第七百三話 リネン平原の戦い(三)
「敵はこちらを警戒し、動き出そうとしませんねえ」
エイン=ラジャールが、敵陣を見やりながら困ったような顔をした。
ジベル軍は、リネン平原の南端に本陣を置いている。本陣を支点とする陣形は、扇形防陣と呼ばれるものであり、平原南部に扇状に部隊を展開している。前線に戦力を集中する陣形であり、防御力の高い陣形ではあった。しかし、だだっ広い戦場でした利用できない陣形でもあり、平原が魔王軍の支配下にあったままではまともに機能させることはできなかっただろう。
人工物の壁などで作られた入り組んだ隘路が、ジベル軍の戦術の幅を狭めていたのだ。あのまま戦闘に入っていれば、魔王軍優勢の一方的な展開になっていたかもしれない。シヴィル=ソードウィンやニュウ=ディーが局地的な大勝利を収めても、本陣が落とされればどうにもならない。敵は、こちらの戦力を分散させることで、確実な勝利を得ようとしていたようだ。
エインは、リネン平原の南半分を破壊し尽くすことで、敵の策を台無しにしてみせている。
草木ひとつ残らない平坦な大地を見やりながら、ファリアは呆れる思いがした。エインの策もそうだが、それをたやすく実現してしまうニュウ=ディーの実力にもだ。壁も、隘路も、地形も、なにもかも消し飛ばしてしまった。その結果、彼女は力を消耗し尽くしており、この戦いでは使い物にならなくなってしまったということだが、彼女の地形破壊の価値は、筆舌に尽くしがたい。
「まさか地の利を力技で捩じ伏せるとは思ってもみなかったんでしょうけど……だからといって、このまま睨み合いを続けているわけにもいかないのは、向こうも同じ。焦ってはいるように思えるけれど」
「焦って攻め寄せて来てくれればいいんですけどね。こちらにも時間はない」
「合流を待つ、というのは?」
「セツナ様とですか?」
当然のように名前を出してきた少年に、ファリアは半眼になった。
「怒るわよ」
「冗談ですって。ガンディア軍、アバード軍との合流を期待してはいけませんよ。両軍が魔王軍との戦いに勝利していれば、ゼノキス要塞を目指しているはず。それに、合流するといっても補給ができないんです。悠長にしていられる余裕はないんですよ」
退路を断たれただけではない。兵糧の補給も、兵員の補充も、負傷者の後送もできなくなっている。ウェイドリッド砦に備蓄されていた兵糧は持ち出せるだけ持ち出しているのだ。ウェイドリッド砦を当てにすることはできない。
「その点、向こうには余裕がある……か」
敵陣の後方にはゼノキス要塞があり、さらに後ろには首都クルセールがあるのだ。補給も補充も万全の状態であり、こちらとは比較にならないほど整っているといってもいい。もっとも、皇魔に人間と同じように兵糧の補給が必要なのかはわからないし、兵員の補充も、人間と皇魔では別物と考えたほうがいいのかもしれない。
「あちらは、自軍との合流を待つという選択肢もある。仕掛けるのは、こちらからになるでしょう」
「でも、どうするのよ。まっ平らになったのは、リネン平原の南側だけよ。敵陣に乗り込めば、無数の壁に仕切られた狭い道ばかり。敵の思う壺ね」
「敵を引きずり出すしかあるまい」
突然ハーマイン=セクトルが会話に入ってきたことに驚いたのは、ファリアだけではなかった。エインも驚いて言葉を失っている。
ハーマインは、どうやら、ふたりの会話を後ろの天幕の中で聞いていたらしい。
「敵は明らかに動揺している。自分たちの思惑通りに運ばないことが気に食わないようだ。そこへ小部隊を送り込めば、攻撃の機会と見て飛びかかってくるだろう」
「順当な策ではありますが、通常戦力では殲滅されて終わりですよ」
エインが釘を刺すと、今度はハルベルク・レウス=ルシオンとリノンクレア・レーヴェ=ルシオンが天幕の中から現れた。
「それならば、わたしたちに任せてはいかがかな?」
「白聖騎士隊に、か……」
「不満ですか? 参謀殿」
「いえいえ。ただ、武装召喚師をひとりかふたり、つけていただくとなお良いかな、と」
「その点に関しては心配無用だ。ルシオンにも専属の武装召喚師がいるのでね」
ハルベルクは胸を張っていった。彼が自慢気に語っているのは、みずからの意志で登用した武装召喚師が優秀だったということが大きいのかもしれない。名をクロード=マイスという。彼は、ファリアの紹介でハルベルクと知り合い、ルシオンに仕官した。いまはルシオン軍白天戦団に所属しており、ミオン征討ではルシオン軍の中でも最大の功を上げたという。
