辺の部隊までも前線に赴いていることに気づいて、敵の思惑を理解した。同時に目を細める。
(乗せられすぎだ)
だが、最低限の戦力は確保されている。
千五百。
これだけあれば、本陣を襲撃されたとしても凌ぎきることは決して難しくはない。そして、メリオルたちが強襲部隊を凌いでいる間に敵本陣を落としてしまえば、こちらの勝ちだ。
「ネルエル、ジブラル、マリエルに伝えろ。本陣の防備を固めよ、とな」
メリオルは、ベクロボスに伝えると、瞑目した。視覚を閉ざすことで、他の感覚に注力しようというのだ。
平原を走る風の音、兵士たちの囁き、遥か遠方で激突する剣戟、怒号や悲鳴、それに喚声をメリオルの聴覚は捉えている。動物や虫の声が聞こえないのは、戦場に満ちた物騒な気配を察知し、逃げ去ったからに違いない。
現状、この平原には人間と皇魔しかいないということだ。そして、その大半が戦闘に興じていて、戦闘に参加していないものが動いている可能性は少ない。最前線の戦場以外で音を立てて移動しているものがいるとすれば、それは連合軍の奇襲部隊としか考えられなかった。
彼は、目を開いた。
彼から見て右手、本陣の西を移動する集団があったのだ。