そして、白聖騎士隊は、ルシオン最強の戦闘部隊として知られている。ハルベルクがリノンクレアのために設立した女性のみの騎士隊であり、かつて行われた演習では、ガンディアの精鋭部隊を軽く一蹴したほどだ。弱兵で知られるガンディア軍との演習結果などはあてにならないといってもいいが、それはそれとして、これまで数多の戦場を乗り越えてきた白聖騎士隊が弱いはずがなかった。
ルシオンは、尚武の国だ。
武を尊び、軍事力の向上に余念がない。その国の中でも、白聖騎士隊は、他の追随を許さない戦闘力を誇る。陽動に使うよりも、主力に使いたいというのが、エインの本音なのかもしれなかったが。
「では、囮はルシオンの方々にお任せするとして」
彼は、戦術を改めてジベル軍の首脳陣に伝えた。
ジベル軍が動き出したのは、二月五日、夜半のことだ。
リネン平原の南部を整地したことで、魔王軍の気勢を削ぐことに成功したジベル軍は、エイン=ラジャールが立案した策を軸に戦術を作り上げ、即断即決で決行したのだ。戦いに費やすことのできる時間はそう多くはない。ジベル軍の諸将は決死の覚悟で事に当たった。
リネン平原は、北側と南側でその様相を大きく変えた。魔王軍にとって有利に改造された地形の北側と、なにもない、だだっ広い平地と化した南側。ジベル軍は南側に陣を敷いており、魔王軍は北側の陣地に身を潜めていた。
兵数は、ジベル軍が一万二千、魔王軍がおよそ一万。二千ほど、こちらのほうが上回っている。ただし、個々の力量差に目を瞑らなければ、この兵力差は意味をなさない。本来、兵力差こそが勝敗を決する最大の要因だが、人間と皇魔の力量差は、この程度の兵力差など無為にしてしまうほどに大きい。
その戦力差を覆すために、戦術を用いるのだ。
ジベル軍の陣から白聖騎士隊が出撃したのは、月が雲に隠れ、闇が戦場を支配し始めた頃合いだった。
夜陰に乗じた奇襲作戦を装ったのだ。
昼のうちに休んでいたこともあり、白聖騎士隊の隊員たちの意識は冴えていたし、戦意も漲っていた。ルシオンの誇りは、戦場でこそ輝くものだ――出撃前、リノンクレアが発した言葉は、白聖騎士たちの士気を大いに高揚させた。
シヴィル=ソードウィンが調べあげた敵部隊の配置は、ハルベルクの頭の中に入っている。敵部隊は、平原北側の魔王軍陣地内に点在しているのだが、密集地帯とでもいうべき場所がある。それは狭い通路の行き着く先であったり、交差点であったりするのだが、要するに敵戦力を包囲覆滅するための配置がされているのだ。
(よく考えられている)
皇魔の力に物を言わせて攻め寄せてこないあたり、これまで戦ってきた皇魔軍とは指揮官の出来が違うようだった。相手が人間だからといって、頭に血が上っていない。冷静に情報を集め、策を練っている。南部一帯を破壊し尽くすという、こちらの挑発的な行動に対しても一切手を出してこないところを見ると、指揮系統も完璧に近く機能していると見て良かった。
(だからこそ、付け入る隙も生まれる……ということか)
魔王軍の弱点は、皇魔を軍隊化してしまったところだ。皇魔という凶悪な生物を軍隊として運用するための調教は、皇魔に皇魔らしからぬ弱点を植え付けてしまった。指揮系統が乱れれば、途端に弱体化するのだ。
これまでの戦いがそうであったように、だ。
ジベル軍が魔王軍に打ち勝つには、敵指揮官を早急に討つことだ。それ以外に道はない。そのためにも敵指揮官を引きずり出さなければならないのだが。
(冷静な指揮官が、こちらの思い通りに動いてくれるかな)
平原の中央に差し掛かったあたりで、先導する武装召喚師クロード=マイスが鞭で空を打って合図を送ってきた。敵陣に動きがあったのだろう。
前方、なだらかな坂道になっている。小高い丘なのだろうが、その丘を登るには、狭い坂道を進むしかなかった。その坂道以外は、土や岩でできた壁によって塞がれているのだ。魔王軍が自軍にとって有利に働くよう、地形を作り変えている。
エインは、南側の平原を整地する前、そういった障害物もろとも魔王軍を吹き飛ばしてみるのはどうかとニュウ=ディーに提案をしたようだが、それはさすがに無理だということだった。障害物を取り除くだけでも大変なのに、皇魔を倒しきるほどの威力を出そうとすると、エインが望むような結果を出すこともできないらしい。
エインは仕方なく南側の障害物撤去だけを頼んだが、それでもニュウ=ディーは倒れてしまうほどに消耗してしまった。この戦いでは使いものにならないということだ。
(なに、リョハンの武装召喚師に頼ることもない)
ここまで頼りきってきたのだ。この戦いくらい、自分たちの力で切り抜けるべきだった。
坂道を駆け上がると、前方と左右にリュウフブスの群れが待ち受けていた。
「いまぞ、ルシオンの気概を見せつけよ!」
リノンクレアが吼え、騎士たちがそれに続いた。